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ビジネスの原点に一度立ち返ってみるべき時代、、、Think Globally Act Locally...

■【街の書店を救え!】レコード店、喫茶店…、生き残りの方法を人気店に探る

「あそこの本屋さん潰れたんだ……」

 街を歩いてはそんなことを呟く機会が増えている。商店街にあるような小さな書店は減っていき、残るは大型書店やオンラインショップのみだと思うと、どれだけ便利でも寂しくもあり哀しくもある。

 京都の繁華街から離れた一乗寺に店を構える人気書店「恵文社一乗寺店」を知っているだろうか? 新刊だけでなく、古書や洋書、自費出版物までを取り扱う。その他にもレンタルギャラリーや生活雑貨なども売っている個性的な店だ。

 『街を変える小さな店 京都のはしっこ、個人店に学ぶこれからの商いのかたち。』(堀部篤史/京阪神Lマガジン)では、「恵文社一乗寺店」の店長・堀部篤史氏が、京都で長年営業している小さな人気店をいくつか紹介し、そこから書店の生き残りの道を探っている。書店が生き残るべく必要なこととは何だろう。

■店が客を育てる

「レコードを熱心に買いに行くうちに、輸入盤の卸の人と知り合い、自然とレコードショップの仕事のノウハウが身について行ったんです」と語るのは中古盤のレコードショップを営む三条木屋町の「WORKSHOP records」の苗村さん。

 昔は多くのレコードショップで店主と客とのやりとりがあった。自分の好みを知ってもらい、おすすめの作品を紹介してもらう。視聴の際のマナーやレコードの扱い方などを教えてもらう。など、客と店を超えた付き合い方があった。店に通う理由は買い物のためだけではなく、店主の膨大な知識や経験からなにかを学びたいという信頼感があったからだ。

 堀部氏は言う。目先の売り上げだけではなく、お客さんに知識や情報を与えることによって、小さくても確実な購買層が生まれる。現在の本屋のシステムでは購買側は一人の客としてではなく、POSシステムによってデータとして認識されている。

 店主に信頼を置くこと。本を手に入れるだけでなく、知識も手に入れること。小さな書店の生き残りには必要なことかもしれない。

■合理性を求めてはいけない

「“食べログ”でオススメされていたメニューばかり注文しちゃうみたいに、はじめから店を自分の思い通りにしようとするんじゃなくて、何度も訪れることによって、初めて信頼関係って築けるんじゃないかな」と語るのは河原町三条で喫茶店「六曜社」を営む奥野さん。

 最近は「食べログ」や「ぐるなび」などをチェックして、なにかのついでにではなく喫茶店そのものを目指す人が多いと奥野さんは言う。

 喫茶店は目的としての場所ではなく、会社帰りなどにふらりと立ち寄れる方が良い。ジャズ喫茶、深夜喫茶、ジャズバーなど、昔は喫茶店や酒場はそこに集う人が主役であり、店自体は背景であり、街の延長であった。合理性ばかりを追求して喫茶店に通うと街の延長としての人と人との集いの場が失われてしまう。コミュニティの中心として欠かせないマスターの存在も薄れていくばかりで信頼関係も築けない。

 それは小さな書店にも当てはまる。合理性ばかりを追求していて文化としての側面を失ってしまうと、長く続けることは難しい。合理性だけで考えると小さな書店は大型ショップやオンラインショップに敵わないのだから。

 便利で品揃えが良いだけが良い書店ではない。長年営業している小さなお店から学ぶことは多いだろう。本書を読んで、今一度、街の書店の在り方について考えてみてほしい。

文=舟崎泉美

[ダ・ヴィンチNEWS]

Posted by nob : 2014年07月28日 13:50

これからの若者たちによる、成長の時代を経た成熟の時代に則した新たなビジネスモデルに大きな期待をしています。。。

■今の起業家は松下さんや盛田さんに似ている
田原総一朗が目にした、スタートアップの最前線

渡辺 拓未
東洋経済編集局記者

 LINE、テラモーターズ、ユーグレナ・・・。2006年の「ホリエモンショック」でいったん冷え込んだかに見えたベンチャー市場。だが、火は消えてはいなかった。リーマンショックでも消えるどころか、今や、新たな主役たちが次々と台頭。再び熱気に包まれている。
 「行儀が良くて堅実、そして『社会を変えたい』という理念で動いている」。田原総一朗氏は新著『起業のリアル』(プレジデント社刊)で、現代の起業家16人に取材し、こう批評してみせる。彼らの特徴は「ホリエモン」こと、堀江貴文氏の世代の起業家とは少し毛色が違うという。 松下幸之助から盛田昭夫、孫正義、堀江貴文に至るまで、昭和・平成の名起業家を取材してきた田原氏の目に、現代のスタートアップの最前線はどう映ったのかを聞いた。

ホリエモン世代との決定的な違いとは?

――今の若手起業家は、これまでの起業家と何が違うのですか。

共通するのは、事業の興し方が乱暴でないことだ。言葉遣いも割合丁寧だし、服装も普通の格好をしている起業家が多い。ここは堀江貴文の世代とは毛色が違う。

また大学を卒業して、いきなりベンチャーを作るのではなく、まず手頃な企業に就職しているのも、私が出会った起業家たちの特徴だ。そこで生きるノウハウをまず習得し、その後、自分の好きなビジネスを立ち上げている。

彼らが大事にしているのは、金儲けよりもソーシャルインパクトだ。本当はボランティアでやりたいが、それでは長続きしないからと、ソーシャルビジネスという形態で行っている。

――なぜ、そうした変化が生まれたのでしょうか。

フローレンス代表の駒崎弘樹氏が興味深いことを言っていた。「自分たちの親の世代である全共闘世代は、体制を倒して新しい世の中を作るために、「ゲバ棒」や「火炎瓶」を手に戦った。ところが、自分たちにはそういう“敵”がいない。総理大臣は1年ごとに代わった。企業も不況でリストラばかり。言ってしまえば、総理大臣も大企業の社長も、隣のおじさんの延長に過ぎない」と。

つまり総理大臣も企業の社長も頼りにできない。ならば自分でやるしかない、ということのが、彼らが起業する理由だということだ。

彼らは高度成長時代もバブル時代も知らない。物心ついたときはすでに不況。だから「高度成長やバブル時代が再来してほしい」という発想がない。ゼロからどう作ればいいのかをつねに考えている。そういう意味では、戦後同じくゼロから事業を興したソニーの盛田昭夫さんや、松下電器産業の松下幸之助さんと似ている。

堀江貴文氏の世代との違いも、その過ちを目にした教訓から来ているのだろう。堀江さんはニッポン放送に敵対的買収を仕掛けるなど、荒々しい方法で新時代を切り拓こうとした。しかしその結果、旧世代から妬まれてしまった。それを見た駒崎さんをはじめ、今の起業家たちは、堀江貴文氏の過ちを繰り返すまいとしているのだろう。

