あるがままの自らを受け容れる入口は“開き直り(=覚悟)” Vol.2

一生折れないビジネスメンタルのつくり方 第2回

名越康文「ダメな自分」を受け入れることが、本当の自信を生む

社会に適応することで、かえって自信を失ってしまう

前回、「社会に適応しているかどうか」ということが、自分に自信を持てるかどうかに大きく関係している、ということをお話しました。実は「自信を持てるかどうか」ということを考える時、この要素は日本の風土において、とりわけ大きな問題となります。

ビジネスの場面では、学歴や会社の知名度、職階、年収。プライベートに目を向けると、友人がいるか、恋人がいるか、結婚しているか、子供がいるか……、などなど。日本社会で生きていると、本当に多種多様な基準から「あなたは社会に適応できていますか?」というプレッシャーが与え続けられていま す。

「これをやらないと、あなたは社会に適応できませんよ?」という<脅し>に、24時間365日さらされ続けている。大げさなようですが、そして個人差はもちろんありますが、この心理的プレッシャーは日本社会の現実の一つでしょう。そして、この<脅し>によって、多くの才能や能力が削り取られ、摩耗し、埋もれてしまっているというのが、日本社会の大問題だと私は捉えています。

もちろん、社会に適応すること自体は、大切なことです。若いビジネスマンの皆さんであれば、会社に貢献し、成果を上げ、しっかりとお金を稼いで家族を養ったり経済を回したりして、次世代へとバトンをつないでいくということは、何に重きを置くかはともかく、誰もが考えなければならないことです。そし て、それらをあるレベル以上でこなしていくことは、その人が生きていく上での大きな自信につながるのも事実です。

ただ、そういった現実をすべて踏まえたうえで、「いったん、社会に適応できているかどうかということを、忘れてみませんか?」とアドバイスしたくなるくらい、「社会に適応することに疲れ果てた人」がたくさんいらっしゃる、というのも事実なのです。

日本社会ではあまりにも「社会に適応せよ」「社会に所属せよ」という要請や、細々とした「基準」に自分を合わせなければいけないというプレッシャーが強い。そのことによって疲弊し、才能や能力をやせ細らせ、自信を失っている人があまりにも多いのです。

ダメな自分を「直す」のではなく「受け入れる」のが出発点

「社会に適応しなければいけない」というプレッシャーを受けたとき、私たちはほとんど自動的に、自分自身を「社会が求める形」に整形しなければ、と考えます。

暗くて、引っ込み思案な自分は、いつも会議や打ち合わせで勇気を出して発言することができない。もっと開放的で、社交的な自分にならなくちゃ……。

僕はいつも、飽きっぽくて根気強く物事に取り組めない。もっと地道な努力を続けられる自分にならないと……。

「失敗したらどうしよう」というネガティブな発想ばかりな私は、もっと勇猛で、チャレンジ精神にあふれた自分に生まれ変わらなくては……。

残念ながら、こうした「もともとの自分」を生まれ変わらせようとするチャレンジは、往々にして、その人の自信を失わされる結果につながりがちです。 というのも、持って生まれた資質を削ったり、変形させたりすることは、どうしても「もともとの自分」を否定することになってしまうからです。これでは、自分に自信が持てなくなるのも当然です。

しかし、だからといって「ありのままの自分」や「もともとの自分」のままでいいのかと考えると、おそらく、多くの人が「否」とおっしゃることでしょう。

実際問題、「ありのままの自分」のままでは、私たちは社会に適応することができません。ありのままの自分というのは、他人に嫉妬したり、いらいらしたり、自己中心的になったり、面倒臭がったりという「自分」です。私たちは一皮むけば、誰もが「そのまま」では社会に適応できない「自分」を抱えています。ある意味では、私たちの本性は多かれ少なかれ「社会不適合者」なのです。

ではどうすればいいのでしょうか? 素の自分のままでは、仕事で成果を上げたり、同僚と仲良く、協調することができない。しかし一方で、ありのままの自分を無理やり変えてしまえば、自己否定につながってしまう。この矛盾を、どうすればいいのか。

実は、この矛盾を超えていく第一歩が「ありのままの自分は、(実は)社会不適合者である」という現実を認めることです。実は、「自分に自信がある人」の中には、これができている人が少なくないんです。

もちろんこれは、「自分に自信が持てない人」にとっては、苦しいステップです。しかし、どれほどダメな自分であっても、まずはそのまま、受け入れてみる。そうすることで「本当の自信」を手にするための2つの道が開かれることになります。

持って生まれた資質を「そのまま」活かす

「本当の自信」を手にするための道のひとつは、「持って生まれた自分」をできる限りそのままに、社会の中で生かしていくことです。

「え? 自分にもともと備わっている資質なんて言われても、自分には人に誇れるような才能なんて何もありません……」

そうおっしゃる気持ちはよくわかります。

でも、「もともと備わっている資質」というのは、必ずしも「すごい能力」とか、「役に立つスキル」である必要はないんです。

僕の恩師でありカウンセリングの師匠である方があるとき、「自分には<意地悪>という才能がある」ということを言ったことがあります。「自分ほど、 根っからの意地悪な人間はいない。でもだからこそ、人の短所を見抜き、その人が失敗をしでかしそうな場面を予測して助言することができるんだよ」というのです。

このお話をお聞きしたときは、正直なところ、冗談をおっしゃっているのだろう、と思っていました。でも、年月を重ねて自分なりにカウンセラーとしての経験を積んでから振り返ってみると、これはある意味、本気でおっしゃっていたんじゃないかと思うようになりました。

多くの人は、才能とか能力といったものを「最初から光り輝いている何か」として捉えています。しかし、才能や能力の本質というのは、社会や、周囲の人との関係性の中で「元々持っていた資質」が生かされることによって、初めて輝きを持つものなのです。

師匠の例で言えば「意地悪」という持って生まれた資質を、そのまま相手を攻撃したり陥れるような形で使ってしまったら、害にしかならなかったでしょう。とても、社会に貢献するどころではありません。

ところが、同じ資質を、「相手の問題点を鋭く見抜き、そこをいかにサポートしていくか」という観点で使えるようになれば、それは他の人に真似できない「カウンセラーの才能」になるのです。

「ダメな自分」を受け入れる

「才能がない」「能力がない」「だから自信が持てない」と多くの人が口にします。でも、どんな人にだって能力はあるし、才能はあるんです。なぜなら、人間は社会の中で生きる動物だからです。どんな資質も、「どこで」「いかに」使うかによって、花開き、輝く場合もあれば、問題を引き起こす要因になってしまうこともある。これは安っぽいヒューマニズムの標語とは別次元の、厳粛な事実です。

いつも納期に仕事を間に合わせることができずに「自分は仕事が遅い」と悩んでいるあなたは、実は自分のペースで忍耐強く物事に取り組むことで成果を出せる、研究者タイプの人材なのかもしれません。あるいは、飽きっぽくて一つのことに集中できない人は、もしかすると、誰も思いもしなかった新しい事業を 開拓していく、起業家精神にあふれた人なのかもしれません。

私たちはみな、なんらかの資質を持って生まれてきます。一見、どれほど役立たずで、無意味な資質に見えたとしても、それを一度、「ありのままの形」 で見据えてる時間が必要なのです。そうすればその資質を社会のなかで「いかに使うか」という道も見えてくる可能性が高いのです。

普通だったら役にたたないような資質であっても、それを活かす場所や、活かし方、捉え方を変えることで、まったく違う見え方ができます。そういうふうに見ていくことで、自分を決して否定せずに、社会での居場所を見つけることができるんです。

「社会不適合者」だと自覚するから、人は協力することができる

「ありのままの自分では、社会に適応できない」という現実を受け入れることによって開かれるもうひとつの「道」。それは、「他人と協力する」という道です。

私たちはみな、ひとり残らず社会不適合者である。そのことがわかって初めて、私たちは素直に人を頼ったり、任せたりできるようになるのだと僕は考えています。

これは一見、矛盾しているように聞こえるかもしれません。「人と協力することができない人のことを、社会不適合者と呼ぶのではないか」と。

でも、私がいう「他人と協力する」というのは、別に「誰とでも社交的に、楽しく会話を交わすこと」ではありません。そうではなく、「自分だけでは何事をなすこともできない」という現実を謙虚に認め、他人に興味・関心を向ける、ということです。

