漠然とした不安は解決すべき課題に変わっていく。。。
パーマネントトラベラー(終身旅行者)のhikaruとフリーランスコンセプトデザイナーのnobのコラボブログです。 オンオフの区別なく綴っていきます。
漠然とした不安は解決すべき課題に変わっていく。。。
経験のないことに対する不安よりも、新しい自分に出会えるかもしれないということに素直にワクワクします。。。
高校の先生に四苦八苦のお話を教えてもらった時の衝撃は、今でも忘れることができません。幾度となくその話をパクって人にしゃべっておりますが、いつもあの時のような衝撃を与えることができております。
その先生がおっしゃったのは次のとおりです。「苦しみの原因は煩悩で、苦と煩悩は因果関係にある。煩悩は108あって、108の煩悩があるからこそ 四苦八苦が生まれる。四苦八苦を読んだとおりに数字で書いてみると、4989になる。ここで、4×9、8×9と掛け算してみる。すると、36と72にな る。これを足すと、108になるでしょ」。教室内に「うおお」と歓声が上がりました。
大人になって調べてみると、このおもしろい話は、お釈迦さんがおっしゃったことではないのだとわかりました。そもそもお釈迦さんは日本人ではないので、四苦八苦をシクハックとは発音されていませんよね。でも、おもしろいからこの話は後世に伝えていきたいと思っています。
またその先生は、四苦とは生、老、病、死だと教えてくださいました。そして大人になっていろいろ調べてみると、八苦とは、四苦に愛別離苦(あいりべ つりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐぶとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の4つを加えたものを指すのだと知りました。
やっぱり若いときに教えてもらったことが興味深いことであれば、それがきっかけとなっていろいろ深追いしたくなるわけですから、子どもたちにおもしろい話を教えてあげるのって大切ですよね。
さて、八苦の中の怨憎会苦とは、大まかに説明しますと、嫌いな人や物に会ってしまう苦しみのことです。大きな8つの苦しみの中に、嫌いな人に会うこ とがノミネートされているのです。高校野球でいえば甲子園の準々決勝まで残った高校に匹敵する「苦」なわけですから、嫌いな人に会うのは、なかなか強い苦 しみということになります。
確かに生活を営んでおりますと、いろんな場面で嫌な人に遭遇しますよね。バイトの先輩にいびられ、その人を嫌い、それでも会わなければならない日々 もありました。着てる服からは半乾きの悪臭を放出し、両脇からは目の痛くなる尖った刺激臭を発散させ、なおかつ口から腐臭を噴出させる人と話さなければな らなかった時間もありました。電車の中でじろじろ見てくるやつに会ったこともありました。
ただ、バイトの先輩はやがていいおじさんになり、楽しくおしゃべりができるようになりました。臭い人はメンテナンスを始めてそこまで臭くなくなり、 清々しく呼吸をしながらおしゃべりできるようになりました。じろじろ見てくるやつは、見てくれなくなりました。つまり、嫌な人って一時的なものなんですよ ね。これこそ諸行無常ですよね。
だから、いつも人を嫌いになった時には自分に言い聞かせています。言い聞かせている文言は次のとおりです。「この人のことめちゃめちゃ嫌いやけど今だけやし」。
このように、諸行無常を自身の観念に少し取り入れることによって、だいぶ生きやすくなると思っています。財布を失ったときも、諸行無常をしがむことによって、かなり楽になりました。ただ、はかないことを大前提とする教えですから、捉え方によっては誤解を招くかもしれません。
悪く生きようと思ってる人が諸行無常の感覚を取り入れると、どうせこの便所の戸もはかないものなんだから、いつかは壊れるわけだし、今ここでパンチ して壊しても構わないだろう、となるかもしれません。それはいけませんよね。それが、よく生きようとしてる人なら、この便所の戸は大切なものだから本当に 機能しなくなる最後の瞬間まで大事に使おう、となりますよね。
しかし、よく生きようとしてる人でもめちゃめちゃ漏れそうで、やっと駆け込んだ便所の戸が閉まっていて、いくらノックしても返答がなく、いよいよ門の辺りに顔を覗かせるかという苦痛に迫られたときは、戸を壊すかもしれません。
だから、いつでも漏れそうなんだと思って、その時に自分はどういう行動に出るかと予想して、そのうえで反省するのがよりよい反省なのかなと考えています。結果的に想像上の自分はいつも悪人になるんですよね。
対人もそうで、自分が究極の苦痛に見舞われたときに、横にいる嫌いな人はどんな行動に出るのかと予想して接するのがいいと思っています。大概の嫌い な人は、想像上でちゃんと助けてくれるんですよね。結局はみんないい人になってしまうわけです。自分は悪人なのにですよ。これが、想像するだけで嫌いな人 にちょっと優しくなれるイメトレだと考えています。
このお題は、まさに「怨憎会苦」の問題ですねえ。哲夫さんの言うとおり、八苦の中の1つです。八苦に代表されるような根源的な苦は、生きている限り 必ず出会うものなのです。怨憎会苦も避けられません。自分の好きな人ばかりに囲まれて一生を送る人はいません。大なり小なり、誰もが好きでもない人と付き 合いながら暮らしています。
