我(われ)を避けて我を得る。。。

 

養老孟司氏、「どうせ自分は変わる」が心をラクにする

養老孟司と「死にたがる脳」

 解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起から始まった連載も、今回が最終回。前回(「なぜ『他人が自分をどう思うか』を気に病むのか?」)に続き、課題解決の方策を探ります。

前回、指摘されたのは、家事の手伝いなどで、子どもに役割を与えることの重要性。そして、自然との接点を増やすことでした。「自然」は、「感覚」と並んで、子どもたちが死にたくならない社会をつくるうえでの大事なキーワードです(「感覚」の意味については、「なぜ子どもは『theの世界』を生きるのか?」、「『正義』が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから」参照)。

今回は、農業の話から発展して、システム化が進む社会と発達障害の関係、ネコの効用。そして、今まさに「死にたい」と思う人へのメッセージです。

(取材・構成/黒坂真由子)

 

養老孟司氏(以下、養老):世の中はもう、いずれにせよシステム化していきます。要するに、どこもきちんとしたものになっていく。ですからできるだけそうなってない場所を、子どものために確保しておく必要がある。

それは自然環境ということですか。

養老:いや、街のなかに空き地がなくなって、子どもの遊ぶ場所がなくなる、という話です。子どもたちが集合して、好き勝手に動き回っているという空間が消えちゃった。そんな意見が、僕の育っていく過程ではありました。完全に無視されましたけど。空き地はしっかり塀で囲って、「何々不動産管理地」というふうになっていきましたね。

こういうのは、やはり社会全体で考えるしかないですね。僕はやっぱり、ある程度古い形の生き方を地域的に復活させていくしかないと考えています。

例えば僕の知り合いは、学校になじめない子、例えば注意欠如・多動症(ADHD *)の子を引き取って、農業をしているんです。

* 注意欠如・多動症:ADHD(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder)

畑にいれば、発達障害は「障害」にならない

発達障害に農業ですか。

養老:「畑に連れていってしまえば、多動もくそもないよ」といっていました。結局、置かれた状況次第なんですね。教室のなかだと多動が目立つけど、畑だったら全然目立たない。

もしかすると、今も昔もADHDの子のパーセンテージは同じで、今の社会では目立つようになっているだけかもしれないということですね。日本で初めてADHD専門外来を立ち上げた医師の岩波明先生も、仕事の管理化が進んだことと、発達障害に注目が集まることを関連付けていました(「発達障害は病気ではなく『脳の個性』 治すべきものではない」)。

養老:田舎で育って、畑にいたら誰も気にしなかったのが、「きちんとしなさい」と座らせようとするから気になる。それができないからって、別に異常なわけではないですよ。

実際そういうふうに「ちゃんとしろ、座っていろ、きちんとしろ」といわれた子たちが、いわゆる二次障害(*)でうつを引き起こしたりしているんですね。うつから自殺という流れもあると思うんです。

* 二次障害:最初のADHDやASD(自閉スペクトラム症)、LD(学習障害)から派生して生じる、うつ病、不安障害、ひきこもりなどの障害

養老:僕の知り合いは、もう学校に行かないと決めた子を預かっているんです。それを教育委員会が認めてくれて、所属していた学校に通っていることにしてくれています。でも、していることは農作業です。動物の世話なんかもいいと思いますけどね。

「なんとかなる」というNPOもあります。僕はここの特別顧問をしているのですが、少年院を出た子たちを預かっているんです。親代わりに預かるところが必要なんですね。鳶(とび)の会社の社長さんが運営しています。でもね、今まで50人くらい預かったけど、なかなかうまくいかないといっていました。

子どもたちを社会に適応させてくのって、大変なんです。まず預かって、身元を保証して、その上で社会適応させていくというのが。「最大の障害は何ですか?」と聞いたら、「スマホだ」と。

スマホですか?