光岡英稔(みつおかひでとし)さんという武術家がいます。光岡さんは韓氏意拳(かんしいけん)という中国武術の第一人者で、武術の世界の多くの人が 認める天才的な武術家なのですが、私がいつも「すごい」と感心するのは、あれほど強い光岡さんが、いつも「他人から学ぶ」という姿勢を忘れないことです。

光岡さんが学ぶ相手というのは、一般的にみて「強い人」「すごい人」という枠に収まりません。例えば光岡さんは、重度の身体障害者の施設である菖蒲園というところと、深い親交を持たれています。武術を深く追求し、身体を動かすことのプロフェッショナルである光岡さんだからこそ、常識的にみてしまえば 身体を自由に動かせない障害を持つ人の身体の中に、何か無限の可能性のようなものを学び取っておられる気がします。

「人と協力する」ということの本質は、別に仲良く言葉をかわしたり、目に見えるかたちでコミュニケーションを取ることではなく、「自分の外側」に関 心を向け、自分とのコラボレーションの可能性を探るということです。これをやるためには、自分に「足りないところ」「欠落しているところ」があると深く自 覚している必要があるのです。そうじゃなければ、他人に関心を向けたり、他人の強みや弱みを感じ取ることができないからです。

いくらお金を稼いだり、友人をたくさん作ったとしても、他人と協力できない人というのは、どうしても本当の意味での自信を持つことができません。自己完結するのではなく、他人とコラボレーションすること。これによって、人は初めて、本当の自信を手にできるのです。

「自分はそのままでは社会に適応できない」と知ること

社会の中で役割を果たし、評価を高めていくことは、基本的には自信を高めていくことにつながります。そういう意味では、仕事はがんばらないよりはがんばったほうがいいし、子育て中の人は子供に愛情を注いだほうがいいし、友達とはより友人関係を結んだほうがいいし、素敵な恋愛ができるなら、やったほうがいいでしょう。

でも、そうやってあらゆることを「がんばる」なかで、「ありのままの自分」を否定してしまうのは、心の奥底の、深いところで自分自身を傷つけてしまうことにつながります。そうすると、いくら社会的評価を高めたとしても、「自信」という意味では、プラスマイナスで、マイナスのほうが多くなってしまうん です。

まず「ありのままの自分」は、そのままでは社会に適応できない、ということを認める。

私は、気が回らずロクに人の役にも立てないし、特に魅力もない人間かもしれない。でも、そんな自分でも「かわいいやつだな」というぐらいの気持ちで、大切にする。そのうえで「でも、こんな駄目な自分でも、こんなふうにすれば、みんなの役に立てるんじゃないか?」「こういう強みを持っている人とコラボレーションすれば、何かを生み出すことができるんじゃないか」と工夫してみる。

もちろん、ときには、自分自身を変えていくこともあるかもしれません。しかし、無理やり自分自身を変えるのではなく、常に、元々の自分を出発点にして、社会に貢献したり、他人とコラボレーションする道を模索すること。これこそが、「ありのままの自分を受け入れる」ということの真意なのです。

[アルファポリス]

Vol.3に続く

あるがままの自らを受け容れる入口は“開き直り(=覚悟)” Vol.1

一生折れないビジネスメンタルのつくり方 第1回

「答え」がはっきりしていたとしても「納得」するのは難しい

答えがわかっていても、それを受け入れ実行するのは難しいことが、人生にはたくさんあります。

「自分に自信が持てるようになるにはどうすればいいか?」というのも、そうした問いのひとつです。この質問には、過去、何百回と繰り返されてきた「正解」があります。しかし、多くの人はその答えを聞いても、なかなかそれを実行することができません。

それは、「ありのままの自分を受け入れる」ということです。

仕事であれば、会社での評価や売上、プライベートなら友達の数や恋人の有無。そういった「自分の外側の基準」に惑わされるのではなく、ただありのままの自分自身を受け入れる。それこそが本当の自信を手にする、ただひとつの道である……。

おそらく、多くの人が、これと同様の答えを見聞きしたことがあるはずです。というのも、古今東西、多くの賢人たちの答えも、枝葉の部分に違いはあれど、最大公約数を見ると、だいたいこのあたりに落ち着くんです。

そして、僕の答えも「結論」としては同じです。いくら仕事で成果を上げても、出世をしたとしても、人はどこかで「ありのままの自分を受け入れる」ことなくして、「本当の自信」を手にすることはできません。これはおそらく間違いなく、人間の本質に沿った鉄則なんです。

ところが、です。この「答え」は、「自分に自信が持てない」と今まさに悩んでいる渦中の人の心には、決して響きません。どれほど懇切丁寧に教え説いたとしても、きっと納得してはくれないし、変わることはできません。

当然ですよね。だって「自分に自信が持てない」と悩んでいる人は、今の自分が嫌いだから、自信が持てないんです。仕事がうまくいかない、周囲からの 評価もかんばしくない。何をやっても「自分ならやれる」と心から自信を持つことができない。そんなふうに悩んでいる渦中の人が、「ありのままの自分を受け入れなさい」なんて言われても、「そんなの無理!」となってしまって当たり前ですよね。

というわけで、今回はひとつずつ階段を登っていくように段階を追って、自信について、考えてみることにします。なかなか本題に近づかなくてじれったく感じるかもしれませんが、読み進めていただければ、きっとそのほうが「早道」だということに気付いていただけると思います。

本当の自信と、ハリボテの自信

さて、そもそも「自分に自信がある」って、どういうことなんでしょう。

「自信満々の犬」とか「いまひとつジャンプ力に自信が持てないバッタ」みたいなものを、たぶん私たちはうまく想像することができません。実際に彼らがどうなのかはともかくとして、自信があるかないかということが生活の中で問題になるのは、人間だけと言っていいでしょう。

いつもバリバリと仕事をこなす同僚のAさんは、自信に満ちあふれているように見えます。実際、Aさんは能力的にも優れた部分を持っているかもしれませんが、それ以上に「自信がある」ことによって、成功を引き寄せているように見えます。

それに比べて、なかなか出世できないBさんは、いつもどこか自信なさげです。スキルや知識がないわけではないはずなのに、自信がないから会議でも発言しません。だから結局、成果を上げ、出世するチャンスを逃しています。

こんなふうに、自信というのは、ただその人の内面の問題というより、仕事の成果や人生の成功を左右する、大きな要素になっています。

また逆に、仕事の成果や家族、友人関係や恋愛が、その人に自信をつけさせたり、失わせたりする要因にもなります。「自分に自信が持てない」と悩んで いる人は、自覚しているかどうかはともかく「自分はどの程度社会に適応できているのだろう?」ということに不安を覚えている人なのです。

では、仕事で成果をあげ、同僚や上司、あるいは家族から高い評価を得ることができれば、私たちは「自信を持つ」ことができるのでしょうか? 仕事で 成果をあげれば自信がつき、自信がつけば、さらに仕事の成果もあがっていく。そういう「成功のループ」に入っていけば、それで自信の問題は解決なのでしょ うか?

