直感と想像力が人の数だけある真実を視る眼。。。

■養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。81年、東京大学医学部教授に就任し、95年退官。『からだの見方』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書)など著書多数。大の虫好き。

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、紐解いていきます。

養老先生は、子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています。とすれば、現代社会は「脳の世界」が明らかに優位になっていますから、子どもたちにとって生きづらいのは当然かもしれません。これから子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえで、「感覚」「自然」は大事なキーワードになるでしょう。

今回は、この2つのうち、「感覚」の意味するものへの理解を深めます。

(取材・構成/黒坂真由子)

養老(孟司氏:以下、養老):子どもというのは感覚的なんです。そこが大人と違うところですが、僕のいう「感覚的」というのは、普通にいわれている意味と違うんですね。

―どう違うのでしょう。

養老:例えば小学校の黒板に先生が白墨で、「黒」っていう字を書くとします。そうしたら、「くろ」と読むというのが正しい教育です。しかし、その白墨で書いた「黒」という字は、何色ですか?

―白いチョークで書いているのですから、色という意味では「白」です。

養老:そのとき、それを「しろ」と読む子がいたら、どうなります?

―「黒」と書いてあるのですから、「漢字を勉強しなさい」と。

養老:でも、チョークの色は白いわけです。ならば、「しろ」と読んでいいじゃないか、と。漢字をわかっていてそう返す子どもがいれば、相当反抗的と見なされるでしょう。

―ああ、そうかもしれません。

養老:僕なんかそういう子でしたから。だって先生が書いているの、白いじゃんっていう。それは「感覚が優先する」ということです。言葉として読めば「黒」という字ですけど、感覚として素直に捉えれば、それは「白」です。

人間の感覚は「x=3」に納得できない
養老:言葉が使えるようになった途端に、感覚より言葉のほうが優位になってきます。上になるんですね。だいたい中学生くらいで逆転します。僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていたんですけどね。数学では、「2x=6、ゆえにx=3」とやるでしょう。それがどうしても受け入れられない子がいるのですよ。

―「x=3」をですか?

養老:うん。さらに「A=B」と文字だけになったりすると、もう怒りだす。

―ああ、AはBじゃない。

養老:そう。「AはBじゃない。A=Bなら、明日からBっていう字は要らない。Aって書けばいいでしょう」って。これはへそ曲がりじゃないんですね。感覚的に捉えれば、AとBは違うものでしょう。だから「A=B」に納得できないのは当然なのですが、人は、納得できるようになってしまいます。AとBをイコールで結ぶことができるようになってしまうのですね。

―そういう教育を受けるから。

養老:先ほどのように、「x=3」に抵抗する子がいる。「x」は文字で「3」は数字でしょう。「数字と文字を一緒にしていいの?」という疑問ですね。

―感覚としては、受け入れられないということですよね。

意識は「同じ」を求め、感覚は「違い」を求める

養老:感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります。

―人の意識には「イコールにする」という機能がある。逆に感覚は「イコールにする」ことができない。ご著書にもありました。

言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。『遺言。』(新潮新書/2017年)

先生がおっしゃる、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」において、言語は「脳の世界」に属すると。そしてそれは「イコールの世界」である。子どもが属する感覚の世界とは違っているということですね。

養老:これが、前にお話しした「自己の問題」にもつながるんです。

―「脳の世界」「イコールの世界」が、自己の問題になる?

「昨日の私」と「今日の私」は同じなのか?

養老:意識は毎晩、眠ると失われるのに、朝になったら出てくるでしょう。そして朝に出てきた意識は「記憶にある昨日の意識と同じ意識だ」と考える。その「同じ意識」に「私」という名称を当てちゃうのが間違いなんですがね。

―朝起きた「私」が、昨日と「同じ私」と考えるのが、そもそも間違っているというわけですか。

養老:言語がそうであるように、意識というのは「同じ」という働きそのものなんです。しかし、この世界を見まわして、同じものってあります?

―まったく同じものですか?

