依存と従属からの脱却の好機、、、私達はどの道を行くのか。。。

日本有事に安保で米軍は動くのか 法哲学者や元自衛隊幹部が語る懸念

井上達夫・法哲学者、東京大学名誉教授

<日米安保条約第五条  各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。>

「この安保第5条は日本の安全保障の基本条文です。アメリカで大統領が代わるたびに、日本政府はこの5条が尖閣諸島にも適用されることの確認を求めます。もし尖閣に何かあれば、アメリカは助けてくれますよねという確認です。歴代の大統領は尖閣も適用対象だと応じてきました。でも、尖閣に中国が侵攻したとき、本当にアメリカが軍を出すでしょうか。実のところは難しいと私は考えます」

アメリカに有利な「片務条約」

交戦法規がない現行憲法の問題

 

山下裕貴・千葉科学大学客員教授、元陸上自衛隊・陸将

「日本が有事となるシナリオはいくつかあります。例えば沖縄の尖閣諸島に中国軍が上陸し、自衛隊が中国軍と衝突するというケースです。偽装した民兵が尖閣に上陸して発砲してきた。海上保安庁・警察が対応するなかで、中国側は武装した海警局、さらに軍が出てくる。そうなると、日本も海上自衛隊が出ざるをえず、全面衝突になる──。問題はこうしたケースで日米安保が発動されるかどうかですが、結論から言えば難しいでしょう。アメリカの国内世論や連邦議会で『無人のちっぽけな島のためにアメリカの若者の血を流すのか。核保有国と戦争するのか』という意見が出る中、政府がそれを押し切って軍を派遣するとは思えません」

北海道では米軍が来るまで厳しい戦い

(図版:ラチカ)

(撮影:編集部)

隊員同士の信頼関係を

安保の重要性は両国で認識

[YAHOO Japanニュース]

 

直感と想像力が人の数だけある真実を視る眼。。。

■養老孟司氏、なぜ子どもは「theの世界」を生きるのか?

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。81年、東京大学医学部教授に就任し、95年退官。『からだの見方』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書)など著書多数。大の虫好き。

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、紐解いていきます。

養老先生は、子どもたちは、自然や感覚に代表される「身体の世界」に属するとおっしゃいます。それに対して大人は、都市は情報化社会に代表される「脳の世界」を生きています。とすれば、現代社会は「脳の世界」が明らかに優位になっていますから、子どもたちにとって生きづらいのは当然かもしれません。これから子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえで、「感覚」「自然」は大事なキーワードになるでしょう。

今回は、この2つのうち、「感覚」の意味するものへの理解を深めます。

(取材・構成/黒坂真由子)

養老(孟司氏:以下、養老):子どもというのは感覚的なんです。そこが大人と違うところですが、僕のいう「感覚的」というのは、普通にいわれている意味と違うんですね。

―どう違うのでしょう。

養老:例えば小学校の黒板に先生が白墨で、「黒」っていう字を書くとします。そうしたら、「くろ」と読むというのが正しい教育です。しかし、その白墨で書いた「黒」という字は、何色ですか?

―白いチョークで書いているのですから、色という意味では「白」です。

養老:そのとき、それを「しろ」と読む子がいたら、どうなります?

―「黒」と書いてあるのですから、「漢字を勉強しなさい」と。

養老:でも、チョークの色は白いわけです。ならば、「しろ」と読んでいいじゃないか、と。漢字をわかっていてそう返す子どもがいれば、相当反抗的と見なされるでしょう。

―ああ、そうかもしれません。

養老:僕なんかそういう子でしたから。だって先生が書いているの、白いじゃんっていう。それは「感覚が優先する」ということです。言葉として読めば「黒」という字ですけど、感覚として素直に捉えれば、それは「白」です。

人間の感覚は「x=3」に納得できない
養老:言葉が使えるようになった途端に、感覚より言葉のほうが優位になってきます。上になるんですね。だいたい中学生くらいで逆転します。僕はアルバイトで数学の家庭教師をよくしていたんですけどね。数学では、「2x=6、ゆえにx=3」とやるでしょう。それがどうしても受け入れられない子がいるのですよ。

―「x=3」をですか?

養老:うん。さらに「A=B」と文字だけになったりすると、もう怒りだす。

―ああ、AはBじゃない。

養老:そう。「AはBじゃない。A=Bなら、明日からBっていう字は要らない。Aって書けばいいでしょう」って。これはへそ曲がりじゃないんですね。感覚的に捉えれば、AとBは違うものでしょう。だから「A=B」に納得できないのは当然なのですが、人は、納得できるようになってしまいます。AとBをイコールで結ぶことができるようになってしまうのですね。

―そういう教育を受けるから。

養老:先ほどのように、「x=3」に抵抗する子がいる。「x」は文字で「3」は数字でしょう。「数字と文字を一緒にしていいの?」という疑問ですね。

―感覚としては、受け入れられないということですよね。

意識は「同じ」を求め、感覚は「違い」を求める

養老:感覚的に見れば、文字と数字は違っていますから。概念的にも違っていますけどね。それを意識は無理やり「イコール」にしちゃう。そこをすんなり通り抜けられる子と通り抜けられない子がいるんです。通り抜けられなかった子は、数学ができなくなります。

―人の意識には「イコールにする」という機能がある。逆に感覚は「イコールにする」ことができない。ご著書にもありました。

言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。『遺言。』(新潮新書/2017年)

先生がおっしゃる、都市や情報化社会に代表される「脳の世界」と、自然や感覚に代表される「身体の世界」において、言語は「脳の世界」に属すると。そしてそれは「イコールの世界」である。子どもが属する感覚の世界とは違っているということですね。

養老:これが、前にお話しした「自己の問題」にもつながるんです。

―「脳の世界」「イコールの世界」が、自己の問題になる?