もしかすると、世間一般では、自信というのはそういうものだと考えられているかもしれません。しかし、精神科医という立場で多くの人と接してきた私が感じているのは「それだけでは十分ではない」ということです。

「社会に適応すること」は自信を持つための「必要条件」ではあります。ただ、残念ながら「十分条件」とはいえません。客観的に見れば、バリバリ仕事 をして、十分な社会的評価を得て、友人もたくさんいるにもかかわらず、なぜかいまひとつ「自分に自信が持てない」という人が少なくないのです。

もちろん、社会の中での居場所や評価を得ることは、自分に自信を持つうえで大切です。自信を持ちたければ、私たちは普通、仕事を頑張ったり、勉強し たり、あるいは人付き合いをして関係を深めようとし、実際そうやって成果を積み上げていけば、ある程度、自信を持つことはできるはずです。

ところが、「自分にどうも自信が持てない」という悩みは、まさにそうやって頑張っている人の中で、芽を出してくる傾向があるんですね。少なくとも 「社会に適応している=自信が持てる」という図式が単純に成り立つほど、自信というのは、一筋縄で手に入れることができないものなんです。

[アルファポリス]

Vol.2に続く

変わらない、変われない、取り残され続ける存在。。。

秘密保護法成立から5年 陸上自衛隊のスパイ組織「別班」暴いたベテラン記者が警鐘

陸上自衛隊の一部組織が、身分を偽装した自衛隊員を独断で海外に展開させ、諜報活動を行わせる。組織の扱いは極秘扱いされ、自衛隊最高指揮官の首相や防衛相にすら知らされていない――。そんなスパイ映画さながらの現実が日本にあるという。

隊員は、互いの本名も知らないまま都内などのアジトを拠点に活動を続け、友人と酒を飲むことや年賀状、近所づきあいも禁止され、通勤ルートは毎日変えることが求められている。外部との接触を断たれ、精神的にも社会的にも“壊れる”隊員も少なくないそうだ。

そんな陸自の秘密情報部隊「別班」を追い続けているのが、共同通信編集委員の石井暁氏(57)(以下、敬称略)。5年半以上の月日を取材に費やし、非公然の別班の存在を伝える記事を2013年11月に配信した。

「ホームで電車を待つ時は、最前列で待つな」「痴漢にでっち上げられることに注意しろ。酔っぱらって電車に乗るな」。そうした警告を受けながら今も取材を継続し、別班の問題点や関係者への取材の生々しいやり取りなど詳細を『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(講談社現代新書)にまとめた。

防衛や外交など4分野の情報が「特定秘密」に指定され、知る権利や表現の自由への懸念がいまだに根強い特定秘密保護法の成立から6日で丸5年を迎えた。

石井は「秘密保護法の成立後は自衛隊や安全保障の取材は格段に難しくなり、今では別班を取材するのも記事にするのも難しい状況」と指摘。「改憲論議が進む中で、民主主義国家の大原則である文民統制(シビリアンコントロール)から逸脱した別班の存在が十分に話し合われていないのは危険だ」と話す。【取材:岸慶太】

別班員は違法行為も行う

別班員は、スパイ養成機関として知られた旧陸軍中野学校の系譜を継ぐ陸自小平学校(東京都小平市にある陸自の教育機関)の心理戦防護課程で、尾行や張り込み、追跡などの教育を受け修了した自衛隊員が選ばれるという。

陸軍中野学校:旧日本陸軍の「後方勤務要員養成所」として1938年創設。情報の収集、謀略、諜報、防諜などいわゆる「秘密戦」の教育訓練機関として、45年の敗戦で閉校するまでに約2000人を輩出。卒業生は多くが陸軍の情報機関に配属された。

 

――別班員はどのように活動をしているのでしょうか。

基本的に自衛官という身分を偽って名刺を勝手に作ります。アジトも都内のビルなどに「〇〇〇会社」とか「×××研究所」っていう看板を掲げていて、携帯電話も他人の名義で作っている。そこからして違法です。

他にも、朝鮮総連の関係者をだまして、北朝鮮に行って情報を取ってきてもらう行為も違法でしょう。「こんな違法なことはできない」と言って辞める別班員は結構いるみたいです。彼らは自分がやってきたことを言うと責任を問われるので、あまり詳細は語ってくれませんが。

基本的に洗脳されていると思います。それでも、辞める人がいるというのは、社会人としての良識や常識が残っていたということですし、救われる気持ちになります。

 

――体験入隊した三島由紀夫氏が有名作家だとばれずに東京・山谷に潜行する訓練や、休憩時間に入ったトイレのタイルの色を問われたりするなど、戦後も心理戦防護課程で本格的なスパイ教育が行われました。

中野学校の教官だった人物が、小平学校の前身である調査学校の校長や副校長になっています。基本的には中野学校の教育内容をそのまま使っています。

自衛隊幹部には「海外諜報機関は必要だけど、公然の組織にしないと別班員が可哀そうだ」と言う人も結構いました。

海外で現地の捜査機関や情報機関に拘束、逮捕されたら、“トカゲのしっぽ切り”でしょうと。対外情報活動をやるなら、国家として責任を持たないといけないという問題意識ですね。

――別班員の活動の財源もベールに包まれています。

防衛省の予算を見ただけではわからない。裏が取れていないが、海外に展開している拠点を作って情報収集活動をする費用は、陸自の教育訓練費の一部を使っているという話もあります。裏を取るのも相当難しく、会計検査院でも検査できないんじゃないでしょうか。

別班OB「狙った情報は100%取れる」

――精神的にも壊れる人が多いと。

「洗脳教育を受けた」「人格が変わってしまった」と自分で言う人もいます。心理戦防護課程の教育を受けて誰にも心を開かなくなってしまったと言う人はOBに多いです。

まず、眼が全然違います。普通の人の眼ではなくなってしまっている。感情を持っていないという印象で。本人たちもたぶん分かっているんです。

――ほかの自衛官とは全然違ってしまう。

ある別班OBは、「とある地方都市の飲食チェーンの社長に会って、こういう情報を取って来い」と言われた。偽の名刺を作って、たどり着いて社長に話を聞いてくる作業ですが、「自分が狙った情報は100%とれる自信がある」って言うんです。

私たち記者は100%なんて絶対に言えない。彼と話していても、「逆に僕が何か言わされているんじゃないか」ってすごい怖いですよ。飲みながらだととくに怖いです。

99%ならまだわかりますけど、100%とれる自信があるって言うんですよ。どうやってやるのかと尋ねても、笑って教えてくれないですけど(笑)。

改憲について考える上で別班に関する議論は不可欠だ

石井は2008年4月、付き合いの長い自衛隊幹部との懇談で、「別班」(陸上幕僚監部運用支援・情報部別班)の存 在を示唆された。これをきっかけに、5年半以上を費やして慎重な事実確認と裏付け取材を進め、13年11月27日に「陸自、独断で海外情報活動」などと題 した記事を配信。今年10月に自著にこれまでの取材の経緯や別班の問題点をまとめた。

 

――記事の配信から5年のタイミングで、本を出した意図は何でしょうか。

安倍政権が改憲を進めようとする中で、自衛隊には災害対応に代表される明るい「陽」の部分だけではなく、「陰」の部分があると知ってほしかった。その代表が別班で、このまま放置されたまま改憲されると、非公然の状態の別班まで認めてしまうことになる。憲法9条を考える上で、別班について議論することは絶対に必要だと問題提起させてもらいました。

――酒席で二人きりになった防衛省幹部との何気ない会話から別班に関する情報を得ようとしたり、防衛省本館で退庁する幹部を待ち伏せして飲みに誘ったりする姿など、防衛省幹部らへの取材の様子が克明に記されています。

あえて、それを出しました。政府と防衛省は一貫して「別班なるものは過去も現在も存在しない」としていますが、実際は様々な幹部が取材に対して存在を認めている。それを可能な範囲でオープンにすることで、政府の主張が単純なものではないと示したかった。

二点目は、取材や調査報道の過程を明らかにして、若い記者やジャーナリストの参考になればとの思いです。最後は自分の身の安全を守るため。得体のしれない組織だから、今も怖いところがあります。取材源に迷惑をかけない範囲で、できる限りぎりぎりまでオープンにして、世間に知ってもらう。そうすることで、自分の身を守りたかった。

権力監視がジャーナリズムの最大の使命

――5年半の地道な作業ですが、あきらめるという選択肢はありましたか。

常にありました。取材を進めてもモノにならない可能性があって、一種の賭けでした。最初に端緒の情報を聞いて5年半かかったわけで、会社の取材費も相当使った。1行の原稿も書けなかったら終わりだと。今のポジションにはいられないと覚悟していました。

情報を集めて、パズルの全体が見えてきたかと思ったら、またダメになる。最初から簡単に記事化できるとは思わなかったけど、結構つらかったです。

こんな途方もない情報をどう裏付けて、本当に記事として成立させられるのかと。社内を説得させることも含めて、原稿にできるのかと。長くなることは覚悟していました。

――記事を出せば、防衛省どころか政府も敵に回しかねない。それでも、取材を続けたのは使命感からでしょうか。

当然のことですが、ジャーナリズムの最大の使命は権力監視です。日本の最大の実力組織は自衛隊であり、防衛省、自衛隊を監視するのは最も大切な仕事だと思っています。

別班に関する記事を配信後、石井の下には懇意の防衛省関係者から
「最低限、尾行や盗聴は覚悟しておけ」
「ホームで電車を待つ時は、最前列で待つな」――、
元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏からも
「痴漢にでっち上げられることに注意しろ。酔っぱらって電車に乗るな」
などの忠告が寄せられた。

