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それほど甘いものではないけれど、、、諦めずに続けることでの日々の蓄積が将来の在りたい自分自身へと確実に繋がっていく。。。

■セルフヌードをも辞さない女子カメラの深淵
「いい写真だね、と言われることは自分への評価です。その一言がしんどい毎日の糧になるんです」

 セルフヌードの作品を机の上に広げながら、29歳というWさんは、派遣社員として有名企業に勤めていた。写真家を目指したい、と小声で話し、その可能性について私の意見を求めた。

 東京都写真美術館の一室で開催される写真教室。外光は遮断されているが、外は雨の夜。13人の受講者が持ち込んだ湿気が室内を充たしていた。

 ときにはフィルムカメラで作品制作するMIHOIさんは「女性は男性のカメラ志向と異なって新製品に踊らされることはないし、 中古カメラ店を巡ってカメラボディーやレンズをあさることはありません」と話す。

 赤裸々に写されたWさんのヌード作品を、会社帰りのビジネスマンや主婦、フリーランスのカメラマンや学生といった13人が凝視する。そしてそれぞれが講師の私の反応を注視する。

 「セルフヌード、あるいは、セルフポートレートの面白さは? 誰でもいいから答えてみて」

 私の質問にWさんは親指を噛んだ。12人の受講者は口を一文字にして動かない。ながい沈黙。誰かが空調のスイッチを入れた途端に、Wさんの裸体が机から浮いた。その内の一枚が床を滑る。

 カレを撮り続ける鹿野沙也佳さん。彼はときどき写真に没頭することを叱ると話す

 カメラを使って自分を撮影するという自為は、未知の自分に出会えるかも知れない、という可能性を持っている。「私の裸は美しい」と自讃するばかりではなく、コンプレックスに感じる部分や部位をあからさまに写真にするという行為が、自分を見つめ直す契機になる。そこが、セルフヌード、あるいは“自写像”の興味深いところだ。

 密室で三脚を立ててカメラをセットする。裸になってみるわけでもないのに、なんだか気恥かしい。誰も見ていないのに、つい、恰好良く見せようとしてポーズを取ってしまう。裸になればなったで、この角度は耐えられない、などと、シャッターが押せない自分と出会うことになる。

 こうした密室の規制は、写真が元来、他人の目にさらされることを前提としているせいだ。

私なにを撮影すればいいでしょう?

 Wさんのセルフヌードは迫真だった。失礼を承知で言うが、女性の裸の美しさだけをいうなら並み。取り立てて語るほどの肉体美ではない。ただ、なりふり構わない数葉が写真作品として佳作に昇華していた。ヌードにありがちなポーズを取るでもなく、ことさら色っぽいシナを作るわけでもない。なにか、叫んでいるような仕草、髪をかき乱しているカット、部屋の壁を突き抜けようとでもしている姿態…。絵画か何か、どこかで見なれたようなお決まりのポーズ写真との落差は大きかった。その段差についてWさんに訊いてみた。

 「写真を始めたころは、渋谷や住んでいる街(世田谷区)をスナップしていました、でも、何を撮ってもそれ以上のことはなく、表現するほどの作品にまとまっていかない。ヌードも、どれが良い作品でどうしたら駄作か判断しきれません。それをお尋ねしようと思いまして」

 写真としての良し悪しが判らないというのだ。お決まりの、というのは、もちろん批判を含んだ私の言い草で、10年ほど前から、若い女性のセルフヌードが流行った時代を踏まえてのことだった。彼女たちの多くは、写真を世過ぎとしたけれど、何を、どう、撮影していったらよいものかテーマが見つからない。もがいた末に、自分という身近な題材に行き着いたのだ。手っ取り早く「作品」らしきものをを制作することができる。

 写真は実に正直で、撮影者の心情をよく顕わしてくれる。Wさんのセルフヌードの内、注目すべきは肉体による心の”もがき”が画面に漂ういくつかの作品だった。自分は誰? どこへ行きたいのか、何をすればいいのか、写真とは? そういった迷いがストレートに感じられた。