「昨日の私」と「今日の私」は同じなのか?

養老:意識は毎晩、眠ると失われるのに、朝になったら出てくるでしょう。そして朝に出てきた意識は「記憶にある昨日の意識と同じ意識だ」と考える。その「同じ意識」に「私」という名称を当てちゃうのが間違いなんですがね。

―朝起きた「私」が、昨日と「同じ私」と考えるのが、そもそも間違っているというわけですか。

養老:言語がそうであるように、意識というのは「同じ」という働きそのものなんです。しかし、この世界を見まわして、同じものってあります?

―まったく同じものですか?

養老:そんなもの、あり得ないんです。よく似たものが2つ並んでいたら、置いてある場所も違うし、違うに決まっているんです。

―数学はどうですか?

養老:数学は「同じの上」に成り立っています。あれはイコールのなかの世界なんですね。

―数学ではなく現実世界では……。確かに「まったく同じ」はないですね。

この2本の赤ペンは「同じ種類のペン」ですけど、いわれてみれば「同じ」ではないです。使い始めた日も違えば、買ったお店も違いますし。インクの残り具合も違います。

養老:ほら、同じものって、ないでしょう。

―でも、「同じもの」だと思って生活をしています。よく考えれば「違う」はずのこの2本のペンを、「同じ」だと私たちは認識している。

養老:それを「概念」というのですよ。

「the」とは感覚であり、「a」とは概念である

養老:リンゴが何個あっても、全部「リンゴ」にする。1個1個が本当にリンゴなのかどうか、いちいち確かめているかというと、別に確かめてはいません。

今、私が「リンゴ」といったときに、どこにもリンゴはありません。感覚的なリンゴはない。

―「感覚的なリンゴ」というのは、触ったり、匂いをかいだり、食べたりできるリンゴということですね。

養老:そういう感覚的なリンゴがないにもかかわらず話が通じてしまうのは、「同じもののことを考えている」という暗黙の約束があるからです。言葉でね。「リンゴ」という音が聞こえたときに「あ、リンゴの話をしているんだな」と、みんなが同じものを想起するということが、言葉が成り立つための大事な前提です。その裏にあるのは「同じ」なんです。

英語は「同じリンゴ」と「感覚的なリンゴ」を最初から区別しています。それが「an apple」と「the apple」の違いです。「the apple」のほうは、感覚から入ってきたリンゴですね。

―theのほうは、触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」ということですね。つまり「感覚的なリンゴ」。

養老:そうです。だから「このリンゴ」「そのリンゴ」「あのリンゴ」になるんです。一方、「an apple」のほうは「どこのどれでもない一つのリンゴ」。僕が最初に英語を教わったときは、そう教わりました。でも「どこのどれでもない一つのリンゴ」ってわかります?

―わからないです。

養老:それは別な言い方をすれば、「同じリンゴ」ということです。誰もが考えているリンゴで、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。それが「同じリンゴ」。難しくいえば「概念」となります。

―概念としてのリンゴ。

養老:日本語の場合は、これを「が」と「は」で使い分けています。

(次回に続く)

■養老孟司氏、「正義」が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。

前回は、「子どもは感覚的である」ということの意味をうかがいました。子どもの世界のリンゴは、英語でいう「the apple」であり、個別具体的なリンゴです。一方、大人の世界のリンゴは「an apple」であり、抽象的な概念でした。

このような言葉の使い分けは、英語だけでなく、日本語にもあるといいます。

(取材・構成/黒坂真由子)

子どもが「感覚的」であるとは、どういうことか。この問題に関連して、前回、英語における「the」と「a」の違いを解説いただきました。例えば「the apple」が示すのは、感覚的なリンゴ。触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」。「an apple」は、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。いわば「概念としてのリンゴ」。

日本語では、それを「が」と「は」で使い分けているということでしたが、どういうことでしょうか?

養老孟司氏(以下、養老):「昔々あるところに、おじいさんとおばあさん『が』いました」「おじいさん『は』山へしば刈りに行きました」となります。最初の「おじいさん」は、「概念のなかでのおじいさん」です。後者は、前の文に出てきた「特定されたおじいさん」ですね。

感覚に戻せない言葉が、対立を招く

概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。

養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。

リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。

「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。

大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか?

養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。

猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。

養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。

なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年

「男女同じ」が、かえってストレスにならないか?

現代社会は、情報化社会で、情報とは時間的に変化しないものでした。だから、情報化社会は、必然的に「同じ」を志向する(養老孟司氏、なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?参照)。となると、「違う」を志向する感覚の世界を生きている子どもたちが今の社会を生きるということは、脳の機能や発達から考えても、かなり苦しいということなんですね。

養老:ストレスが多いでしょう。最近では、男性と女性を分けることもダメになってきましたね。頭で考える世界では、そんなふうにイコールが優先していくんです。

学校もそういえば、出席番号を男女で分けなくなりました。男女を同じに扱うという基本的な方針があるようです。

養老:それだって、別な不平等ですよね。小学校高学年のときは、女の子、怖かったですよ。発育が先にいっちゃうから、体が大きいし、強いし、頭も回るし、女の子にはかなわないので。

今も同じです。

養老:僕らのころは、運動っていうと、ドッジボールくらいしかなかったから。一緒にやっていて、女の子がボールを持つと、僕は必死で逃げました。すごい勢いでボールが飛んでくるから怖いので。

子どもが感覚を優先しているということは、絶対音感からもわかるんですよ。

絶対音感からわかるというのは、どういうことでしょうか?

