四十歳がその後の健康人生の分かれ道。。。

 

■「脳トレはほぼ無意味だった」認知症になっても進行がゆっくりな人が毎日していたこと70歳から急に老化する人、しない人

和田秀樹
精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授

70代こそ肉を食べよう

20代、30代の人がスキーで転倒して足を骨折し、病院のベッドで1カ月寝たきりの生活をしたとしても、退院すればまもなく普通に歩くことができるようになります。

しかし70代ではそうはいきません。寝たきりの生活が続くと筋力が低下し、骨折が治ったあとも、「立つ」「歩く」といった日常生活に必要な動作に支障をきたすようになり、介護が必要になるリスクが高くなってしまいます。

こうした「ロコモ(ロコモティブシンドローム=運動器症候群)」が目立ってくるのも、70代からの特徴です。

70代こそ意識して体を動かす必要があるのですが、前頭葉が萎縮いしゅくし、動脈硬化もかなり進行していますから、なかなか動こうとしない人が増えてきます。これは男性に顕著な傾向です。男性ホルモンが減り、行動意欲が失われているからです。

したがって、歳をとればとるほど、毎日の食事を通じて男性ホルモンの材料になる肉やコレステロールを摂取する必要があります。コレステロールは主要な男性ホルモンである「テストステロン」の材料であり、コレステロールが気になるからとこれを減らすのは、ホルモン医学の立場で言えば、まったくの逆効果でしかありません。

女性ホルモン補充で骨粗鬆症予防を

女性の場合、男性ホルモンが増加するので、むしろ元気になる人が多いのですが、その一方で女性ホルモンが減るため、それにともなう問題がないわけではありません。女性ホルモンが減ることの弊害としては、肌つやが悪くなることのほか、骨粗鬆症こつそしょうしょうの原因にもなることがわかっています。

骨粗鬆症を防ぐには適度な運動をし、戸外を散歩するなどして日光によく当たること、あるいはビタミンDが多く含まれている食品をとるなど、ごく常識的なことをする心がけが必要です。

日に当たらない生活があまり長く続くとうつになりやすいのは、広く知られているとおりです。日光浴は、うつ病や不眠症を予防し、骨粗鬆症の予防にもなる70代女性にとっての格好の健康法なのです。

また性ホルモンは性別を問わず、ホルモン補充療法で補うことが可能です。

副作用のリスクを心配する方も少なくないでしょうが、更年期に特有の不定愁訴に対しては、苦痛を手っ取り早く取り除き、副作用も比較的少ない療法です。QOL(生活の質)を重視するのであれば、ホルモン補充は効果的な療法だと私は思います。

認知症リスクが大きくなってくる70代

70代になると、いよいよ認知症が他人事ではなくなってきます。

認知症の有病率は、70代前半までは世代人口の5%。70代後半に入ると8~10%弱の人が認知症になります。

日本では認知症患者の6割以上がアルツハイマー病を原因疾患とする「アルツハイマー型認知症」だとされています。アルツハイマー病は、神経細胞の中にアミロイドβと呼ばれるたんぱく質が蓄積されることによって引き起こされると考えられています。

脳にアミロイドβがたまりやすいかどうかは、遺伝的要因に左右される面がかなり大きく、親がアルツハイマー型認知症の有病者であった場合は、子どももなりやすいといわれています。

「頭」を使って認知症リスクを低減する

実は、2021年に、ついにこのアミロイドβを脳内から除去する作用のある薬がアメリカで認可されました。たしかに朗報ですが、年間650万円もかかることもあり、日本で認可されるのか、あるいはどういう患者さんに保険が利くようになるのかはまだ不透明です。将来には期待できますが、いますぐとはいかないのが実情です。

それでも、昔からいわれる「頭を使っている人はボケにくい」というのは一面の真理です。

脳の萎縮が同じくらい進んでいる2人の認知症患者を比較すると、何もしていない片方の人はかなりボケてしまっているのに、日頃から頭を使う環境にいたもう片方の人はそうでもなく、知能テストをするも明らかに後者のほうが点数が高かった、というケースがままあります。

