■養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。81年、東京大学医学部教授に就任し、95年退官。『からだの見方』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書)など著書多数。大の虫好き。
解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、紐解いていきます。
養老先生は、子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています。とすれば、現代社会は「脳の世界」が明らかに優位になっていますから、子どもたちにとって生きづらいのは当然かもしれません。これから子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえで、「感覚」「自然」は大事なキーワードになるでしょう。
今回は、この2つのうち、「感覚」の意味するものへの理解を深めます。
(取材・構成/黒坂真由子)
養老(孟司氏:以下、養老):子どもというのは感覚的なんです。そこが大人と違うところですが、僕のいう「感覚的」というのは、普通にいわれている意味と違うんですね。
―どう違うのでしょう。
養老:例えば小学校の黒板に先生が白墨で、「黒」っていう字を書くとします。そうしたら、「くろ」と読むというのが正しい教育です。しかし、その白墨で書いた「黒」という字は、何色ですか?
―白いチョークで書いているのですから、色という意味では「白」です。
養老:そのとき、それを「しろ」と読む子がいたら、どうなります?
―「黒」と書いてあるのですから、「漢字を勉強しなさい」と。
養老:でも、チョークの色は白いわけです。ならば、「しろ」と読んでいいじゃないか、と。漢字をわかっていてそう返す子どもがいれば、相当反抗的と見なされるでしょう。
―ああ、そうかもしれません。
養老:僕なんかそういう子でしたから。だって先生が書いているの、白いじゃんっていう。それは「感覚が優先する」ということです。言葉として読めば「黒」という字ですけど、感覚として素直に捉えれば、それは「白」です。
人間の感覚は「x=3」に納得できない
養老:言葉が使えるようになった途端に、感覚より言葉のほうが優位になってきます。上になるんですね。だいたい中学生くらいで逆転します。僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていたんですけどね。数学では、「2x=6、ゆえにx=3」とやるでしょう。それがどうしても受け入れられない子がいるのですよ。
―「x=3」をですか?
養老:うん。さらに「A=B」と文字だけになったりすると、もう怒りだす。
―ああ、AはBじゃない。
養老:そう。「AはBじゃない。A=Bなら、明日からBっていう字は要らない。Aって書けばいいでしょう」って。これはへそ曲がりじゃないんですね。感覚的に捉えれば、AとBは違うものでしょう。だから「A=B」に納得できないのは当然なのですが、人は、納得できるようになってしまいます。AとBをイコールで結ぶことができるようになってしまうのですね。
―そういう教育を受けるから。
養老:先ほどのように、「x=3」に抵抗する子がいる。「x」は文字で「3」は数字でしょう。「数字と文字を一緒にしていいの?」という疑問ですね。
―感覚としては、受け入れられないということですよね。
意識は「同じ」を求め、感覚は「違い」を求める
養老:感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります。
―人の意識には「イコールにする」という機能がある。逆に感覚は「イコールにする」ことができない。ご著書にもありました。
言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。『遺言。』(新潮新書/2017年)
先生がおっしゃる、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」において、言語は「脳の世界」に属すると。そしてそれは「イコールの世界」である。子どもが属する感覚の世界とは違っているということですね。
養老:これが、前にお話しした「自己の問題」にもつながるんです。
―「脳の世界」「イコールの世界」が、自己の問題になる?
「昨日の私」と「今日の私」は同じなのか?
養老:意識は毎晩、眠ると失われるのに、朝になったら出てくるでしょう。そして朝に出てきた意識は「記憶にある昨日の意識と同じ意識だ」と考える。その「同じ意識」に「私」という名称を当てちゃうのが間違いなんですがね。
―朝起きた「私」が、昨日と「同じ私」と考えるのが、そもそも間違っているというわけですか。
養老:言語がそうであるように、意識というのは「同じ」という働きそのものなんです。しかし、この世界を見まわして、同じものってあります?
―まったく同じものですか?