――金儲けに対しても、考え方が違うようです。

おカネについてのスタンスも、松下幸之助さんや盛田昭夫さんと共通している。「カネは儲けようと思ったら儲からない。新しい事業を展開すれば、カネはあとからついてくる」という考え方だ。

LINEの森川亮社長がこんなことを言っていた。「『収益を求めているな』と気づいた途端、ユーザーは逃げていく。むしろより面白いこと、より意味があることを夢中に作っているときこそ、ユーザーがついてくる。カネはその結果として儲かる」と。

――ただ、ソニーもパナソニックも近年、経営危機に陥りました。

ソニーについては、出井伸之氏が社長の時代、マスコミにウケすぎたのが凋落の原因ではないか。マスコミにもてはやされることは怖い。出井氏は「複雑系の経営」などと難解な言葉を並べて、社員も何のことかわからなくなってしまったのではないか。そこでソニーがどこで勝負したかというと、値段で勝負した。つまり新しいことをしなくなった。それが凋落の原因だと感じている。
孫正義社長が、田原氏に語ったこと

――今の起業家に対して、ネガティブな見方をする人も少なくありません。

マスコミには、ネガティブな見方をすることが良心的だと思っている人もまだ多い。最近では集団的自衛権に対してのスタンスがそうだ。ただ、ネガティブ情報がウケる時代は終わったと思う。高度成長の頃はネガティブ情報がウケた。みんながネガティブ情報を見たり聞いたりする余裕があった。今はそうした余裕がなくなっている。

――田原さんが、将来的に注目しているビジネスはありますか。

たくさんある。「日本の成長は終わった」と言う人も多いけど、それは違う。古い産業が成長しないだけだ。ネットなどの新しい世界では、今も世界がどんどん広がっていると取材を通して実感した。

注目分野の一つはロボットだ。3年前にソフトバンクの孫正義社長がこう私に言っていた。「携帯電話の先はしれている。田原さん、これからはロボットの時代だ」と。実際に先日、ソフトバンクは新型ロボット発売を発表した。

あのロボットの特徴は、接客ロボットということだ。今までのロボットは作業用ロボットだった。だから単純労働や力の要る作業がメインだった。しかし、これからのロボットは、人間の相談相手になるものだと思う。

ロボットの記憶力は、人間とはケタ違いだ。あと、非常に理論的に物事を判断できる。ロボットが人間の相棒になる。そういう新しい世界が近く訪れるだろう。

20年後の未来を予測できるか

――ロボット以外には、どんなビジネスに期待していますか。

カギになるのはコンピュータチップのさらなる進化だ。孫社長は高校生の時に米国に渡った。そこである写真を目の当たりにした。同時にその写真を目にしたのが、ビル・ゲイツ氏とスティーブ・ジョブズ氏だ。

その写真に写っていたのは、コンピュータチップだったという。彼らはその写真を見て、これからの30年間は、コンピュータチップの進化がカギになると考え、IT時代の到来を予言した。

この先もコンピュータチップの進化は続く。10年くらい経つと、容量が人間の脳細胞のを超えるだろう。するとどうなるか。腕時計のようなコンピュータを身につけると、テレビで喋っている政治家が、本当に頭の中で何を考えているのか、そうした脳細胞の動きまで全部わかるようになる。そういう時代が訪れる。

勝負は、20年後の未来を予測できるかということだ。孫社長は「ロボットの時代が訪れ、コンピュータチップが脳細胞の容量を超える時代が来る」と私に言った。

そういう未来には、ビジネスチャンスはいくらでもあると思う。

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2014年07月28日 13:40

カネやモノなどハードアセットに加えて、データなどソフトアセットの死後の扱いについても考え備えておくこと。。。

■死後のデータ消します ヤフー、新サービス開始

 インターネット検索大手のヤフーは14日から、亡くなった人がヤフーのクラウドサービスで保存していた画像や文書などを削除するサービスを始めた。ヤフーの専用サイトから生前に申し込んでおき、亡くなった時にヤフーが提携する葬儀仲介会社を使えば、無料で削除する。

 このサービスに申し込んでおけば、ヤフーで利用していたサービスの課金も自動的に停止する。亡くなった後のデータや課金はこれまで、遺族であっても削除したり止めたりすることの手続きが煩雑だった。

 サービスでは、毎月194円(税込み)を払えば、亡くなったときに最大200人にあらかじめ作っておいたメッセージを送ることもできる。毎月支払うお金はサーバーにメッセージを保存する費用だという。

 サービス利用者が亡くなったことは、市区町村が発行する「火葬許可証」を葬儀会社に送ってもらい、確認する。今後は削除サービスだけでなく、遺族にデータを移すサービスも始める。

[朝日新聞]

Posted by nob : 2014年07月28日 06:25

まったく同感です、、、問われれば応えながら見護りつつ、自分力を自ら育む手助けをしていくこと。。。

■「ほめて育てよ」は間違い。
ほめることはその人を見下すことである

宮台真司×神保哲生×岸見一郎 鼎談第2弾(前編)

37万部のベストセラー『嫌われる勇気』の影響で一気に日本における知名度が高まったアドラー心理学。同書の著者・岸見一郎氏と、社会学者の宮台真司氏、ジャーナリストの神保哲生氏がインターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」で繰り広げたトークセッションを2回に分けて掲載。
前編では現代日本の親子問題、恋愛問題、教育問題などをテーマに、「課題の分離」が不得意な日本人の特徴から、「ほめて育てよ」の嘘までをアドラー心理学を用いて語り尽くす!

すべての悩みは
対人関係の悩みである

神保哲生(以下、神保) 本日は、哲学者・岸見一郎先生をお招きしての「アドラー心理学」第2弾ということになります(第1弾は本連載の第9回、第10回をご覧下さい)。

宮台真司(以下、宮台) 第1弾は、「過去よりも未来」あるいは「トラウマよりも最終目的」という、わりと時間軸に沿った話をしましたが、今回は時間軸というよりも、むしろ人間関係のような空間性が主題になります。それゆえ第2弾が必要だということですね。

神保 人間関係ということでいうと、『嫌われる勇気』によれば「すべての悩みは対人関係である」と書かれています。しかし、自分が抱えている悩みには、対人関係じゃないものもあると感じる方もいるかもしれません。それでもアドラーは、すべては対人関係の悩みだと言い切る。岸見先生これはどういうことでしょうか。

岸見一郎(以下、岸見) 話をすると皆さんわかってくださるのですが、逆に言えば対人関係の問題だととらえないと、少しも問題が解決されないことのほうが多いはずです。対人関係の問題だとわかってしまえば、解決の糸口が見えてくることが多いのです。