養老:子どもはね、絶対音感なんです。

感覚を突き詰めたら、言葉は使えない

養老:絶対音感によって言葉が区別されれば、お父さんが呼ぶ「タロウ」と、お母さんが呼ぶ「タロウ」は、違う言葉として捉えられる。音の高さが違いますから。

お母さんに呼ばれるのと、お父さんに呼ばれるのでは、同じ「タロウ」でも違うと?

養老:そうです。それが違う音だっていうふうに、感覚が優先すればなっちゃう。感覚を突き詰めると言葉は受け入れられません。動物がそうですね。うちの猫は「まる」といったんですけど、僕が「まる」と呼ぶのと、女房が「まる」と呼ぶのでは、音としては全然違うので、まるにしてみれば違うことを言われていると思っている。

だから、小さいときから音楽漬け、楽器漬けになっていた子は、絶対音感が残るんですよ。

絶対音感が「残る」。ということは、絶対音感はもともとあるということですか? 全員に。

養老:そうです。もともとは絶対音感のはずなんです。そうじゃないとおかしいのですよ。僕は医学部で耳の解剖生理を習いましたから。そっちから見る限りは、動物は絶対音感を持つはずなのです。 持っていないと不思議なのです。

ある特定の振動数の音が聞こえてきたとき、耳のなかでも脳のなかでも、それに対応する決まった部位が必ず反応することがわかっています。大脳皮質には第一次聴覚中枢があって、ここの神経細胞は、周波数に従って並んでいるのですよ。ピアノみたいに。

すると 「タロウ」とお母さんに言われたときと、お父さんに言われたときでは、タロウくんの脳のなかで活動する部位が異なるということですか?

養老:当然、異なります。異なるはずです。声の高さが違っていたら。お母さんが発する音とお父さんの発する音は別な音だということになります。感覚が優先すればそうなるんです。そうすると言葉が使えません。

それは、いろいろな人が発する「タロウ」を「同じ言葉」と認識できないから?

養老:はい。だから動物は言葉が使えないのです。絶対音感だから。

少し話がそれるかもしれませんが、『自閉症は津軽弁を話さない』を著した松本敏治先生から教わった、自閉症の子どもは「音の絶対音感者」である可能性を示す学説を思い出しました(発達障害の不思議「ASDの子どもはアニメから日本語を学ぶ?」参照)。

養老先生がおっしゃるのはつまり、子どもはもともと絶対音感を持っている。しかし、成長する過程で、違う音を抽象化して同じ言葉として認識する働きが身につき、その段階で絶対音感が失われる……。

養老:そうです。「イコール」を優先してしまうのですよ。そして「違う」を無視する。白墨で書いても「黒」と読めるようにするのと同じで、「違っているんじゃないの?」という感覚は無視してしまう。

本当は感覚でいえば、音の高さが違うから、違うはずだけど。

養老:感覚が「違うよ」と言っているんだけど、意識は「同じ」だと主張する。そして人は大人になるにつれて、意識を優先するようになる。

「小さいときから楽器の訓練をしないと、絶対音感がつかない」と言われますが、きっとそうではありません。小さい頃から楽器の訓練をしないと、絶対音感が消えてしまうのです。

なるほど、先生が「子どもはより自然に近い」とおっしゃる意味が、だんだんわかってきた気がします。

[日経ビジネス]

無酸素運動が有酸素よりも効果大ということは、私も体感的に実感しています。。。

筋トレでも脂肪は減らせる 体脂肪も内臓脂肪も減少

筋肉量を増やすだけではない、筋トレの効果が明らかに

大西淳子=医学ジャーナリスト

 筋トレ(筋力トレーニング)には、筋肉量を増やすだけでなく、体脂肪や内臓脂肪を減らす効果もあることが、さまざまな研究のデータを統合した分析で明らかになりました。


筋トレは体脂肪も減らすのか? 一貫した結果はなかった

筋トレは筋肉量を増やすためのトレーニングの代表であるだけでなく、骨密度の維持や、多くの慢性疾患の予防や症状の管理にも役立つことが示されています。一般に、筋肉量を増やすには、筋トレなどの無酸素運動(筋肉に比較的大きな負荷を繰り返しかける運動)が推奨され、脂肪を燃やすには、ジョギングや水泳などの有酸素運動(比較的軽い負荷で酸素を取り込みながら長時間行う運動)が良いとされています。筋トレによって体脂肪が減るのかどうかについては、一貫した結果は得られていませんでした。

そこでオーストラリアの研究者たちは、筋トレが健康な成人の体組成(脂肪量や筋肉量の割合)に及ぼす影響を明らかにするために、これまでに行われた無作為化比較試験の中から条件を満たす研究を選び、データを統合して解析しました。

2021年1月までに5つのデータベースに登録されていた無作為化比較試験の中から、健康な成人(健康な過体重/肥満の人も含む)を登録し、全身の筋トレを4週間以上実施するグループ(筋トレ群)、または筋トレなしのグループ(対照群)に割り付けて体脂肪率(%)の変化などを比較していた研究を選びました。食事内容についても指示を出していた試験は除外しました。