 「ヌード写真として美しく撮影しようと意図した写真には観るべき何物もない。ヌードはこうあるべき、と瑣末な美意識が邪魔をしている」

 そんなことを話した。Wさんは親指を噛みながら聞いていた。そして私にこう問うた。

 「今後は何をどう撮っていくべきでしょう」

 個展を目指したいとフィルムカメラで街をスナップする津田梨可さん

 派遣社員という身分、30歳を目前にした年齢、日常の焦燥や不安、ささやかな事物に対する喜びが表現されているなら、極めてプライベートなシーンでも普遍性を持ち得るだろう。Wさんのセルフヌードが完成するためには、もう少し時間がかかる。ヌードのなかに、日常生活をどのように織り込んでいくのか、都市の四季、通勤途上に通り過ぎる風景や毎日の食べ物、住居のシミや傷といった細部、着衣、履き物の擦り切れ、午前の光、深夜の外光…それらの私的光景の中に、自分の写真をどう編集していけばいいのか、思索と撮影を重ねることができれば、更に深みのある道が見えるかもしれない。

 Wさんは親指を噛むのをやめて「がんばってみます」と吐息のような声で答えた。

写真の入り口は広くてゆるい

 近ごろデジタル一眼レフカメラが売れているらしい。それも女性に売れているという。写真はかつて、ほぼ男の領域だった。確かにそうだったが、ここ 1年くらいの現象として、街や観光地でデジタル一眼レフカメラをぶら下げている女性を、数多く見かけるようになった。中でも若い女性は、オリジナルと思われる可愛らしいストラップをタスキ掛けにして、おしゃれな街を歩いている。

 カメラメーカーの側からいえば、先行きが暗かった一眼レフの市場に、女性ユーザーという新たな市場が生まれたということだろうか…。でも、写真活動をする女性は男性カメラマンのように、新製品が出るたびに心躍り、物欲を満たさんがために無理をするといった行動を取らない。一度購入したカメラを一生物のように大切に扱う。中古市場をハシゴして、カメラやレンズを物色するようなこともまれである。

高校のとき世界にあこがれてカメラマンを意識。「過ぎ行く時代を〜とか現代社会の問題点を〜だとか自己表現〜とか難しいことはまだ考えてないです」と話してくれた河村佳代子さん

 カメラメーカーは、一定の器の中の魚を目がけて、いっせいに網を入れているようなもの。それをすくい取ってしまえば、後はどうなるんだろう、と余計な心配をしてしまう。周到な養殖が行われているのだろうか。

 私の時代の写真は、それなりの覚悟が必要だった。カメラは高価、フィルムや現像代もバカにならない。たとえ高校生といっても取材費もかかる。撮影はもとより暗室技術を習得する必要があった。機械に詳しくならなくてはならない。

 そのような、ある程度の高さをもった敷居を、グッと下げたのがデジタルカメラの登場だった。いまさら言うまでもないことだが、誰にでも、そこそこの写真が撮れるようになった。今まではプロの領域だった動物写真も風景も、ホンの少しレクチャーを受ければ技術を習得していっぱしの写真作品が作れるのだ。カメラの価格も手が出ない高価なものではなくなったし、フィルム代も現像代もかからない。

写真で自立する女性

 大学で英語を教えるIさんは、近ごろ新宿のメーカー系ギャラリーで写真展を開催した。個展に合わせて写真集も発売、彼女の作品の一部はカメラ雑誌で取り上げられた。Iさんが愛用しているカメラはデジタル一眼レフカメラで、レンズは広角から望遠までカバーする。彼女の撮影は実に精力的。撮影目的で街歩きをした日などは、数千カットを収穫する。フィルム時代には考えられないことである。

 「一枚一枚にもっと精魂を込めて撮影すべき、とフィルムで撮影していたころを振り返っています、どうも安易になっているところがあっていけない」

 Iさんの場合はアメリカに留学した高校時代から始めたフィルムカメラの経験があったからこそ、そんな自戒が生まれる。

 私の周囲には社会人でも部活的活動で毎日をエンジョイしている人がいます、と話した小黒ゆいさん

 「フィルム時代もバンバン撮影していましたけど、限度がありました、でもデジタルにしてからは経済的なことを意識せずに撮れるようになりましたからね、でも、問題はカメラではなくて何をどう撮影して作品に仕上げていくかです」

 たしかに、デジタルカメラは撮影と消去を自らにゆだねられるため、撮ろうと思えばいくらでも撮影可能だ。しかし、Iさんが言うように、問題は作品である。1日に数千カット撮影可能なデジタルカメラの特性があっても、1枚の作品ができなければ甲斐がない。

 「デジタルはお手軽なカメラだけど作品制作はフィルムと同様にシビアなものです」

自ら制作した人形を撮影し続ける平石京子さん

 個展と写真集の刊行で、Iさんは写真家としての評価を得るようになった。教員という仕事を持ちながら、写真世界でも独立したということだ。勤務先の大学はもちろん、今まで付き合いがあった写真関係者のあいだでIさんの評価は確実に高まった。

