自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.5

 

創造の喜びの大きさとはいかばかりのものなのか、内面から自ずと湧き起こる直感や想像を思うがままに具現化できる、無から有を生み出せる瞬間に、脳内には幸せと喜びのホルモンが大量分泌されたように感じられ、胸いっぱいに誇らしさと満足感のエネルギーが満ち溢れます。

本当の満足感や幸福感は、自分には価値があると思える時、自分の存在価値を確認できる時に感じられるものです。

文学、音楽、美術、舞踊など、芸術を追求する多くの人々がそんな創造の喜びを体験したことがあるはずです。

必ずしも特定の芸術分野でだけ創造の喜びを味わえるというわけではありません。

私たちが生きていく人生のすべての瞬間が、創造のチャンスです。

生活の中で必要だと感じることを実行したり、不便だと感じることを改善したり、これまでにしたことのないことをしてみたり、いつもしていることをこれまでとは異なる方法でしてみたりすることも、すべてが創造です。

 

自分自身の人生の主は、あくまで自分自身です。

今の自分の姿と状況をつくったのは他の誰でもないまさに自分自身、すべては自分自身の責任だと、自分自身の人生の主になってはじめて、それまで浄化することができなかった感情に真っ直ぐに向き合い、欲望、利己心、被害者意識、劣等感、過剰な自意識など、執着してきたことを一つずつ手放して、自由になっていくことができます。

心の平和は、執着を手放したときに訪れます。執着は愚かさから生まれ、愚かさは人生の目的が自覚できないために生じてきます。

私たちは、何処から来て何処へ向かうのか、何のために生きていくのかが解らないと、金銭や名誉や他人に執着するのです。

否でも応でも自分が経験したすべてが、自分自身を目覚めさせてくれた意味のあるものだったと自覚したその時、初めてあるがままの自分自身を丸ごと許容することができて、心からの感謝の思い、平和な心が生まれてきます。

何処に行くべきか教えてくれる大きな知恵の光を心に感じ、その光に身を任せている間は、心にいつも平和を抱き続けていけるのです。

 

私たちは、人々と交わりながら暮らすときに幸福度が高まり、人生の醍醐味を感じられます。

心理学者のスーザン・ピンカーは、「つながり」よりも「ふれあい」を強調し、「実際に会って交流すると、有益な神経伝達物質を滝のように分泌し、私たちを健康で幸せにし、明晰にする」と述べました。

しかし、、、

人は誰しも、この世に独り来て、独り去ります。

老若男女、貧富の差、社会的な立場を越えて、人間ならば誰であっても存在の孤独が深く身に沁みる瞬間を経験するのです。

その孤独を紛らわすために人と会い、享楽に溺れる人もいれば、孤独に耐えられず鬱になったり、自暴自棄に生きていくこともあります。

かと思えば、孤独の実態と正面から向き合い、人間の生の本質についての深い省察を通して意識の覚醒を経験する人もいます。

彼らはそのような覚醒をもとに精神的な成熟による新たなレベルの生き方を選択し、そこから内面の喜びを得ます。

人生とは結局のところ、孤独を乗り越えて変わらぬ自由と真理を見つけていく長い旅です。

悟れない孤独は暗く、私たちを辛く悲しくさせるばかりですが、存在の本質へ孤独を昇華させた悟りによって孤独はもはや暗闇や陰鬱ではなく「目映い孤独」になります。

勇気を出して孤独と向き合うことによって人生の本当の意味と道理を見抜く眼識を得た人からは、夜空に浮かぶ闇を照らす孤独な月のように、目映い光が放たれ、周囲の人々をも明るく照らすのです。

どこか一方に傾いて何かに頼っていたり、どこかに嵌まり込んでいるときには、全体を感じ取ることはできません。

徹底的に独りになり、寂しさがひたすら身に沁みるときに、初めて全体を感じられ、深い暗闇を裂いて明るい光が滲み出てきます。

沈む夕陽や夜空の星々を眺めるとき、静かな森を歩くとき、独り瞑想に耽るとき、完全に独りではあるものの、あらゆるものと一つに繋がっていく充足感に包まれるとき、

決して他の人や外部の何かでは満たせない、私たちの中にある根源的な寂しさの先に進んで初めて、自分の人生を支えてくれる固い信念とビジョンを創りだす知恵とパワーを生み出すことができるのです。

絶対的孤独の先にあるもの、それは完全な力である希望です。

持てるものが何もなくても、希望があれば新たな何かを創造でき、絶望的な状況にあっても困難を克服していけます。

希望を手に入れる前提条件は何もありません。

若ければ希望が持てるのではなく、富があれば、何かがあったら、誰かが助けてくれたら、希望を持てるのでもありません。

ただ自分が選びとるだけのもの、自ら探し、探してもなければ創ればよいのです。

希望を実現するためには、絶えず自分を磨き、どんなときも最善を尽くすことが肝要です。

完成を目指すための自己啓発は、人と競争するためのものではなく、私たちが競争する対象があるとすれば、それは昨日の自分自身です。

次の失敗に、そしてまたその次の成功にいたるまでの、その時々の成功には様々な締め切りがありますが、完成に向かう自己啓発の締め切りはただ一つ、人生の最後の瞬間だけです。