登録時点からの体脂肪率(%)の変化量に加え、体脂肪量(kg)と内臓脂肪量(平方センチメートル、立方センチメートル、kgのいずれか)の変化についても分析しました(*1)。

条件を満たし、必要なデータがそろっていた54件について分析しました。試験の参加者は計3058人で、平均年齢は51.2歳(19~72.1歳)、40.3%が男性で、56.3%は女性でしたが、3.4%については性別が記録されていませんでした。全員が筋トレ歴のない人で、登録時点では、日常的な運動は行っていないか、レクリエーションで体を動かす程度でした。

筋トレは主に大学で行われ、資格のあるインストラクターが指導しました。平均的な実施頻度は週に2.7回(1~4回)で、平均20.5週(6~104週)にわたって行われていました。

*1 体脂肪率と体脂肪量の測定においては、二重エネルギーX線吸収測定法(DXA)、MRI、CT(以上、スキャン法)、または、これらよりも精度が高いと考えられている水中体重秤量法もしくは全身空気置換プレチスモグラフィー(以上、非スキャン法)を用いていた研究を分析対象にした。内臓脂肪量については、DXA、MRI、CTを用いて評価していた研究を分析対象にした。

筋トレ群では体脂肪率や内臓脂肪量が減少

体脂肪率の変化を報告していたのは41件の研究で、計1506人(筋トレ群875人、対照群631人)が参加していました。対照群に比べ、筋トレ群では、体脂肪率が1.46%多く低下しており、両群の差は統計学的に有意でした。DXAやCTなどのスキャン法を用いて測定していた試験に比べ、それより精度が高いとされる水中体重秤量法などの非スキャン法を用いていた試験で、体脂肪率の低下幅は有意に大きくなっていました。男性と女性の体脂肪率の低下レベルには差は見られませんでした。

体脂肪量の減少も、筋トレ群で有意に大きくなっていました。36件の研究に参加した1638人(筋トレ群960人、対照群668人)を分析したところ、筋トレ群では、体脂肪量が0.55kg多く減少していました。

内臓脂肪量については4件の研究、216人(筋トレ群111人、対照群105人)の参加者のデータを分析しました。それらの試験は異なる尺度を用いて内臓脂肪量を示していたため、各試験の結果から標準化平均差(筋トレ群の登録時点からの変化の平均値から、対照群の変化の平均値を引き、対照群の標準偏差で割ったもの)を求めて統合解析したところ、筋トレ群の内臓脂肪量の減少は対照群に比べ0.49多くなっていました。

以上の結果から、筋トレは、体脂肪率、体脂肪量、内臓脂肪量の全てに対して有意な減少をもたらしており、健康な成人の体組成に好ましい影響を与えることが明らかになりました。

論文は、2021年9月18日付のSports Medicine誌電子版に掲載されています(*2)。


[日経ビジネス]

世界に取り残される日本経済

■日本だけ給料が上がらない謎…「内部留保」でも「デフレ」でもない本当の元凶

<順調に給料が上昇する諸外国と比べて、日本の賃金低迷はいよいよ顕著に。企業への賃上げ要求では解決不可能な根深い原因とその処方箋>

日本人の賃金が全くといってよいほど上昇していない。賃金の低下は今に始まったことではないが、豊かだった時代の惰性もあり、これまでは見て見ぬふりができた。だが諸外国との賃金格差がいよいよ顕著となり、隣国の韓国にも抜かれたことで、多くの国民が賃金の安さについて認識するようになっている。

OECD(経済協力開発機構)によると、2020年における日本の平均賃金(年収ベース:購買力平価のドル換算)は3万8515ドルと、アメリカ(6万9392ドル)の約半分、ドイツ(5万3745ドル)の7割程度。00年との比較では、各国の賃金が1.2倍から1.4倍になっているにもかかわらず、日本はほぼ横ばいの状態であり、15年には隣国の韓国にも抜かされた<参考グラフ:各国の平均賃金(年収)の推移>。

諸外国の賃金が上昇しているということは、それに伴って物価も上がっていることを意味する。食品など日本人が日常的に購入している商品の多くは輸入で支えられており、諸外国の物価が上昇すれば、当然の結果として輸入品の価格も上がる。日本人の賃金は横ばいなので、諸外国に対して買い負けすることになり、日本人が買えるモノの量は年々減少している。

日本の大卒初任給が20万円程度で伸び悩む一方、アメリカでは50万円を超えることも珍しくない。日本人に大人気のiPhoneは、高いモデルでは約15万円もするが、月収20万円の日本人と50万円のアメリカ人とでは負担感がまるで違う。このところ日本が貧しくなったと実感する人が増えているのは、こうした内外価格差が原因である。

日本企業の内部留保は異様な水準

では、なぜ日本人の賃金は全くといってよいほど上がらないのだろうか。ちまたでよく耳にするのは、企業が内部留保をため込んでおり、社員の給料に資金を回していないという指摘である。21年3月末時点において日本企業が蓄積している内部留保は467兆円に達しており、異様な水準であることは間違いない。

だが内部留保というのは、賃金を含む全ての経費や税金を差し引いて得た利益(当期純利益)を積み上げたもので、本来は先行投資などに用いる資金である。内部留保が過剰に積み上がっているのは企業が先行投資を抑制した結果であって、内部留保を増やすために賃金を引き下げたわけではない。政府は企業に対して内部留保を賃金に回すよう強く求めたことがあったが、これは企業会計の原則を無視した議論であり、企業が応じることは原則としてあり得ない。

