自我を探して始め、自我を捨てて終わり、そしてまた初めに還る。。。

 

仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふというは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。

萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり

[道元『正法眼蔵』「現成公案」]

 

〔現訳〕

仏道をならうというのは、自己をならうことである。

自己をならうというのは、自己を忘れることである。

自己を忘れるというのは、天地宇宙の一切のものの働きによって証り(悟り)がわが上に現れることである。

天地宇宙の一切のものの働きによって証(悟り)が我が上に現れるというのは、自他の身心をしてそっくり束縛から脱せしめることである。

 

一つの終わりは、また新たな一つの始まり。。。

 

それまでの人生を捧げてきたものの終わりがきても

これからその人はどこへ向かうのか、未来はどうなっていくのか、本人はもちろん誰にもわからないけれど

その人のこれからという白紙の地図にはまた新たな始まりへの無限の可能性が自在に描かれていく。。。