創造の喜びの大きさとはいかばかりのものなのか、内面から自ずと湧き起こる直感や想像を思うがままに具現化できる、無から有を生み出せる瞬間に、脳内には幸せと喜びのホルモンが大量分泌されたように感じられ、胸いっぱいに誇らしさと満足感のエネルギーが満ち溢れます。
本当の満足感や幸福感は、自分には価値があると思える時、自分の存在価値を確認できる時に感じられるものです。
文学、音楽、美術、舞踊など、芸術を追求する多くの人々がそんな創造の喜びを体験したことがあるはずです。
必ずしも特定の芸術分野でだけ創造の喜びを味わえるというわけではありません。
私たちが生きていく人生のすべての瞬間が、創造のチャンスです。
生活の中で必要だと感じることを実行したり、不便だと感じることを改善したり、これまでにしたことのないことをしてみたり、いつもしていることをこれまでとは異なる方法でしてみたりすることも、すべてが創造です。
自分自身の人生の主は、あくまで自分自身です。
今の自分の姿と状況をつくったのは他の誰でもないまさに自分自身、すべては自分自身の責任だと、自分自身の人生の主になってはじめて、それまで浄化することができなかった感情に真っ直ぐに向き合い、欲望、利己心、被害者意識、劣等感、過剰な自意識など、執着してきたことを一つずつ手放して、自由になっていくことができます。
心の平和は、執着を手放したときに訪れます。執着は愚かさから生まれ、愚かさは人生の目的が自覚できないために生じてきます。
私たちは、何処から来て何処へ向かうのか、何のために生きていくのかが解らないと、金銭や名誉や他人に執着するのです。
否でも応でも自分が経験したすべてが、自分自身を目覚めさせてくれた意味のあるものだったと自覚したその時、初めてあるがままの自分自身を丸ごと許容することができて、心からの感謝の思い、平和な心が生まれてきます。
何処に行くべきか教えてくれる大きな知恵の光を心に感じ、その光に身を任せている間は、心にいつも平和を抱き続けていけるのです。
私たちは、人々と交わりながら暮らすときに幸福度が高まり、人生の醍醐味を感じられます。
心理学者のスーザン・ピンカーは、「つながり」よりも「ふれあい」を強調し、「実際に会って交流すると、有益な神経伝達物質を滝のように分泌し、私たちを健康で幸せにし、明晰にする」と述べました。
しかし、、、
人は誰しも、この世に独り来て、独り去ります。
老若男女、貧富の差、社会的な立場を越えて、人間ならば誰であっても存在の孤独が深く身に沁みる瞬間を経験するのです。
その孤独を紛らわすために人と会い、享楽に溺れる人もいれば、孤独に耐えられず鬱になったり、自暴自棄に生きていくこともあります。
かと思えば、孤独の実態と正面から向き合い、人間の生の本質についての深い省察を通して意識の覚醒を経験する人もいます。
彼らはそのような覚醒をもとに精神的な成熟による新たなレベルの生き方を選択し、そこから内面の喜びを得ます。
人生とは結局のところ、孤独を乗り越えて変わらぬ自由と真理を見つけていく長い旅です。
悟れない孤独は暗く、私たちを辛く悲しくさせるばかりですが、存在の本質へ孤独を昇華させた悟りによって孤独はもはや暗闇や陰鬱ではなく「目映い孤独」になります。
勇気を出して孤独と向き合うことによって人生の本当の意味と道理を見抜く眼識を得た人からは、夜空に浮かぶ闇を照らす孤独な月のように、目映い光が放たれ、周囲の人々をも明るく照らすのです。
どこか一方に傾いて何かに頼っていたり、どこかに嵌まり込んでいるときには、全体を感じ取ることはできません。
徹底的に独りになり、寂しさがひたすら身に沁みるときに、初めて全体を感じられ、深い暗闇を裂いて明るい光が滲み出てきます。
沈む夕陽や夜空の星々を眺めるとき、静かな森を歩くとき、独り瞑想に耽るとき、完全に独りではあるものの、あらゆるものと一つに繋がっていく充足感に包まれるとき、
決して他の人や外部の何かでは満たせない、私たちの中にある根源的な寂しさの先に進んで初めて、自分の人生を支えてくれる固い信念とビジョンを創りだす知恵とパワーを生み出すことができるのです。
絶対的孤独の先にあるもの、それは完全な力である希望です。
持てるものが何もなくても、希望があれば新たな何かを創造でき、絶望的な状況にあっても困難を克服していけます。
希望を手に入れる前提条件は何もありません。
若ければ希望が持てるのではなく、富があれば、何かがあったら、誰かが助けてくれたら、希望を持てるのでもありません。
ただ自分が選びとるだけのもの、自ら探し、探してもなければ創ればよいのです。
希望を実現するためには、絶えず自分を磨き、どんなときも最善を尽くすことが肝要です。
完成を目指すための自己啓発は、人と競争するためのものではなく、私たちが競争する対象があるとすれば、それは昨日の自分自身です。
次の失敗に、そしてまたその次の成功にいたるまでの、その時々の成功には様々な締め切りがありますが、完成に向かう自己啓発の締め切りはただ一つ、人生の最後の瞬間だけです。
人から期待される人生ではなく、胸の奥底の心が本当に望んでいること、それをしていて死んでも決して後悔しないと思えること、それをできなかったら死ぬときに後悔すると思えること、そんな何か、そんな生き方を見つけることがとても肝要です。
「今日が人生最後の日なら、今日しようとしていたことをそのままするだろうか?」と、自分に問いかけてみてください。
「そうだ」と思うなら、今それは間違いなく意味のあることです。
しかしそうでないなら、本当に心がしたいということを見つけるべきです。
悟りというのは大したものではなく、幾多の煩悩の後に一瞬霧が晴れて差し込む陽射しのようなもの、ただ自分に本当に必要なことに気付くことです。
その悟りの後にまた幾多の煩悩が生まれてきます。
物質主義や消費主義に慣らされた多くの人は、自分に必要なものが何かわからないまま、何の考えもなしにあれこれと購入し、過剰消費と浪費に明け暮れています。
自分に必要なものがわかる人ならば、物を購入するときにも慎重に選びます。
自分に必要なものが何かを知り、次に人々に必要なものが何かを知れば、そのように人生を設計できます。
エゴではなく真我の自分である限り、自分にとってよいことをすれば、それが結局はみなのためによいことなのです。
この世に、他と隔たって存在しているものなど何もありません。
地球上のすべての生命は、天と地、そしてその間の虚空でつながっています。
すべては一つだとわかることから、すべてを愛するという思いが生まれるのです。
参考文献
自分が考えたとおりに生きなければならない、、、そうでないと、自分が生きたように考えてしまう。。。Vol.1〜Vol.5に関して
草薙龍瞬/著「反応しない練習」
一指李承憲/著「人生120年の選択」