渋沢栄一は武州の豪農だったが、仲間と共に尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を打ち払う)思想に染まり、討幕のために今の群馬県高崎市にあった高崎城 乗っ取りを企てるが、これを中止して江戸に出る。江戸では、道中手形を融通してもらい、混乱の京へ──。その後、なんと、将軍家の身内である一橋家に仕えることに。攘夷からも転向し、一橋慶喜の弟、昭武(あきたけ)のフランス留学に随行した。

今回は、渋沢のこの変わり身について、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』の著者である歴史家・作家の加来耕三氏が、考察してくれた。

前回は、渋沢栄一が「『経営者失格』と言われても、渋沢栄一がやりたかったこと」を解説してくれているので、そちらもぜひご参考いただきたい。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原武雄)

私は渋沢栄一の評伝を何冊か書いていますが、書くたびに悩んで筆が止まるのが、なぜ彼が体制(幕府)を倒そうとする“テロリスト”から、体制側に転向していったのかということです。これはどう考えてもおかしい。理解に苦しみます。

なぜそのような転向ができたのか。