人から期待される人生ではなく、胸の奥底の心が本当に望んでいること、それをしていて死んでも決して後悔しないと思えること、それをできなかったら死ぬときに後悔すると思えること、そんな何か、そんな生き方を見つけることがとても肝要です。

「今日が人生最後の日なら、今日しようとしていたことをそのままするだろうか?」と、自分に問いかけてみてください。

「そうだ」と思うなら、今それは間違いなく意味のあることです。

しかしそうでないなら、本当に心がしたいということを見つけるべきです。

悟りというのは大したものではなく、幾多の煩悩の後に一瞬霧が晴れて差し込む陽射しのようなもの、ただ自分に本当に必要なことに気付くことです。

その悟りの後にまた幾多の煩悩が生まれてきます。

物質主義や消費主義に慣らされた多くの人は、自分に必要なものが何かわからないまま、何の考えもなしにあれこれと購入し、過剰消費と浪費に明け暮れています。

自分に必要なものがわかる人ならば、物を購入するときにも慎重に選びます。

自分に必要なものが何かを知り、次に人々に必要なものが何かを知れば、そのように人生を設計できます。

エゴではなく真我の自分である限り、自分にとってよいことをすれば、それが結局はみなのためによいことなのです。

この世に、他と隔たって存在しているものなど何もありません。

地球上のすべての生命は、天と地、そしてその間の虚空でつながっています。

すべては一つだとわかることから、すべてを愛するという思いが生まれるのです。

 

参考文献
自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.1〜Vol.5に関して
草薙龍瞬/著「反応しない練習」
一指李承憲/著「人生120年の選択」

 

自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.4

 

自らにとっての真実の欠片は、迷い悩み考え抜いて決断した自らの完全な満足を目指す過程でしか見つけられませんが、それらで組み上げていく真の納得という幸福の美しい景色のパズルは、その時々での自らをあるがままに受け容れるということにより、それまでの自分自身から離れることでしか決して完成させることはできないのです。

自分自身に拘ることが自由への入口ですが、その自分自身が実はまた最大の束縛であり足枷にもなるからです。。。

そして、またその時々の一つの達成という納得の積み重ねを手放して、またゼロから次の達成を目指してコツコツと納得を積み重ねていく、、、
そうした繰り返しのすべての過程が、日々何時どんな時にも自らの納得に包まれた真の幸福な人生なのだと私は確信しています。

 

自分自身と真っ直ぐに向き合い、自らの内なる心の声に無条件に従って生きる限りのすべてが正しい、、、
人の数だけある自由な人生、自らを救える人生における正誤の基準は、いつも自分自身の納得の有無です。。。

本当のことや大切なことは、いつも隠れていて、自ずと見えてくるものがあるとすれば、それらは何処かの誰かにとっての願望や都合に過ぎません。

具体的にどんな人生を創り上げていくのかを、迷い抜き考え抜いたうえでの選択決断により、自分自身にしか決して見つけられない人生の扉を開け、試行錯誤を重ねながら一つ一つ探し出していく真実の欠片というパズルで、自らの納得という幸福な景色を組み立てていく道筋を進み続ける限りは、その過程におけるすべてが正しいのです。

 

こうした視点考察については、かつて2000年初頭に執筆したコラムにて詳述していますので、よろしければどうぞ〜
長いです。。。(苦笑)
巡り巡ってまたふりだしに(中段)
巡り巡ってまたふりだしに・続編2
巡り巡ってまたふりだしに・続編3

 

Vol.5に続く

自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.3

 

自由な人生…
自分自身を救える人生…
人の数だけあるそれらは、具体的にどんな人生なのかをよく考え抜いて、そんな人生を送れるように必要な準備を始めなければなりません。

そうでなければ、人は自由に、自らの心に忠実に生きるのではなく、単によく慣れて安定感を得られる事柄ばかりに囲まれた、これといった変化も挑戦も成長もない人生を送り逝くことになるやもしれません。

 

「これからたくさん時間があるのに、何も急ぐ必要はない。ゆっくり考えればいいだろう」
もしもこんなふうに考えている人のために、以下は十余年ほども前に新聞で紹介されたある95歳の方(103歳で逝去)の告白です。