頭をしっかり使って、認知症のリスクを低減させていきましょう。

「脳トレ」より「人との会話」

近年、「脳トレ(脳力トレーニング)」と呼ばれるトレーニングメソッドが、脳に刺激を与え、ボケ防止に役立つということでブームになっています。

ただ「脳トレ」は残念ながら、認知症予防という観点からはほとんど無意味だということが、最近行われた海外の研究で明らかになっています。

『ネイチャー』や『JAMA』(アメリカの医学会雑誌)のような超一流の医学誌に、この効果にまつわる大規模調査の結果が発表されています。

そのうちの1つ、アラバマ大学のカーリーン・ボール氏による2832人の高齢者に対する研究では、たとえば言語を記憶する、問題解決能力を上げる、問題処理の能力を上げるというようなトレーニングをさせた場合、練習した課題のテストの点だけは上がるのですが、ほかの認知機能がさっぱり上がらないことがわかっています。

つまり、与えられた課題のトレーニングにはなっても、脳全体のトレーニングにはまったくなっていないことが確認されたというのです。

では、いったいどうやって「頭を使う」といいのか。私の経験上、もっとも効果が高いと感じられるのは、人との会話です。

他人とのおしゃべりでは、自分の話したいことに対して相手から反応が返ってきますし、強制的に頭を働かせなくてはいけない局面が増えます。もちろん、仕事や家事も複数の知的作業をともなうので、「頭を使う」ことにつながります。「生涯現役」というスタンスも、有力な脳のトレーニング法といえるでしょう。

認知症の進行は生活環境で大きく変わる

介護保険がまだ導入されておらず、今日の主要な抗認知症薬であるアリセプトも未認可だった1990年代に、私は勤務先である浴風会病院とは別に、茨城県鹿嶋市の病院で月2回、認知症の診察を担当していたことがあります。

鹿嶋市に足を運ぶようになってしばらくして気づいたのが、浴風会病院にやってくる東京都杉並区の認知症患者たちに比べて鹿嶋市の認知症患者の進行がかなり遅く、症状が目立たない、ということでした。

それがなぜなのか、最初はとても不思議でした。しかし、杉並区と鹿嶋市の高齢者が置かれている生活環境を見比べているうちに、おおよその見当がついてきました。

当時はまだ介護保険が始まる前でしたから、杉並区の高齢者たちは、認知症になるとその多くが家に閉じ込められたのに対し、鹿嶋市では、比較的気ままに近所を歩き回らせていることが多かったのです。

それでも、出歩いた認知症高齢者が家に帰れなくなっていると、すぐに近所の誰かが見つけて連れて帰ってくれるので、あまり困った事態になることはありません。

オール・オア・ナッシングで考えない

農業や漁業の従事者に関していえば、認知症が発症しても、それまでと変わりなく仕事を続けている人も少なくありませんでした。

認知症が発見されると、一般的には周囲が先回りして外出や仕事などいろいろなことをやめさせてしまうことが多いのですが、“オール・オア・ナッシング”で考える必要はありません。

「この仕事、この家事は、もうできなくなったからやめる」
「この家事は、できるからしばらくは続けよう」

そういう判断があっていいはずなのです。

70代からは「比べない」

70代ともなると、世代全体の10%が認知症になります。残りの9割は依然として頭がはっきりしており、健康な人とそうでない人の差が、それまでになくはっきりと分かれてきます。

外見の面でも、同級会などで集まれば、みな同い年のはずなのに一見して「え?」と驚くくらいの個人差が容姿の老け具合に出てきます。社会的にも、現役バリバリで社長を務めている人がいるかと思えば、定年退職した人の多くは「無職」という肩書をつけられてしまう現実があります。

だからこそ、なにかと「あいつに比べて自分は……」という引け目を感じやすくなり、人によってはそれが重荷になってくることもあります。

老いを受け入れるとは個人差を受け入れること

同世代の人よりもちょっとだけ早く老いを受け入れざるをえなくなった70代の人にとっては、「老いを受け入れる」ことは「個人差を受け入れる」とほぼイコールの行為でもあります。

この世に同じ人は一人も存在せず、誰もがみんなとちょっとずつ変わっているのですから、自分を他人と比べているかぎりは苦しさから抜け出せません。他人にはできて、自分にはできないことについて思いを巡らせて悶々もんもんとするよりは、「いまの自分に何ができるのか」ということを前向きに考えたほうが、ずっと健康的に生きられます。