養老:そんなもの、あり得ないんです。よく似たものが2つ並んでいたら、置いてある場所も違うし、違うに決まっているんです。

―数学はどうですか?

養老:数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね。

―数学ではなく現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね。

この2本の赤ペンは「同じ種類のペン」ですけど、いわれてみれば「同じ」ではないです。使い始めた日も違えば、買ったお店も違いますし。インクの残り具合も違います。

養老:ほら、同じものって、ないでしょう。

―でも、「同じもの」だと思って生活をしています。よく考えれば「違う」はずのこの2本のペンを、「同じ」だと私たちは認識している。

養老:それを「概念」というのですよ。

「the」とは感覚であり、「a」とは概念である

養老:リンゴが何個あっても、全部「リンゴ」にする。1個1個が本当にリンゴなのかどうか、いちいち確かめているかというと、別に確かめてはいません。

今、私が「リンゴ」といったときに、どこにもリンゴはありません。感覚的なリンゴはない。

―「感覚的なリンゴ」というのは、触ったり、匂いをかいだり、食べたりできるリンゴということですね。

養老:そういう感覚的なリンゴがないにもかかわらず話が通じてしまうのは、「同じもののことを考えている」という暗黙の約束があるからです。言葉でね。「リンゴ」という音が聞こえたときに「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。

英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです。「the apple」のほうは、感覚から入ってきたリンゴですね。

―theのほうは、触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」ということですね。つまり「感覚的なリンゴ」。

養老:そうです。だから「このリンゴ」「そのリンゴ」「あのリンゴ」になるんです。一方、「an apple」のほうは「どこのどれでもない一つのリンゴ」。僕が最初に英語を教わったときは、そう教わりました。でも「どこのどれでもない一つのリンゴ」ってわかります?

―わからないです。

養老:それは別な言い方をすれば、「同じリンゴ」ということです。誰もが考えているリンゴで、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。それが「同じリンゴ」。難しくいえば「概念」となります。

―概念としてのリンゴ。

養老:日本語の場合は、これを「が」と「は」で使い分けています。

(次回に続く)

■養老孟司氏、「正義」が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。

前回は、「子どもは感覚的である」ということの意味をうかがいました。子どもの世界のリンゴは、英語でいう「the apple」であり、個別具体的なリンゴです。一方、大人の世界のリンゴは「an apple」であり、抽象的な概念でした。

このような言葉の使い分けは、英語だけでなく、日本語にもあるといいます。

(取材・構成/黒坂真由子)

子どもが「感覚的」であるとは、どういうことか。この問題に関連して、前回、英語における「the」と「a」の違いを解説いただきました。例えば「the apple」が示すのは、感覚的なリンゴ。触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」。「an apple」は、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。いわば「概念としてのリンゴ」。

日本語では、それを「が」と「は」で使い分けているということでしたが、どういうことでしょうか?

養老孟司氏(以下、養老):「昔々あるところに、おじいさんとおばあさん『が』いました」「おじいさん『は』山へしば刈りに行きました」となります。最初の「おじいさん」は、「概念のなかでのおじいさん」です。後者は、前の文に出てきた「特定されたおじいさん」ですね。

感覚に戻せない言葉が、対立を招く

概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。

養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。

リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。

「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。

大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか?

養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。

猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。

養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。

なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年

「男女同じ」が、かえってストレスにならないか?

現代社会は、情報化社会で、情報とは時間的に変化しないものでした。だから、情報化社会は、必然的に「同じ」を志向する(養老孟司氏、なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?参照)。となると、「違う」を志向する感覚の世界を生きている子どもたちが今の社会を生きるということは、脳の機能や発達から考えても、かなり苦しいということなんですね。

養老:ストレスが多いでしょう。最近では、男性と女性を分けることもダメになってきましたね。頭で考える世界では、そんなふうにイコールが優先していくんです。

学校もそういえば、出席番号を男女で分けなくなりました。男女を同じに扱うという基本的な方針があるようです。

養老:それだって、別な不平等ですよね。小学校高学年のときは、女の子、怖かったですよ。発育が先にいっちゃうから、体が大きいし、強いし、頭も回るし、女の子にはかなわないので。

今も同じです。

養老:僕らのころは、運動っていうと、ドッジボールくらいしかなかったから。一緒にやっていて、女の子がボールを持つと、僕は必死で逃げました。すごい勢いでボールが飛んでくるから怖いので。

子どもが感覚を優先しているということは、絶対音感からもわかるんですよ。

絶対音感からわかるというのは、どういうことでしょうか?