神保 ほとんどの自分の悩みは、じつは対人関係の文脈に落とし込めるということですか。

岸見 そうです。

神保 自分だけでただ悩んでいるようなもの、たとえば自分のキャリアのこととか、体型のこととか、そうしたこともやはり対人関係だと。

岸見 体型なんて、人との関係がなければ問題にならないでしょう。

神保 たしかに、一人で生きていればね。

宮台 誰も見ていませんからね。

岸見 性格もそうです。性格は対人関係のなかで決まるものです。もし一人で誰とも接することなく生きているのであれば、性格は問題になりませんし、体型だって誰も気にしない。痩せようとも太ろうとも思わないはずです。

宮台 「共同体感覚」など今回扱う重要な問題と関係するので、裏側から言っておきます。僕は1980年前後に自己啓発セミナー──アメリカで言うアウェアネス・トレーニング──を体験しました。当初は受講者もスーパーエリートが多く、ファシリテイターが、体験の組織化と、理屈の説明を、織り交ぜながら進行するものでした。
 最も重要なものの一つが「過去、一番自分が楽しかったことを、ありありと思い描く」というリマインディング・プログラム。これをやる前にダイアド(二人一組)のセッション等を通じて受講者は変性意識状態に入ります。その後、時間をかけて頭の中の鍵を外し、過去を思い出す。すると、皆がブワーッと声をあげて泣き始めるんです。
 その後、皆で体験をシェアするのですが、それを通じて僕は、最も楽しかったことや幸せだったことも、すべて対人関係に由来することを学びました。どんなに辛い家族関係を生きてきた人も、むしろだからこそ、この上なく幸せだったことや希望を抱いたことを覚えている。それらはすべて対人関係に関わる幸せや希望なのです。
 いつも厳しくて暴力を振るうお父さんが、珍しくこんなことをしてくれた。仲が悪かった両親がたった一度子どもたちを連れて海に行ってくれた。すべての悩みは対人関係の悩みですが、だからこそ、いちばん幸せな記憶もすべて対人関係の幸せです。それがアドラーのいう最終目的に関係するのですね。
 前回、岸見先生が説明してくださったけど、アドラーは、究極の最終目的を思い描き、それによるプライミング(先行の学習や記憶が後続の事柄に影響を与えること)で現在の優先順位を変えるよう推奨します。この場合のリスクは、最終目的を他の人に操縦されること。たとえば、アドラーを持ち出す経営者は、従業員の最終目的を操縦しようとします。
 最終目的を他人に操縦されないためには、過去の幸せがもっぱら対人関係に由来していることをわきまえ、自分が過去にいちばん幸せだと感じたことに矛盾しないように最終目的を設定するのが安全です。繰り返すと、悩みや苦しみにおいても、希望や勇気においても、対人関係が最も重要なファクターになります。

「課題の分離」とは何か

神保 対人関係に関連して、アドラー心理学の非常に重要なキーワードに「課題の分離」というのがあります。これについて触れていきたいと思います。

宮台 社会学者として言うと、「課題の分離」は日本の社会にありがちな弱点に関係します。親が、子どもの課題と自分の課題の区別がつかなくなり、それによって子どもも、親の課題と自分の課題の区別がつかなくなる、というのが、最終目的を他人に握られるケースの典型です。

神保 その「課題の分離」について、できれば具体的な事例で、岸見先生は実際にカウンセリングをやられているので、その実例を引きながらご説明いただけますか。

岸見 アドラーは、「あること」の結末が最終的に誰に降りかかるか、あるいは「あること」の最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えたとき、その「あること」が誰の課題であるかがわかる、という言い方をします。具体例をいうと、私は「勉強することは誰の課題か」と、実際にカウンセリングの場面で親に尋ねます。自分の子どもが勉強しないからと相談に来られる親御さんは非常に多い。そこで、勉強しないことの結末は最終的に誰に降りかかるか、あるいは最終的な責任は誰が引き受けなければならないかを考えてもらい、「勉強をするかしないかは、誰の課題でしょう」と質問するのです。
 すぐに「それは子どもの課題です」と答える人は実はあまり多くない。「まぁ理屈としては子どもの課題ですよね」って首をかしげながら答える人が圧倒的に多いわけです。でも実際のところ、勉強しなければ困るのは子どもであって、別に親の頭が悪くなるわけではない。高校入試などで志望校の選択範囲がうんと狭くなるなど、責任は子どもが取らなければなりません。だから勉強は子どもの課題なのです。このことを親が認めれば、それまで無邪気にあるいは無意識に言ってきた「勉強しなさい」という言葉は、言ってはいけないし、そもそも言えないことになります。およそあらゆる対人関係のトラブルは、人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こるとアドラー心理学では考えます。

神保 では、勉強しない子どもに「勉強しろ」と言ってはいけないというところから始まるんですね。そもそも、自分の課題じゃないんだからと。

岸見 あるいは、言わなくてもいいということですね。

宮台 日本にも昔からそういう言い方はありましたよね。「困るとすれば自分だから、好きにすればいい」と。僕もいつもそればかり言っています。

神保 でも、そう言われても「はい、そうですか」と言えない親は多いですよね。やはり勉強してもらわなきゃ困る、いい学校に入ってもらわなきゃ困ると。それが子どもの将来のためだと。

岸見 そこがポイントです。要するに「あなたのため」というところが胡散臭い。自分のためなのです、率直に言うと。

神保 親が自分のために言っている。

岸見 でも、そうは言えないというか、言いたくないので、「あなたのためを思って言っているのよ」などと言葉を補足しながら、「勉強しなさい」と親は言うわけです。

宮台 ここは重大なトラブルに結びつくポイントです。僕は性愛ワークショップで〈親への恨み〉をキーワードにします。実際それが障害になっているケースが大半です。親の言う通り、つまり親の課題と自分の課題の分離に失敗したまま、一生懸命勉強する。「勉強して東大に入れば、あとは何でもできる」と言われてきたとします。
 で、実際、東大に入ったけど、モテないし親友もできない。人間関係を自由にハンドリングして青春を謳歌する周囲を見て、妬み嫉みなど浅ましき感情に駆られた挙げ句、「ママの言う通りにしてきたのに、話が違うじゃないか!」となる。これは依存的暴力としての家庭内暴力につながります。〈親への恨み〉の背後に「課題分離の失敗」があるんです。

神保 では、勉強しなさいと言ってはいけないとして、それで終わりですか? その次のアドバイスはないんですか、親に対して。

岸見 その次はあるのですが、あまり言いたくはないです。カウンセリングだと「勉強しなさいと言ってはいけない」でとりあえず終わります。で、どうなったかを次回に報告してもらう。

神保 なるほど。

岸見 とりあえず1週間経ってからもう一度お聞きすると、「やはり勉強しません」と言われる。「でも子どもが勉強しないからといってあなたは困らない。勉強しない人生も美しい人生ですよ」と、僕は断言します。いずれにせよ、親が子どもの人生を生きるわけではないので、「とりあえず、勉強について話すのをやめませんか」と、さらに言います。
 実際はその次がないわけではありません。つまり、本来は子どもの課題であるものを、親と子どもの共同の課題にするのです。それは不可能ではない。ただ、それを言ってしまうと、親は何でもかんでも共同の課題になると勘違いして平気で子どもの課題に介入するので、あまり言いたくはありません。
 先ほど言いましたが、人の課題に土足で踏み込むこと、踏み込まれることから、対人関係のトラブルは起こります。土足で踏み込まなければ、対人関係がこじれるリスクはある程度避けられます。だから土足で踏み込まず、共同の課題にする手続きを踏めばいいわけです。具体的に言うと「最近のあなたの様子を見ていると、あまり勉強しているようには見えません。そのことについて一度話し合いをしたいのですが、いいですか」と伝えるのです。

神保 子どもに?

