■日本だけ給料が上がらない謎…「内部留保」でも「デフレ」でもない本当の元凶
<順調に給料が上昇する諸外国と比べて、日本の賃金低迷はいよいよ顕著に。企業への賃上げ要求では解決不可能な根深い原因とその処方箋>
日本人の賃金が全くといってよいほど上昇していない。賃金の低下は今に始まったことではないが、豊かだった時代の惰性もあり、これまでは見て見ぬふりができた。だが諸外国との賃金格差がいよいよ顕著となり、隣国の韓国にも抜かれたことで、多くの国民が賃金の安さについて認識するようになっている。
OECD(経済協力開発機構)によると、2020年における日本の平均賃金(年収ベース:購買力平価のドル換算)は3万8515ドルと、アメリカ(6万9392ドル)の約半分、ドイツ(5万3745ドル)の7割程度。00年との比較では、各国の賃金が1.2倍から1.4倍になっているにもかかわらず、日本はほぼ横ばいの状態であり、15年には隣国の韓国にも抜かされた<参考グラフ:各国の平均賃金(年収)の推移>。
諸外国の賃金が上昇しているということは、それに伴って物価も上がっていることを意味する。食品など日本人が日常的に購入している商品の多くは輸入で支えられており、諸外国の物価が上昇すれば、当然の結果として輸入品の価格も上がる。日本人の賃金は横ばいなので、諸外国に対して買い負けすることになり、日本人が買えるモノの量は年々減少している。
日本の大卒初任給が20万円程度で伸び悩む一方、アメリカでは50万円を超えることも珍しくない。日本人に大人気のiPhoneは、高いモデルでは約15万円もするが、月収20万円の日本人と50万円のアメリカ人とでは負担感がまるで違う。このところ日本が貧しくなったと実感する人が増えているのは、こうした内外価格差が原因である。
日本企業の内部留保は異様な水準
では、なぜ日本人の賃金は全くといってよいほど上がらないのだろうか。ちまたでよく耳にするのは、企業が内部留保をため込んでおり、社員の給料に資金を回していないという指摘である。21年3月末時点において日本企業が蓄積している内部留保は467兆円に達しており、異様な水準であることは間違いない。
だが内部留保というのは、賃金を含む全ての経費や税金を差し引いて得た利益(当期純利益)を積み上げたもので、本来は先行投資などに用いる資金である。内部留保が過剰に積み上がっているのは企業が先行投資を抑制した結果であって、内部留保を増やすために賃金を引き下げたわけではない。政府は企業に対して内部留保を賃金に回すよう強く求めたことがあったが、これは企業会計の原則を無視した議論であり、企業が応じることは原則としてあり得ない。
内部留保と並んでよく指摘されるのが、デフレマインドというキーワードに代表される日本人の価値観である。アベノミクス以降、デフレが日本経済低迷の元凶であり、デフレから脱却すれば経済は成長するという考え方が広く社会に浸透した。だが、この議論も先ほどの内部留保と同様、原因と結果を取り違えたものといってよいだろう。
一部の特殊なケースを除き、デフレ(物価の下落)というのは基本的に不景気の結果として発生する現象であり、デフレが不景気を引き起こしたわけではない。不景気でモノが売れず、企業は安値販売を余儀なくされ、これがさらに物価と賃金を引き下げている。高く売ることができる商品をわざわざ安く売っていたわけではない点に注意する必要がある。
一部の論者は最低賃金が低すぎるなど、制度に問題があると指摘している。日本の最低賃金が低すぎるのは事実であり、筆者も改善の余地があると考えているが、これが低賃金の直接的な原因になっているわけではない。ドイツではつい最近まで最低賃金制度が存在していなかったが、賃金は日本よりも圧倒的に高く推移してきた。
まともな賃金を払わない企業には人材が集まらないので、企業の側にも賃上げを行うインセンティブが存在する。企業が十分な利益を上げているのなら、最低賃金制度がなくても企業は相応の賃金を労働者に支払うはずだ。
低収益によって賃金が低迷する悪循環
