あるがままの自らを受け容れる入口は“開き直り(=覚悟)” Vol.2

一生折れないビジネスメンタルのつくり方 第2回

名越康文「ダメな自分」を受け入れることが、本当の自信を生む

社会に適応することで、かえって自信を失ってしまう

前回、「社会に適応しているかどうか」ということが、自分に自信を持てるかどうかに大きく関係している、ということをお話しました。実は「自信を持てるかどうか」ということを考える時、この要素は日本の風土において、とりわけ大きな問題となります。

ビジネスの場面では、学歴や会社の知名度、職階、年収。プライベートに目を向けると、友人がいるか、恋人がいるか、結婚しているか、子供がいるか……、などなど。日本社会で生きていると、本当に多種多様な基準から「あなたは社会に適応できていますか?」というプレッシャーが与え続けられていま す。

「これをやらないと、あなたは社会に適応できませんよ?」という<脅し>に、24時間365日さらされ続けている。大げさなようですが、そして個人差はもちろんありますが、この心理的プレッシャーは日本社会の現実の一つでしょう。そして、この<脅し>によって、多くの才能や能力が削り取られ、摩耗し、埋もれてしまっているというのが、日本社会の大問題だと私は捉えています。

もちろん、社会に適応すること自体は、大切なことです。若いビジネスマンの皆さんであれば、会社に貢献し、成果を上げ、しっかりとお金を稼いで家族を養ったり経済を回したりして、次世代へとバトンをつないでいくということは、何に重きを置くかはともかく、誰もが考えなければならないことです。そし て、それらをあるレベル以上でこなしていくことは、その人が生きていく上での大きな自信につながるのも事実です。

ただ、そういった現実をすべて踏まえたうえで、「いったん、社会に適応できているかどうかということを、忘れてみませんか?」とアドバイスしたくなるくらい、「社会に適応することに疲れ果てた人」がたくさんいらっしゃる、というのも事実なのです。

日本社会ではあまりにも「社会に適応せよ」「社会に所属せよ」という要請や、細々とした「基準」に自分を合わせなければいけないというプレッシャーが強い。そのことによって疲弊し、才能や能力をやせ細らせ、自信を失っている人があまりにも多いのです。

ダメな自分を「直す」のではなく「受け入れる」のが出発点

「社会に適応しなければいけない」というプレッシャーを受けたとき、私たちはほとんど自動的に、自分自身を「社会が求める形」に整形しなければ、と考えます。

暗くて、引っ込み思案な自分は、いつも会議や打ち合わせで勇気を出して発言することができない。もっと開放的で、社交的な自分にならなくちゃ……。

僕はいつも、飽きっぽくて根気強く物事に取り組めない。もっと地道な努力を続けられる自分にならないと……。

「失敗したらどうしよう」というネガティブな発想ばかりな私は、もっと勇猛で、チャレンジ精神にあふれた自分に生まれ変わらなくては……。

残念ながら、こうした「もともとの自分」を生まれ変わらせようとするチャレンジは、往々にして、その人の自信を失わされる結果につながりがちです。 というのも、持って生まれた資質を削ったり、変形させたりすることは、どうしても「もともとの自分」を否定することになってしまうからです。これでは、自分に自信が持てなくなるのも当然です。

しかし、だからといって「ありのままの自分」や「もともとの自分」のままでいいのかと考えると、おそらく、多くの人が「否」とおっしゃることでしょう。

実際問題、「ありのままの自分」のままでは、私たちは社会に適応することができません。ありのままの自分というのは、他人に嫉妬したり、いらいらしたり、自己中心的になったり、面倒臭がったりという「自分」です。私たちは一皮むけば、誰もが「そのまま」では社会に適応できない「自分」を抱えています。ある意味では、私たちの本性は多かれ少なかれ「社会不適合者」なのです。

ではどうすればいいのでしょうか? 素の自分のままでは、仕事で成果を上げたり、同僚と仲良く、協調することができない。しかし一方で、ありのままの自分を無理やり変えてしまえば、自己否定につながってしまう。この矛盾を、どうすればいいのか。

実は、この矛盾を超えていく第一歩が「ありのままの自分は、(実は)社会不適合者である」という現実を認めることです。実は、「自分に自信がある人」の中には、これができている人が少なくないんです。

もちろんこれは、「自分に自信が持てない人」にとっては、苦しいステップです。しかし、どれほどダメな自分であっても、まずはそのまま、受け入れてみる。そうすることで「本当の自信」を手にするための2つの道が開かれることになります。

持って生まれた資質を「そのまま」活かす

「本当の自信」を手にするための道のひとつは、「持って生まれた自分」をできる限りそのままに、社会の中で生かしていくことです。

「え? 自分にもともと備わっている資質なんて言われても、自分には人に誇れるような才能なんて何もありません……」

そうおっしゃる気持ちはよくわかります。

でも、「もともと備わっている資質」というのは、必ずしも「すごい能力」とか、「役に立つスキル」である必要はないんです。

僕の恩師でありカウンセリングの師匠である方があるとき、「自分には<意地悪>という才能がある」ということを言ったことがあります。「自分ほど、 根っからの意地悪な人間はいない。でもだからこそ、人の短所を見抜き、その人が失敗をしでかしそうな場面を予測して助言することができるんだよ」というのです。

このお話をお聞きしたときは、正直なところ、冗談をおっしゃっているのだろう、と思っていました。でも、年月を重ねて自分なりにカウンセラーとしての経験を積んでから振り返ってみると、これはある意味、本気でおっしゃっていたんじゃないかと思うようになりました。

多くの人は、才能とか能力といったものを「最初から光り輝いている何か」として捉えています。しかし、才能や能力の本質というのは、社会や、周囲の人との関係性の中で「元々持っていた資質」が生かされることによって、初めて輝きを持つものなのです。