 ことし美大の大学院に進学したHさん。彼女は岩手県の出身で、高校時代は写真部に所属していた。13名の部員の内10名が女子だったという。中学時代から携帯電話のカメラ機能を駆使してきたと話し、

 「高校ではほとんどの人がカメラ付きの携帯電話を持って、雲がきれいだのこんなおいしいもの見つけたと言っては画像を回したものです、ですから、写真にたいする敷居はうんと低かったと思います。友人や好きな動物への愛情というか、被写体に対する敬意が携帯カメラからちゃんとした一眼レフカメラの入手になっていると思います。携帯カメラは単なる記録や記憶のメモでした」

 と若い世代が写真には入りやすい環境にあることを説明し、そのことが、父親世代とは異なった「自然な感覚で本格的なカメラを手にできる」と冷静に分析した。

カメラは自分を磨く道具

 デジタル一眼レフカメラで撮影を楽しむSさんは、4年前大学を卒業し現在はCMの制作会社に勤務する26歳の女性。

 「開設している自分のブログは自己表現ですね。カメラはコミュニケーションツールを作るための重要な道具です」

 Sさんのブログには、日常生活の中で眼にした風景や人物、花や食べ物などが掲載されている。大学で映画を専攻したという経歴からか、物語性のあるスライドショーや写真の一枚一枚にドラマが感じられる。だからといって、プロカメラマンや写真作家を目指しているわけでもない。あくまで自己表現。見知らぬブロガーとのコミュニケーションを楽しんでいるのだ。仕事をたいせつな生活の基盤と捉え、写真は日々の愉楽。同時に、自分の価値を上げるための手段にもなっている。

 彼女がリンクしている他のブログをのぞいてみて、少々おどろいた。写真が佳いのだ。そうとう気張って撮影しているな、という感想を持った。彼女たちは、ブログに掲載する写真を本気で撮っている。

 精一杯、自己表現にいそしんでいるのだ。

 それにしても、ここのところの女性の写真世界への進出は”凄い”としか言いようがない。ところが、カメラを飾りのように肩からぶら下げている人は別次元として、今日まで出会ってきた写真志向の若い女性、彼女たちの多くは自分の行くべき道を探っている、といった印象が強かった。

父親の形見となった一眼レフカメラで静謐な光景を撮り続ける糸瀬早紀さん

 いま何をやれば40代50代の自分は幸福なんだろう…しかし、彼女たちの行くべき道は、もしかしたら無いのかもしれない、とも思わせた。

 「だって、就職できないじゃないですか。たとえ会社に入っても終身雇用が約束されるわけでもないし、せめて写真好きの仲間やブロガー同士、意見交換しながら自分を高めるために何か有意義と思えることをやるしかない」

 と話すTさんは、ことし有名大学を卒業したが、今のところ就職できていない。NPO法人でアルバイトについたものの「切ないほどのお給料です。でも好きな映画の仕事ですから楽しみも見出しています」と現状に甘んじている。それでも、写真を撮るという行為が支えになっていると話し「いつかきっと写真家として自立してみせますよ」と明るい声が返ってくる。こうしたケース、ひとつ間違えば引き籠りになってもおかしくないのに、ここにも、写真に救われている女性がいたか、と写真の幸福を教える立場にありながら、なにか胸を撫で下ろしたい気分になる。

 私はこれまで、彼や彼女たちの多くの作品を見せてもらい、そのやわらかい胸裏に触れてきた。作品のほとんどが日常の隅々を撮影したものだ。セルフヌードしかり、毎日の食べ物、通勤電車から見える風景、雲、野良猫やペット、彼氏や彼女を撮り続ける人もいる。おしなべて、何か確かなものを掴もうとしてもがいている。

 そう、彼女たちは自分探しの旅の途上にあるのだ。唯一のものに出会いたいと念じている様子が、写真から読み取ることができる。

 彼女たちは良い写真が撮影できるようになること、つまり、個人力を高めることが自分という人物評価につながる、と信じる女性たちだった。自分の分身でもある作品をブログやツイッターに公開するために、数十万円かけても高機能のデジタル一眼レフカメラを購入する。写真教室に通い、大学卒業後に専門学校にも入学する。

 彼女たちは、父親の時代とは異なって、今や、企業の名前や学歴が、最終的には自分を救ってくれない、と身をもって知っているのだろう。そのために、自らに力を付けようと努力する人たちなのだ。