――著書には生々しい忠告も記されています。

冗談かと思ったけど、まじめな顔で言うわけです。本当に「やばい」と思いました。で、佐藤さんと次に会った時は「自衛隊と公安の間でにらみ合っているから、今は大丈夫だ」と言われて(笑)。彼はヒューミント(人的情報収集活動)に関しては日本の外交官の中では最高峰と言われている人ですので、シャレにならなかったですよね。

「お前を消すぐらいのことはする」

――懇意にしていた元将官への取材では、脅迫めいたことも言われたとか。

「お前は私の現役時代からマークされている。尾行も盗聴もされてきた。今日俺と会ったことも把握されている」と元将官が言ってしまう。「別班は恐ろしい組織で、虎の尾を踏むと、お前を消すぐらいのことはする」とも。

その人は昔、共産党が政権を奪ったらと仮定の質問をしたら、「躊躇なくクーデターを起こす」と言いました。自衛隊の最も恐ろしい部分を見た気がします。本当に恐ろしいです。月並みな表現だが、身の毛がよだつと言うか。

――日本で起きている話ですか。

新聞記者がスパイ小説にかぶれて、妄想の世界で書いていると言われるかもしれません(笑)。

――現役の別班員に取材どころか接触すらできない厳しい状況の中、共同通信のOBから思いがけなく紹介された陸自幹部が別班経験者と分かり、生々しい証言を得られました。取材が行き詰った時には、助けてくれる人もいました。

ストーリーとして書くとそう見えますが、実際には全然うまくいっていないです。ひたすら苦しい日々です。

誰もいないところで取材するきっかけを作ろうと、せっかく幹部の官舎とか自宅を探し当てて、ピンポンを押しても門前払い。「帰ってくれ」って門前払いされると、精神的にも体力的にもダメージが大きいですよね。

――失礼ですが、石井さんはお若くはありません。

正直言って、バカじゃないかと思いましたよ。50過ぎて、俺何やってんだろうって(笑)。防衛省の本館の玄関で待っていて、目当ての幹部が出てきたら自宅まで尾行したりしまして、いい年して何やってんだって何回も思いました。

文民統制を逸脱した別班への問題意識を持つ自衛隊幹部は多い

――冒頭の自衛隊幹部が、新聞記者である石井さんに対して、極秘扱いの別班の情報を伝えたのはなぜでしょうか。

現代の民主主義国家の軍事組織の大原則は間違いなくシビリアンコントロールであり、制服自衛官の幹部も下の人も、皆さんそのことを分かっている。シビリアンコントロールを外したら大変なことになる、という問題意識は皆さんお持ちです。

自衛隊幹部って実はかなりリベラルな人が多いし、防衛大の教育も非常にリベラル。「自衛隊は当然必要だが、(別班は)おかしい」という問題意識ですね。

首相も防衛相も知らない別班なる組織があって、勝手に海外に自衛隊員を身分偽装させて国外に出して情報収集活動をしている。それはおかしいし、文民統制に違反していないかという正直な気持ちだったんだと思います。

情報機関は必要か不必要かの議論は別にして、作るならば公然の機関、組織でないといけない。それが非公然なのはおかしいという。

――幹部がリベラルというのは意外です。

毎年8月15日に靖国参拝する幹部ももちろんいます。さっきの元将官みたいに「クーデター起こす」と言うような人もいます。

ただ、防衛大もいわゆる右寄りの思想教育というのはしていません。初代防衛大学校の校長の槇智雄氏から、基本的にリベラルな学者か防衛官僚が校長をやっていて、制服出身の校長というのはいないんですよ。

――そもそもなぜ別班を非公然にしてしまったのでしょうか。

別班OBで、「どこかのタイミングで公然にしておけばよかった」と述べる方もいます。最初に非公然にしてしまったため、変えることができなかったというのが真相でしょう。

さらに、「別班は存在しない」と政府が言ってしまっているので、今頃になって「ありました」というのもできなかったんじゃないでしょうか。

石井は11年7月、陸上幕僚長経験者への取材で、別班が海外で活動していることや、別班員が「自衛官の身分を離れ ている」ために万が一の際にも幕僚長の責任が問われないことなど、別班に関する決定的な情報を入手した。当時は、核密約の存在を認めた実績がある民主党政 権下で、政府が別班を調査してくれるとの期待を込めた。だが、デスク役の中村毅社会部副部長(現・社会部長)と議論の上、「事実上認めたが、決定的な証言 がない」ため、読者への説得力が弱いとして出稿を見送った。

歴代首相はおそらく別班の存在を知らない

――民主党政権時代に記事にするチャンスが訪れました。

当時の防衛大臣は北沢俊美氏で、シビリアンコントロールを徹底しようとする人でした。陸上幕僚長経験者の証言で記事にできると思ったけど、情報がまだ足りなくて、説得力に乏しいとなりました。

――歴代の首相、防衛大臣は別班を知っていて知らないふりなのか、それとも本当に知らないのでしょうか。

全員に取材したわけではないので分かりません。でも、陸幕長経験者も防衛省情報本部長経験者も、あるいは事務次官も含めて「総理も防衛大臣も知らない」と言っています。知らないのでしょう。

ただ、元陸自幹部の中谷元氏、いわゆる「軍事オタク」の石破茂氏は2回防衛大臣をやっていると。二人はどこかの席で聞いている可能性もあるかもしれません。

石井は13年7月に旧知の情報本部長経験者への取材で、別班が旧ソ連、中国、韓国に展開し、ケースオフィサー(工作管理官)をしていることや、別班員が集めた情報が危機管理のため一部の幹部にしか共有されないことなどの詳細を得る。海外の別班員の安全のため、記事の 配信予定日の3日前に当時の西正典・防衛事務次官と岩田清文・陸上幕僚長に対し、記事を出すことを事前に通告した。

 

――13年11月27日に記事を配信する前に、防衛省幹部に事前通告しました。

記事を出すことで、海外の別班員が拘束されたり逮捕されたりしたら責任を取れません。なので、避難してもらうためです。後に「事前通告には感謝している」と防衛省幹部に言われました。

――2人の反応は対照的です。

西事務次官は仲良くしていたので、「別班があるのは聞いていたけど、海外展開は本当に知りませんでした。よく調べましたね」と褒めてくれました。非常に正直な感想だと思います。

岩田さんは「なぜこんなことを書くんだ。なぜこのタイミングなんだ」と。飲み友達だったのですが、それで完全に切れましたね。日本酒の師匠で「獺祭」のうまさを開眼させてくれたのも彼のおかげなんですけど。

人間関係は切れてしまいましたし、さみしいですよ。でも、しょうがない。飲み友達になるために会社の金で飲んだのではないので。

政府は「誤報」の言葉使わず

――記事について、当時の小野寺五典防衛大臣、菅義偉官房長官は別班の存在を否定しましたが、「誤報」との言葉は使いませんでした。

「完全誤報だ」って言ってくると思ってましたけど、そうではありませんでした。「空想」「絵空事」だって言われると思いましたが。

菅官房長官は翌日の会見で、「別班なるものは過去も現在も存在しないと防衛省からは聞いている」と防衛省がソースだとしているんです。小野寺さんも、「陸上幕僚長に聞いたところによると、そういったものは存在しない」と。真っ向から共同通信の誤報だとは絶対に言わなかった。

――それは将来的に認める可能性があるから。

民主党政権の時にやはり核密約を認めた実績に期待しています。ああいうことが政権交代をきっかけに起きる可能性はゼロではないと、かすかな希望を持っています。よっぽど勇気のある総理大臣と、防衛大臣とが合意して認める可能性はゼロではないと思います。

後日ですが、小野寺さんと飲んで話したら「変な感じはするよな」って言うんです。「長くても2年しかやんない防衛大臣になんか言わないよな」って 言っているんです。とことん話をして、自分も言えるとこまでは情報を明らかにして何とか調べてくれとは言ったんですけど、彼は本当に知らないです。