以上から、日本企業は何らかの原因で十分に利益を上げられない状況が続いており、これが低賃金と消費低迷の原因になっていると推察される。収益が低いので高い賃金を払えず、結果として消費も拡大しないため企業収益がさらに低下するという悪循環である。そうだとすると、政府が取り組んでいる賃上げ税制も十分な効果を発揮しない可能性が高い。
岸田政権は企業に対して賃上げを強く要請するとともに、賃上げを実施した企業の法人税を優遇する措置を打ち出した。政府からの要請を受けて、企業が賃金を上げたとしても、企業の収益が拡大しない状況では確実に減益になる。企業は品質の引き下げや下請けへの値引き要求など別なところで利益を確保しようと試みるので、賃上げ分は相殺されてしまう。最初から賃上げをする予定だった企業が、節税目的で制度を利用するという、本来の趣旨とは異なる使われ方もあり得るだろう。
法人税が高い状態であれば、減税もある程度の効果を発揮するかもしれないが、安倍政権は経済界の要請を受け、在任中に3回も法人減税を実施した。日本の法人税は度重なる減税によって大幅に下がっており、企業にとって減税は魅力的に映らない。というよりも、低収益に苦しむ経済界が政府に減税を強く要請したという図式であり、背後には慢性的な低収益という問題が存在している。
結局のところ日本企業が十分な収益を上げられず、これが長期的な低賃金の原因になっているのはほぼ間違いない。では日本企業というのはどの程度、低収益なのだろうか。
一般的に企業の収益力は当期純利益など最終的な利益率で比較されるが、これは賃金を支払った後の数字。人件費を極端に削減すれば利益を上げることができてしまうため、賃金について議論する場合、この指標を使うのは適切ではない。企業がどの程度、賃金を支払う能力があるのかは、企業が直接的に生み出す付加価値を比較することが重要である。
企業というのは、商品を仕入れ、それを顧客に販売して利益を得ている。製造業の場合には原材料などを仕入れ、組み立てを行って製品を顧客に販売している。
販売額と仕入れ額の差分が全ての利益の源泉であり、この根源的な利益のことを企業会計では売上総利益と呼ぶ。商売の現場では粗利(あらり)という言い方が一般的だが、経済学的に見た場合、企業が生み出す付加価値というのは、この粗利のことを指している。企業は付加価値の中から人件費や広告宣伝費などを捻出するので、付加価値が高まらないと賃金を上げることができない。
全業種で付加価値が低い日本
日本とアメリカ、ドイツにおける部門(業種)ごとの付加価値(従業員1人当たり)の違いを比較すると、その差は歴然としている。図2のグラフ<参考:日米独の部門(業種)ごとの付加価値の違い>は日本企業の付加価値を1としたときの相対値だが、アメリカは全ての部門において、ドイツもほぼ全ての部門において日本よりも付加価値が高い(つまり儲かっている)。日本企業の付加価値が低く推移している以上、日本企業は賃金を上げられないのが現実だ。
では、なぜ日本企業は高い付加価値を得られないのだろうか。会計的に言えば、付加価値(粗利)を増やすには、①売上高を拡大する、②価格を引き上げる、③仕入れ価格を引き下げる、という3つの方法しかない。このうち③の仕入れ価格の引き下げは、品質の低下や取引先企業への悪影響といったデメリットをもたらすので、積極的には選択されない。結局のところ、付加価値を増やすためには売上高を増やすか、価格を引き上げるかの2択となる。
図3のグラフ<参考:日米の企業売上高の推移>は日本とアメリカの企業全体の売上高の推移を示したグラフである(80年を100としたときの相対値)。アメリカ企業はリーマン・ショックなどの例外を除けば、基本的にほぼ毎年、売上高を拡大しており、過去40年間でアメリカ企業の売上高は7倍近くに増えた。
売上総利益率(売上高に対する売上総利益の割合)は大きく変わらないので、売上高の絶対値が増えれば、その分だけ付加価値の絶対額も大きくなり、賃金を捻出する原資が増える。一方、日本は90年代以降、むしろ売上高を減らしている。売上高が増えていない以上、仕入れ価格を極端に下げるか、販売価格を引き上げない限り、付加価値は増えない。