人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと、私としては信じています。

[PRESIDENT Online]

認識して許容することが自らを手放す入り口。。。

 

イライラ・怒りの原因は「自分への執着心」

人間の感情は、瞬間的に、突発的に爆発するものではありません。いくつもの火種がくすぶり続け、合わさり、少しずつ火力を増していきます。ですので、イライラや怒りを鎮めるには、「心の火」が燃え上がる前に「種火」のうちに鎮火すべきです。

人がイライラの火種を抱えてしまうのは、「自分に対する執着心」が強すぎるから。要するに、「自分のことを大切に思いすぎている(自分のことを好きすぎる)」からです。

大切なものを壊されたとき、人の心にイライラが芽生えます。たとえば、「100円ショップ」で買った食器を子どもが割っても腹が立たなかったのに、「1枚1万円」のお皿を子どもが割ると怒りたくなるのは、1万円のお皿のほうが「大切だから」です。

自分で自分のことが「好きすぎる」人は、自分を大切に思うあまり、「自分が否定される」ことを極端に恐れています。

思い通りにいかないとき、イライラしたり怒ったりするのは、防衛本能の発露です。他人を攻撃することで、大切な自分を守ろうとしているのです。

自分の感情を自覚することが重要

では、どうすればイライラの種火を消すことができるのでしょうか。仏教が教える種火を消す処方箋は「瞑想」です。

瞑想といっても、坐禅を組んだり、心を静めて仏に祈ったりすることではありません。瞑想というのは、心を「無」にしてイライラを抑えつけることではなくて、「イライラしている自分を認めて、全身で感じる」ことです。

「今、自分はイライラしている」「このモヤモヤ感は、きっと怒りの感情だ」と、客観的に自覚することが瞑想です。

人は「イライラしている自分」を認めたくない

多くの人は、イライラしているとき、「イライラしていないフリ」をします。他人に「そんなことでイライラするなよ」と指摘されると、「イライラなんかしてないよ!」と言い返したくなるのは、「イライラしている自分」を認めたくない、という反発心からです。

怒りやイライラの感情は、抑えつけようとすると、反発して大きくなりやすい。一方で、「イライラしている自分」に気づき、「自分は今、イライラしはじめているんだ」と認めた瞬間、自分の心を落ち着かせることができるのです。

(本稿は、苦しみの手放し方』より一部を抜粋・編集したものです)

[DIAMOND online]

依存と従属からの脱却の好機、、、私達はどの道を行くのか。。。

日本有事に安保で米軍は動くのか 法哲学者や元自衛隊幹部が語る懸念

井上達夫・法哲学者、東京大学名誉教授

<日米安保条約第五条  各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。>

「この安保第5条は日本の安全保障の基本条文です。アメリカで大統領が代わるたびに、日本政府はこの5条が尖閣諸島にも適用されることの確認を求めます。もし尖閣に何かあれば、アメリカは助けてくれますよねという確認です。歴代の大統領は尖閣も適用対象だと応じてきました。でも、尖閣に中国が侵攻したとき、本当にアメリカが軍を出すでしょうか。実のところは難しいと私は考えます」

アメリカに有利な「片務条約」

交戦法規がない現行憲法の問題

 

山下裕貴・千葉科学大学客員教授、元陸上自衛隊・陸将

「日本が有事となるシナリオはいくつかあります。例えば沖縄の尖閣諸島に中国軍が上陸し、自衛隊が中国軍と衝突するというケースです。偽装した民兵が尖閣に上陸して発砲してきた。海上保安庁・警察が対応するなかで、中国側は武装した海警局、さらに軍が出てくる。そうなると、日本も海上自衛隊が出ざるをえず、全面衝突になる──。問題はこうしたケースで日米安保が発動されるかどうかですが、結論から言えば難しいでしょう。アメリカの国内世論や連邦議会で『無人のちっぽけな島のためにアメリカの若者の血を流すのか。核保有国と戦争するのか』という意見が出る中、政府がそれを押し切って軍を派遣するとは思えません」

