■養老孟司氏、「どうせ自分は変わる」が心をラクにする
養老孟司と「死にたがる脳」
解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起から始まった連載も、今回が最終回。前回(「なぜ『他人が自分をどう思うか』を気に病むのか?」)に続き、課題解決の方策を探ります。
前回、指摘されたのは、家事の手伝いなどで、子どもに役割を与えることの重要性。そして、自然との接点を増やすことでした。「自然」は、「感覚」と並んで、子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえでの大事なキーワードです(「感覚」の意味については、「なぜ子どもは『theの世界』を生きるのか?」、「『正義』が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから」参照)。
今回は、農業の話から発展して、システム化が進む社会と発達障害の関係、ネコの効用。そして、今まさに「死にたい」と思う人へのメッセージです。
(取材・構成/黒坂真由子)
養老孟司氏(以下、養老):世の中はもう、いずれにせよシステム化していきます。要するに、どこもきちんとしたものになっていく。ですからできるだけそうなってない場所を、子どものために確保しておく必要がある。
それは自然環境ということですか。
養老:いや、街のなかに空き地がなくなって、子どもの遊ぶ場所がなくなる、という話です。子どもたちが集合して、好き勝手に動き回っているという空間が消えちゃった。そんな意見が、僕の育っていく過程ではありました。完全に無視されましたけど。空き地はしっかり塀で囲って、「何々不動産管理地」というふうになっていきましたね。
こういうのは、やはり社会全体で考えるしかないですね。僕はやっぱり、ある程度古い形の生き方を地域的に復活させていくしかないと考えています。
例えば僕の知り合いは、学校になじめない子、例えば注意欠如・多動症(ADHD *)の子を引き取って、農業をしているんです。
畑にいれば、発達障害は「障害」にならない
発達障害に農業ですか。
養老:「畑に連れていってしまえば、多動もくそもないよ」といっていました。結局、置かれた状況次第なんですね。教室のなかだと多動が目立つけど、畑だったら全然目立たない。
もしかすると、今も昔もADHDの子のパーセンテージは同じで、今の社会では目立つようになっているだけかもしれないということですね。日本で初めてADHD専門外来を立ち上げた医師の岩波明先生も、仕事の管理化が進んだことと、発達障害に注目が集まることを関連付けていました(「発達障害は病気ではなく『脳の個性』 治すべきものではない」)。
養老:田舎で育って、畑にいたら誰も気にしなかったのが、「きちんとしなさい」と座らせようとするから気になる。それができないからって、別に異常なわけではないですよ。
実際そういうふうに「ちゃんとしろ、座っていろ、きちんとしろ」といわれた子たちが、いわゆる二次障害(*)でうつを引き起こしたりしているんですね。うつから自殺という流れもあると思うんです。
養老:僕の知り合いは、もう学校に行かないと決めた子を預かっているんです。それを教育委員会が認めてくれて、所属していた学校に通っていることにしてくれています。でも、していることは農作業です。動物の世話なんかもいいと思いますけどね。
「なんとかなる」というNPOもあります。僕はここの特別顧問をしているのですが、少年院を出た子たちを預かっているんです。親代わりに預かるところが必要なんですね。鳶(とび)の会社の社長さんが運営しています。でもね、今まで50人くらい預かったけど、なかなかうまくいかないといっていました。
子どもたちを社会に適応させてくのって、大変なんです。まず預かって、身元を保証して、その上で社会適応させていくというのが。「最大の障害は何ですか?」と聞いたら、「スマホだ」と。
スマホですか?