岸見 はい。多くの場合「嫌だ」と言われますよね。そうしたら、「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わないけれど、またいつでも相談したいことがあれば言ってください」と、それで終わらせるしかないですね。

「共同の課題」が
生みやすい勘違い

神保 「共同の課題」ですが、あまり早くそこにいってしまうと、何でもかんでも共同の課題にして、結局は相手の課題に踏み込むだけになりかねないですよね。これはどうしたらいいんでしょうか。まずは人の課題と自分の課題をはっきり識別できるようにして、そのうえで共同の課題を話し合って決めるというプロセスに入るということですか?

岸見 というか、協力関係に入るのです。

神保 協力関係?

宮台 一足跳びに「共同の課題」に行くと勘違いが生じると岸見さんがおっしゃったことがポイントです。自分が日頃何をやっているかをモニターできるようになることが、まずは大事です。それができないと大きな勘違いにハマる。「共同の課題」の御題目で「課題分離の失敗」が正当化されるからです。

神保 頼まれもしないのに相手は助けを必要としていると勝手に判断することが問題ということですか?

岸見 それはありますね。私の息子が小学生のときにこんなことを言いました。私が「甘やかしってどういうことかわかる?」と聞いたら、少し考えて「頼まれもしないことをすること」だと。正解ですね。多くの親はそういうことを平気でやっている。

神保 先生はご著書のなかで、友人のお嬢さんが泣きながら帰ってきたとき、「何かできることはある?」と親が聞いたら、「leave me alone」と言ったという話を引いていますね。

宮台 「課題の分離」に成功した親が「できること」とは、「放っておくこと」だという話です。ここに、若い人の性愛状況が関係します。「ソクバッキー問題」として知られるように、恋愛相手を束縛するヘタレたちが増えています。なぜ相手を縛ろうとするのか。そこにもやはり「課題分離の失敗」があります。
 近代の性愛は、二人で同じものを同じように体験したい、つまり一体化したいという目標と関係します。ところがソクバッキーはその目標を間違って解釈するのです。「なぜ君と僕で意見が違うんだ、なぜ僕に従わないんだ」などと。たとえば「その髪型は君に似合わないって言ってるじゃないか」と。「課題の共有」どころか「相手の操縦」です。

神保 自分の好みを押しつけているだけだよね。

宮台 昨今の若い人を見るとそうした貧しい性愛コミュニケーションをする輩が大半です。だから僕は「ナンパをして成功するところまでは前半部分にすぎない」と言います。実際ソクバッキーのナンパ師が珍しくない。ちなみに僕は「後半部分は、相手の幸せに寄り添うべき相手にダイブできるようになること」と言います。アドラーの言う「協力」です。

「共同の課題」にすべきこと、
すべきでないこと

神保 課題の分離は簡単にできるものでしょうか?

岸見 よく考えればすぐ理解はできるはずです。でも、あまり理解したくない人が多いのかもしれないですね。先ほど言いましたが、課題の分離について説明すると、多くの親はそれを認めつつも首をかしげるわけです。

神保 そうでしたね。

岸見 言われればわかるのです。言葉ではわかる。けれど認めたくないという人が多い。

宮台 それは認知的整合化のなせるワザです。そうした親の場合、子どもの課題と自分の課題を混同することで自分の人生目標が与えられ、それによるプライミングで今の優先順位が決まっている。だから、子どもと自分の課題が別だと認めた瞬間、「あれ、私は今日からどうやって生きていけばいいんだろう」となる。だから認めたくないんです。

神保 自分の人生を生きていなかったわけですね。

宮台 そのとおりです。

神保 とはいえ岸見先生、「自分からはあまり勉強しないタイプだったけれど、親からうるさく言われたので仕方なく勉強した。そのお蔭で今はそこそこの状況にある」と思っている人はけっこういると思うんです。僕なんかも親に言われなきゃ全く勉強しなかった気がする。それはどう考えたらいいですか。

岸見 それは「お蔭で」と言えるような意味で成功したり何かを達成ができたからそのように言うわけであって、逆のケースのほうが圧倒的に多いかもしれません。結局、自分の人生なのに自分で責任を取らず親任せにしている。たまたま結果が世間的にいう成功だっただけですよね。

神保 「お蔭で」っていうのは、逆のケースだと「せいで」になるわけですね。

岸見 そうです。

宮台 神保さんだって、言われなくても高校2年生から突如勉強し始めることもあり得たでしょう。

神保 ああ、当然そうでしょうね。

宮台 親に言われて勉強した結果、そうなったと思っているけど、実際には他のルートを通ってもそうなったかもしれない。あるいは、もっとよくなったかもしれないわけです。

神保 たしかに、親に言われたからこの程度しか勉強しなかったのかもしれないしね。

宮台 「〜のお蔭で」は、問題を過去に帰属させたり他者に帰属させたりする外部帰属化です。子どもにとっては責任逃れで、親にとっては自分の手柄にする夜郎自大化です。

神保 しかし、「これは共同の課題にすべきこと、これは私の課題、これはあなたの課題」といった判断は難しいですね。

岸見 カウンセリングに来られる方を見ると、一方で本来はすべて自分の力でやるべきことまで他者に依存してしまうタイプの人がいます。他方で本当は援助が必要なのに援助を求めない人も多い。

神保 つまり助けを求めない?

岸見 人間は一人では生きていけないことを大前提にすれば、できることとできないことの見極めをきっちりとつけるのが大事です。できないことまでできるという人も困りものです。だからこそ課題を分けていく作業は絶対に必要なのです。

神保 まずは、自分にできないこととできることを見極めて、できないことだった場合は、共同の課題にして欲しいと意思表示するんですか?