「きちんと」した社会は生きにくい

養老:少年院にいる間はスマホが使えないんですよ。出ると一番、それを欲しがる。スマホを見ると、いろんな広告が載っているでしょう。時給のいい求人広告なんかに釣られていなくなる。それが一番多いといっていました。それでまた、オレオレ詐欺の手先に使われたりして。やはりそう簡単じゃないですね。

社会がある一定の形を取ると、そこに適応できない人がどうしても出てきてしまう。それをどうするかというのは、社会を「きちんと」つくっていくほうの人には、関係のないことですから。

システム化を進めていくほうの人には関係のないこと、ですか。

養老:しょうがないからボランティアで何とかするしかないっていう状況です。こうしたセーフティーネットが、社会に欠けています。

仕事が合理化されてしまうと、まともな人でも仕事がなくなるという時代ですから。コンピューターが仕事をしてしまって人が要らなくなるということは、世界中で議論されていますよね。

マニュアルに従って仕事ができる人でさえ、仕事がなくなるといわれる時代です。

養老:ましてマニュアルが読めない、読んでも無視するってことになると、それならコンピューターのほうがましだって話になってしまいます。

あとはやっぱり、大人が満足してないといけないですね。

大人自身が。

ネコを見ていると、働く気にならなくていい

養老:居心地の悪いところから立ち去る。資質に合わない努力はしない。このあいだ話した坂口恭平さん(前回「なぜ『他人が自分をどう思うか』を気に病むのか?」参照)が、うつ病にならないための指針としてそう書いています(*)。ネコみたいに生きられればいいんですけどね。大人がある程度自足していれば、子どもにぶつかることはないと思います。

* 『躁鬱大学』(新潮社)

そもそも大人が満足していないことも問題であると。

養老:親と子の口論の末に自殺するなんて話も聞きましたが、本来ならどこかで折り合いをつけなきゃいけないはずです。お互いのせいにしないで。

私が正しい、あなたは間違っているということで、けんかになる。ここにも「自己」が絡んできそうですね。

養老:そういうときには世の中のせいにしたほうがいいと思いますよ。人間関係は難しいから。距離が近過ぎるんでしょうね。

そこに例えばですけど、ネコみたいな「自然」が入ってくると、ちょっとは変わりそうでしょうか。単純過ぎる解決策かもしれませんが。

養老:そこまでひどいけんかに、ならないかもしれませんね。ネコを見ていると、「なんで自分はこんなに必死になっているんだ」と思えるから。少なくともペットを飼っているほうが血圧は低いという研究はありますよね。

僕も、まる(*)が死んでから忙しくなっちゃったんですよ。まるを見ていたら働く気がしなかったのに。

* まる:養老先生と暮らしていた雄のスコティッシュ・フォールド。顔がまるいから「まる」

急に働く気に。

養老:まるがいなくなって、ブレーキが利かなくなっちゃったんです。

人はどうせ変わる。それが希望になる

最後に、今すごく苦しくて、死んでしまいたいと思っている子どもたちに、先生から何か伝えるとしたら、どんな言葉になりますか。

養老:どうせ自分は変わるよ、ということです。

どうせ自分は変わる?

養老:変わる。変わるに決まっているんですよ。今の状況が永久に続くってことはあり得ないので。今の状況が続かないと考えるときに、つい「周りが変わる」と思っちゃうんだけど、そうじゃないんです。「感じている自分」が、変わるんです。

「今、死にたいと思っている自分」が。

養老:変わる。変わるに決まっている。ですから、「今現在の自分」を、絶対視しない。これは当たり前のことなんですけどね。大人がそれを教えないといけないんです。僕なんか84歳までにどれだけ変わったか。

それを妨害するのが、「個性」とか「自己」を重視する今の風潮です。その人らしさとかね。いくらその人らしくしてみたところで、いずれ変わっちゃうんだから。らしくなくなっちゃっても、別にいいんですよ。