内部留保と並んでよく指摘されるのが、デフレマインドというキーワードに代表される日本人の価値観である。アベノミクス以降、デフレが日本経済低迷の元凶であり、デフレから脱却すれば経済は成長するという考え方が広く社会に浸透した。だが、この議論も先ほどの内部留保と同様、原因と結果を取り違えたものといってよいだろう。

一部の特殊なケースを除き、デフレ(物価の下落)というのは基本的に不景気の結果として発生する現象であり、デフレが不景気を引き起こしたわけではない。不景気でモノが売れず、企業は安値販売を余儀なくされ、これがさらに物価と賃金を引き下げている。高く売ることができる商品をわざわざ安く売っていたわけではない点に注意する必要がある。

一部の論者は最低賃金が低すぎるなど、制度に問題があると指摘している。日本の最低賃金が低すぎるのは事実であり、筆者も改善の余地があると考えているが、これが低賃金の直接的な原因になっているわけではない。ドイツではつい最近まで最低賃金制度が存在していなかったが、賃金は日本よりも圧倒的に高く推移してきた。

まともな賃金を払わない企業には人材が集まらないので、企業の側にも賃上げを行うインセンティブが存在する。企業が十分な利益を上げているのなら、最低賃金制度がなくても企業は相応の賃金を労働者に支払うはずだ。

低収益によって賃金が低迷する悪循環

以上から、日本企業は何らかの原因で十分に利益を上げられない状況が続いており、これが低賃金と消費低迷の原因になっていると推察される。収益が低いので高い賃金を払えず、結果として消費も拡大しないため企業収益がさらに低下するという悪循環である。そうだとすると、政府が取り組んでいる賃上げ税制も十分な効果を発揮しない可能性が高い。

岸田政権は企業に対して賃上げを強く要請するとともに、賃上げを実施した企業の法人税を優遇する措置を打ち出した。政府からの要請を受けて、企業が賃金を上げたとしても、企業の収益が拡大しない状況では確実に減益になる。企業は品質の引き下げや下請けへの値引き要求など別なところで利益を確保しようと試みるので、賃上げ分は相殺されてしまう。最初から賃上げをする予定だった企業が、節税目的で制度を利用するという、本来の趣旨とは異なる使われ方もあり得るだろう。

法人税が高い状態であれば、減税もある程度の効果を発揮するかもしれないが、安倍政権は経済界の要請を受け、在任中に3回も法人減税を実施した。日本の法人税は度重なる減税によって大幅に下がっており、企業にとって減税は魅力的に映らない。というよりも、低収益に苦しむ経済界が政府に減税を強く要請したという図式であり、背後には慢性的な低収益という問題が存在している。

結局のところ日本企業が十分な収益を上げられず、これが長期的な低賃金の原因になっているのはほぼ間違いない。では日本企業というのはどの程度、低収益なのだろうか。

一般的に企業の収益力は当期純利益など最終的な利益率で比較されるが、これは賃金を支払った後の数字。人件費を極端に削減すれば利益を上げることができてしまうため、賃金について議論する場合、この指標を使うのは適切ではない。企業がどの程度、賃金を支払う能力があるのかは、企業が直接的に生み出す付加価値を比較することが重要である。

企業というのは、商品を仕入れ、それを顧客に販売して利益を得ている。製造業の場合には原材料などを仕入れ、組み立てを行って製品を顧客に販売している。

販売額と仕入れ額の差分が全ての利益の源泉であり、この根源的な利益のことを企業会計では売上総利益と呼ぶ。商売の現場では粗利(あらり)という言い方が一般的だが、経済学的に見た場合、企業が生み出す付加価値というのは、この粗利のことを指している。企業は付加価値の中から人件費や広告宣伝費などを捻出するので、付加価値が高まらないと賃金を上げることができない。

全業種で付加価値が低い日本

日本とアメリカ、ドイツにおける部門(業種)ごとの付加価値(従業員1人当たり)の違いを比較すると、その差は歴然としている。図2のグラフ<参考:日米独の部門(業種)ごとの付加価値の違い>は日本企業の付加価値を1としたときの相対値だが、アメリカは全ての部門において、ドイツもほぼ全ての部門において日本よりも付加価値が高い(つまり儲かっている)。日本企業の付加価値が低く推移している以上、日本企業は賃金を上げられないのが現実だ。

では、なぜ日本企業は高い付加価値を得られないのだろうか。会計的に言えば、付加価値(粗利)を増やすには、①売上高を拡大する、②価格を引き上げる、③仕入れ価格を引き下げる、という3つの方法しかない。このうち③の仕入れ価格の引き下げは、品質の低下や取引先企業への悪影響といったデメリットをもたらすので、積極的には選択されない。結局のところ、付加価値を増やすためには売上高を増やすか、価格を引き上げるかの2択となる。

図3のグラフ<参考:日米の企業売上高の推移>は日本とアメリカの企業全体の売上高の推移を示したグラフである(80年を100としたときの相対値)。アメリカ企業はリーマン・ショックなどの例外を除けば、基本的にほぼ毎年、売上高を拡大しており、過去40年間でアメリカ企業の売上高は7倍近くに増えた。

売上総利益率(売上高に対する売上総利益の割合)は大きく変わらないので、売上高の絶対値が増えれば、その分だけ付加価値の絶対額も大きくなり、賃金を捻出する原資が増える。一方、日本は90年代以降、むしろ売上高を減らしている。売上高が増えていない以上、仕入れ価格を極端に下げるか、販売価格を引き上げない限り、付加価値は増えない。