養老:子どもはね、絶対音感なんです。

感覚を突き詰めたら、言葉は使えない

養老:絶対音感によって言葉が区別されれば、お父さんが呼ぶ「タロウ」と、お母さんが呼ぶ「タロウ」は、違う言葉として捉えられる。音の高さが違いますから。

お母さんに呼ばれるのと、お父さんに呼ばれるのでは、同じ「タロウ」でも違うと?

養老:そうです。それが違う音だっていうふうに、感覚が優先すればなっちゃう。感覚を突き詰めると言葉は受け入れられません。動物がそうですね。うちの猫は「まる」といったんですけど、僕が「まる」と呼ぶのと、女房が「まる」と呼ぶのでは、音としては全然違うので、まるにしてみれば違うことを言われていると思っている。

だから、小さいときから音楽漬け、楽器漬けになっていた子は、絶対音感が残るんですよ。

絶対音感が「残る」。ということは、絶対音感はもともとあるということですか? 全員に。

養老:そうです。もともとは絶対音感のはずなんです。そうじゃないとおかしいのですよ。僕は医学部で耳の解剖生理を習いましたから。そっちから見る限りは、動物は絶対音感を持つはずなのです。 持っていないと不思議なのです。

ある特定の振動数の音が聞こえてきたとき、耳のなかでも脳のなかでも、それに対応する決まった部位が必ず反応することがわかっています。大脳皮質には第一次聴覚中枢があって、ここの神経細胞は、周波数に従って並んでいるのですよ。ピアノみたいに。

すると 「タロウ」とお母さんに言われたときと、お父さんに言われたときでは、タロウくんの脳のなかで活動する部位が異なるということですか?

養老:当然、異なります。異なるはずです。声の高さが違っていたら。お母さんが発する音とお父さんの発する音は別な音だということになります。感覚が優先すればそうなるんです。そうすると言葉が使えません。

それは、いろいろな人が発する「タロウ」を「同じ言葉」と認識できないから?

養老:はい。だから動物は言葉が使えないのです。絶対音感だから。

少し話がそれるかもしれませんが、『自閉症は津軽弁を話さない』を著した松本敏治先生から教わった、自閉症の子どもは「音の絶対音感者」である可能性を示す学説を思い出しました(発達障害の不思議「ASDの子どもはアニメから日本語を学ぶ?」参照)。

養老先生がおっしゃるのはつまり、子どもはもともと絶対音感を持っている。しかし、成長する過程で、違う音を抽象化して同じ言葉として認識する働きが身につき、その段階で絶対音感が失われる……。

養老:そうです。「イコール」を優先してしまうのですよ。そして「違う」を無視する。白墨で書いても「黒」と読めるようにするのと同じで、「違っているんじゃないの?」という感覚は無視してしまう。

本当は感覚でいえば、音の高さが違うから、違うはずだけど。

養老:感覚が「違うよ」と言っているんだけど、意識は「同じ」だと主張する。そして人は大人になるにつれて、意識を優先するようになる。

「小さいときから楽器の訓練をしないと、絶対音感がつかない」と言われますが、きっとそうではありません。小さい頃から楽器の訓練をしないと、絶対音感が消えてしまうのです。

なるほど、先生が「子どもはより自然に近い」とおっしゃる意味が、だんだんわかってきた気がします。

[日経ビジネス]

無償であろうが報酬が低かろうが、やりたければ(やってあげたければ)やるし、やりたくなければやらない。。。

 

■プロに「タダでやってくれない?」と仕事を依頼する人が、たくさんいる理由

いるよね、プロに無償で仕事を頼んでくるヤツ。

「ちょっと○○するだけでいいから」

「これやってもらえない?」

って無邪気な顔でさぁ。

こっちはそれで飯食ってるんだから、タダなんてありえないっつーの! 非常識! 搾取反対!