先日おっしゃっていた、「自己なんて本当はないんだ」ということを、子どもに教えるということですか。

養老:そうです。かなり乱暴ですけどね。でもお坊さんに聞いたら、みんなそう言うと思います。仏教は昔から「我というのを避ける」ということを言っていますから。

できるだけ自分が自分であるようにする、自分に素直であるようにするということを、「わがまま」っていうんです。「我がまま」ですから。

「わがまま」って、「私のまま」「自分そのまま」ということだったんですね。

養老:日本人の社会は、それを注意してきたんですよ。「我がまま」では駄目だと。

自分が変わるのが当たり前なんだから、自分が自分らしくあるなんてことはあり得ない。そして今の苦しみも続かないと。

養老:そうです。必ず変わるんですよ。

[日経ビジネス]

人は自らが感じ理解できるようにしか知覚できない。。。

 

養老孟司氏、「正義」が対立を呼ぶのは感覚に戻せないから

養老孟司と「死にたがる脳」

解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか?」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。

前回は、「子どもは感覚的である」ということの意味をうかがいました。子どもの世界のリンゴは、英語でいう「the apple」であり、個別具体的なリンゴです。一方、大人の世界のリンゴは「an apple」であり、抽象的な概念でした。

このような言葉の使い分けは、英語だけでなく、日本語にもあるといいます。

(取材・構成/黒坂真由子)

 

子どもが「感覚的」であるとは、どういうことか。この問題に関連して、前回、英語における「the」と「a」の違いを解説いただきました。例えば「the apple」が示すのは、感覚的なリンゴ。触ったり、においをかいだり、食べたりできる「ある特定のリンゴ」。「an apple」は、「リンゴ」という音が聞こえたときに、みんなが想起するリンゴ。いわば「概念としてのリンゴ」。

 日本語では、それを「が」と「は」で使い分けているということでしたが、どういうことでしょうか?

養老孟司氏(以下、養老):「昔々あるところに、おじいさんとおばあさん『が』いました」「おじいさん『は』山へしば刈りに行きました」となります。最初の「おじいさん」は、「概念のなかでのおじいさん」です。後者は、前の文に出てきた「特定されたおじいさん」ですね。

感覚に戻せない言葉が、対立を招く

概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。

養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。

リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。

「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。

 大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか?

養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。

猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。

養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。

なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年)

「男女同じ」が、かえってストレスにならないか?

現代社会は、情報化社会で、情報とは時間的に変化しないものでした。だから、情報化社会は、必然的に「同じ」を志向する(養老孟司氏、なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?参照)。となると、「違う」を志向する感覚の世界を生きている子どもたちが今の社会を生きるということは、脳の機能や発達から考えても、かなり苦しいということなんですね。

養老:ストレスが多いでしょう。最近では、男性と女性を分けることもダメになってきましたね。頭で考える世界では、そんなふうにイコールが優先していくんです。

学校もそういえば、出席番号を男女で分けなくなりました。男女を同じに扱うという基本的な方針があるようです。

養老:それだって、別な不平等ですよね。小学校高学年のときは、女の子、怖かったですよ。発育が先にいっちゃうから、体が大きいし、強いし、頭も回るし、女の子にはかなわないので。

今も同じです。

養老:僕らのころは、運動っていうと、ドッジボールくらいしかなかったから。一緒にやっていて、女の子がボールを持つと、僕は必死で逃げました。すごい勢いでボールが飛んでくるから怖いので。

子どもが感覚を優先しているということは、絶対音感からもわかるんですよ。

絶対音感からわかるというのは、どういうことでしょうか?

養老:子どもはね、絶対音感なんです。

感覚を突き詰めたら、言葉は使えない

養老:絶対音感によって言葉が区別されれば、お父さんが呼ぶ「タロウ」と、お母さんが呼ぶ「タロウ」は、違う言葉として捉えられる。音の高さが違いますから。

お母さんに呼ばれるのと、お父さんに呼ばれるのでは、同じ「タロウ」でも違うと?