師匠の例で言えば「意地悪」という持って生まれた資質を、そのまま相手を攻撃したり陥れるような形で使ってしまったら、害にしかならなかったでしょう。とても、社会に貢献するどころではありません。

ところが、同じ資質を、「相手の問題点を鋭く見抜き、そこをいかにサポートしていくか」という観点で使えるようになれば、それは他の人に真似できない「カウンセラーの才能」になるのです。

「ダメな自分」を受け入れる

「才能がない」「能力がない」「だから自信が持てない」と多くの人が口にします。でも、どんな人にだって能力はあるし、才能はあるんです。なぜなら、人間は社会の中で生きる動物だからです。どんな資質も、「どこで」「いかに」使うかによって、花開き、輝く場合もあれば、問題を引き起こす要因になってしまうこともある。これは安っぽいヒューマニズムの標語とは別次元の、厳粛な事実です。

いつも納期に仕事を間に合わせることができずに「自分は仕事が遅い」と悩んでいるあなたは、実は自分のペースで忍耐強く物事に取り組むことで成果を出せる、研究者タイプの人材なのかもしれません。あるいは、飽きっぽくて一つのことに集中できない人は、もしかすると、誰も思いもしなかった新しい事業を 開拓していく、起業家精神にあふれた人なのかもしれません。

私たちはみな、なんらかの資質を持って生まれてきます。一見、どれほど役立たずで、無意味な資質に見えたとしても、それを一度、「ありのままの形」 で見据えてる時間が必要なのです。そうすればその資質を社会のなかで「いかに使うか」という道も見えてくる可能性が高いのです。

普通だったら役にたたないような資質であっても、それを活かす場所や、活かし方、捉え方を変えることで、まったく違う見え方ができます。そういうふうに見ていくことで、自分を決して否定せずに、社会での居場所を見つけることができるんです。

「社会不適合者」だと自覚するから、人は協力することができる

「ありのままの自分では、社会に適応できない」という現実を受け入れることによって開かれるもうひとつの「道」。それは、「他人と協力する」という道です。

私たちはみな、ひとり残らず社会不適合者である。そのことがわかって初めて、私たちは素直に人を頼ったり、任せたりできるようになるのだと僕は考えています。

これは一見、矛盾しているように聞こえるかもしれません。「人と協力することができない人のことを、社会不適合者と呼ぶのではないか」と。

でも、私がいう「他人と協力する」というのは、別に「誰とでも社交的に、楽しく会話を交わすこと」ではありません。そうではなく、「自分だけでは何事をなすこともできない」という現実を謙虚に認め、他人に興味・関心を向ける、ということです。

光岡英稔(みつおかひでとし)さんという武術家がいます。光岡さんは韓氏意拳(かんしいけん)という中国武術の第一人者で、武術の世界の多くの人が 認める天才的な武術家なのですが、私がいつも「すごい」と感心するのは、あれほど強い光岡さんが、いつも「他人から学ぶ」という姿勢を忘れないことです。

光岡さんが学ぶ相手というのは、一般的にみて「強い人」「すごい人」という枠に収まりません。例えば光岡さんは、重度の身体障害者の施設である菖蒲園というところと、深い親交を持たれています。武術を深く追求し、身体を動かすことのプロフェッショナルである光岡さんだからこそ、常識的にみてしまえば 身体を自由に動かせない障害を持つ人の身体の中に、何か無限の可能性のようなものを学び取っておられる気がします。

「人と協力する」ということの本質は、別に仲良く言葉をかわしたり、目に見えるかたちでコミュニケーションを取ることではなく、「自分の外側」に関 心を向け、自分とのコラボレーションの可能性を探るということです。これをやるためには、自分に「足りないところ」「欠落しているところ」があると深く自 覚している必要があるのです。そうじゃなければ、他人に関心を向けたり、他人の強みや弱みを感じ取ることができないからです。

いくらお金を稼いだり、友人をたくさん作ったとしても、他人と協力できない人というのは、どうしても本当の意味での自信を持つことができません。自己完結するのではなく、他人とコラボレーションすること。これによって、人は初めて、本当の自信を手にできるのです。

「自分はそのままでは社会に適応できない」と知ること

社会の中で役割を果たし、評価を高めていくことは、基本的には自信を高めていくことにつながります。そういう意味では、仕事はがんばらないよりはがんばったほうがいいし、子育て中の人は子供に愛情を注いだほうがいいし、友達とはより友人関係を結んだほうがいいし、素敵な恋愛ができるなら、やったほうがいいでしょう。

でも、そうやってあらゆることを「がんばる」なかで、「ありのままの自分」を否定してしまうのは、心の奥底の、深いところで自分自身を傷つけてしまうことにつながります。そうすると、いくら社会的評価を高めたとしても、「自信」という意味では、プラスマイナスで、マイナスのほうが多くなってしまうん です。

まず「ありのままの自分」は、そのままでは社会に適応できない、ということを認める。

私は、気が回らずロクに人の役にも立てないし、特に魅力もない人間かもしれない。でも、そんな自分でも「かわいいやつだな」というぐらいの気持ちで、大切にする。そのうえで「でも、こんな駄目な自分でも、こんなふうにすれば、みんなの役に立てるんじゃないか?」「こういう強みを持っている人とコラボレーションすれば、何かを生み出すことができるんじゃないか」と工夫してみる。

もちろん、ときには、自分自身を変えていくこともあるかもしれません。しかし、無理やり自分自身を変えるのではなく、常に、元々の自分を出発点にして、社会に貢献したり、他人とコラボレーションする道を模索すること。これこそが、「ありのままの自分を受け入れる」ということの真意なのです。

[アルファポリス]

Vol.3に続く

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