好きになれない人との付き合いですが、例えば『論語』に「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(子路第十三)という言葉があります。「立派な 人は、周囲との和を保ちながら、けっして付和雷同はしない。器の小さな人は、付和雷同しながら、周囲との和が保てない」といった意味です。
「和して同ぜず」とは、なかなか味わい深い言葉ですね。安易に同調はしないし、意見も言うし、議論もするけど、争いはしません、協働していきます、 そんな内容の言葉です。儒教というのは社会実践について深い思想をもっていますので、こういう視点の言葉が多くておもしろいです。
さて、仏教はどのように説くのでしょうか。中世の念仏者・親鸞聖人は、生きる方向性が異なる人からは、「つつしんで遠ざかれ」と説いています。同じ 方向を向いて生きる人と歩みをともにするのは、私たちにとって大きな喜びです。しかし、向いている方向が違う人もいます。そういう人からは「離れろ」とい うことです。離れるのが仏教の基本的態度となります。
まあ、「離れたくても、同じ職場なんだからどうしようもないよ」という人もいるでしょうが、そこは精神的に離れるように工夫してみましょう。哲夫さ んの手法である、「この人のことめちゃめちゃ嫌いやけど、今だけやし」「そのうち腹立たんようになるんやし」とやり過ごしています、といった態度はかなり 参考になると思います。堪忍(耐え忍ぶ、他者を許す)の実践を心がけましょう。
最初期の仏典『スッタニパータ』には、「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、 サイの角のようにただ独り歩め」とあります。私、この言葉、好きなんです。つらく苦しいとき、この言葉を口にすると、ふつふつと体の奥底からわき上がって くるものがあります。
インドでは、2つの比喩に”牛の角”を使い、1つの比喩に”サイの角”を使うことがあるようです。アフリカのサイとは違って、インドのサイは角が1 つですからね。仏教はとてもクールな宗教ですので、「つきつめれば、人は独りで生きて、独りで死んでいかねばならない」ことを強調します。このことを本当 にしっかりと自覚することができれば、むしろイヤな人や嫌いな人ともつき合えるわけです。だって、所詮独りだ、と理解しているのですから。
この理解のうえで、おつき合いするのです。ということは、好きな人とおつき合いする時も同じになってきます。どれほど好きな人がいても、”つきつめれば独り”なんですね。「愛別離苦」です。これも避けることができません。
また、さらに哲夫さんは「この便所の戸は大切なものだから、本当に機能しなくなる最後の瞬間まで大事に使おう、となりますよね」とも書いておられま す。そのとおりです。独りで生きる覚悟というのは、自我を肥大させて、自分勝手に生きろということではありません。逆です。とてもはかない人間関係だから こそ、みんなで大切に扱わなければならないのです。すべての存在も現象も、刻々と流れていきます。だからこそ自ら手を添えてケアするのです。
[東洋経済ONLINE]
私は精神科医として、45年間、延べ10万人以上の患者さんと向き合ってきました。その中には、
・自分は能力が低く、誰にも評価されない
・あの人はズルくて要領がいいのに、自分は不器用で損ばかりしている
・友人たちは、充実した生活を送っていてねたましい
という思いを抱えた人たちがたくさんいました。
そういった悩みや不安の根本的な原因は、どこにあるのでしょう?
拙著『人生に、上下も勝ち負けもありません 精神科医が教える老子の言葉』でも解説していますが、大きな理由の1つは「いつも他人と比べてしまっている」というところにあると、私は考えています。「他人と自分」という関係に悩み、過分に苦しめられているのです。
紀元前8世紀ごろの中国の春秋戦国時代と呼ばれる動乱期に活躍したといわれる古代中国の思想家・老子(ろうし)は、こんな言葉を残しています。
琭琭(ろくろく)として玉のごとく、珞珞(らくらく)として石のごときを欲せず。
これは、こういった意味の言葉です。
ダイヤモンドのような存在になったらなったで、それもいい。
石ころのような存在になったのなら、それもまたいい。
それが自然の姿なら、受け入れて、ただ生きていくだけ。
そもそも何かになりたいとかなりたくないとかではなく、自然のままでいいじゃないか。ダイヤモンドと石ころに優劣をつけて、ジャッジしたりはしないよ、というスタンスを老子は説いています。
老子に言わせれば、世の中にある物事について、いちいち「よい、悪い」「偉い、偉くない」「すごい、すごくない」というジャッジをすること自体がおかしい。
これを老子は「無為(むい)」という概念で説明していますが、どんな存在でも、自然のままにいれば、ただそれだけでいい、わざとらしいことをせず、自然に振る舞え、ということなのです。
私は精神科医ですから、カウンセリングをしたり、薬を処方したりするなどの医療的対処で、患者さんと向き合ってきました。
しかし、ときにそうしたアプローチより「老子の教え」が効くことがありました。
ある日、患者さんにポロッと老子の言葉を話すと、泣き出してしまったのです。