養老:そうです。それが違う音だっていうふうに、感覚が優先すればなっちゃう。感覚を突き詰めると言葉は受け入れられません。動物がそうですね。うちの猫は「まる」といったんですけど、僕が「まる」と呼ぶのと、女房が「まる」と呼ぶのでは、音としては全然違うので、まるにしてみれば違うことを言われていると思っている。

だから、小さいときから音楽漬け、楽器漬けになっていた子は、絶対音感が残るんですよ。

絶対音感が「残る」。ということは、絶対音感はもともとあるということですか? 全員に。

養老:そうです。もともとは絶対音感のはずなんです。そうじゃないとおかしいのですよ。僕は医学部で耳の解剖生理を習いましたから。そっちから見る限りは、動物は絶対音感を持つはずなのです。 持っていないと不思議なのです。

ある特定の振動数の音が聞こえてきたとき、耳のなかでも脳のなかでも、それに対応する決まった部位が必ず反応することがわかっています。大脳皮質には第一次聴覚中枢があって、ここの神経細胞は、周波数に従って並んでいるのですよ。ピアノみたいに。

すると 「タロウ」とお母さんに言われたときと、お父さんに言われたときでは、タロウくんの脳のなかで活動する部位が異なるということですか?

養老:当然、異なります。異なるはずです。声の高さが違っていたら。お母さんが発する音とお父さんの発する音は別な音だということになります。感覚が優先すればそうなるんです。そうすると言葉が使えません。

それは、いろいろな人が発する「タロウ」を「同じ言葉」と認識できないから?

養老:はい。だから動物は言葉が使えないのです。絶対音感だから。

「同じ」を優先すると、絶対音感を失う

少し話がそれるかもしれませんが、『自閉症は津軽弁を話さない』を著した松本敏治先生から教わった、自閉症の子どもは「音の絶対音感者」である可能性を示す学説を思い出しました(発達障害の不思議「ASDの子どもはアニメから日本語を学ぶ?」参照)。

 養老先生がおっしゃるのはつまり、子どもはもともと絶対音感を持っている。しかし、成長する過程で、違う音を抽象化して同じ言葉として認識する働きが身につき、その段階で絶対音感が失われる……。

養老:そうです。「イコール」を優先してしまうのですよ。そして「違う」を無視する。白墨で書いても「黒」と読めるようにするのと同じで、「違っているんじゃないの?」という感覚は無視してしまう。

本当は感覚でいえば、音の高さが違うから、違うはずだけど。

養老:感覚が「違うよ」と言っているんだけど、意識は「同じ」だと主張する。そして人は大人になるにつれて、意識を優先するようになる。

「小さいときから楽器の訓練をしないと、絶対音感がつかない」と言われますが、きっとそうではありません。小さい頃から楽器の訓練をしないと、絶対音感が消えてしまうのです。

なるほど、先生が「子どもはより自然に近い」とおっしゃる意味が、だんだんわかってきた気がします。

[日経ビジネス]

 

 

四十歳がその後の健康人生の分かれ道。。。

 

■「脳トレはほぼ無意味だった」認知症になっても進行がゆっくりな人が毎日していたこと70歳から急に老化する人、しない人

和田秀樹
精神科医・国際医療福祉大学赤坂心理学科教授

70代こそ肉を食べよう

20代、30代の人がスキーで転倒して足を骨折し、病院のベッドで1カ月寝たきりの生活をしたとしても、退院すればまもなく普通に歩くことができるようになります。

しかし70代ではそうはいきません。寝たきりの生活が続くと筋力が低下し、骨折が治ったあとも、「立つ」「歩く」といった日常生活に必要な動作に支障をきたすようになり、介護が必要になるリスクが高くなってしまいます。

こうした「ロコモ(ロコモティブシンドローム=運動器症候群)」が目立ってくるのも、70代からの特徴です。

70代こそ意識して体を動かす必要があるのですが、前頭葉が萎縮いしゅくし、動脈硬化もかなり進行していますから、なかなか動こうとしない人が増えてきます。これは男性に顕著な傾向です。男性ホルモンが減り、行動意欲が失われているからです。