では価格の推移はどうだろうか。経済圏全体で販売されている全ての製品価格を調べることは不可能だが、輸出に関しては統計的に価格の推移を追うことができる。日本の輸出品目の価格は80年を境に一貫して低下が続いている。国内でもファストフード・チェーンが過度な低価格競争を繰り返してきたことは多くの人が理解しているだろう。

結局のところ、日本企業は売上高を拡大することができず、価格を引き上げることもできていないという状況であり、これが低賃金の元凶となっている。売上高も価格も変えられないということは、企業の競争力そのものに問題があるとの結論にならざるを得ない。

なぜ日本企業の国際競争力は低いのか

では日本企業の競争力はなぜ諸外国と比較して低く推移しているのだろうか。国により主力となる産業は異なるのでタイプ別に考えてみたい。

昭和の時代まで、日本は輸出主導で経済を成長させてきた。輸出主導型経済において成長のカギを握るのは、輸出産業の設備投資である。海外の需要が拡大すると輸出産業は増産に対応するため工場などに設備投資を行い、これが国内所得を増やし、消費拡大の呼び水となる。

一方、アメリカのような消費主導型経済の場合、成長のエンジンとなるのは国内消費そのものである。消費が拡大すると、国内企業が商業施設などへの設備投資を増やし、これが所得を増やして消費を拡大させるという好循環が成立する。

GDPの支出面における比率を見ると、アメリカは個人消費が67.9%もあるが、日本は55.4%となっており、日本はアメリカと比較して消費の割合が低い。だが、ドイツやスウェーデン、韓国など、日本よりもさらに消費の割合が低い国はたくさんある。ドイツは今も昔も製造業大国であり、輸出産業の設備投資が経済に大きな影響を与えている。

同じく製造業が強いスウェーデンに至っては個人消費の比率はわずか44.7%しかない。これらの国々はまさに輸出主導型経済と言ってよく、日本はどちららかというと輸出主導型経済と消費主導型経済の中間地点と見なせるだろう。

加えて言うと、同じ輸出主導型経済であっても、典型的な福祉国家のスウェーデンと、日本と同じく自助努力が強く求められ社会的弱者の保護に消極的な韓国とでは、政府支出の比率が大きく異なる。スウェーデンは、韓国よりも製造業の付加価値が高く、余力を社会保障に充当しているという図式であり、これが政府支出という形で経済に貢献している。

韓国はかつては外貨の獲得に苦しみ、海外への利払いや返済が企業経営の重荷となってきたが、リーマン・ショック以降、輸出が大幅に増え、国際収支は近年、劇的に改善している。企業資金需要の多くを国内貯蓄で賄えるようになり、豊かだった日本に近い状態となりつつある。

日本以外の先進諸外国は、日本がゼロ成長だった過去30年、順調に成長を続けることができたが、それは各国企業がそれぞれの経済構造に合致した形で、業績拡大の努力を続けたからである。

グローバル基準でも大手だった日本企業の現状

消費主導型経済であるアメリカの場合、経済をリードする企業はウォルマートやホーム・デポといった小売店、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)に代表される生活用品メーカーなどであり、一方、輸出主導型経済において成長のエンジンとなっているのは電機や機械、化学など典型的な製造業だ。

ドイツにはシーメンスやバイエルなど、グローバルに通用する巨大メーカーがたくさんあり、スウェーデンは小国でありながら、エリクソン、ボルボ、イケア、H&M、スポティファイといった著名企業がそろっている。韓国はサムスンとLGが有名である。

日本の大手企業は80年代まではグローバル基準でも大手だったが、30年間で様子は様変わりした。各国企業が軒並み売上高を拡大する中、日本企業だけが業績の横ばいが続き、多くが相対的に中堅企業に転落した。グローバル基準でも大手といえるのは、もはやトヨタや日立、ソフトバンクグループなどごくわずかである。

日本企業の凋落は全世界の輸出シェアを見れば一目瞭然だ。日本は80年代までは順調に世界シェアを拡大し、一時はドイツと拮抗していた。ところが90年代以降、日本企業はみるみるシェアを落とし、今では4%を割るまでになっている。

90年代といえば全世界的にデジタル化とグローバル化が進んだ時代であり、日本メーカーはこの流れについていけず、競争力を大きく低下させた。かつては世界最強と言われた半導体産業がほぼ壊滅状態に陥ったのも、全世界的なデジタル・シフトに対応できなかったことが原因である。結果として日本の製造業の売上高は伸びず、単価が下がったことで収益力が低下し、賃金が伸び悩んだと考えられる。

豊かな先進国は通常、製造業の競争力が低下しても、国内の消費市場を活用して成長を維持できる。日本はアメリカほどではないが、相応の国内消費市場が存在しているので、容易に消費主導型経済に転換できたはずだが、国内産業も製造業と同様、業績を拡大できなかった。主な原因はやはりデジタル化の不備にある。

80年代から90年代前半にかけて、日本におけるIT投資の金額(ソフトウエアとハードウエアの総額)は、先進諸外国と同じペースで増加していた。ところが95年以降、その流れが大きく変化し、日本だけがIT投資を減らすという異常事態になっている(OECDの統計を基に筆者算定)。この間、アメリカはIT投資額を3.3倍に、スウェーデンは3.0倍に拡大させた<参考グラフ:各国のIT投資の水準>。