 ある高名な写真家の個人塾に籍を置くフリーデザイナーのIさん。昨年、青山で初の個展を開いた彼女が言う。

 「写真は自分を支え探るための道具です。いい写真だね、と言われることは自分への評価ですから、いつもそんな褒め言葉を望んでいるんです。その一言がしんどい毎日の糧になるじゃありませんか」

[宮嶋 康彦/日経ビジネス]

Posted by nob : 2010年05月26日 01:49

国や自治体はいつまで一民間病院にこの問題を依存放置し続けるのか。。。

■赤ちゃんポストに15人預け入れ 3年目の熊本・慈恵病院

 親が育てられない子どもを匿名で受け入れる慈恵病院(熊本市)の「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」について、設置を許可した熊本市は25日、2009年度に新たに15人の預け入れがあったと公表した。

 預け入れ人数は08年度に比べ10人減で、07年5月の運用開始以来、合計57人となった。虐待の痕跡など刑法上問題となるケースはないという。預け入れ人数の減少について、慈恵病院の田尻由貴子看護部長は「09年度は預け入れる前に病院などに相談してもらったケースが多かった。事前相談(の必要性)を訴え続け、いろんな選択肢があると伝えた結果だと思う」と分析している。

 市は今回から赤ちゃんポストを利用した理由や母親の婚姻状況など7項目を新たに公表。

 利用の理由(複数回答)では「未婚」と「世間体・戸籍の問題」がそれぞれ6件で最多、「親、祖父母の反対」「不倫」が各3件、「生活困窮」が1件などだった。

 15人の内訳は男児6人、女児9人で、熊本県内からの預け入れはなく、県外の九州地方が3人、関東5人、中部、近畿、中国が2人ずつで、不明が1人だった。

[47NEWS]

Posted by nob : 2010年05月26日 01:39

同感です。。。

■人生は“Or”より“And”の方が楽しい
〜誰もあなたが幸せになろうとするのを邪魔しない。邪魔しているのは、あなた自身だ。

 「やりたい仕事があるんです。でもまだ準備不足のような気もしています。今思い切って立ち上げるべきでしょうか。それとも今の仕事を続けて基盤作るべきでしょうか」

 「子供がほしいんです。でもキャリアの継続が心配です。早く産んで休んでから仕事に復帰するのと、しばらく仕事で実力つけてから落ち着いて産むのと、どっちがいいんでしょうか」

 前回これまでの自分の道のりを書いたが、こういう風に生きていると、いろいろなヒントをもっている人に見えるらしく、よく20代、30代のみなさんからこの手の質問をよく受ける。私も人生相談の相手はもともと嫌いな方ではないので、一生懸命聞いて答えるのだが、大概のケースに通じて言えるのは、みんな「こうしたいんだけど、Aがいいのか、Bがいいのか」あるいは「Aをするべきか、Bをするべきか」という比較の答えを求めに来るということだ。

なぜ取捨選択しなきゃいけないのか

 私はそういう聞かれ方をすると、ほとんどの場合、「う〜ん、本当に選ぶ必要あるの? どっちもやったら?」と答える。そうすると、相手は一瞬あっけにとられたような顔をして「どっちも・・・ですか・・・。それでいいんでしょうか」という。私も同じくらいきょとんとして、「・・・ていうか、なんで両方同時にやっちゃダメなんだっけ? OrよりもAndの方がよくない?」と返す。こんなやりとりがしばらく続く。

 生きていくにはいろんなことをしなければならない。よほどの経済的バックグランドがある人でなければ、生活のために仕事はしなければならないし、家庭が欲しい人は結婚して子供を作り育てなければならない。自分の趣味や人生もある。でもどうせ仕事をするならやりがいのある仕事をしたいし、家庭も幸せでありたいし、もちろん自分の好きなことも追求してみたい。そして「あー幸せだった!」とあの世に旅立ちたい。それがあらゆる人の本音だろう。

 だが、あらためて考えてみてみると、なんだか私達は大して長くもない人生の中で「今はこれをすべき」「次はあれをすべき」と選択することばかりに集中しすぎているのではないだろうか、と思うのだ。もっといえば、複数の中からやりたいことのいくつかを選ぶのではなくて、ひたすら二択を繰り返すという思考アプローチを繰り返している。平たい例でいえば、結婚したら仕事を続けるのか続けないのか? 続けるとしたら子供を産むのか産まないのか? 子供を産んだら一年間休むのか休まないのか? ・・・といったように。二択にすると、選択の幅が狭まってしまい、答えを出すごとに結果は小ぶりになっていく。最初から、自分が最終的に何を実現したいのか、たとえば「結婚もしたいし子供もほしいし、仕事も続けるんだ」というようなイメージを決めてから、それを実現する方法を考えたほうがずっと可能性が広がるのではないだろうか。「選択する」ということは、何かを「捨てる」ということで、選択するにも捨てるにも、かなりのエネルギーが必要だ。一度きりの人生。どうせ使うエネルギーなら、「取捨選択」のためではなく、「やりたいことをやってみる」ためのエネルギーとして燃焼してみたらどうだろう、というのがここでの私の論点なのである。