養老:そんなもの、あり得ないんです。よく似たものが2つ並んでいたら、置いてある場所も違うし、違うに決まっているんです。
―数学はどうですか?
養老:数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね。
―数学ではなく現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね。
この2本の赤ペンは「同じ種類のペン」ですけど、いわれてみれば「同じ」ではないです。使い始めた日も違えば、買ったお店も違いますし。インクの残り具合も違います。
養老:ほら、同じものって、ないでしょう。
―でも、「同じもの」だと思って生活をしています。よく考えれば「違う」はずのこの2本のペンを、「同じ」だと私たちは認識している。
養老:それを「概念」というのですよ。
「the」とは感覚であり、「a」とは概念である
養老:リンゴが何個あっても、全部「リンゴ」にする。1個1個が本当にリンゴなのかどうか、いちいち確かめているかというと、別に確かめてはいません。
今、私が「リンゴ」といったときに、どこにもリンゴはありません。感覚的なリンゴはない。
―「感覚的なリンゴ」というのは、触ったり、匂いをかいだり、食べたりできるリンゴということですね。
養老:そういう感覚的なリンゴがないにもかかわらず話が通じてしまうのは、「同じもののことを考えている」という暗黙の約束があるからです。言葉でね。「リンゴ」という音が聞こえたときに「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。
英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです。「the apple」のほうは、感覚から入ってきたリンゴですね。
―theのほうは、触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」ということですね。つまり「感覚的なリンゴ」。
養老:そうです。だから「このリンゴ」「そのリンゴ」「あのリンゴ」になるんです。一方、「an apple」のほうは「どこのどれでもない一つのリンゴ」。僕が最初に英語を教わったときは、そう教わりました。でも「どこのどれでもない一つのリンゴ」ってわかります?
―わからないです。
養老:それは別な言い方をすれば、「同じリンゴ」ということです。誰もが考えているリンゴで、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。それが「同じリンゴ」。難しくいえば「概念」となります。
―概念としてのリンゴ。
養老:日本語の場合は、これを「が」と「は」で使い分けています。
(次回に続く)
■養老孟司氏、「正義」が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから
解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。
前回は、「子どもは感覚的である」ということの意味をうかがいました。子どもの世界のリンゴは、英語でいう「the apple」であり、個別具体的なリンゴです。一方、大人の世界のリンゴは「an apple」であり、抽象的な概念でした。
このような言葉の使い分けは、英語だけでなく、日本語にもあるといいます。
(取材・構成/黒坂真由子)
子どもが「感覚的」であるとは、どういうことか。この問題に関連して、前回、英語における「the」と「a」の違いを解説いただきました。例えば「the apple」が示すのは、感覚的なリンゴ。触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」。「an apple」は、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。いわば「概念としてのリンゴ」。
日本語では、それを「が」と「は」で使い分けているということでしたが、どういうことでしょうか?
養老孟司氏(以下、養老):「昔々あるところに、おじいさんとおばあさん『が』いました」「おじいさん『は』山へしば刈りに行きました」となります。最初の「おじいさん」は、「概念のなかでのおじいさん」です。後者は、前の文に出てきた「特定されたおじいさん」ですね。
感覚に戻せない言葉が、対立を招く
概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。
養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。
リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。
「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。
大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか?
養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。
猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。
養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。
なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年
「男女同じ」が、かえってストレスにならないか?