岸見 そうです。だから、そういう意思表示を子どもからしてきたときは、共同の課題にしていいと思います。それは比較的安全なのですが、親が子どもの課題を共同の課題にしようとするケースは非常に危険です。親は子どもに対して「何かできることはないですか」と常に言っておけば十分です。そして、子どもが何も言ってこなければ何もしないほうがいいのです。

横の関係/縦の関係と
共同体感覚

神保 アドラー心理学では、縦の関係と横の関係ということもすごく言われます。たとえば、親が「子どもによかれと思って」というようなのは縦の関係で、それでは問題は解決しないと。とはいえ、親からすれば子どもとの関係は縦が当たり前だと思っているところがあるでしょうし、人生経験も親のほうが豊富なわけです。それでも、「いや、そうではなく、横の関係つまり対等であるべきだ」という。その点を説明していただけますか。

岸見 親と子どもが同じだと言っているわけではありません。知識も経験もたまたま先に生まれたので、子どもよりは親のほうが多少はあるでしょう。そういう意味では同じではない。また、取れる責任の量が違います。たとえば、ある家庭に門限があるとします。小学校1年生の子の門限が夜10時ということはあり得ない。責任が取れませんから。けれど、もしその家庭に門限というものがあるのならば、子どもだけでなく父親にも門限がないと対等とは言えないということです。

神保 父親は遅い時間でもいいけど、門限はやっぱりなきゃいけないと。

岸見 そうです。親と子は違うけれど、人間としては対等だと言いたいのです。

宮台 アドラー心理学のキーワードは、岸見さんの『嫌われる勇気』のタイトルにある「勇気」に加えて、「責任」です。前回の話にも出たように、過去ならぬ未来の引力に自分が引っ張られる場合に「勇気」が出るわけです。これに対し、課題の分離は「責任」の問題に深く関わります。
 やはり恋愛がわかりやすい。プラグマティストが重要視するような、利害損得の〈自発性〉を超えた、内から湧く力である〈内発性〉──利他性や貢献性── の本質は、アダム・スミスが言うシンパシー(同感)に当たります。「相手が喜ぶことが自分の喜びになり、相手が悲しむことが自分の悲しみになる」という感情の働きです。
 この同感可能性にとって、親子や先輩後輩や上司部下のような縦の関係は、雑音になります。なぜなら、「何かしなければ」という義務倫理的なものが入り込むからです。ちなみに哲学では、義務倫理と徳倫理を分けます。義務倫理学は、カントの無条件命令が典型ですが、「〜しなければならない」という義務的命令を重視します。
 これに対し、内から湧く力である「内発性=ヴィルトゥス(徳)」を重視する徳倫理学は「〜しなければならない」でなく「〜したくてたまらない」という感情を重視します。上下関係や、横関係でもルールで縛られた関係だと、感情の次元が義務に乗っ取られます。むろん僕らは義務を引き受けて社会生活を送りますが、問題はその引き受け方です。
 〈内発性〉に発する喜びゆえに引き受けるか。義務の観念に縛られて引き受けるか。フロイトなら「超自我」という形でやはり義務の次元を重視します。超自我は心の中で抑圧を担います。フロイトには強迫的な「義務」からの解放という主題が出てきますが、引き受ける「責任」の話がない。「責任」を引き受けるには〈内発性〉が必要です。

神保 『嫌われる勇気』では縦と横の関係に関連して、「共同体感覚」という話が出てきます。縦の関係では共同体感覚が実現できないと。そこのところ説明していただけますか。一般的に言われているコミュニティ的な意味での共同体と同じなのかも含めて。

岸見 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)という概念は、この言葉だけではそれが何を意味するかわかりません。アドラーは、これを「ミットメンシュリッヒカイト」(Mitmenschlichkeit)とも言い換えています。「人と人」(Menschen)が「共にある」とか「結びついている」(mit)という意味です。そういう関係を考えたとき、それは縦ではあり得ない。横でしかミットはできないと私は理解しています。

宮台 「課題の分離」と関係づけます。社会システム理論では、融合(フュージョン)と、分離されたものの統合を、区別します。レヴィ・ブリュールによれば、未開社会にも共同体がありますが、そこではフュージョンがポイントになります。「自分と他者」の融合や、「人と物」の融合です。
 近代社会では「自己と他者」も「人と物」もいったん分離されたので、上からあるいは外からの統合要求は、抑圧を生みます。そうではなく、「課題の分離」を達成した人たちが、〈内発性〉ゆえに相手と同じことを喜ぶのが、良い。相手の喜びが自分の喜びになる相互的な関係を軸としたとき、初めて「課題の分離」と矛盾しない共同体が見えてきます。
 神保さんが言った「共同体」は、「課題の分離」と矛盾する抑圧的なものです。日本にはそれが目立つのです。たとえば学校では「君はなぜ自分の目標ばかり言うんだ」「皆で同じ目標を達成しようと頑張ってきたじゃないか」と体育会的です。それも共同体と呼ばれますが、「課題の分離」が貫徹したアドラーの言う共同体の、反対物です。

ほめることは
相手を見下した行為

神保 僕は意外だったんですが、アドラー心理学では「ほめるのはダメ」なんですね。ほめるのは縦の関係だと。

岸見 はい。そのことを知らないと、「叱らずにほめて育てよ」と皆が言うので、多くの親は子どもをほめて育てます。ところが、それではうまくいきません。子どもをほめるとはどういうことかをまず考える必要があります。たとえばカウンセリングに母親が3歳の子どもを同行してきたとしましょう。カウンセリングはだいたい1時間ぐらいなのですが、その間子どもは母親の隣で待たないといけない。子どもは自分が置かれている状況の意味を確実に把握できると僕は信頼していますから、1時間おとなしくしていたからといって驚きはしません。ですが親はひどく驚いて、カウンセリングが終わったときに「えらかったね」「よく待てたね」とほめる。では同じような状況で、夫のカウンセリングをしているときに妻が待っていたとしましょう。1 時間経って終わったとき夫は妻になんと言うでしょうか。

神保 「お待たせ」かな。

岸見 どうして「えらかったね」と言わないんですか。

神保 ああ、そうですね。子どもだったら言うのに。

岸見 そこがポイントなのです。「子どもは待てない」と思っているわけです。それなのに思いがけず待てたから「えらいね」とか「よく待てたね」という言葉を発する。でも大人同士でそんなことを言ったら失礼じゃないですか。だから「ほめる」というのは、能力のある人が能力のない人に下す評価の言葉なのです。

神保 「ほめる」というのは、上から下だと。

岸見 縦関係が前提ですね。横の関係だと絶対にほめはしない。

神保 しかし「勉強しなさい」と言ってはならず、自分で勉強しているのを見て「えらいね」と言ってもいけない。どうしたらいいんでしょうか。

岸見 たとえば今の場面だと、大人同士ならなんて言うでしょうか。もちろん「お待たせ」でもいいですが。子どもも言われて嫌ではない言葉がけはなんでしょう。

宮台 僕だと「ありがとう」かな。

岸見 そうですね。「ありがとう」がすぐに出てくる人は少ないです。「ありがとう」というのはほめているのではなく、子どもの貢献に注目した言葉です。1時間おとなしくして親に貢献したということを子どもに伝えているわけです。貢献を伝えられた子どもは、自分に価値があると思えます。「ああ、自分は人の役に立ててよかったな」と自分の価値を認められるようになる。ところが、ほめられた子どもは自分に価値があるとは思わない。どこか馬鹿にされたような気がする。なぜかは子どもにはわからないでしょうが。