ITは企業の限界コスト(生産を1単位増やすために必要な追加投資の額)を引き下げる効果を持つので、デジタル化時代においてITを積極的に導入しない企業は経営効率が著しく低下する。日本企業の多くはITを活用した業務プロセスの見直しを実施せず、生産性が伸び悩んだ可能性が高い。生産性と賃金は比例するので、生産性が伸び悩めば当然、賃金も下がってしまう。

企業業績が拡大しないと賃金は上がらない

これまでの議論を整理すると、賃金というのは企業の付加価値が源泉であり、企業の業績が拡大しないと賃金は上がらないということが分かる。付加価値が低迷している状態で、無理なコスト削減(非正規労働者の拡大や、低賃金の外国人労働者の受け入れなど)を実施すると、さらに賃金が下がるという悪循環に陥ってしまう。

こうした状態から脱却するためには、企業の経営環境を根本的に見直す必要がある。意外に思うかもしれないが、日本は先進諸国の中で最も大手企業の経営者を甘やかす社会である。

アメリカはもともと株主の意向が強く、利益を上げられない経営者は容赦なく追放される。ドイツも90年代、当時のシュレーダー首相が中心となって企業経営改革を行い、企業は外部に対し明確な説明責任を負うようになった。ドイツの法律では債務超過を一定期間以上放置すると罰則が適用されるなど、経営者の甘えを許さない仕組みになっている。

債務超過に陥ったいわゆるゾンビ企業を税金を使って延命させたり、粉飾決算を行った経営者を処罰しない日本とは雲泥の差といってよいだろう。

日本の中小企業は大企業の隷属的な下請け

日本でも徐々にコーポレートガバナンス改革が強化されつつあるが、いまだに企業間の株式の持ち合いが行われているほか、経営能力があるのか疑わしい単なる著名人を社外役員に迎えるケースが散見されるなど、ガバナンスについて疑問視せざるを得ない企業が多い。揚げ句の果てには、政府が大手企業から要請を受け、株主総会に不正介入した疑惑まで指摘されるなど、先進国としてはあってはならない事態も起こっている。

日本では中小企業の多くが大企業の隷属的な下請けとなっており、慢性的な低収益に苦しんでいるが、これも先進諸外国ではあまり見られない光景である(アメリカやドイツの中小企業の利益率は大企業とほとんど変わらない)。

ガバナンスが不十分な社会では、企業経営者は非正規労働者の拡大や下請けへの圧迫など安易なコスト削減策に走りやすい。日本の社会システムは大手企業経営者を過度に甘やかす一方で、中小零細企業の経営者には事実上の無限責任を課すなど、中小企業の行動を大きく制約している。

上場企業に対するガバナンスを諸外国並みに強化し、中小企業の自立を促す金融システム改革を進めれば、日本企業の収益は大きく改善すると考えられる。同時並行で、あらゆる企業がITを導入せざるを得なくなるよう、政策誘導することも重要だ。一連の改革を実施し企業が自律的に成長できるフェーズに入れば、企業が生み出す付加価値は増えるので賃金も上昇していくだろう。最大の問題はこの改革をやり抜く覚悟が日本社会にあるのかどうかである。

加谷珪一
経済評論家

[Newsweek]

生涯労働こそが老後も救う。。。

生命保険には入らない。フリーランスの「老後不安」対処法

 一般の人たちが不利で高額な保険契約を結ぶ要因の一つに「老後資金」への不安がある。そこで今回は、後田亨氏の著書『生命保険は「入るほど損」?!<新版>』で取り上げられた、著者自身の老後資金計画をご紹介する。フリーランスの著述業者の文字通りリアルな事例は、一般論より参考になるかもしれない。

お客様や各種媒体の人たちから「老後資金はいくらあると安心でしょうか?」と尋ねられるたび、不思議に思います。本人にしか分からないはずだからです。どんな暮らしをしたいのかなど、自分と向き合う以外にないと思うのです。

そこで本稿では、筆者の公的年金受給額をもとに老後不安への対処法を記します。富裕層でも貧困層でもない個人の具体例として、参考にしていただける部分があると嬉(うれ)しいです。

自分の年金受給額を把握しているか?

まず、例えば「公的年金だけでは2000万円不足する」といった情報は無視します。「自分以外の人たちの平均値を使った試算」から何を学んでいいのか分からないからです。

そんなことより、しっかり確認したいのは「自分の年金受給額」です。「ねんきんネット」に登録しておくと、随時、試算できます。筆者の場合、転職などにより年金の種類と受給期間もまちまちなので、表にまとめてみました。

まず、63歳から2年間「特別支給の老齢厚生年金」約4万8000円(月額)が支払われます。(表の①)

1986年に厚生年金の給付開始時期が60歳から65歳に改定された関係で、1959年生まれの筆者は「経過措置」の対象に該当し、「埋め合わせ分」を受給するのです。

次に65歳からは、老齢厚生年金が約4万8000円、老齢基礎年金が約6万5000円で受給総額は11万3000円です。正直「少ない!」と動揺します。

ただし、ねんきんネットに反映されない「加給年金」もあります。一定期間、厚生年金に加入していて、年下の配偶者(年収850万円未満)がいるといった要件を満たす場合に給付されます。筆者の場合、月額3万2500円です。
妻が65歳になるまでの期間限定給付なので、老齢厚生年金は65歳から受け取ることにします。すると、76歳までの年金月額は8万500円になる見込みです。(表の②)