……という気持ちは、よくわかる。

電気屋で「このパソコンをタダでください」なんて言う人はいないのに、世の中には、無償の仕事依頼をしてくる人がたくさんいるのだ。

それはいったい、なぜなんだろう?

プロに無償で仕事を依頼する「罪深き人たち」

先日、こんなツイートがバズっていた。

探してみれば、「プロに無償で仕事を依頼する不逞のやからとの遭遇事件」は、いくらでも見つかる。

わたし自身、

「ドイツ語サイトが読めないので翻訳してくれませんか」

「ブログの相談に乗ってほしいです」

「お礼に著者プロフィールを入れるので記事を書いてください」

なんて無償依頼のお問い合わせをいただくことがある。テレビ局からの取材協力依頼もしょっちゅうだ。

なんで、他人の知識や経験、技術をタダで利用できると思うんだろう?

この「プロに無償で仕事を依頼」問題について、『プロ』に『無償』で『仕事』を依頼するという、3つの要素に分けて順番に考えていきたい。

「プロのアマチュア」と「アマチュアのプロ」の混在による無償依頼

まず一番のキーになるのが、『プロ』という言葉だ。

知識や経験、技術を売りにしているプロは、残念ながら軽く見られることが多い。

そのスキルは目に見えるものではないし、特殊な資格が必要な場合を除いて、「(実際がどうであれ)がんばれば自分でもできるもの」に映るからだ。

たとえば、魚屋さんは魚を取り扱うプロ。

どんな魚でも、こっちが望むようにキレイにさばいてくれるだろう。

一方わたしの父は釣り好きで、たいていの魚は自分でさばくことができる。

素人のわたしとしては、おいしく魚をいただけるのであれば、魚屋さん(プロ)と父(アマチュア)のどちらがさばいた魚でも問題ない。

要は、素人でもある程度できる人がいる分野……もっと率直にいえば、「プロレベルの素人」や「プロよりうまい素人」がゴロゴロいる分野において、『プロ』への無償依頼問題は起こりやすいのだ。

なぜって、この「プロのアマチュア」さんたちは、無償でバンバンその技術を提供していくから。

無償依頼問題でよく槍玉に上がるイラストレーターは、その最たるものだろう。

お絵かき垢(自分の絵をアップしているSNSアカウント)界隈を覗いてみると、「リツイートしてくれた人のうち10人のアイコンを描きます」なんてキャンペーンを毎日だれかしらやっているし、「これで飯食えるんじゃ?」と思うほどうまい人もたくさんいる。

ほか分野でも、たとえば子どもの運動会でプロ顔負けの写真を撮る写真好きママ、結婚式の余興で生演奏する元プロ志望のバンドマン、海外メディアを翻訳・解説するバイリンガルブロガーなど、「プロがやっていることをタダ&高クオリティで提供する素人」はいくらでも見つかる。