では価格の推移はどうだろうか。経済圏全体で販売されている全ての製品価格を調べることは不可能だが、輸出に関しては統計的に価格の推移を追うことができる。日本の輸出品目の価格は80年を境に一貫して低下が続いている。国内でもファストフード・チェーンが過度な低価格競争を繰り返してきたことは多くの人が理解しているだろう。
結局のところ、日本企業は売上高を拡大することができず、価格を引き上げることもできていないという状況であり、これが低賃金の元凶となっている。売上高も価格も変えられないということは、企業の競争力そのものに問題があるとの結論にならざるを得ない。
なぜ日本企業の国際競争力は低いのか
では日本企業の競争力はなぜ諸外国と比較して低く推移しているのだろうか。国により主力となる産業は異なるのでタイプ別に考えてみたい。
昭和の時代まで、日本は輸出主導で経済を成長させてきた。輸出主導型経済において成長のカギを握るのは、輸出産業の設備投資である。海外の需要が拡大すると輸出産業は増産に対応するため工場などに設備投資を行い、これが国内所得を増やし、消費拡大の呼び水となる。
一方、アメリカのような消費主導型経済の場合、成長のエンジンとなるのは国内消費そのものである。消費が拡大すると、国内企業が商業施設などへの設備投資を増やし、これが所得を増やして消費を拡大させるという好循環が成立する。
GDPの支出面における比率を見ると、アメリカは個人消費が67.9%もあるが、日本は55.4%となっており、日本はアメリカと比較して消費の割合が低い。だが、ドイツやスウェーデン、韓国など、日本よりもさらに消費の割合が低い国はたくさんある。ドイツは今も昔も製造業大国であり、輸出産業の設備投資が経済に大きな影響を与えている。
同じく製造業が強いスウェーデンに至っては個人消費の比率はわずか44.7%しかない。これらの国々はまさに輸出主導型経済と言ってよく、日本はどちららかというと輸出主導型経済と消費主導型経済の中間地点と見なせるだろう。
加えて言うと、同じ輸出主導型経済であっても、典型的な福祉国家のスウェーデンと、日本と同じく自助努力が強く求められ社会的弱者の保護に消極的な韓国とでは、政府支出の比率が大きく異なる。スウェーデンは、韓国よりも製造業の付加価値が高く、余力を社会保障に充当しているという図式であり、これが政府支出という形で経済に貢献している。
韓国はかつては外貨の獲得に苦しみ、海外への利払いや返済が企業経営の重荷となってきたが、リーマン・ショック以降、輸出が大幅に増え、国際収支は近年、劇的に改善している。企業資金需要の多くを国内貯蓄で賄えるようになり、豊かだった日本に近い状態となりつつある。
日本以外の先進諸外国は、日本がゼロ成長だった過去30年、順調に成長を続けることができたが、それは各国企業がそれぞれの経済構造に合致した形で、業績拡大の努力を続けたからである。
グローバル基準でも大手だった日本企業の現状
消費主導型経済であるアメリカの場合、経済をリードする企業はウォルマートやホーム・デポといった小売店、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)に代表される生活用品メーカーなどであり、一方、輸出主導型経済において成長のエンジンとなっているのは電機や機械、化学など典型的な製造業だ。
ドイツにはシーメンスやバイエルなど、グローバルに通用する巨大メーカーがたくさんあり、スウェーデンは小国でありながら、エリクソン、ボルボ、イケア、H&M、スポティファイといった著名企業がそろっている。韓国はサムスンとLGが有名である。
日本の大手企業は80年代まではグローバル基準でも大手だったが、30年間で様子は様変わりした。各国企業が軒並み売上高を拡大する中、日本企業だけが業績の横ばいが続き、多くが相対的に中堅企業に転落した。グローバル基準でも大手といえるのは、もはやトヨタや日立、ソフトバンクグループなどごくわずかである。
日本企業の凋落は全世界の輸出シェアを見れば一目瞭然だ。日本は80年代までは順調に世界シェアを拡大し、一時はドイツと拮抗していた。ところが90年代以降、日本企業はみるみるシェアを落とし、今では4%を割るまでになっている。