官僚が用意する想定問答(報道陣の質問を想定して事前に準備する答弁)でも、完全誤報とは言えないですよ。それを政治家に言わせてしまったら、自分たちの責任が問われますよね。

――記事を配信後の小野寺大臣との閣議後定例記者会見では、防衛省幹部から怒りの混じった視線を向けられました。

針のむしろで、いたたまれないですよね。後ろからは若い記者から「このじじい、いつまで質問しているんだ」「共同しか関係ないだろ」っていう冷たい視線が前から後ろから(笑)。とにかく、いたたまれないですよ。

記事で人間関係は壊れたが「後悔は全然無い」

――記事を出した後、20年来の知り合いの陸自幹部を飲みに誘うと、「定年後にしてくれ。絶対に携帯に電話しないで」と言われました。他にも、陸自から石井記者の情報源と疑われることを恐れて関係が切れた人も多くいます。記事を出した後悔はありませんか。

全然ないです。新聞記事を書くのが仕事ですから。飲み友達を作るとか仲のいい人を作るために会社の金で飲んでいるわけではありませんから。

石井は自著で、別班について正直に吐露した18の証言を紹介して結んだ。
「■絶対に素の自分は表に出せない。それがストレスで、休日は家族に嘘を言って漫画喫茶に行ってひとりでぼんやりしている」
「■どんな時でも、自然な笑顔をつくれる。人間として寂しい」
「■別班という組織の全貌を明るみに出して、潰してほしい。そして、国が正式に認めた正しい組織をつくってほしい」――。

――証言からは切なさを感じました。

可哀そうですよ。自衛官と言えど、一国民です。そういう人を洗脳したり人格を変えていいのかと。家族にも心の中で壁を作っちゃう人にして、どう責任を取るのかと思います。

自衛官ならやむを得ないのか。とてもそうは言えない。本人と家族が可哀そうですよ。選ばれてしまったらどうしようもないんです。

「別班員の安全をどう守るか?」 国民と国会の承認が必要だ

――自衛隊は今後も評価の分かれる対象であり続ける。災害対応などで国民の大きな期待と実績がある中、別班が今のままでは隊員個々人が浮かばれません。

海外に出向いて情報を取る組織は必要かどうかという議論は確かにあると思います。もし必要であるなら、今のような非公然の組織で総理大臣にも防衛相にも知らせていないなんていう状況を無くすべきです。総理大臣、防衛相の認識の下で、海外でも情報活動が必要であると国民、あるいは国会が認めるのであれ ば、堂々と活動すべきだと思います。

加えて、危険性に関する議論も忘れてはなりません。自衛官が海外で情報収集活動をする危険性を国民、国会に示さねばなりません。防衛駐在官(駐在武官)が情報収集活動をするのとは違って、身分を隠した自衛官にやらせるのならば、万が一海外の諜報機関や捜査機関に逮捕、拘束されたときに国家としてどう責任取るのか。そうしたことを突き詰めて議論すべきです。

別班の取材が佳境に入ったころ、国会では防衛や外交など4分野の情報を「特定秘密」に指定し、秘密を漏らした公務 員に罰則を定めた特定秘密保護法の審議が盛り上がった。取材や報道の自由、国民の知る権利への侵害が懸念される中、石井氏は別班に関する報道で一石を投じたい考えだったが、秘密保護法は反対が根強い中、13年12月6日に成立した。

特定秘密保護法で取材環境は厳しさを増すばかり

――6日で特定秘密保護法の成立から5年を迎えます。

当時は本当に残念で、悲しい思いがしました。安倍晋三政権の下で“いつか来た道”をまたたどっているなと言う気がしました。無力さも感じました。

秘密保護法は、権力側が恣意的に特定秘密に指定できるわけです。そうされると、記者はどうしようもない。防衛省の取材がやりにくくなったのは間違いない。法成立前と比較できる我々年寄りの記者にとっては、あきらかに取材がしにくくなった。

保護法ができてから取材に行くと、「ちょっと待って。それ特定秘だ」って言われると、言葉が繋げないんですよ。取材を完全に拒絶する決めゼリフです。

――取材拒否はおかしいと声を上げるのも難しくなった。

前提として、国は別班という存在自体を認めていないので、特定秘密になっているはずがありません。ただ、秘密保護法が出来る前だから取材をして記事を出すこともできたけど、成立後の今となっては、無理じゃないかと思います。

防衛省全体の雰囲気として、保護法ができてから非常に取材がやりにくくなった。今だったら別班の取材はできなかったと思います。

秘密保護法は、取材に対する無形のプレッシャーになっています。逮捕されるなら「真実を求めたジャーナリスト」としてヒーローになれるからいいんでしょうけど、本当に私たちが怖いのはガサ(家宅捜索)です。

会社に置いている取材メモを捜査機関に持っていかれたら終わりなんです。ニュースソースを守れないのです。ガサへの恐怖もありますし、常に秘密保護法で有形無形のプレッシャーを受けています。

――メディアも過渡期にあります。新聞からウェブ、スマホへという媒体の問題ではなく、そもそもの若者のニュース離れが言われる中、調査報道的な読み物はインパクトが大きい。

新聞記事の背景には、相当な無駄があるんです。今回の取材は5年半かかりましたが、相当な時間と取材費を使って、もしかしたら1行の記事にもならないかもしれなかった。そうしたことをやらせる体力が新聞、通信社に無くなりつつあるのは危機感を持っています。

それが出来なくなるとしたら、どこがやるのか。テレビ、ウェブメディアが出来るのかというと、どうなのでしょうか。ものになるかわからない調査報道は相当の余裕がないと出来なくなってしまっている。

メディアが権力監視型の調査報道をやる余裕はなくなりつつある

――若い人には何を感じてほしいですか。

聞屋(ぶんや=新聞記者)は古い言葉だし、ジャーナリストは自分で言うのは格好悪い。新聞記者を目指すなら、権力監視型の調査報道が一番価値があって、やるべきものだと思います。

新聞・通信社でそういう余力がなくなりつつある中で、いったいどうすべきか。アメリカでは、オンラインニュースの「プロパブリカ」がピュリッツァー賞を受賞しています。日本もそういうメディア環境になって行くのでしょうか。

――国の見解では、今も別班は存在しないことになっている。今後も追い続けるのでしょうか?

政府が別班の存在を認めて、しかるべき公然の組織になるまでずっと追い続けます。今、57歳なんで、定年まで残り2年。残り少ない記者人生ですけど(笑)。

 

石井暁(いしい ぎょう)

1961年生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。85年に共同通信社に入社し、岡山、浦和(現・さいたま)、横浜支局を経て、94年から社会部。長く防 衛庁(現・防衛省)を担当し、安全保障問題を中心に、自衛隊のルワンダ難民救援活動、環太平洋合同演習(リムパック)、北朝鮮不審船事件、北朝鮮ミサイル 発射・核実験などを取材。月刊誌『世界』(岩波書店)にも寄稿してきたほか、別班を扱った調査報道の手法を伝える活動にも取り組んでいる。

[BLOGOS]

時空をつないでいく日々の創作

連載梶原しげるのプロのしゃべりのテクニック

「響30年」「山崎50年」を生んだ伝説のブレンダーが必ず守っている習慣

2018年11月11日

当記事はnikkei BPnetに連載していたものを再編集して掲載しました。初出は2014年9月4日です。記事の内容は執筆時点の情報に基づいています。

サントリーを飛躍させた伝説のブレンダー輿水精一さん

ブレンデッド・ウイスキーの最高峰である「響30年」や、珠玉のシングルモルト・ウイスキー「山崎50年」「山崎35年」、そして「白州」など、今や世 界のウイスキーファンを魅了し続ける名酒を世に送り出し、そのブランドを不動のものにしたサントリーのチーフブレンダー輿水精一(こしみず・せいいち)さん。ラジオ局のスタジオに現れた輿水さんは、カリスマオーラをぷんぷん漂わせた「伝説のプロフェッショナル」という雰囲気は微塵もない。超一流といわれる 人は大抵そういうものなのだが。