タダでやってもらった人はうれしいし、やってる人は楽しいし、みんなハッピーな優しい世界。

が、しかし。

その「プロのアマチュア」が親切に高い技術をバラまくことによって、「プロ」はより軽い存在になってしまう。

相手にとって大事なのは「自分の要望を叶えてくれるかどうか」であって、その人が「プロ」を自認しているかどうかは関係ないしね。

そのうえさらに厄介なのは、「プロのアマチュア」と同時に、「アマチュアのプロ」がいるということだ。

それで生計を立てたいと思ってはいても、まだ駆け出しのひよっこで、「タダでいいので仕事をください!」と頭を下げて回る人は少なくない。

そうすれば、「プロ」の価値はそれだけ下がる。

「プロのアマチュア」と「アマチュアのプロ」が混在する以上、「プロに無償で仕事を依頼する」人はきっと、いなくはならない。

タダで受けるプロがいる以上、無償提供を期待するのは当たり前

「プロに無償で仕事を依頼する」問題の2番目、『無償』という部分も、なかなか扱いがむずかしい。

きっとあなたも、ニュースやSNSなどで、

「電車が遅延したけど乗っていた歌手が歌って車内を盛り上げた」

「偶然会ったお笑い芸人に声をかけたら一発芸をしてくれた」

「ピアニストがストリートピアノで演奏、大喝采を受ける」

なんて心温まるエピソードを聞いたことがあるんじゃないだろうか。

プロ自身、気まぐれやサービス精神、売名で自分の「商品」をタダで配ることがあるのだ。

そして、タダでもらえる可能性がある以上、「ダメもとで頼んでみよう」と思う人がいるのも理解はできる。

無償依頼に腹を立てるあなただってきっと、「プロ」というステータスを、コミュニケーション手段として日常的に使っているはずだ。

たとえばまわりの人は、不動産関係の仕事をしている夫に、雑談の一環で「家を買おうと思うんだけど」「最近の不動産投資はどうだ」と相談をする。

ある意味それは「プロの知識や経験を無料で引き出そうとしている行為」だけど、そこに一切の悪気はない。ただのコミュニケーションだ。

そこで夫が相談料を請求したら、

「いやいや、ちょっとした世間話だし、そんな本気で相談に乗ってほしいなんて思ってないし、この程度で報酬払うなんて……」

と相手は困惑するだろう。

でもそれは結局のところ、

「いやいや、ちょっと絵を描いてもらいたいだけだし、何時間もかけて本気で描いてくれなんて言ってないし、この程度で報酬払うなんて……」

という無償依頼人の主張と同じだ。

みんな日常的にタダで提供したりされたりしてるから、相手は「無償依頼」で怒る人がいるなんで、想像すらしていないのかもしれない。

「ちょっと手伝って」vs.「プロならハンパなことはできない」

「プロに無償で仕事を依頼する」問題の3番目、『仕事』という部分。

これは、依頼側と受注側で一番意識が異なるところだろう。

そもそも依頼している側は、「仕事」してほしいだなんて思っていない。

「ボランティアとして手伝ってくれ」と言っているだけなのだ。

プロとしてクオリティを保証してくれなくていいし、そのためにきっちりとした準備もしてくれなくていい(そもそも準備が必要だと想定していない)。

「カメラマンなの? 子どもの運動会で写真撮ってもらえない?」

というのは、「自分がスマホで撮るより本職の人に撮ってもらったほうがいい写真になってうれしいな♪」くらいの意味でしかないのだ。

でもカメラマンにとって撮影依頼=仕事だから、手を抜けない。

「パンフレットのスケジュールと校庭の位置を考えてここに三脚を置きたい」「レンズはこれとこれを持って行かないと」「撮影後は数百枚の写真から数十枚をピックアップし、フォトショで加工してデータを渡して……」と考える。

依頼者が望むものと受注者が目指すものがちがうんだから、そりゃかみあわないよね。

依頼者に「仕事を頼んでいる」意識がないかぎり、その人は今後も同じ依頼を続けるだろう。悪気なく。

プロに無償で仕事を依頼する人はきっと、いなくならない。

「無償依頼」はないほうがいいとはいえ、自分も深く考えず「これってどう?」とプロに聞いたり、気まぐれで「いいですよー」と無償で取材協力したりしているわけで。

赤の他人相手には慎重になるけど、それでもYouTube動画で「次はこれを見たいです」「これについて教えてもらいたい」とコメントすることはあるわけで。

きっと、だれだってそうだろう。

「無償依頼」という言葉の響きはとても悪いけど、「無償依頼」自体は特別でもなんでもない、日常生活にいくらでもあるコミュニケーションのひとつなのだ。

だから、たとえばこういうツイートに8万5000ものいいねがついているのを見ると、「お互い様の部分もあるんじゃないかなぁ」と思う。正論に聞こえるけどね。

家族だろうが友人だろうがプロに無料で仕事を依頼するの禁止。たとえ30分で終わる作業だとしてもだ。30分で作業が終わるのはその人がそれ以前に何千時間もの努力を積み上げて、必要な設備に金を投資してきたからこそ。無料で仕事を依頼することはそのプロセスをリスペクトせず踏みにじる行為に等しい。