「効く」というのは、その人に生きる希望を与えたり、自らの環境や境遇のとらえ方を変える大きな気づきを与えたりするということです。
も ちろん私も最初から「老子の言葉がうつ病に効くだろう」なんて思っていたわけではありません。患者さんと向き合っている過程で、私が好んで読んでいた老子 の言葉をたまたま紹介したら、それがすごく心に刺さり、実際に症状がよくなっていく人がいる。そんなケースを何度も経験することになったのです。
こうした現場の体験を積み重ねていくと「老子の言葉が『心に効く』合理的な理由があるのではないか」と考えずにはいられません。
近年の精神療法といえば、認知行動療法、対人関係療法に代表される西欧由来の技法が重要視され、その効果が広く認められています。
もちろんその価値は揺るがないのですが、一方で、西欧的な精神療法が先進的であればあるほど、それに適応しにくいと感じるケースもじつは存在しています。
考えてみれば当然の話で、そもそもヨーロッパやアメリカと日本やアジアを比べれば、文化や価値観、思想などさまざまな違いがあります。
西欧はどちらかというと合理的で、父性的。オバマ前大統領の「CHANGE」のように「変わらなければならない」という思想が強いといえます。
一方、東洋のほうは母性的な「なんとかなるさ」といった思想が強く、ある意味「甘え」を許し、肯定してくれる。一概には言えませんが、こういった傾向があると思います。
ここ何十年かのうちに、とりわけ日本人は文化や価値観がかなり欧米化し、ライフスタイルも欧米に近づいたのは事実でしょう。しかし、根底には日本人ならではの感じ方や考え方がありますし、西欧の文化、文明とは異なる「東洋の価値観や思想」というものも当然あるわけです。
「心」という領域を扱う精神医療において、やはりそこを見過ごすことはできません。意義や効果が証明されている西欧由来の医療にも、やはり「日本らしいカスタマイズ」や「東洋思想に見合ったアプローチ」というものが、どうしたって必要なのです。
そういったアプローチの1つとして期待されるのが老子哲学。そんなふうに私はとらえています。
そもそも人はどんな種類の「心の問題」を抱えてしまうのでしょうか?
よく見られる心の傾向というのは次の4つに分類することができます。ちなみに、これはうつ病の心理特性を表したものです。
① 自分は弱い = 劣等意識
② 自分は損をしている = 被害者意識
③ 自分は完璧であるべきだが難しい = 完璧主義
④ 自分のペースにこだわる = 執着主義
これを踏まえて、老子哲学の要諦を私なりにまとめてみると、おもしろいくらいこれらの心的傾向に対応していることがわかります。
① 劣等意識
「自分は弱い」「ダメな人間だ」「あの人はすごいのに、自分には何もとりえがない」というのはとてもよくある心的傾向です。こうした劣等意識は、自分の内側に向けられた感情ということができるでしょう。しかし老子は……、
強い者が勝つ、弱い者が負けるというのは思い込み
② 被害者意識
「あいつはズルくて、要領がいいから得をするが、自分はいつも割を食っている」という、いわゆる被害者意識は、自分の外側に向けられた感情ということができます。①の劣等意識と②の被害者意識を同時に持っているという人もけっこう多いと思います。しかし老子は……、
多くを望まなくていい
③ 完璧主義
「自分は完璧でなければならない」「こう、あらねばならない」という完璧主義もよくある傾向の1つです。「完璧を求める」ということ自体が必ずしも悪いというわけではありません。その向上心がいいほうへ向かえば、仕事のクオリティーを高めることもあるでしょう。
ただしそれが、自分自身を追い詰めているというのはよくあるパターンです。その結果として「自分はダメな人間だ」という①の劣等意識につながるということも、もちろんあります。しかし老子は……、
しょせん、価値は相対的なもの。絶対的な価値基準など存在しない
④ 執着主義
③の完璧主義と似ているようで、少し違う心的傾向に「執着主義」「こだわり主義」というものがあります。
自分の考えや価値観に固執するあまり、他人や自分と異なる考え方を受け入れることができない。そうやって孤立してしまったり、人間関係のトラブル、ストレスを抱えてしまうというパターンです。しかし老子は……、
自然のまま、流れに任せて生きるのがいい
もし老子が生きていたら、これらの心的特性について、このように話していたかもしれません。
いずれにしても、まず「自分はどういう心的傾向を持っているのか」ということを知っているだけでも、何かしらの対処をする一助になるので、この4つを覚えておくのはいいと思います。
私は精神科医として、こうした4つの心的傾向を(極端に)持つ人たちと日々向き合っているのですが、そうした人たちにも「老子哲学」が何かしらのきっかけとなり、気づきを与える可能性があると、現場を通して強く感じています。
老子哲学というのは、ある意味では「弱さを承認する思想」ですから、「甘えを認める哲学」と取られかねないところがあるのも事実です。
でも、今という時代を生きるには、老子のように「抜け道を行く」ような、ひょうひょうとした心持ちが、むしろ武器になるとすら思うのです。
著者:野村 総一郎
[東洋経済オンライン]