北海道では米軍が来るまで厳しい戦い

(図版:ラチカ)

(撮影:編集部)

隊員同士の信頼関係を

安保の重要性は両国で認識

[YAHOO Japanニュース]

 

直感と想像力が人の数だけある真実を視る眼。。。

■養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。81年、東京大学医学部教授に就任し、95年退官。『からだの見方』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書)など著書多数。大の虫好き。

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、紐解いていきます。

養老先生は、子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています。とすれば、現代社会は「脳の世界」が明らかに優位になっていますから、子どもたちにとって生きづらいのは当然かもしれません。これから子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえで、「感覚」「自然」は大事なキーワードになるでしょう。

今回は、この2つのうち、「感覚」の意味するものへの理解を深めます。

(取材・構成/黒坂真由子)

養老(孟司氏:以下、養老):子どもというのは感覚的なんです。そこが大人と違うところですが、僕のいう「感覚的」というのは、普通にいわれている意味と違うんですね。

―どう違うのでしょう。

養老:例えば小学校の黒板に先生が白墨で、「黒」っていう字を書くとします。そうしたら、「くろ」と読むというのが正しい教育です。しかし、その白墨で書いた「黒」という字は、何色ですか?

―白いチョークで書いているのですから、色という意味では「白」です。

養老:そのとき、それを「しろ」と読む子がいたら、どうなります?

―「黒」と書いてあるのですから、「漢字を勉強しなさい」と。

養老:でも、チョークの色は白いわけです。ならば、「しろ」と読んでいいじゃないか、と。漢字をわかっていてそう返す子どもがいれば、相当反抗的と見なされるでしょう。

―ああ、そうかもしれません。

養老:僕なんかそういう子でしたから。だって先生が書いているの、白いじゃんっていう。それは「感覚が優先する」ということです。言葉として読めば「黒」という字ですけど、感覚として素直に捉えれば、それは「白」です。

人間の感覚は「x=3」に納得できない
養老:言葉が使えるようになった途端に、感覚より言葉のほうが優位になってきます。上になるんですね。だいたい中学生くらいで逆転します。僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていたんですけどね。数学では、「2x=6、ゆえにx=3」とやるでしょう。それがどうしても受け入れられない子がいるのですよ。

―「x=3」をですか?

養老:うん。さらに「A=B」と文字だけになったりすると、もう怒りだす。

―ああ、AはBじゃない。

養老:そう。「AはBじゃない。A=Bなら、明日からBっていう字は要らない。Aって書けばいいでしょう」って。これはへそ曲がりじゃないんですね。感覚的に捉えれば、AとBは違うものでしょう。だから「A=B」に納得できないのは当然なのですが、人は、納得できるようになってしまいます。AとBをイコールで結ぶことができるようになってしまうのですね。

―そういう教育を受けるから。

養老:先ほどのように、「x=3」に抵抗する子がいる。「x」は文字で「3」は数字でしょう。「数字と文字を一緒にしていいの?」という疑問ですね。

―感覚としては、受け入れられないということですよね。

意識は「同じ」を求め、感覚は「違い」を求める

養老:感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります。

―人の意識には「イコールにする」という機能がある。逆に感覚は「イコールにする」ことができない。ご著書にもありました。

言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。『遺言。』(新潮新書/2017年)

先生がおっしゃる、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」において、言語は「脳の世界」に属すると。そしてそれは「イコールの世界」である。子どもが属する感覚の世界とは違っているということですね。

養老:これが、前にお話しした「自己の問題」にもつながるんです。

―「脳の世界」「イコールの世界」が、自己の問題になる?

「昨日の私」と「今日の私」は同じなのか?

養老:意識は毎晩、眠ると失われるのに、朝になったら出てくるでしょう。そして朝に出てきた意識は「記憶にある昨日の意識と同じ意識だ」と考える。その「同じ意識」に「私」という名称を当てちゃうのが間違いなんですがね。

―朝起きた「私」が、昨日と「同じ私」と考えるのが、そもそも間違っているというわけですか。

養老:言語がそうであるように、意識というのは「同じ」という働きそのものなんです。しかし、この世界を見まわして、同じものってあります?