一方、老齢基礎年金は70歳から受け取るつもりです。受給開始を65歳から5年間遅らせると42%も金額が増えるからです。
そうすると70歳以降の受給額は、加給年金がある76歳までは月額17万2500円(表の③)、77歳以降は約14万円(表の④)となります。

受給時期を遅らせる選択について「早死にすると損」と言う人もいますが「そういう問題ではない」と理解しています。公的年金は「社会保険」の名の通り、各自が老後に備えるための積立制度(自助)ではなく、人々が互いに長生きリスクに備えるための保険(共助)だからです。

結論は「長く働く」

自身の年金受給見込み額を確認した結果、筆者が出した結論は「長く働く」です。理由は3つあります。

①年金受給額は減るかもしれない
②運用の成果は不確実
③まだ働ける

まず、年金受給額は表の金額より減るとみています。年金制度の歴史を調べると、主に長寿化が制度変更を促しているからです。

また、保険料負担には2004年に上限が設けられています。高齢者の増加や物価上昇に合わせて年金を増額すると、国民(特に現役世代)の負担が上がるからです。保険料に上限がある以上、長寿化が進むと年金給付額はそれなりに減るでしょう。

次に、自己資金に関しては「運用は当てにならない」と考えています。長期的に株式中心の運用を行うとお金が増えやすいと認識しているものの、過去の歴史が将来を約束するわけではないからです。
したがって、運用に投じるお金は、家計に決定的な影響を与えない程度にするほうがいいと思っています。

筆者の場合、「iDeCo(イデコ・個人型確定拠出年金)」の積立金が「運用しているお金」の大部分を占めています。
世界中の株式に分散投資できる投資信託を利用しているため、2020年の残高はコロナ禍の影響で600万~900万円くらいの幅で変動しましたが、今は1000万円程度で推移しています。
仮に半分に減っても、公的年金の受給額に比べると影響は知れています。したがって、70歳くらいまで株式中心の運用を続ける予定です。

この先、年金受給額が減る可能性、運用の不確実性を考えると「先行きは暗い」と感じる人もいるかもしれません。ただ、老後には「使わなくなるお金」もあると思います。
例えば、筆者の場合、近年、酒量が減り遊興費や交際費が激減しています。物欲にしても若い頃のような熱さはありません。持ち家で借入金はなく、76歳以降は、現時点での試算で月額10万円程度とはいえ、妻の年金も給付される見込みで、月収25万円くらいになります。

そこで、自分の貯蓄などは、自宅のリフォーム代や医療・介護用の資金として確保しておくつもりです。大まかに言って、年金の減額などを想定すると、夫婦が月20万円くらいで暮らしていくイメージです。
その際、今の高齢者より多額の税金や社会保険料を払うことになるとしても、悲観はしていません。「まだ働ける」と感じているからです。

例えば、あと10年働いて、毎月2万円積み立てると、運用益ゼロでも240万円になります。また、60歳で「iDeCo」の積み立てが終わったあと「つみたてNISA」と「小規模企業共済」にも一定額を積んでいます。
これから貯(た)められそうなお金と現時点の金融資産とを合算し、少なめに1500万円とみても、70歳から毎月5万円取り崩して25年持つ計算です。仕事をやめても、図書館に通えたら退屈しないでしょうし、それなりに暮らせると思うのです。

「万全の備え」は不可能

ところで、老後、他人事ではなくなる介護や認知症などにはどう備えたらいいのでしょうか。結論から書くと、筆者は、民間の「介護保険」や「認知症保険」に加入する気はありません(「医療保険」「がん保険」も、給付金を調達するための諸費用が高過ぎるので利用しない、と決めています)。
保険会社は、長寿化が進行する前提で、これらの保険の料金を高めに設定するはずだからです。実際、ビジネス誌などのランキングの上位の商品で試算すると、給付金を受け取る年齢になる頃には、保険料総額が給付額を超えます。

筆者は、すでに「健康保険」「公的介護保険」「公的年金保険」の3つに加入済みです。いずれも、民間の営利企業には不可能な仕組みであり、先進国の中でも相対的に恵まれた制度だと認識しています。したがって、介護費用などには、公的保険と自己資金での対応が賢明だと考えているわけです。

老後に関して「漠然とした不安」を語る人が多いのは、未来のことは誰にも分からないからでしょう。そうであれば、「不安はあって当たり前」です。分からないものに「万全の備え」などできるわけがなく、ありもしない正解を求めて悩むのはバカバカしいと感じます。
不安に苛(さいな)まれるより「自分にできること・できないこと」を分けて考えてみるといいと思うのです。例えば、公的年金保険について学ぶことはできます。現役で仕事をする期間を延ばし、受給開始時期を遅くする努力も、意識的に取り組めます。
それに、長寿化で「老後が長くなる」と言う人もいますがどうでしょうか。「昔の60代とは余命が違うのだから、老後の訪れが遅くなっていて、準備期間は長くなっている」という見方もあっていいと思うのです。

一方、年金受給額は景気や賃金の影響を受けますが、景況などは運に任せる以外にありません。

そもそも、老後の心配をしていられるのは、今日・明日の生活には困っていない証拠です。戦乱がない時代にこの国に生まれ、当面、大きな問題を抱えていない時点で、かなり運がいいと思うのです。

筆者は、自分の老後について「思い通りにいくわけがない、心も体も衰えて当たり前、(周囲の人も含め)痛みや苦しみが少なければ幸運至極」と考えています。そして、できれば、ありふれた日常を深く味わえる老人になりたいと思っています。

後田 亨
オフィス・バトン「保険相談室」代表

[日経ビジネス]