神保 では、ほめれば喜ぶだろうと思うのは間違いですか。

岸見 間違いです。小さな子どもさんを観察すればすぐわかることですが、ほめられた子どもはすごく嫌な顔をしています。それを知らないから親は観察しませんが。われわれ大人がもし「えらいね」と言われて嫌であれば、子どもも嫌なのです。それなのに大人と子どもは違うというのは、差別の論理だと私は思います。

神保 逆に、ほめられると喜ぶような子どもだと要注意ですか。

岸見 要注意です。

宮台 普通に敏感なら、「よくできたね」って言われたら、「できないと思っていたんだな」と感じます。大人に言わないのは、それが伝わっちゃうことを知ってるからです。ならば、なぜ子どもには伝わらないと思っているのか。子どもはほめるものという思考停止があるからでしょう。こういう思考停止は性愛コミュニケーションにもよくあります。

神保 ほめられると喜ぶ子どもは、できないと思われていることをなんとも思わず、縦関係に満足しているのだと。

岸見 そうですね。だからそういう子どもは、上司にお世辞を言って気に入られたがるような大人になるかもしれない。

神保 うーん、なるほど。

岸見 そうした子どもは、「ほめて、ほめて」と言います。親が意識的に「ありがとう」や「助かった」というような子どもの貢献に注目する言い方をし始めても「どうしてほめてくれないの」と。そういう子どもには「私はあなたをほめない。なぜなら、ほめることはあなたを家来や子分にすることだから。私はあなたを家来にも子分にもしたくない」とはっきり言うべきだと思います。

「見る神」が
いない社会の課題

神保 岸見先生は、縦の人間関係が精神的な健康を損なう最大要因であるとも書かれています。

岸見 そう思いませんか。縦の関係では、絶えず上の人の顔色を窺わないといけない。自分の言うことが気に入られるかどうかを気にするのはかなりしんどいですよね。

宮台 人間は、人が見ているとちゃんとするけど、見ていないとズルをする動物です。実験でも確かめられてきました。だから、この性向を利用した制度があります。国家機密をアメリカなら25年、ヨーロッパの多くの国なら30年で情報公開するルールがありますが、いずれ情報公開されると知っていれば、私利私欲の暴走が抑制されるからです。
 社会システム理論の視座から言えば、「見る人」がいないとちゃんとできない成員が大半である社会は、一定以上は複雑になれません。絶えず対面制御が要求されるので、コミュニケーションの文脈が制約され、取引コストが上がるからです。コミュニケーションを文脈自由にするために必要な信頼を調達できないということです。
 部族段階(原初的社会)から文明段階(高文化社会)へと複雑化した社会は、大半が「見る神」の表象を持ちます。代表的なのは、ユダヤ教の神やキリスト教の神やユダヤ教の神です。これら3つは同一神ですが、この唯一絶対神に限られません。日本で「お天道様が見ている」とか「ご先祖様が見ている」という場合も、「見る神」を持ち出している。
 前ローマ教皇ベネディクト16世が、キリスト教の唯一絶対神──「主」ないし「神の中の神」──の本質は「見る神」で、罰や報償を与える神ではないと述べています。罰や報償に関係なく、「見る人」を前にすれば、人はシャンとするのです。あるいは「見る人」がいなくても「見る神」がいればシャンとします。
 神を持たない社会、あるいは神が死んだ社会ではどうなるか。それを課題としたのが、プラグマティズムの社会心理学者ジョージ・ハーバート・ミードです。ミードについてよく知られているのが、「I」と「Me」の対立概念です。その含意を日本では社会学者でさえ理解していないので、ここで紹介します。
 ミードは、「Me」とは「自分が見た自分」で、「I」とは「自分が見た自分に対する反応」だと言います。たとえば、「自分が見た自分」が浅ましく見えたことへの反応として「浅ましいことはやめよう」という意欲が湧いたりするのが、そうです。こうして、「見る神」が存在しなくても、「見る自分」の存在によって、自分がシャンとすると考えたのです。
 では、「Me」の浅ましさに対して適切に反応する〈内発性〉としての「I」は、どう形成されるか。ミードは、ロールテイキング(役割取得)をもたらすロールプレイ(ごっこ遊び)が重要だとします。たとえば、僕らが子ども時代のアニメでは「卑怯者!」がキーワードでしたし、子ども同士のごっこ遊びに「卑怯だぞ!」という物言いが頻繁にありました。
 そうした罵声自体がネガティブなサンクションになって、子どもらは、「一般に人はこういう振る舞いを卑怯だと思うこと」や「そう言われると誰だって嫌だと思うこと」を学びます。これをミードは「一般的他者の役割を取得すること」と表現します。そうやって子どもらは立派な大人になっていく。ところが今は「卑怯」という言葉は死語です。

神保 ほんと、聞かないね。

宮台 そう。「立派」と「卑怯」という対立概念が消えて、「うまくやるヤツ」と「やれないヤツ」の対立だけになりました。そこに、ロールプレイが貧弱だという「ロールテイキングの貧しさ」ゆえの、コミュニケーションの貧しさが見出せます。それが貧しいのは、「Me」に対する適切な反応としての、共同体感覚に満ちた「I」が不在だからです。
 ミードは、ごっこ遊びのロールプレイを通じて「一般的他者の役割」つまり共同体感覚に満ちた「I」を習得する過程で近接する他者たちとの関係性が不可欠だと考えましたが、最終的には近接する他者たちが必要なくなる、つまり周りに人がいてもいなくても大概の人がそう見るように自分を見て反応できるようになる、としています。

岸見 縦の関係が前提の「ほめる、ほめられる」について補足しますと、ほめられて育った子どもは、ほめる人がいないと適切な行動をしなくなります。ゴミが落ちていれば普通拾いますよね。でも、そうした子どもはまず周りを見ます。そして目撃している人がいれば拾ってゴミ箱に捨てる。それは精神的にあまり健全だとは思えないですよね。誰も見ていなくてもちゃんとゴミを拾う子どもになって欲しい。だからほめることは望ましくないとアドラー心理学では考えます。

宮台 ある程度複雑化した社会には、他人に見られない振る舞いがいっぱいあります。もし人が見ていなければ何でもアリになるようであれば、複雑な社会は到底存続できません。「見る人」がいなくても、「見る神」ないし「見る自分」の存在ゆえにきちんと振る舞えることが重要になります。
 その場合も、「見る神」や「見る自分」が、「損得勘定」を超えた「内から湧き上がる力」をもたらすのが良い。つまり〈自発性〉ならぬ〈内発性〉をもたらすのが良い。初期ギリシアが「見る神」を否定して「見る自分」を鍛えようとしたのは、「見る神」が「罰する/褒美をくれる神」になると、損得勘定が優位になりがちだからです。
 ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーが、主なる神は「見る神」であっても「罰する/褒美をくれる神」ではないと強調するのも、ルカによる福音書10章25節以降の「善きサマリア人の喩」などを通じて、こうしたギリシア的思考を意識するからです。ちなみに全てコイネーギリシア語で書かれた福音書にはギリシア的思考の影響があります。
 いずれにせよ、人が見ているからちゃんとするのと、人が見ていないときに内から湧き上がる力でちゃんとするのとでは、動機づけの文脈依存性が違います。後者は社会的文脈をオープンにし、社会の進化を支えます。ミードによれば〈内発性〉の不在は、子どもの成長過程における故障です。岸見先生が「健全ではない」とおっしゃることに重なります。