―まったく同じものですか?

養老:そんなもの、あり得ないんです。よく似たものが2つ並んでいたら、置いてある場所も違うし、違うに決まっているんです。

―数学はどうですか?

養老:数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね。

―数学ではなく現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね。

この2本の赤ペンは「同じ種類のペン」ですけど、いわれてみれば「同じ」ではないです。使い始めた日も違えば、買ったお店も違いますし。インクの残り具合も違います。

養老:ほら、同じものって、ないでしょう。

―でも、「同じもの」だと思って生活をしています。よく考えれば「違う」はずのこの2本のペンを、「同じ」だと私たちは認識している。

養老:それを「概念」というのですよ。

「the」とは感覚であり、「a」とは概念である

養老:リンゴが何個あっても、全部「リンゴ」にする。1個1個が本当にリンゴなのかどうか、いちいち確かめているかというと、別に確かめてはいません。

今、私が「リンゴ」といったときに、どこにもリンゴはありません。感覚的なリンゴはない。

―「感覚的なリンゴ」というのは、触ったり、匂いをかいだり、食べたりできるリンゴということですね。

養老:そういう感覚的なリンゴがないにもかかわらず話が通じてしまうのは、「同じもののことを考えている」という暗黙の約束があるからです。言葉でね。「リンゴ」という音が聞こえたときに「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。

英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです。「the apple」のほうは、感覚から入ってきたリンゴですね。

―theのほうは、触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」ということですね。つまり「感覚的なリンゴ」。

養老:そうです。だから「このリンゴ」「そのリンゴ」「あのリンゴ」になるんです。一方、「an apple」のほうは「どこのどれでもない一つのリンゴ」。僕が最初に英語を教わったときは、そう教わりました。でも「どこのどれでもない一つのリンゴ」ってわかります?

―わからないです。

養老:それは別な言い方をすれば、「同じリンゴ」ということです。誰もが考えているリンゴで、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。それが「同じリンゴ」。難しくいえば「概念」となります。

―概念としてのリンゴ。

養老:日本語の場合は、これを「が」と「は」で使い分けています。

(次回に続く)

■養老孟司氏、「正義」が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。

前回は、「子どもは感覚的である」ということの意味をうかがいました。子どもの世界のリンゴは、英語でいう「the apple」であり、個別具体的なリンゴです。一方、大人の世界のリンゴは「an apple」であり、抽象的な概念でした。

このような言葉の使い分けは、英語だけでなく、日本語にもあるといいます。

(取材・構成/黒坂真由子)

子どもが「感覚的」であるとは、どういうことか。この問題に関連して、前回、英語における「the」と「a」の違いを解説いただきました。例えば「the apple」が示すのは、感覚的なリンゴ。触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」。「an apple」は、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。いわば「概念としてのリンゴ」。

日本語では、それを「が」と「は」で使い分けているということでしたが、どういうことでしょうか?

養老孟司氏(以下、養老):「昔々あるところに、おじいさんとおばあさん『が』いました」「おじいさん『は』山へしば刈りに行きました」となります。最初の「おじいさん」は、「概念のなかでのおじいさん」です。後者は、前の文に出てきた「特定されたおじいさん」ですね。

感覚に戻せない言葉が、対立を招く

概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。

養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。

リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。

「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。

大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか?

養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。

猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。

養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。

なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年

「男女同じ」が、かえってストレスにならないか?

現代社会は、情報化社会で、情報とは時間的に変化しないものでした。だから、情報化社会は、必然的に「同じ」を志向する(養老孟司氏、なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?参照)。となると、「違う」を志向する感覚の世界を生きている子どもたちが今の社会を生きるということは、脳の機能や発達から考えても、かなり苦しいということなんですね。

養老:ストレスが多いでしょう。最近では、男性と女性を分けることもダメになってきましたね。頭で考える世界では、そんなふうにイコールが優先していくんです。

学校もそういえば、出席番号を男女で分けなくなりました。男女を同じに扱うという基本的な方針があるようです。

養老:それだって、別な不平等ですよね。小学校高学年のときは、女の子、怖かったですよ。発育が先にいっちゃうから、体が大きいし、強いし、頭も回るし、女の子にはかなわないので。

今も同じです。

養老:僕らのころは、運動っていうと、ドッジボールくらいしかなかったから。一緒にやっていて、女の子がボールを持つと、僕は必死で逃げました。すごい勢いでボールが飛んでくるから怖いので。

子どもが感覚を優先しているということは、絶対音感からもわかるんですよ。

絶対音感からわかるというのは、どういうことでしょうか?