ウイスキー通にはいまさらな話で恐縮だが、ブレンダーとは樽ごとに個性の異なる「モルト・ウイスキー」を利き分け、これをバランスよくヴァッティング (個性をもつモルト・ウイスキーを大桶に入れて混ぜ合わせること)をしたり、「モルト・ウイスキー」(大麦麦芽=モルトだけでつくられるウイスキー)と 「グレン・ウイスキー」(とうもろこしなどの穀物に大麦麦芽を加えて蒸溜したウイスキー)を混ぜ合わせてブレンディングをしたりすることで、新しいウイス キーを創り出す人と言われる。何十万樽ある「モルト原酒」のどれとどれを組み合わせれば狙った味ができるのか、ブレンダーは日々格闘している。

 7人のブレンダーがいるサントリーでも、輿水さんはウイスキーの品質を決める「最終評価者」=チーフブレンダーとしてその頂点にいらっしゃった。サントリーでは創業以来、4人のチーフブレンダーがその役割を継承してきたが、輿水さんは1999年より務めてきた3代目だ。

ヴァッティングとかブレンディングとは何か。何となくは分かる気もするが実際の所「何をどうなさっているのか」は分からない。

こういうときは恥も外聞もなく聞いてしまうのが一番だ。ただし中途半端な「エラそうに見せたがる人」には、こういう質問はやめたほうがいい。「それくらい事前に調べておけ!」と言わんがばかりに「ムッとされる」可能性がある。

ところが超一流の方というのは、こういう「素朴な質問」に丁寧に答えて下さることが多い。むしろネットで調べた半端な知識を、専門家を前にぺらぺらしゃべってしまうほうがよほど非礼だと私は思う。

80万樽のマッチングから新製品を編み出す

梶原:「そもそもブレンダーとはどういうお仕事なんですか?」

輿水:「分かりやすく言いますと、新製品を作るため、80万樽ほどある、どの樽とどの樽の原酒を組み合わせるか、そのマッチングを行う仕事とでもいいましょうか」

梶原:「80万樽!!!」

この一言でラジオを聞いている人たちにも「おびただしい樽がギッシリ並んだ巨大な蒸留工場のとんでもない広大さ」が目の前に広がってくるのではないだろ うか。それと同時に80万樽にも達する原酒の中から、相性のいいものをヴァッティングしたり、ブレンディングしたりする輿水さんたちブレンダーの仕事の困難さを知り、さらなる興味を募らせるはずだ。

 「一流の人」「その道の大家」は「インパクトのある数字」をさりげなく口にされる。話が上手下手の問題ではない。スゴイことをやっている方は気負わずごく自然にスゴイことをおっしゃるからつい引き込まれる。

輿水:「新製品とは別に、既に何年も前に発売しているおなじみの角瓶やオールドなどの味を正しく維持するための ブレンディングも重要な仕事です。一方で、当然ながら12年先、30年先、お客様に喜んでいただける12年もの、30年もののウイスキーも作ります。そう いう未来の味も、今の私たちが決めることになります。ブレンディングとは、現在・過去・未来という時空をつなぐ仕事なんだと責任を感じますね。こういうこ とができるのも、先輩たちが素晴らしい原酒を作り、貯蔵してくれた80万樽があればこそですが」

仕事を「点で考えず線で考えろ」とはビジネスでしばしば言われるが、ブレンダーの仕事はまさにそれだ。一般のビジネスでも、「今のことでアップアップの イッパイイッパイ」ではいい仕事にはなりそうもない。仕事において「時空をつなぐ役割」という意識は大事なキーワードだ。

テイスティングで最も重要なのは集中力

輿水:「このブレンディングで重要なのは、皆さんはワインでご存じでしょうが、テイスティングです」

梶原:「グラスに入れた樽の原酒や原酒同士をブレンドしたものを、口に含むんですか?」

輿水:「はい、嗅覚・味覚・視覚を中心に全身の感覚器官を総動員して臨みます」

このテイスティングを、輿水さんはじめブレンダーの皆さんは毎日2時間かけてワイングラスで200杯分行うのだそうだ。言うまでもないが200杯のウイ スキーは口に含むだけで飲み込むわけではない。アルコールはある程度口腔内の皮膚から吸収されるが、それで「判定の軸が揺らいでしまう」などということは ないと断言なさる。

輿水:「テイスティングで最も重要なのは集中力です。テイスティングを始めてから終わるまで、感性の集中力に変 化があってはいけません。集中度合いが変わらず、同じ感覚でテイスティングし続けることが最低要件。感性に変化が起きないそのリミットが経験的に2時間以 内であり200回なのです」

ビジネスパーソンにとっても、「実際に自分の集中が途切れないのは何時間で、どの時間帯なのか」を知っておくことは大切だと思う。

仕事のできない人に限って「忙しい、寝てない」を自慢のように口にする。しかし、仕事のできる人は、結構涼しい顔で課題を達成して周囲を驚かせる。それは集中すべき時間、時間帯を心得て、24時間のメリハリを付ける賢い時間コントロールを心がけている証拠ではないか。

これといった仕事もないのに、「何だか、だらだら忙しい」といつもどこかで追い立てられる気分の私などは、「集中力のない典型だ」と大いに反省させられる。

「いい仕事」のために輿水さん心がけていること

輿水さんは、大事な2時間を1日のうち、どこに持っていくかもしっかり決めている。

輿水:「朝10時から正午までの2時間。私にとってはここが一番集中できる時間です。私は毎朝7時に工場に到着 します。そこで前日やり残した雑務や、この後のテイスティングの準備などにゆったり時間を使い、午前10時きっかりに始めます。そのためには心身の状態が 安定していることが大前提です。風邪を引いた、二日酔いなどが論外なのは言うまでもありません。肉体的な健康と同様、いや、それ以上に気をつけているのは 心の健康、つまりストレスをためないことです。テイスティングするとき、何かのストレスを感じたら、嗅覚も、味覚も、感性のすべてが効かなくなり使い物になりません」

梶原:「じゃあ、朝出がけに奥さんとケンカして気分が悪い、なんてのはアウトですね」

軽い冗談のつもりだったが、輿水さんは真剣だ。

輿水:「まるで駄目です。万一そういうことがあったとすれば、その人はテイスティングの仕事を始めることができません。やってはいけません。そもそもブレンダーとは、感情の起伏の激しい人には向かない仕事なんです」

毎日朝からウイスキーが味わえて、それが仕事になるなんてこんなにいい仕事ならやってみたい、と一瞬思っていたが、感情の起伏が激しく、ストレスを感じやすい私には最も不向きな仕事だということが分かった。

私に限らず、感情のふれ幅の大きい人にはどうやら丁寧で繊細な仕事は向いていないようだ。「いい仕事」のためには「集中力の維持」と「感性の軸がぶれない」、この2点が重要なのだと改めて知らされた。

 

外国観光客が日本のウイスキーを買って帰るのが当たり前に

輿水さんたちブレンダーや素晴らしい原酒を仕込んだ人たちのおかげで、日本のウイスキーは今や世界的な評価を受けている。

梶原:「サントリーの響、山崎、白州や、ニッカの竹鶴、余市をはじめ、日本のウイスキーは世界のトップレベルに到達したと言えますか?」

ずっと謙虚な姿勢を崩さなかった輿水さんが、このときばかりは「その通りです!」と即答なさった。

輿水:「世界を凌駕(りょうが)したと言うと言い過ぎですが、ウイスキーの世界的なコンペティションで3年続け て金メダルを取ったのは日本です。スコットランドのブレンダーをよく知っていますが、お世辞抜きで評価してくれています。私が入社した40年前には考えも 及びませんでした」

ここで輿水さんとちょっと懐かしい話で盛り上がった。

梶原:「僕は新入社員のころ、お金もなくてもっぱら“白”(安価なブランドのサントリーホワイト)を飲んでいま した。給料がちょっと上がるころから角瓶を飲みながら、上司がボトルキープしている“だるま”(サントリーオールド)を見ては、いつかは自分もオールドを、なんて思っていました」

輿水:「私も全く同じです。あのころは生活の向上に合わせてウイスキーの値段の高いものを選んでいくという、<いつかはオールド>って時代でした」

梶原:「車だって、<いつかはクラウン>でしたもんね」

輿水:「しかし今の若い方にはそういうこともなく、いきなりシングルモルトの白州から飲み始めるというスタイルが当たり前のようになっていますね」

梶原:「変わりましたねえ。変わったといえば、昔は外国旅行から帰って来る日本人がスコッチウイスキーをぶら下げて税関を出てきましたねえ。私もそうでしたが」

輿水:「憧れの外国産高級ウイスキーやブランディーが3本まで免税価格で安く買えましたからね。でも今では羽田でも成田でも、外国の観光客が日本のウイスキーを買って帰るというのが当たり前になっています。お土産でもとても喜ばれる」

輿水さんは心からうれしそうに語った。

家では角瓶を飲むんです!