 楽しく仕事をしたい、能力を高めたい、子供もほしい、よい母でありたい(あるいは父でありたい)、趣味を極めたい、余暇はのんびりしたい。そりゃそうだろう、いいじゃない? いっそのこと全部やれば? 全部やるのは無理だ、常識的ではない、と思うかも知れないが、よくよく考えてみれば、誰もそれをあなたに「だめです、やめなさい」とは言わないはずなのだ。最初から「無理だ」と決めてかかるのはもったいない。肝心なのは、「やりたいことはやってみるのだ」という気持ちを、自分がまずもつことなんじゃないだろうか。

いろいろやるには「工夫」がいる

 もちろん人間には1日24時間しかないのだから、やみくもに2つのこと、ましてや3つ以上のことをやろうとするとどこかにしわ寄せがくることは否めない。例えば家庭の充実や趣味の追求、あるいは副業を始めたりすると、仕事の質が落ちる「可能性がある」と、誰もが思うだろう。そんな時、評価が落ちるかも、給料が下がるかも、「だから、仕事第一です」というのはもちろん簡単ではある。でもそれなら、まず仕事の質が落ちないように「工夫」してみる、という発想に切り替えてみたらどうだろう。

[柴沼 俊一/日経ビジネス]

Posted by nob : 2010年05月26日 01:34

一人が変われば皆が変わり、、、そして世界は変わる。。。

■南アメリカの先住民に伝わるハチドリの物語

森が燃えていました

森の生きものたちはわれ先にと逃げていきました

でもクリキンディという名のハチドリだけは

いったりきたり

口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

火の上に落していきます

動物たちがそれを見て

「そんなことをしていったい何になるんだ」

といって笑います

クリキンディはこう答えました

「私は私にできることをしているだけ」

〔SEIYU/レジ袋削減運動コピー〕

Posted by nob : 2010年05月20日 02:02

厳格な情報秘匿のためにはネット不使用が原則。。。

■Google、Wi-Fiの通信内容を「意図せず」収集〜謝罪して運用を停止

 米Googleは14日、街中に存在するWi-Fi無線LANネットワークの通信内容を「ストリートビュー」撮影専用車で収集していたことを認め、謝罪した。今後、「ストリートビュー」撮影専用車でWi-Fiに関連するあらゆるデータの収集を中止するとしている。

 欧州では、「ストリートビュー」に対する反発が強まっている上に、4月に入ってから、Googleが「ストリートビュー」撮影専用車で Wi-Fi関連データを収集していることが明らかになり、大きな社会的懸念となっていた。

 Googleはこうした世論の懸念を受け、公式ブログにおいて4月27日、収集しているWi-FiデータはSSIDやMACアドレスなどに限定されること、これらのデータは位置情報を確定するための「Geo Location API」のために使用されていることなどを説明していた。

 しかし今回、Googleはその説明が一部誤っていたことを認め、釈明した。

 Googleの説明によると、5月5日ごろにドイツの監査当局 であるData Protection Authority(DPA)が、「ストリートビュー」撮影専用車が収集しているWi-Fiデータの監査を求めてきたため、Googleが改めて内容を精査したところ、以前の説明と異なり、Wi-Fiの通信内容の一部まで収集していたことが明らかになったという。

 ただし、収集していたのは、パスワードで保護されていないWi-Fi無線LANネットワークの通信内容であり。パスワードで保護されている場合は収集されていない。また、撮影専用車は走行しており、チャンネルを5秒間に1回自動的に切り換えながら進むため、収集されたデータは通信内容の一部に過ぎないとしている。

 Googleでは、「プロジェクトリーダーたちは、通信内容のデータを求めてはおらず、それを使用する意図も持っていなかった」と釈明している。

 Googleはこの問題を受け、「ストリートビュー車両の使用を停止し、データをGoogleのネットワーク上に隔離してアクセス不能にした。我々は、このデータできるだけ早く削除したいと願っており、許可を得るために、関係各国の政府当局と折衝中だ」とコメントしている。