したがって、歳をとればとるほど、毎日の食事を通じて男性ホルモンの材料になる肉やコレステロールを摂取する必要があります。コレステロールは主要な男性ホルモンである「テストステロン」の材料であり、コレステロールが気になるからとこれを減らすのは、ホルモン医学の立場で言えば、まったくの逆効果でしかありません。

女性ホルモン補充で骨粗鬆症予防を

女性の場合、男性ホルモンが増加するので、むしろ元気になる人が多いのですが、その一方で女性ホルモンが減るため、それにともなう問題がないわけではありません。女性ホルモンが減ることの弊害としては、肌つやが悪くなることのほか、骨粗鬆症こつそしょうしょうの原因にもなることがわかっています。

骨粗鬆症を防ぐには適度な運動をし、戸外を散歩するなどして日光によく当たること、あるいはビタミンDが多く含まれている食品をとるなど、ごく常識的なことをする心がけが必要です。

日に当たらない生活があまり長く続くとうつになりやすいのは、広く知られているとおりです。日光浴は、うつ病や不眠症を予防し、骨粗鬆症の予防にもなる70代女性にとっての格好の健康法なのです。

また性ホルモンは性別を問わず、ホルモン補充療法で補うことが可能です。

副作用のリスクを心配する方も少なくないでしょうが、更年期に特有の不定愁訴に対しては、苦痛を手っ取り早く取り除き、副作用も比較的少ない療法です。QOL(生活の質)を重視するのであれば、ホルモン補充は効果的な療法だと私は思います。

認知症リスクが大きくなってくる70代

70代になると、いよいよ認知症が他人事ではなくなってきます。

認知症の有病率は、70代前半までは世代人口の5%。70代後半に入ると8~10%弱の人が認知症になります。

日本では認知症患者の6割以上がアルツハイマー病を原因疾患とする「アルツハイマー型認知症」だとされています。アルツハイマー病は、神経細胞の中にアミロイドβと呼ばれるたんぱく質が蓄積されることによって引き起こされると考えられています。

脳にアミロイドβがたまりやすいかどうかは、遺伝的要因に左右される面がかなり大きく、親がアルツハイマー型認知症の有病者であった場合は、子どももなりやすいといわれています。

「頭」を使って認知症リスクを低減する

実は、2021年に、ついにこのアミロイドβを脳内から除去する作用のある薬がアメリカで認可されました。たしかに朗報ですが、年間650万円もかかることもあり、日本で認可されるのか、あるいはどういう患者さんに保険が利くようになるのかはまだ不透明です。将来には期待できますが、いますぐとはいかないのが実情です。

それでも、昔からいわれる「頭を使っている人はボケにくい」というのは一面の真理です。

脳の萎縮が同じくらい進んでいる2人の認知症患者を比較すると、何もしていない片方の人はかなりボケてしまっているのに、日頃から頭を使う環境にいたもう片方の人はそうでもなく、知能テストをするも明らかに後者のほうが点数が高かった、というケースがままあります。

頭をしっかり使って、認知症のリスクを低減させていきましょう。

「脳トレ」より「人との会話」

近年、「脳トレ(脳力トレーニング)」と呼ばれるトレーニングメソッドが、脳に刺激を与え、ボケ防止に役立つということでブームになっています。

ただ「脳トレ」は残念ながら、認知症予防という観点からはほとんど無意味だということが、最近行われた海外の研究で明らかになっています。

『ネイチャー』や『JAMA』(アメリカの医学会雑誌)のような超一流の医学誌に、この効果にまつわる大規模調査の結果が発表されています。

そのうちの1つ、アラバマ大学のカーリーン・ボール氏による2832人の高齢者に対する研究では、たとえば言語を記憶する、問題解決能力を上げる、問題処理の能力を上げるというようなトレーニングをさせた場合、練習した課題のテストの点だけは上がるのですが、ほかの認知機能がさっぱり上がらないことがわかっています。