梶原:「ところで、輿水さんは家では何を飲んでいるんですか?」

輿水:「晩酌ですか? 私はですねえ、角瓶なんですよ」

梶原:「えー? 響とか、山崎、白州じゃないんですか?」

輿水:「仕事柄そういうお酒、シングルモルトなんかもいろいろ家にありますよ。でも毎晩疲れずに飲むなら角瓶が 最高ですね。夏はハイボール、冬はお湯割り。特別に何かいいことのあったハレの日は響とか山崎、白州を飲みますよ。でも毎日っていうと疲れますね。それぞ れ主張が強いから」

午前10時から正午まで、感性の集中力を途切れさすことなく、200杯のウイスキーを鼻で嗅ぎ、口に含んでは吐き出し、データをノートに書き続ける伝説 のブレンダー。その輿水さんが、帰宅してゆったりくつろぐ夕飯の食卓。奥様とのんびり味わう晩酌に「角瓶」のお湯割りを楽しむ姿を想像し、何だか気持ちが ほっこりしてきた。

[UPGRADE LIFE/Nikkei TRENDY NET]

人生の中に山登りがある、、、山登りの中に人生がある。。。/解る人にしか解らない。。。

「人生の中に山登りがある」――クライマー佐藤裕介が「悔悟」から見た新しい風景

 

今、日本でもっとも世界に誇れる登山家 は誰か。登山関係者の答えは、ほぼ一致する。佐藤裕介だ。今年、39歳になる。国内トップとして、世界からも尊敬を集める。だが、その圧倒的な支持の割 に、この6年間、彼がテレビや雑誌に露出することはほとんどと言っていいほどなかった。その理由は、ある「傷」を負ったからだ。口を閉ざし続けてきた登山 家に、あのときのこと、そして、あれからのことを聞いた。(ライター・中村計/Yahoo!ニュース 特集編集部)

山岳界でもっとも権威ある賞を受賞

登山家・佐藤裕介(撮影:森山憲一)

頂上から360度見渡すと、まるで仙人の住処(すみか)のような光景である。木々の間から、無数の岩の壁や柱が突き出ている。

山梨県北部にある瑞牆山(みずがきやま、2230m)は、国内屈指の岩山だ。登山シーズンの週末ともなれば、そこかしこの岩をクライマーがよじ登っている。

この地は、世界的なクライマー・佐藤裕介のホームでもある。

ある夏の日、佐藤は一人の客を伴い、瑞牆山を登っていた。先頭を行く佐藤は、何度も後ろを振り返り、コンスタントに休憩を入れていく。また、ところどころで立ち止まり、面前の岩への取り付き方を客にレクチャーする。

ガイドの仕事は、ひと昔前まで「山を飯のタネにしている」と山岳界で快く思われていなかったが、近年は佐藤のように前向きにとらえる登山家が増えた(撮影:森山憲一)

才能に恵まれた登山家は、往々にしてエゴイスティックなものだ。初・中級者を相手に懇切丁寧に指導する佐藤の姿は意外に映った。

「僕も昔は、ガイドの仕事は自分の登山を諦めた人がやるものだと思っていた。でも、ガイドをやりながらでも、自分の登山を続けている人が少しずつ出てきて。やり方によってはできるんだな、って思い始めたんです」

あるお客さんは「佐藤さんに教えてもらえるなんて、超ラッキーですよ」と興奮気味に語った(撮影:森山憲一)

佐藤のツアーは1人から4人の少人数がほとんど。「それくらいでないと責任を持って教えきれない」という(撮影:森山憲一)

甲府市内の団地で生まれ育った佐藤は、 釣りや木登りなど野外で遊ぶことが大好きな少年だった。本格的に登山を始めた甲府第一高校時代は、部員が少なく休部寸前だった山岳部を盛り立て、クラスメ イトからは「山岳クン」と呼ばれていた。金沢工業大学に進学し、地元の社会人山岳会「めっこ山岳会」で経験を積んだ。

大学卒業後は、父の経営する環境調査を 行う小さな会社に勤めながら、海外遠征にも頻繁に出かけるようになる。佐藤の名前が世界に知れ渡ったのは09年。佐藤を含む3人の日本隊によるインド・カランカ北壁の初登頂が評価され、世界の山岳界で最も権威のある「ピオレドール賞」を3人が受賞したことがきっかけだった。フランスの山岳団体と山岳雑誌が 主催する同賞の受賞は、日本人としては初めてでもあった。

人生を一変させた「事件」

日本を代表する登山家として地歩を固めつつあった佐藤の人生を一変させる「事件」が起きたのは、2012年7月15日のことである。

「那智の滝」は紀伊半島のほぼ南端、和歌山県那智勝浦町にある日本三名瀑(めいばく)のうちの一つだ。落ち口から滝つぼまで133メートル。ほぼ垂直に落ちる直瀑で、段差のない滝として高低差は国内最大でもある。

那智山中の入口には「那智御滝 飛瀧 (ひろう)神社」の看板がある。大鳥居をくぐり、そこから原始時代を思わす巨大な古木の間を歩くこと数十メートル、木々の合間に大きな滝が姿を見せる。滝口には、しめ縄がかかっていた。那智の滝は、熊野三山の一つ、那智熊野大社の別宮である飛瀧神社のご神体であり、世界遺産にも登録されている。

佐藤レベルのクライマーは、ときに米粒程度の突起でも、それを利用し壁をよじ登る(撮影:森山憲一)

佐藤が振り返る。

「那智の滝の名前くらいは聞いたことがありましたけど、実際に見たことはなかった。ただ、観光地として有名だし、あの滝は(登ることは)無理だろうな……ぐらいの認識でした」

そんな滝の真ん中よりやや上に、複数の人がへばりついているのを観光客が見つけたのは、朝7時半ごろだった。

それが佐藤ら3人の登山家たちだった。当時の雑誌記事などによれば、報告を受けた宮司らは拡声器を手に下りてこいと怒号を響かせたという。

佐藤は安全確保の動作が素早いため、用心深いにもかかわらず誰よりもスピーディーに登れる(撮影:森山憲一)

彼らが那智の滝を登るにいたった経緯は、こうだ。

「沢や」と呼ばれる、沢(川や滝)づたいに山を登ることが好きな登山家13人が、7月14日から16日までの3連休に奈良県・池原ダムに集まって交流会を開くことになった。佐藤もその中にいた。佐藤は沢登りを含むあらゆるジャンルの登山に精通している。

彼らは四つのパーティーに分かれ、それぞれに周辺でアタックする地点を検討した。そのリストの中に那智の滝もあったのだ。佐藤が話す。

「『マジか?』って思ったんですけど、 せっかくだから行ってみるか、くらいの乗りでした。3人で組んだの、あのときが初めてだったんですけど、3人とも沢登りに対する情熱が強くて、異様に盛り上がってしまった。宮司さんに怒られるだろうな、くらいは思ってましたけど、あそこまで事が大きくなるとは思ってなかったですね」

那智の滝を登って逮捕される

結果、3人は警察に通報され、滝を下りたあとに現行犯逮捕された。神社所有の立ち入り禁止区域に入ったことによる軽犯罪法違反と礼拝所不敬の容疑だった。

世界的なクライマーである佐藤ら3人が捕まったというニュースは、SNSなどで瞬く間に拡散した。どれも佐藤らを徹底的に叩く内容だった。

そんななか、登山専門誌「岳人」の編集者であり、サバイバル登山家として多数の著書を持つ服部文祥は数少ない擁護派だった。

「正直、僕は、何がいけないのか分から なかった。滝がそもそも誰のものかというのも分からなかったですし。歴史的に昔から宗教の対象だったと言われても、登山はもっと前からあったという言い方 もできる。登るという行為が信仰を汚すとも思わなかった。山岳信仰の象徴である富士山も、みんな登ってるじゃないですか。命懸けで滝を登るほうが信仰の対 象に近づいてるという言い方もできる。佐藤君たちはボルトで穴を開けるわけでもなく、ものすごくクリーンに登っていますしね」