90年代といえば全世界的にデジタル化とグローバル化が進んだ時代であり、日本メーカーはこの流れについていけず、競争力を大きく低下させた。かつては世界最強と言われた半導体産業がほぼ壊滅状態に陥ったのも、全世界的なデジタル・シフトに対応できなかったことが原因である。結果として日本の製造業の売上高は伸びず、単価が下がったことで収益力が低下し、賃金が伸び悩んだと考えられる。
豊かな先進国は通常、製造業の競争力が低下しても、国内の消費市場を活用して成長を維持できる。日本はアメリカほどではないが、相応の国内消費市場が存在しているので、容易に消費主導型経済に転換できたはずだが、国内産業も製造業と同様、業績を拡大できなかった。主な原因はやはりデジタル化の不備にある。
80年代から90年代前半にかけて、日本におけるIT投資の金額(ソフトウエアとハードウエアの総額)は、先進諸外国と同じペースで増加していた。ところが95年以降、その流れが大きく変化し、日本だけがIT投資を減らすという異常事態になっている(OECDの統計を基に筆者算定)。この間、アメリカはIT投資額を3.3倍に、スウェーデンは3.0倍に拡大させた<参考グラフ:各国のIT投資の水準>。
ITは企業の限界コスト(生産を1単位増やすために必要な追加投資の額)を引き下げる効果を持つので、デジタル化時代においてITを積極的に導入しない企業は経営効率が著しく低下する。日本企業の多くはITを活用した業務プロセスの見直しを実施せず、生産性が伸び悩んだ可能性が高い。生産性と賃金は比例するので、生産性が伸び悩めば当然、賃金も下がってしまう。
企業業績が拡大しないと賃金は上がらない
これまでの議論を整理すると、賃金というのは企業の付加価値が源泉であり、企業の業績が拡大しないと賃金は上がらないということが分かる。付加価値が低迷している状態で、無理なコスト削減(非正規労働者の拡大や、低賃金の外国人労働者の受け入れなど)を実施すると、さらに賃金が下がるという悪循環に陥ってしまう。
こうした状態から脱却するためには、企業の経営環境を根本的に見直す必要がある。意外に思うかもしれないが、日本は先進諸国の中で最も大手企業の経営者を甘やかす社会である。
アメリカはもともと株主の意向が強く、利益を上げられない経営者は容赦なく追放される。ドイツも90年代、当時のシュレーダー首相が中心となって企業経営改革を行い、企業は外部に対し明確な説明責任を負うようになった。ドイツの法律では債務超過を一定期間以上放置すると罰則が適用されるなど、経営者の甘えを許さない仕組みになっている。
債務超過に陥ったいわゆるゾンビ企業を税金を使って延命させたり、粉飾決算を行った経営者を処罰しない日本とは雲泥の差といってよいだろう。
日本の中小企業は大企業の隷属的な下請け
日本でも徐々にコーポレートガバナンス改革が強化されつつあるが、いまだに企業間の株式の持ち合いが行われているほか、経営能力があるのか疑わしい単なる著名人を社外役員に迎えるケースが散見されるなど、ガバナンスについて疑問視せざるを得ない企業が多い。揚げ句の果てには、政府が大手企業から要請を受け、株主総会に不正介入した疑惑まで指摘されるなど、先進国としてはあってはならない事態も起こっている。
日本では中小企業の多くが大企業の隷属的な下請けとなっており、慢性的な低収益に苦しんでいるが、これも先進諸外国ではあまり見られない光景である(アメリカやドイツの中小企業の利益率は大企業とほとんど変わらない)。
ガバナンスが不十分な社会では、企業経営者は非正規労働者の拡大や下請けへの圧迫など安易なコスト削減策に走りやすい。日本の社会システムは大手企業経営者を過度に甘やかす一方で、中小零細企業の経営者には事実上の無限責任を課すなど、中小企業の行動を大きく制約している。
上場企業に対するガバナンスを諸外国並みに強化し、中小企業の自立を促す金融システム改革を進めれば、日本企業の収益は大きく改善すると考えられる。同時並行で、あらゆる企業がITを導入せざるを得なくなるよう、政策誘導することも重要だ。一連の改革を実施し企業が自律的に成長できるフェーズに入れば、企業が生み出す付加価値は増えるので賃金も上昇していくだろう。最大の問題はこの改革をやり抜く覚悟が日本社会にあるのかどうかである。
加谷珪一
経済評論家
[Newsweek]