つまり、与えられた課題のトレーニングにはなっても、脳全体のトレーニングにはまったくなっていないことが確認されたというのです。

では、いったいどうやって「頭を使う」といいのか。私の経験上、もっとも効果が高いと感じられるのは、人との会話です。

他人とのおしゃべりでは、自分の話したいことに対して相手から反応が返ってきますし、強制的に頭を働かせなくてはいけない局面が増えます。もちろん、仕事や家事も複数の知的作業をともなうので、「頭を使う」ことにつながります。「生涯現役」というスタンスも、有力な脳のトレーニング法といえるでしょう。

認知症の進行は生活環境で大きく変わる

介護保険がまだ導入されておらず、今日の主要な抗認知症薬であるアリセプトも未認可だった1990年代に、私は勤務先である浴風会病院とは別に、茨城県鹿嶋市の病院で月2回、認知症の診察を担当していたことがあります。

鹿嶋市に足を運ぶようになってしばらくして気づいたのが、浴風会病院にやってくる東京都杉並区の認知症患者たちに比べて鹿嶋市の認知症患者の進行がかなり遅く、症状が目立たない、ということでした。

それがなぜなのか、最初はとても不思議でした。しかし、杉並区と鹿嶋市の高齢者が置かれている生活環境を見比べているうちに、おおよその見当がついてきました。

当時はまだ介護保険が始まる前でしたから、杉並区の高齢者たちは、認知症になるとその多くが家に閉じ込められたのに対し、鹿嶋市では、比較的気ままに近所を歩き回らせていることが多かったのです。

それでも、出歩いた認知症高齢者が家に帰れなくなっていると、すぐに近所の誰かが見つけて連れて帰ってくれるので、あまり困った事態になることはありません。

オール・オア・ナッシングで考えない

農業や漁業の従事者に関していえば、認知症が発症しても、それまでと変わりなく仕事を続けている人も少なくありませんでした。

認知症が発見されると、一般的には周囲が先回りして外出や仕事などいろいろなことをやめさせてしまうことが多いのですが、“オール・オア・ナッシング”で考える必要はありません。

「この仕事、この家事は、もうできなくなったからやめる」
「この家事は、できるからしばらくは続けよう」

そういう判断があっていいはずなのです。

70代からは「比べない」

70代ともなると、世代全体の10%が認知症になります。残りの9割は依然として頭がはっきりしており、健康な人とそうでない人の差が、それまでになくはっきりと分かれてきます。

外見の面でも、同級会などで集まれば、みな同い年のはずなのに一見して「え?」と驚くくらいの個人差が容姿の老け具合に出てきます。社会的にも、現役バリバリで社長を務めている人がいるかと思えば、定年退職した人の多くは「無職」という肩書をつけられてしまう現実があります。

だからこそ、なにかと「あいつに比べて自分は……」という引け目を感じやすくなり、人によってはそれが重荷になってくることもあります。

老いを受け入れるとは個人差を受け入れること

同世代の人よりもちょっとだけ早く老いを受け入れざるをえなくなった70代の人にとっては、「老いを受け入れる」ことは「個人差を受け入れる」とほぼイコールの行為でもあります。

この世に同じ人は一人も存在せず、誰もがみんなとちょっとずつ変わっているのですから、自分を他人と比べているかぎりは苦しさから抜け出せません。他人にはできて、自分にはできないことについて思いを巡らせて悶々もんもんとするよりは、「いまの自分に何ができるのか」ということを前向きに考えたほうが、ずっと健康的に生きられます。

人と比較するより、自分の生き方を模索するほうが賢明だと、私としては信じています。

[PRESIDENT Online]

認識して許容することが自らを手放す入り口。。。

 