スポーツクライミングと登山のいちばんの違いは危険度の高さ。登山はこの指先に自分の命が懸かっている(撮影:森山憲一)

注釈を加えると、佐藤は、ドリルで穴を開けボルトを打つような登山は絶対にしない。ハーケンは利用するが、ハーケンは岩の隙間に差し込んで使うため、壁に大きな傷を付けることはない。服部が続ける。

「大仏に登っちゃって、信仰を汚してい ると言われるのは分かるんです。でも、滝は自然の一部じゃないですか。佐藤君たちにとっては『山』ですから。ただ、大社の人たちからしたら滝も『大仏』と 同じだったんでしょうね。そういう両者の視点のギャップを冷静に分析する記事があってもよかった。ただ、何となくあっちの方が悪そうだからとみんなで叩い て、登山関係者も何の擁護もしなかった。あのとき、誰も登山の本質なんて分かってないんだなと思いましたね。そもそも登山なんて、大昔から、人間がつくっ た決まりごとの及ばない自然の中でやってきたことなわけですから。人間ではなく、山や獣に怒られるっていうのなら、分かるんですけどね」

探検家であり作家でもある角幡唯介は『新・冒険論』の中で、この事件について「登攀(とうはん)者の倫理としては一分の隙もないほど完璧だった」と書いている。

〈誰も手をつけていない最も大きくて美 しい滝を登るという行為の中にこそ、誰もが経験していない人類未踏の危険と創造性がひそんでいるわけで、その危険と創造性の中でこそ究極の自由は経験でき る。この登攀者の倫理を突きつめると、逆に那智の滝を登らないクライマーのほうがクライマーとしておかしいということになる〉

角幡の論はクライマー側の極論ではあるが、登山という行為がときに人間がつくった約束事を犯しかねない行為であると見事に指摘している。

質素な生活を送る佐藤は「お世話になっている企業はありますが、自分から積極的に探したことはありません」と語る(撮影:森山憲一)

「独りよがりな価値観があった」と猛省

とはいえ、佐藤の生活は、社会とまった く無縁でいられるわけではない。やはり社会人としてはあまりにも軽率な行動だった。逮捕された翌週、佐藤ら3人は頭を丸めて謝罪に出向き、このようなこと は二度としないという誓約書を提出。和歌山地検新宮支部は10月3日、3人を起訴猶予処分とした。

佐藤はこう反省する。

「潜在意識の中に、自分たちのやってい ることは悪いことではないというのがあった。でも、あの滝を登るという行為は、那智大社の人はもちろん、地域の方々からしたら、大事にしているものを汚さ れたとか、侮辱されたと思わせる行為だった。そういう他人の気持ちを考える余地がなく、自己完結してました。もうちょっと、考えればよかった……。今思え ば、『沢や』としての独りよがりな価値観があった」

事件後、山をやめなければという思いがよぎったこともあったのかと問うと、佐藤はにわかに強い視線を返し、挑むような口調でこう言った。

「ないです。まったくないですね。山をやめることが、那智大社の方々への謝罪になるとは思ってないので」

スポンサーが契約を解除

事件をきっかけに佐藤はザ・ノース・フェイスからスポンサー契約を解除された。

「それは(経済的には)厳しくなりましたよ。でも、僕がやっている登山は、装備も人数も極力抑える登山なので、そこまでお金はかからないんです。質素に生活していれば、遠征にも行ける」

ザ・ノース・フェイスとも、完全に縁が切れたわけではなかった。金銭的な援助は打ち切られたが「フィールド・テスター」として、今も物品の提供だけは受け続けている。

通常の体重は60キロ程度。ハードな岩山をやるときは56キロまで減量し、冬山をやるときは66キロまで増量する(撮影:森山憲一)

登山が他のスポーツと一線を画すのは、審判が存在しないところだ。強いて言えば、自分こそが審判なのだ。それゆえ思索的になりがちで、ときに宗教めいた領域に足を踏み込まざるを得なくなる。佐藤が語る。

「沢を登っていて、大きな滝が目の前に 現れたら、そりゃ、神々しいんですよ。そういう自然が大好きですし、だからこそ敬いながら、いつも登っていたつもりなんです。滝を傷付けないよう、ボルトも打ったことがない。ハーケンなども自分たちで回収できる範囲でしか使いません。自然のものを自然に近い形で登る行為は、自然に対するリスペクトでもあっ て、一種の信仰のようなものだとさえ思っていた」

2015年、佐藤は瑞牆山の通称「モアイフェース」という岩壁に挑戦した。死の危険性もある世界的な難所で、登攀に成功したのは佐藤が2人目(撮影:森山憲一)

「モアイフェース」を登る佐藤(撮影:森山憲一)

ご神体に登るという行為は、その敬虔さが、裏目に出たのだともいえる。

「宮司さんには、『(滝を)征服してやろうと思ってたんだな』って言われたんですけど、そういう気持ちはなかった。自然に飛び込みたいとか、自然を感じたいというのはあっても」

あのとき小学1年生だった娘には、時間を置いてから、自分の口で説明したという。

「お父さんは山を登っているのが純粋に 大好きで……ということは小さいころから言い聞かせていた。それで那智の滝っていう、登る状況にない滝を登っちゃって逮捕されたっていうのも分かってま す。ネットでも、こういうふうに書かれちゃうんだよ、って。『佐藤裕介』で検索したら、必ず『那智の滝』って出てきちゃう。でも、裸踊りとかはやってない からね、って」

事件当時、佐藤はネットメディア上で、遅くまで山でどんちゃん騒ぎをし、女性に全裸を見せ付けていたことがあるなどのデマを流されていた。

「晴れた日に家にいるのは罪悪感がある」と言われたため、佐藤のインタビューは大雨の日に行われた(撮影:中村計)

「人生の中に山登りがある」

佐藤が登山ガイドの仕事を始めたのは、事件の2年後である。以前よりも自由に休みを取れるようになり、長期遠征にも出掛けられるようになった。

「那智の滝のあと、登山内容が停滞したかといえば、そんなことはなかった。2008年からずっと取り組んできた厳冬期の黒部横断も、事件があった年の冬、5年越しで成功させることができました。それと、昔から憧れていた台湾の恰堪溪(チャーカンシー)の初遡行もできて、登山自体は充実していました」

瑞牆山の通称「モアイフェース」で(撮影:森山憲一)

あの事件の後も、佐藤は佐藤のままだった。その理由をこう語る。

「那智大社の宮司さんに、これからは自然に対し尊敬の念を持って生きていきなさいと言われた。それは、今までもそうだったんですけど、僕にとっては登山を続けていくことなので」

若いころは自分が30歳を過ぎても登山をする姿は想像できなかったという。でも、ここ数年、見える景色がガラリと変わった。

「(登山スタイルの)変化はあっても、山とはずっと付き合っていけるという確信が生まれた。だったら、山で飯を食っていってもいいかなとガイド業のことを真剣に考え始めたんです。登山は一つの課題をこなしたから終わりというものではない。人生の中に山登りがあるんで」

あの「事件」から6年――。客の歩幅に合わせ、のんびりと登山を楽しむ佐藤の背中には、強さと、そして、しなやかさが備わっていた。

今も最前線で登り続ける佐藤は「30歳まで生きていられるとは思っていなかった」と振り返る。すでに10人以上の知人が山で亡くなっているという(撮影:森山憲一)

(敬称略)


佐藤裕介(さとう・ゆうすけ)
1979年、山梨県甲府市生まれ。高校山岳部で登山、クライミングを開始。フリー、アルパイン、アイス、沢登りなど幅広いジャンルで登山、クライミングを行っている。2009年、ピオレドール賞を受賞。公益社団法人日本山岳ガイド協会の山岳ガイドステージⅡの資格を持つ。


中村計(なかむら・けい)
1973年、千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。スポーツをはじめとするノンフィクションをメインに活躍する。『甲子園が割れた日』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧幻の三連覇』(集英社)で講談社ノンフィクション賞受賞。

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