(続く)

[DIAMOND online]

Posted by nob : 2014年07月28日 06:20

また旅立つ君へVol.52/最も苦手で近寄り難いもの、、、海外で出会う日本人。。。

■お互いに依存し干渉し合う閉鎖的・均一的な共同体は

そこに入ってくるものと

そこから出ていこうとするものを

本能的に嫌う


■日本人は群れると人格が変わる

日本での序列や社会性をそのまま海外に持っていってしまうので

想像力をなくし

摩擦が起きやすくなる


[いずれも「普通の女の子」として存在したくないあなたへ/村上龍より]

Posted by nob : 2014年07月27日 19:10

また旅立つ君へVol.51/かつての途に迷う旅から、、、Vol.2

予期せぬ出会いと出来事は

今日までの自身との別離と

明日の新たな自身との出会い

Posted by nob : 2014年07月27日 19:02

また旅立つ君へVol.50/旅立ちの時はいつも唐突に自ずと訪れる。。。

やりたいことが見つからない時には

その時々目の前の与えられた事柄に鋭意専心することから、、、


そして本当にやりたいことを見つけたのなら

先送りせずにすぐに着手一意専心していくこと。。。

Posted by nob : 2014年07月20日 21:55

彼の真意がどこにあれども、、、脱原発への影響力に期待。。。Vol.42/原発の安全性など誰も信じてなどいない、、、にもかかわらず。。。

■小泉・細川+鳩山・菅 元首相の4氏 脱原発会合そろい踏み

 小泉純一郎、細川護熙両元首相らが脱原発を目指して設立した一般社団法人「自然エネルギー推進会議」の会合が十八日、東京都内で開かれ、小泉、細川両氏に加え鳩山由紀夫、菅直人両元首相も出席した。菅氏は脱原発が持論で、鳩山氏も首相官邸前の脱原発デモに参加したことがある。四人の首相経験者が、脱原発でそろい踏みした形だ。

 推進会議事務局によると、鳩山、菅両氏は「サポーター」としての一般参加。会合後、菅氏は小泉、細川両氏との連携について「それぞれの立場で協力できるところは協力する。原発ゼロに進むということでは共通した考え方を強く持っていると思う」と記者団に語った。

 九州電力川内(せんだい)原発が新規制基準を満たすとした原子力規制委員会の合格判断について、細川氏は「引き返すのはいつでもできる。後々、幾世代にもわたって悔いの残らないような判断をしてもらいたい」と指摘。小泉氏も「あれはおかしい」と批判した。

 会合では、脱原発や脱化石燃料に向けたビジネスモデルを提案した「新しい火の創造」の著者で、米ロッキーマウンテン研究所のエイモリー・ロビンス博士が講演した。

[東京新聞]

Posted by nob : 2014年07月19日 21:53

今後の世界からの英知の結集に期待。。。Vol.2

■整水器で放射性物質99%除去=汚染水処理にも期待―九大

 家庭用アルカリイオン整水器で、水道中に含まれる放射性ヨウ素とセシウムを99%除去できたと、九州大大学院の白畑実隆教授らの研究グループが18日、発表した。

 論文は16日、米科学誌「プロスワン」のオンライン版に掲載された。

 白畑教授は「ストロンチウムなど他の放射性物質でも効果が期待でき、福島第1原発事故で発生している汚染水の浄化処理への活用も期待できる」と説明している。

 研究グループは、イオン化して水に溶けやすくしたヨウ素125とセシウム137が、それぞれ1キログラム当たり30〜1万5000ベクレル含まれた水道水をアルカリイオン整水器に流し、ろ過後に測定した。その結果、セシウムで最大99.2%、ヨウ素で最大99.5%除去できたという。 

[時事通信]

Posted by nob : 2014年07月19日 21:51

まずは毎朝のウォーキングと舞夜就寝前のストレッチから、、、身体と生活にリズムが生まれてきます。。。

■「眠れない、食べられないのに夏太り」に注意
ぐっすり眠れないと、「脂肪分解力」が7割も減少!

安達 純子 :医療ジャーナリスト

 「ちょっと体調が悪くて……」「なんか最近体が……」こんな悩みを抱えているビジネスマンは多いはずだ。だが忙しい企業戦士のみなさんのこと、気軽に休暇を取得して病院で1日じっくり検査、というわけにはいかないだろう。大抵、「寝れば治る」で、放っておいてしまう人が多い。

 だが、ちょっと待ってほしい。その病気になる直前の“病気もどき”こそ体のSOS信号なのだ。この連載では看過することのできない”病気もどき”について、医療ジャーナリストの安達純子氏が解説する。

ぐっすり眠れないと、脂肪分解力が7割減に!

熱帯夜では、布団に入っても、「暑くて眠れない」といったことになりがち。エアコンを低めに設定し、ウトウトとしたものの、寒過ぎて夜中に目が覚める。再びエアコン調節をして寝ても、しばらくすると暑くて再び起きてしまう。当然のことながら寝不足。こんな状態を繰り返していると、翌日の仕事のパフォーマンスに悪影響を及ぼすだけでなく、ふと気がつくと、お腹周りに脂肪がプヨプヨ。夏太りにまで結びつくという。寝不足で体力低下のはずが、脂肪だけはしっかりと体内に蓄積されていく。その原因とはなにか。

「ダイエット外来の寝るだけダイエット」(経済界刊)の著者で、日本肥満学会会員、佐藤桂子ヘルスプロモーション研究所所長が説明する。

「寝ている間に分泌されている成長ホルモンは、一晩で約300キロカロリーの脂肪を分解します。ところが、ぐっすり眠れないと、成長ホルモンの分泌は「通常の3割」に減り、90キロカロリー程度まで脂肪を分解する能力が落ちてしまうのです。一方、真夏の外気によるストレスや寝不足は、自律神経の働きを乱します。本来、肥満細胞から分泌される『レプチン』は、交感神経の興奮と連動して、食欲の抑制や脂肪燃焼に関係していますが、自律神経が乱れると分泌量が減ってしまうのです。

逆に、胃から分泌されて食欲に関与する『グレリン』という物質は増加します。眠れなくて成長ホルモンが減り、脂肪燃焼がしくにくだけでなく、自律神経の乱れで、脂肪燃焼は制御されて食欲は増すといったことが、真夏には起こりやすいのです」