 Wi-Fi関連データの収集に関しては、「懸念を生じさせたことを踏まえ、我々はストリートビュー車両によるWi-Fiネットワークデータの収集を完全に中止することが最良であるとの結論に達した」としている。

[INTERNET watch]

Posted by nob : 2010年05月17日 23:11

私は途を示し、、、

君は行く。。。

Posted by nob : 2010年05月12日 01:12

二人で一人前でも、、、三人で一人前でも。。。

一人で頑張らなければならない必然性なんてどこにもない。。。

お互いを補い合って

仲良く楽しく暮らしましょう。。。

Posted by nob : 2010年05月12日 01:07

持論と代案の欠落した社会。。。

自分はこう考える

自分であればこうする

蔓延するそうした主体性と自己責任を回避する人々に辟易、、、


気付いてか気付かずか

耳障りの良い他人の考えをつまみ食いをしては

あたかも自分の考えであるかのようにもっともらしい言動をする、、、


物事を善悪ではなく利害で判断し

自らはリスクもせず

自ら考え行動する勇気ある第三者の言動をあげつらう、、、


正誤善悪の基準はさておき

自己責任のもとに実際に行動する人々に対してはそれだけで敬意を、、、


他人を批判するのであれば代案を

そして自ら代わりに行動する覚悟を。。。

Posted by nob : 2010年05月08日 11:07

好ましい傾向。。。

■子どもの人口、1694万人=29年連続で減少−総務省

 「こどもの日」に合わせて総務省が4日発表した15歳未満の子どもの推計人口(4月1日現在)は、前年より19万人少ない1694万人で、29年連続の減少となった。比較可能な1950年以降の統計で過去最少を更新。男子は868万人、女子は826万人だった。

 総人口に占める子どもの割合は前年比0.1ポイント減の13.3%で、36年連続の低下。人口4000万人以上の世界各国と比べても、米国(20.0%)、中国(18.5%)、ドイツ(13.6%)などを下回る最低の水準が続いている。

[時事通信]

Posted by nob : 2010年05月04日 22:40

優しさの裏側。。。

優しさの裏には

自分への厳しさがあり


優しすぎる裏には

自分への甘えがある


[真言宗/東光寺]

Posted by nob : 2010年05月03日 22:30

夢とロマン。。。

■「ノアの方舟」確率99.9%で発見と探検チーム、トルコ・アララト山頂

【4月29日 AFP】旧約聖書に登場する「ノアの方舟(はこぶね、Noah's Ark)」を探す中国とトルコの探検家チームが26日、方舟が漂着したといわれるトルコのアララト(Ararat)山の山頂付近で、方舟の木片を発見したと発表した。

 トルコと中国の「キリスト教福音派」の考古学者ら15人からなる探検チーム「ノアズ・アーク・ミニストリーズ・インターナショナル(Noah's Ark Ministries International)」が発表したところによると、木片はトルコ東部にあるアララト山の標高およそ4000メートル地点で発見した構造物から採取したもの。炭素年代測定を行ったところ、ノアの方舟がさまよったとされる今から4800年前と同時期のものであることが確認されたとして、方舟のものであることにほぼ間違いないとの見解を示した。

 探検チームに参加する香港のドキュメンタリー映像作家、楊永祥(Yeung Wing-cheung)さんは、「100%とは言い切れないが、99.9%は確信している」とAFPに語った。

 発見された構造物はいくつかの部屋らしきものに分かれ、木の梁(はり)があるが、これはノアが動物を乗せた船室ではないか、と楊さん。探検チームではこの構造物について、普通の住居の残がいなどではあり得ないと結論付けたという。標高3500メートル以上で人の住まいが発見されたことは過去にないからだ。

 楊さんによると、発掘作業が完了するまで現場を保存するためユネスコ(UNESCO)に世界遺産指定を申請するよう、地元自治体がこれからトルコ政府に要請する。

 旧約聖書の物語では、堕落した人類を大洪水で滅ぼそうとした神が、ノアに方舟を作ってあらゆる動物をつがいで乗せるように命じる。洪水が引いた時、方舟がたどり着いた陸地がアララト山の山頂とされている。アララト山は中東で最も標高の高い山で、同山こそが本当に方舟が乗り上げ、乗っていた人間や動物の子孫が船を降りた場所だと信じる人は多い。(c)AFP

[AFPBBニュース]

Posted by nob : 2010年05月03日 21:15