『私は、若い頃、熱心に働きました。
その結果、私は認められ、尊敬されるようになりました。

そのお陰で、65歳のとき堂々と引退することができました。
そんな私が30年後の95歳の誕生日に、どれほど後悔の涙を流したかしれません。

私の65年の生涯は、誇らしく堂々としていましたが、その後の30年の人生は、恥ずかしく悔やまれる悲痛な人生でした。

私は引退後、「もう十分生きた。残りの人生は、おまけみたいなものだ」と考え、
ただ苦しまずに死ぬことだけを待っていました。

むなしい希望のない人生、
そんな人生をなんと30年も過ごしました。

30年という時間は、今の私の年齢、95歳の1/3にあたる、とても長い時間です。
もし私が引退したときに、
あと30年生きられると思えば、
こんな風には生きてこなかったはずです。
そのとき私は、自分は年老いた、
何かを始めるにはもう遅いと思っていたのが、大きな過ちでした。

私は今95歳ですが、意識は明瞭です。
あと、10年、20年、生きるかもしれません。

私はこれから、やりたかった語学の勉強を始めようと思います。
その理由は、ただ一つ。

10年後に迎える105歳の誕生日に、
95歳のときになぜ何も始めなかったのかと後悔しないためです』

 

長い時間でも、短い時間でも、意識的に生きなければ、時間はただ流れていきます。

「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私は林檎の木を植える」
「すべてのことは願うことから始まる」
『「今でなくても」が、「やらなかった」になるのは実に早い』
場所や時間を超えて相通じるこれらは、ドイツの宗教改革者ルターが遺した名言です。

 

さらに過日のウェブ記事ファイルから、
脳科学者・中野信子氏のコラムも再度ご紹介します。

 

Vol.4に続く

自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.2

 

一体自分とは何者であって、
何処へ向かうべきなのか、
何を為し、
何を手に入れたいのか、

自分自身を探さないのは、他者の人生の脇役や片隅のエキストラを演じているに過ぎません。

自分自身と真っ直ぐに向き合い、自らの内なる心の声に無条件に従って生きる限りのすべてが正しいのです。

 

何も見えてこないうちは、置かれた場所で与えられたことに全身全霊を傾けることからしか何も見つけられません。

問い続けて見えてくるものがある限りは、それらに邁進し続けるしかありません。

これまでどんな人生だったとしても、過去の人生のすべての段階が集まって今の自分が存在しています。

これまでの人生はすべて自分が創造したものであるように、これからの人生のすべてもまたこれから自分が創造していくものです。

その時々の場面において、他者からの押し付けや他者の瞳に映る好かれたい認められたい自分を探すのではなく、自らの内なる心の声に忠実に従っての選択決断でありさえすれば、それらすべては自分の血となり肉となります。

さらに諦めないで継続していけば、たとえ一時の失敗も一過程にすぎず、次に続く成功へと繋げていけますし、自信という思い込みでしかなかった事柄を、実際の経験は確信に変えてくれるのです。

 

Vol.3に続く

 

自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.1

 

一体自分とは何者であって、
何処へ向かうべきなのか、
何を為し、
何を手に入れたいのか、
問い続けてこそはじめて見えてきます。。。

人生は一度きり、やり直すこともできません。

自分が本当に願う人生、逝くときに後悔しない人生を送るためには、日々自分自身に繰り返し問い続けねばなりません。

状況は常に、時代も、そしてその自分自身すらも変わり続けていくのですから。。。

 

人が本当に願っているのは、一人の人間として独立して自由に生きているという感覚、愛し愛されているという感覚、理想とする自分を実現しているという感覚、大切で有意義な人生を送っているという感覚、より良い世界をつくるのに貢献しているという感覚、、、

つまりは、自分の存在意義と価値の実現からもたらされる内面の満足感や充足感でしょう。

 

たとえ、自らに真正面から向き合う余裕もなく、社会や組織や家庭に組み込まれ、既得権益者たちの都合でつくられた常識や責任などという幻想の檻に囚われたまま、いつの間にか自立心を依存従属という安定に摺り替えて吝かでない人生を過ごしてきてしまったとしても、再始動する勇気さえ持てればいつからでもどこからでもやり直せます。

たとえ、そのまま時を打ち過ごしてしまったとしても、人生の後半期には、社会や組織や家庭での責任も減り、ただ自分として生きていける、
心から願っている本当の私の姿で、人生の中身を自ら満たし、スピードを自分で調整しながら心安らかに豊かに生きていける機会が訪れます。

すべての外形的、人為的な価値がなくなっても、独り自ら存在する本当の自分を見つけなければなりません。
世俗的なもので満足できない何か、望むものをすべて手に入れても何かが欠けていると思うのは何故なのでしょう。

それは、自分の価値を見つけられるのは自分自身だけであり、自分の価値を創造できるのも自分自身だけだからです。
自分の価値は、誰かが認めてくれるからではなく、自分自身が創造し、自分自身が意味を持たせるからこそ唯一無二真に尊く、自分自身をあわよくば完全に満足させ、少なくとも心から納得させてくれるのです。

 

Vol.2に続く