養老:子どもはね、絶対音感なんです。

感覚を突き詰めたら、言葉は使えない

養老:絶対音感によって言葉が区別されれば、お父さんが呼ぶ「タロウ」と、お母さんが呼ぶ「タロウ」は、違う言葉として捉えられる。音の高さが違いますから。

お母さんに呼ばれるのと、お父さんに呼ばれるのでは、同じ「タロウ」でも違うと?

養老:そうです。それが違う音だっていうふうに、感覚が優先すればなっちゃう。感覚を突き詰めると言葉は受け入れられません。動物がそうですね。うちの猫は「まる」といったんですけど、僕が「まる」と呼ぶのと、女房が「まる」と呼ぶのでは、音としては全然違うので、まるにしてみれば違うことを言われていると思っている。

だから、小さいときから音楽漬け、楽器漬けになっていた子は、絶対音感が残るんですよ。

絶対音感が「残る」。ということは、絶対音感はもともとあるということですか? 全員に。

養老:そうです。もともとは絶対音感のはずなんです。そうじゃないとおかしいのですよ。僕は医学部で耳の解剖生理を習いましたから。そっちから見る限りは、動物は絶対音感を持つはずなのです。 持っていないと不思議なのです。

ある特定の振動数の音が聞こえてきたとき、耳のなかでも脳のなかでも、それに対応する決まった部位が必ず反応することがわかっています。大脳皮質には第一次聴覚中枢があって、ここの神経細胞は、周波数に従って並んでいるのですよ。ピアノみたいに。

すると 「タロウ」とお母さんに言われたときと、お父さんに言われたときでは、タロウくんの脳のなかで活動する部位が異なるということですか?

養老:当然、異なります。異なるはずです。声の高さが違っていたら。お母さんが発する音とお父さんの発する音は別な音だということになります。感覚が優先すればそうなるんです。そうすると言葉が使えません。

それは、いろいろな人が発する「タロウ」を「同じ言葉」と認識できないから?

養老:はい。だから動物は言葉が使えないのです。絶対音感だから。

少し話がそれるかもしれませんが、『自閉症は津軽弁を話さない』を著した松本敏治先生から教わった、自閉症の子どもは「音の絶対音感者」である可能性を示す学説を思い出しました(発達障害の不思議「ASDの子どもはアニメから日本語を学ぶ?」参照)。

養老先生がおっしゃるのはつまり、子どもはもともと絶対音感を持っている。しかし、成長する過程で、違う音を抽象化して同じ言葉として認識する働きが身につき、その段階で絶対音感が失われる……。

養老:そうです。「イコール」を優先してしまうのですよ。そして「違う」を無視する。白墨で書いても「黒」と読めるようにするのと同じで、「違っているんじゃないの?」という感覚は無視してしまう。

本当は感覚でいえば、音の高さが違うから、違うはずだけど。

養老:感覚が「違うよ」と言っているんだけど、意識は「同じ」だと主張する。そして人は大人になるにつれて、意識を優先するようになる。

「小さいときから楽器の訓練をしないと、絶対音感がつかない」と言われますが、きっとそうではありません。小さい頃から楽器の訓練をしないと、絶対音感が消えてしまうのです。

なるほど、先生が「子どもはより自然に近い」とおっしゃる意味が、だんだんわかってきた気がします。

[日経ビジネス]