現代社会は、情報化社会で、情報とは時間的に変化しないものでした。だから、情報化社会は、必然的に「同じ」を志向する(養老孟司氏、なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?参照)。となると、「違う」を志向する感覚の世界を生きている子どもたちが今の社会を生きるということは、脳の機能や発達から考えても、かなり苦しいということなんですね。
養老:ストレスが多いでしょう。最近では、男性と女性を分けることもダメになってきましたね。頭で考える世界では、そんなふうにイコールが優先していくんです。
学校もそういえば、出席番号を男女で分けなくなりました。男女を同じに扱うという基本的な方針があるようです。
養老:それだって、別な不平等ですよね。小学校高学年のときは、女の子、怖かったですよ。発育が先にいっちゃうから、体が大きいし、強いし、頭も回るし、女の子にはかなわないので。
今も同じです。
養老:僕らのころは、運動っていうと、ドッジボールくらいしかなかったから。一緒にやっていて、女の子がボールを持つと、僕は必死で逃げました。すごい勢いでボールが飛んでくるから怖いので。
子どもが感覚を優先しているということは、絶対音感からもわかるんですよ。
絶対音感からわかるというのは、どういうことでしょうか?
養老:子どもはね、絶対音感なんです。
感覚を突き詰めたら、言葉は使えない
養老:絶対音感によって言葉が区別されれば、お父さんが呼ぶ「タロウ」と、お母さんが呼ぶ「タロウ」は、違う言葉として捉えられる。音の高さが違いますから。
お母さんに呼ばれるのと、お父さんに呼ばれるのでは、同じ「タロウ」でも違うと?
養老:そうです。それが違う音だっていうふうに、感覚が優先すればなっちゃう。感覚を突き詰めると言葉は受け入れられません。動物がそうですね。うちの猫は「まる」といったんですけど、僕が「まる」と呼ぶのと、女房が「まる」と呼ぶのでは、音としては全然違うので、まるにしてみれば違うことを言われていると思っている。
だから、小さいときから音楽漬け、楽器漬けになっていた子は、絶対音感が残るんですよ。
絶対音感が「残る」。ということは、絶対音感はもともとあるということですか? 全員に。
養老:そうです。もともとは絶対音感のはずなんです。そうじゃないとおかしいのですよ。僕は医学部で耳の解剖生理を習いましたから。そっちから見る限りは、動物は絶対音感を持つはずなのです。 持っていないと不思議なのです。
ある特定の振動数の音が聞こえてきたとき、耳のなかでも脳のなかでも、それに対応する決まった部位が必ず反応することがわかっています。大脳皮質には第一次聴覚中枢があって、ここの神経細胞は、周波数に従って並んでいるのですよ。ピアノみたいに。
すると 「タロウ」とお母さんに言われたときと、お父さんに言われたときでは、タロウくんの脳のなかで活動する部位が異なるということですか?
養老:当然、異なります。異なるはずです。声の高さが違っていたら。お母さんが発する音とお父さんの発する音は別な音だということになります。感覚が優先すればそうなるんです。そうすると言葉が使えません。
それは、いろいろな人が発する「タロウ」を「同じ言葉」と認識できないから?
養老:はい。だから動物は言葉が使えないのです。絶対音感だから。
少し話がそれるかもしれませんが、『自閉症は津軽弁を話さない』を著した松本敏治先生から教わった、自閉症の子どもは「音の絶対音感者」である可能性を示す学説を思い出しました(発達障害の不思議「ASDの子どもはアニメから日本語を学ぶ?」参照)。
養老先生がおっしゃるのはつまり、子どもはもともと絶対音感を持っている。しかし、成長する過程で、違う音を抽象化して同じ言葉として認識する働きが身につき、その段階で絶対音感が失われる……。
養老:そうです。「イコール」を優先してしまうのですよ。そして「違う」を無視する。白墨で書いても「黒」と読めるようにするのと同じで、「違っているんじゃないの?」という感覚は無視してしまう。
本当は感覚でいえば、音の高さが違うから、違うはずだけど。
養老:感覚が「違うよ」と言っているんだけど、意識は「同じ」だと主張する。そして人は大人になるにつれて、意識を優先するようになる。
「小さいときから楽器の訓練をしないと、絶対音感がつかない」と言われますが、きっとそうではありません。小さい頃から楽器の訓練をしないと、絶対音感が消えてしまうのです。
なるほど、先生が「子どもはより自然に近い」とおっしゃる意味が、だんだんわかってきた気がします。
[日経ビジネス]