「プロ」と名乗る人が例外なくアマチュアより格上で、「いかなる事情、関係性の相手であっても商品やサービスは絶対にタダでは提供しない」という鉄の意志をもっているのであれば、「無償依頼」はなくなるかもしれない。

でもそんなこと、現実的にはありえないよね。

そもそも、「依頼」自体は自由だ。

依頼されて納得がいかない、条件が合わないのであれば、交渉するか断ればいいだけ。

断ったあとグダグダと文句を言ってくるのであれば、それは「無償依頼」のトラブルではなく、相手の人間性の問題だ。

まぁ、移動や宿泊に身銭を切れだの、数日間拘束しますだの、本業を休んでくれだの、訴訟リスクを抱えますだの、負担が大きすぎる「無償依頼」はちょっと引くけども。

どうせ「無償依頼」はなくならないのだから、依頼の段階は「相手の自由」と割り切り、イヤなら断る、でいいんじゃないだろうか。

「無償依頼なんて失礼だ!」と腹が立つ気持ちもよくわかるけど、怒るなら、その後文句を言われてからでも遅くはない。というのが、わたしの結論だ。

そしてそれと同時に、ちょっとした依頼や、親密なあいだからでも、しっかりと報酬を払ってくれる人を、よりいっそう大切にすればいいだけである。

雨宮紫苑
ドイツ在住のフリーライター
小説執筆&写真撮影もやってます

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孤独死ではない在宅ひとり死という選択Vol.4

■コロナ禍で在宅死の希望が増加 在宅医療は意外と安い?

(週刊朝日2021年8月13日号より)

(週刊朝日2021年8月13日号より)

(週刊朝日2021年8月13日号より)

(週刊朝日2021年8月13日号より)

家族にも迷惑をかけるのだろうから、病院に行くべきなんだけど、できれば最期まで家で過ごしたい──。

【在宅死に備える4ステップはこちら】

肺がんの終末期だったA男さん(当時64)は、病院の医師から「これ以上できる治療はない」と言われて、自宅近くの診療所の在宅医療を受けることになった。時間があるときは近所のパチンコ店に出かけるなど、まだ趣味を謳歌でき、普段の生活は変わりなかったという。

「余命数カ月と言われても、まだ歩いて病院に通えるくらいの体力があると、在宅医療は必要ないのでは?と思う人も多いのですが、がんの最期は急速に状態が変化するので、慌てる前に『納得できる最期』を選んで準備してもらいたいと思っていました」

A男さんを看取ったときの様子をそう振り返るのは、『「在宅死」という選択 納得できる最期のために』(大和書房)の著者で、在宅医療専門医の中村明澄医師。

中村医師は大学病院を経て、2017年に「向日葵クリニック」(千葉県八千代市)を開設。年間100件以上看取り、在宅医療に関する情報を発信している。

「在宅医療」とは、通院が困難な人が自宅で生活を送りながら医療サービスを受けられる医療制度のこと。医師や看護師、薬剤師などが自宅へ訪問して、適切な治療を行う。

「そのまま自宅で看取られた方もいますし、家族に迷惑をかけたくないと、病院や施設での最期を選ぶ方もいます。最期までの時間の過ごし方、看取りの場所は自分で決めていいのです」(中村医師、以下同)

A男さんはまだ通院できる状態だったが、主治医から在宅医療を勧められ、向日葵クリニックにつながった。最初、中村医師は月2回のペースでA男さん宅を訪問。あるときA男さんの妻からこう告げられたという。

「A男さんの奥さま(同59)は、夫の死期が近づいている事実を認めたくない様子で、『余命はあと数カ月と言って、今がその時期かもしれないけれど、まだ動けるし、口は達者だし、まだ大丈夫でしょう?』とおっしゃったので、私は『あと1カ月はないと思います』とはっきり伝えました」