無酸素運動が有酸素よりも効果大ということは、私も体感的に実感しています。。。

筋トレでも脂肪は減らせる 体脂肪も内臓脂肪も減少

筋肉量を増やすだけではない、筋トレの効果が明らかに

大西淳子=医学ジャーナリスト

 筋トレ(筋力トレーニング)には、筋肉量を増やすだけでなく、体脂肪や内臓脂肪を減らす効果もあることが、さまざまな研究のデータを統合した分析で明らかになりました。


筋トレは体脂肪も減らすのか? 一貫した結果はなかった

筋トレは筋肉量を増やすためのトレーニングの代表であるだけでなく、骨密度の維持や、多くの慢性疾患の予防や症状の管理にも役立つことが示されています。一般に、筋肉量を増やすには、筋トレなどの無酸素運動(筋肉に比較的大きな負荷を繰り返しかける運動)が推奨され、脂肪を燃やすには、ジョギングや水泳などの有酸素運動(比較的軽い負荷で酸素を取り込みながら長時間行う運動)が良いとされています。筋トレによって体脂肪が減るのかどうかについては、一貫した結果は得られていませんでした。

そこでオーストラリアの研究者たちは、筋トレが健康な成人の体組成(脂肪量や筋肉量の割合)に及ぼす影響を明らかにするために、これまでに行われた無作為化比較試験の中から条件を満たす研究を選び、データを統合して解析しました。

2021年1月までに5つのデータベースに登録されていた無作為化比較試験の中から、健康な成人(健康な過体重/肥満の人も含む)を登録し、全身の筋トレを4週間以上実施するグループ(筋トレ群)、または筋トレなしのグループ(対照群)に割り付けて体脂肪率(%)の変化などを比較していた研究を選びました。食事内容についても指示を出していた試験は除外しました。

登録時点からの体脂肪率(%)の変化量に加え、体脂肪量(kg)と内臓脂肪量(平方センチメートル、立方センチメートル、kgのいずれか)の変化についても分析しました(*1)。

条件を満たし、必要なデータがそろっていた54件について分析しました。試験の参加者は計3058人で、平均年齢は51.2歳(19~72.1歳)、40.3%が男性で、56.3%は女性でしたが、3.4%については性別が記録されていませんでした。全員が筋トレ歴のない人で、登録時点では、日常的な運動は行っていないか、レクリエーションで体を動かす程度でした。

筋トレは主に大学で行われ、資格のあるインストラクターが指導しました。平均的な実施頻度は週に2.7回(1~4回)で、平均20.5週(6~104週)にわたって行われていました。

*1 体脂肪率と体脂肪量の測定においては、二重エネルギーX線吸収測定法(DXA)、MRI、CT(以上、スキャン法)、または、これらよりも精度が高いと考えられている水中体重秤量法もしくは全身空気置換プレチスモグラフィー(以上、非スキャン法)を用いていた研究を分析対象にした。内臓脂肪量については、DXA、MRI、CTを用いて評価していた研究を分析対象にした。

筋トレ群では体脂肪率や内臓脂肪量が減少

体脂肪率の変化を報告していたのは41件の研究で、計1506人(筋トレ群875人、対照群631人)が参加していました。対照群に比べ、筋トレ群では、体脂肪率が1.46%多く低下しており、両群の差は統計学的に有意でした。DXAやCTなどのスキャン法を用いて測定していた試験に比べ、それより精度が高いとされる水中体重秤量法などの非スキャン法を用いていた試験で、体脂肪率の低下幅は有意に大きくなっていました。男性と女性の体脂肪率の低下レベルには差は見られませんでした。

体脂肪量の減少も、筋トレ群で有意に大きくなっていました。36件の研究に参加した1638人(筋トレ群960人、対照群668人)を分析したところ、筋トレ群では、体脂肪量が0.55kg多く減少していました。

内臓脂肪量については4件の研究、216人(筋トレ群111人、対照群105人)の参加者のデータを分析しました。それらの試験は異なる尺度を用いて内臓脂肪量を示していたため、各試験の結果から標準化平均差(筋トレ群の登録時点からの変化の平均値から、対照群の変化の平均値を引き、対照群の標準偏差で割ったもの)を求めて統合解析したところ、筋トレ群の内臓脂肪量の減少は対照群に比べ0.49多くなっていました。

以上の結果から、筋トレは、体脂肪率、体脂肪量、内臓脂肪量の全てに対して有意な減少をもたらしており、健康な成人の体組成に好ましい影響を与えることが明らかになりました。

論文は、2021年9月18日付のSports Medicine誌電子版に掲載されています(*2)。


[日経ビジネス]