「きちんと」した社会は生きにくい
養老:少年院にいる間はスマホが使えないんですよ。出ると一番、それを欲しがる。スマホを見ると、いろんな広告が載っているでしょう。時給のいい求人広告なんかに釣られていなくなる。それが一番多いといっていました。それでまた、オレオレ詐欺の手先に使われたりして。やはりそう簡単じゃないですね。
社会がある一定の形を取ると、そこに適応できない人がどうしても出てきてしまう。それをどうするかというのは、社会を「きちんと」つくっていくほうの人には、関係のないことですから。
システム化を進めていくほうの人には関係のないこと、ですか。
養老:しょうがないからボランティアで何とかするしかないっていう状況です。こうしたセーフティーネットが、社会に欠けています。
仕事が合理化されてしまうと、まともな人でも仕事がなくなるという時代ですから。コンピューターが仕事をしてしまって人が要らなくなるということは、世界中で議論されていますよね。
マニュアルに従って仕事ができる人でさえ、仕事がなくなるといわれる時代です。
養老:ましてマニュアルが読めない、読んでも無視するってことになると、それならコンピューターのほうがましだって話になってしまいます。
あとはやっぱり、大人が満足してないといけないですね。
大人自身が。
ネコを見ていると、働く気にならなくていい
養老:居心地の悪いところから立ち去る。資質に合わない努力はしない。このあいだ話した坂口恭平さん(前回「なぜ『他人が自分をどう思うか』を気に病むのか?」参照)が、うつ病にならないための指針としてそう書いています(*)。ネコみたいに生きられればいいんですけどね。大人がある程度自足していれば、子どもにぶつかることはないと思います。
* 『躁鬱大学』(新潮社)
そもそも大人が満足していないことも問題であると。
養老:親と子の口論の末に自殺するなんて話も聞きましたが、本来ならどこかで折り合いをつけなきゃいけないはずです。お互いのせいにしないで。
私が正しい、あなたは間違っているということで、けんかになる。ここにも「自己」が絡んできそうですね。
養老:そういうときには世の中のせいにしたほうがいいと思いますよ。人間関係は難しいから。距離が近過ぎるんでしょうね。
そこに例えばですけど、ネコみたいな「自然」が入ってくると、ちょっとは変わりそうでしょうか。単純過ぎる解決策かもしれませんが。
養老:そこまでひどいけんかに、ならないかもしれませんね。ネコを見ていると、「なんで自分はこんなに必死になっているんだ」と思えるから。少なくともペットを飼っているほうが血圧は低いという研究はありますよね。
僕も、まる(*)が死んでから忙しくなっちゃったんですよ。まるを見ていたら働く気がしなかったのに。
* まる:養老先生と暮らしていた雄のスコティッシュ・フォールド。顔がまるいから「まる」
急に働く気に。
養老:まるがいなくなって、ブレーキが利かなくなっちゃったんです。
人はどうせ変わる。それが希望になる
最後に、今すごく苦しくて、死んでしまいたいと思っている子どもたちに、先生から何か伝えるとしたら、どんな言葉になりますか。
養老:どうせ自分は変わるよ、ということです。
どうせ自分は変わる?
養老:変わる。変わるに決まっているんですよ。今の状況が永久に続くってことはあり得ないので。今の状況が続かないと考えるときに、つい「周りが変わる」と思っちゃうんだけど、そうじゃないんです。「感じている自分」が、変わるんです。
「今、死にたいと思っている自分」が。
養老:変わる。変わるに決まっている。ですから、「今現在の自分」を、絶対視しない。これは当たり前のことなんですけどね。大人がそれを教えないといけないんです。僕なんか84歳までにどれだけ変わったか。
それを妨害するのが、「個性」とか「自己」を重視する今の風潮です。その人らしさとかね。いくらその人らしくしてみたところで、いずれ変わっちゃうんだから。らしくなくなっちゃっても、別にいいんですよ。
先日おっしゃっていた、「自己なんて本当はないんだ」ということを、子どもに教えるということですか。
養老:そうです。かなり乱暴ですけどね。でもお坊さんに聞いたら、みんなそう言うと思います。仏教は昔から「我というのを避ける」ということを言っていますから。
できるだけ自分が自分であるようにする、自分に素直であるようにするということを、「わがまま」っていうんです。「我がまま」ですから。
「わがまま」って、「私のまま」「自分そのまま」ということだったんですね。
養老:日本人の社会は、それを注意してきたんですよ。「我がまま」では駄目だと。
自分が変わるのが当たり前なんだから、自分が自分らしくあるなんてことはあり得ない。そして今の苦しみも続かないと。
養老:そうです。必ず変わるんですよ。
[日経ビジネス]