妻は取り乱すことなく、「それなら仕事を休んで最期まで夫に付き合います」と即答。職場に介護休業を申請し、介護に専念した。それから2週間ほどして、A男さんは自宅で家族や中村医師に見守られながら、静かに息を引き取った。

今、コロナ禍で病院では面会がほとんどできないので、在宅医療を希望する人が多いという。その流れで「最期まで住み慣れた家で過ごしたい」と在宅死を選ぶ人が増えている。

「自宅で亡くなるときには、最期の瞬間に医師や看護師が立ち会うことは少なく、ご家族だけで看取ることがほとんどです。ご家族から『呼吸が止まった』といった連絡を受けてから医師が訪問し、死亡確認を取った後、死亡診断書をお渡しします。最期までの瞬間はとても大切な時間ですから、慌てて医師や看護師を呼ぶ必要はありません」

自宅で最期まで過ごすことを考えている場合は、24時間体制が整っている「在宅療養支援診療所」に依頼するのがよいと、中村医師は言う。

かかりつけ医やケアマネジャー、病院内の医療連携室、地域包括支援センターなどで教えてもらえるので相談してみよう。

そして気になるのは、お金のこと。在宅医療は高額な費用がかかると思われがちだが、基本、公的な健康保険が適用される。

例えば、75歳以上で健康保険の自己負担が1割の人は、月2回の訪問で、約6500円程度かかる。ただし、高額療養費制度で70歳以上の自己負担の上限額は、月に1万8千円(一般年収の場合)と決められているので、それ以上の負担はない。

70歳未満の人は、自己負担が3割になるので、月2回訪問診療を受けると、約2万円。このほかに薬代、介護保険サービスを使えばその分の費用がかかってくる。

「介護保険サービスは65歳以上の方が対象ですが、がんの終末期の方など国の定めた16の『特定疾病』に認定されると、40~64歳の方でも利用できますので、使いたいサービスがあったらあきらめないで、まずは医師に相談してほしい」

在宅医療は医師や看護師、ケアマネジャー、服薬指導などを行う薬剤師、リハビリを行う理学療法士など、さまざまな専門家が連携を取りながらサポートしてくれる。

前出のA男さんは、64歳だったが、要介護認定を受けると要支援1。介護ベッドをレンタルした。自力で入浴するのが困難になってから訪問入浴を利用するというように、そのときの体調に応じて、介護サービスを使うことができる。

末期がんの人以外にも、「在宅死」を選択した人はいる。

認知症のB子さん(当時98)は、肺炎で入院したとき、持病の心臓病も抱えていたので療養型の病院への転院を勧められたが、娘(同75)が自宅での療養を決めたという。

「食事は少しずつですが、口から食べさせてあげると『うん、うん』と言いながら喜んでいたようです。B子さんはほとんど寝たきりだったので、娘さんは三度の食事やおむつの取り換えなど、毎日の暮らしの世話から、床ずれのケアまで丁寧に介護されていました」

穏やかな日々は3カ月ほど続いたが、お別れは突然やってきた。

いつものとおりに昼ごはんを食べて、娘が自分の食事を済ませてB子さんのベッドを見に行くと、すでに呼吸が止まっていたという。中村医師たちが駆けつけ、死亡を確認した。

亡くなった後に、体をきれいにして身なりを整える「エンゼルケア」を行った。エンゼルケアは訪問看護師か葬儀会社のどちらに頼んでもよいが、訪問看護師が行うと費用が5千~2万円程度かかる。葬儀会社ではセットで含まれているケースがあるので重複していないか確認する必要がある。

「『よかったね、きれいにしてもらったね』と、娘さんたちが涙を流しながら、穏やかな笑顔を浮かべていました。思い出話をしながら100歳近くまで頑張って生きてきたB子さんの人生をみんなでたたえるような穏やかなお見送りができました」

娘たち遺族も、自分ができることをすべてやりきった満足感から、「在宅死を選んでよかった」と振り返っていたという。

(ライター・村田くみ)

[AERA .dot/週刊朝日 2021年8月13日号より抜粋]

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