イライラ・怒りの原因は「自分への執着心」

人間の感情は、瞬間的に、突発的に爆発するものではありません。いくつもの火種がくすぶり続け、合わさり、少しずつ火力を増していきます。ですので、イライラや怒りを鎮めるには、「心の火」が燃え上がる前に「種火」のうちに鎮火すべきです。

人がイライラの火種を抱えてしまうのは、「自分に対する執着心」が強すぎるから。要するに、「自分のことを大切に思いすぎている(自分のことを好きすぎる)」からです。

大切なものを壊されたとき、人の心にイライラが芽生えます。たとえば、「100円ショップ」で買った食器を子どもが割っても腹が立たなかったのに、「1枚1万円」のお皿を子どもが割ると怒りたくなるのは、1万円のお皿のほうが「大切だから」です。

自分で自分のことが「好きすぎる」人は、自分を大切に思うあまり、「自分が否定される」ことを極端に恐れています。

思い通りにいかないとき、イライラしたり怒ったりするのは、防衛本能の発露です。他人を攻撃することで、大切な自分を守ろうとしているのです。

自分の感情を自覚することが重要

では、どうすればイライラの種火を消すことができるのでしょうか。仏教が教える種火を消す処方箋は「瞑想」です。

瞑想といっても、坐禅を組んだり、心を静めて仏に祈ったりすることではありません。瞑想というのは、心を「無」にしてイライラを抑えつけることではなくて、「イライラしている自分を認めて、全身で感じる」ことです。

「今、自分はイライラしている」「このモヤモヤ感は、きっと怒りの感情だ」と、客観的に自覚することが瞑想です。

人は「イライラしている自分」を認めたくない

多くの人は、イライラしているとき、「イライラしていないフリ」をします。他人に「そんなことでイライラするなよ」と指摘されると、「イライラなんかしてないよ!」と言い返したくなるのは、「イライラしている自分」を認めたくない、という反発心からです。

怒りやイライラの感情は、抑えつけようとすると、反発して大きくなりやすい。一方で、「イライラしている自分」に気づき、「自分は今、イライラしはじめているんだ」と認めた瞬間、自分の心を落ち着かせることができるのです。

(本稿は、苦しみの手放し方』より一部を抜粋・編集したものです)

[DIAMOND online]

依存と従属からの脱却の好機、、、私達はどの道を行くのか。。。

日本有事に安保で米軍は動くのか 法哲学者や元自衛隊幹部が語る懸念

井上達夫・法哲学者、東京大学名誉教授

<日米安保条約第五条  各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。>

「この安保第5条は日本の安全保障の基本条文です。アメリカで大統領が代わるたびに、日本政府はこの5条が尖閣諸島にも適用されることの確認を求めます。もし尖閣に何かあれば、アメリカは助けてくれますよねという確認です。歴代の大統領は尖閣も適用対象だと応じてきました。でも、尖閣に中国が侵攻したとき、本当にアメリカが軍を出すでしょうか。実のところは難しいと私は考えます」

アメリカに有利な「片務条約」

交戦法規がない現行憲法の問題

 

山下裕貴・千葉科学大学客員教授、元陸上自衛隊・陸将

「日本が有事となるシナリオはいくつかあります。例えば沖縄の尖閣諸島に中国軍が上陸し、自衛隊が中国軍と衝突するというケースです。偽装した民兵が尖閣に上陸して発砲してきた。海上保安庁・警察が対応するなかで、中国側は武装した海警局、さらに軍が出てくる。そうなると、日本も海上自衛隊が出ざるをえず、全面衝突になる──。問題はこうしたケースで日米安保が発動されるかどうかですが、結論から言えば難しいでしょう。アメリカの国内世論や連邦議会で『無人のちっぽけな島のためにアメリカの若者の血を流すのか。核保有国と戦争するのか』という意見が出る中、政府がそれを押し切って軍を派遣するとは思えません」

北海道では米軍が来るまで厳しい戦い

(図版:ラチカ)

(撮影:編集部)

隊員同士の信頼関係を

安保の重要性は両国で認識

[YAHOO Japanニュース]