「そうめん&アイスだけ」は、やってはいけない

自律神経が乱れてグレリンの分泌量が増えると、食欲は増す。しかし、灼熱の太陽が照りつける中、夏バテで食欲は減退しがちという人もいるだろう。そんなときに食事で選びやすいのが、そうめんやアイスなど、のど越しの良い食材。ガッツリとした丼物よりも、カロリーは低いように見えるのだが、夏太りに拍車をかけることがあるそうだ。

「夏場は、汗と一緒にビタミンB群が失われやすいのです。ビタミンB群は、脂肪燃焼に欠かせないのですが、汗で失われると同時に、そうめんやアイスといったのど越しのよい食材からは、体内に補給することができません。ビタミンB群不足で脂肪が燃焼されにくくなることが、夏太りを後押しするのです」(佐藤所長)。

そうめんやアイスばかり食べていると、糖質ばかりを体内に入れることになる。糖質は、本来、エネルギー源となるが、夏場は基礎代謝も落ちやすい。基礎代謝というのは、安静の状態でも消費されるカロリーのこと。

「真夏は、外気の影響を受けて基礎代謝が落ちます。冬場はエネルギーで体温を高める必要がありますが、夏場は体温調節のための代謝は、外気温が高いゆえに冬場と比べて必要ありません。基礎代謝が落ちるため、冬場と同じ食事量でも、夏場は太りやすいのです」(同)。

 人間の身体は、体温を一定に保つ仕組みになっている。外気が10度以下の冬場は、体温を36度前後に保つため、脂肪を燃焼してエネルギーに変える。ところが、夏場の外気35度以上では、体温を自然に上がるため、脂肪を燃焼する必要がなくなるというわけだ。

基礎代謝が落ちていると、エネルギーとして使われる量が少ないゆえに、そうめんやアイスなどでとった糖質は体内で脂肪となって蓄積されやすい。ビタミンB群不足で燃焼もされず、寝不足では成長ホルモンによる分解も期待できない。食欲を増すグレリン分泌量が増えていると、糖質への食欲も増す一方。結果として、夏太りへの一途をたどることになる。

効果的な「夏太り予防法」と「解消法」とは?

佐藤所長によれば、夏太りの予防と解消法は次のとおり。

① 寝つきをよくするために、寝る2~3時間前にウォーキングやラジオ体操などで身体を軽く動かす。運動習慣のない人が、ジムなどでハードトレーニングを行うと身体に悪影響を及ぼし、逆効果になるため、軽い運動にとどめる。

② ビタミンB群の補給のため、レバニラ炒めや豚肉の生姜焼きなど、ビタミンB群の豊富な食材を積極的に食べる。ただし、副菜は肉類に偏ることなく、肉や魚とバリエーションに富んだメニューが良い。

③冷たい飲食は身体の基礎代謝を落とすため、なるべく温かいものを食べるようにする。食事は、ご飯、みそ汁、おかずが基本。

④ 野菜も温野菜がベター。発酵食品のみそ汁の中に、野菜類をたっぷり入れると、腸内環境を整えて自律神経の乱れも解消しやすい。

⑤食生活の改善が難しいときには、食欲調整ホルモンへの作用が期待されるサプリメントを活用するのも一考だ。

「仕事などでストレスがあると、脳内物質のセロトニンを増やそうとして、脳が甘いものへの食欲を増幅させます。寝る前にアイスなどを食べるとホッとするという人はいるでしょう。しかし、寝る前に身体を冷やすと寝つきが悪く、基礎代謝も落ちるなど、短時間で体重が増やすことに結びつきます」。

「ストレス解消のアイスを食べるなら、昼間にしましょう。そして、バランスの良い1日3回の食事と十分な睡眠時間を確保することで、夏太りから身を守っていただきたいと思います」と佐藤所長は話す。

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2014年07月19日 21:40

言い得て妙。。。Vol.20/女性はみなそれぞれに可愛らしい。。。

■女性に言われるとかなり面倒な言葉 / その対処方法

男であれば、誰しも女性の発する意外な言葉に、驚かされた経験をお持ちではないだろうか。思わぬ場所、予想外のタイミングで、まったく想像もしなかったようなことを突然言い出すのである。それらは常に、男を「面倒くさい」と思わせてくれるものなのだ。交際している彼女の発言であれば、なおさらである。

そこで女性の口から飛び出す面倒な一言と、その対処方法についてお伝えしよう。これから紹介するノウハウは、必ずや男性諸氏を窮地から救ってくれるはずだ。

・女性に言われると面倒な言葉

1. 別に(明らかに不機嫌なのに何でもない素振り)

この一言には注意が必要だ。彼女がこれを発したときは、当然ながら機嫌が悪い。彼女にとってとても重大な問題があるにも関わらず、男が察することができないことに、頭に来ている状態である。「あなたは私に起きている問題について、何も察することができないのね」と。

問題を説明するのが面倒臭い、もしくは嫌気がさして「別に(何もない)」と言いたいわけである。このときに真剣に取り合ってはいけない。本人が何もないと言っている以上は、「あ、そう」と普通にしておけばOK。間違っても「何か怒ってる?」と言ってはいけない。女性は益々付け上がるだけだ。何も解決する必要はない、触らぬ神にたたりなし。

2.わたし太った?

女性たちは男が思う以上に、自分の見た目を気にしている。普段から甘いものを多量に摂取していても、そんなことは関係ない。見た目が第一、体重はその次。本人がどうかではなく、周りがどう見るかを一番に気にしている。

この質問が飛び出したときは、「私、絶対太ってないよね? 太ってないでしょ?」と聞いているのである。こういう場合は、無視をするのが一番マズイので、一瞬聞かなかったふりをして「え?」と聞き直そう。そして、「太った?」と質問返し。『まさか、自分が太ったなんて思ってるの?』と質問そのものを疑っているように装う。

そして、「誰かにそう言われたの?」とでも聞いておくと良い。「そんなことを口走った奴は、俺が痛い目見せてやる」くらいの勢いで、反問すると最高である。

3.わたしサラダにする

野菜を食べるのも、健康に配慮するのも結構なことだ。しかし、残念ながら男たちはいつも察してる。外食だけに配慮したところで、どうしようもないということを。そして、せっかくおいしいものを食べようというときに限って、女性たちは「サラダ」と言い出す。

これに関する対策は2つ。まず1つが、サラダを提供しない店に行くこと。イチイチサラダに振り回される筋合いはない。サラダがあれば、サラダを頼むだけの話。したがってサラダのない店に行けば良いだろう。

もう1つの対策は、まともなうまい野菜の食べ方を教えてやるべきなのだ。彼女は野菜を食べたいとは言っていない。サラダを食べたいのだ。つまり、うまい野菜を知らないと言っても良いだろう。野菜がうまく食えるのなら、別にサラダでなくても良いのである。この際、野菜の素晴らしさについて、しっかり知っておいてもらった方が良いのではないだろうか。

4.今すぐ準備するから1分待って

嘘だ。この言葉は間違いなく嘘。ひどい場合には、「ちょっと横になってて、準備できたら声掛けるから」、そう言われて夕方になったことが何度あっただろうか。待たされるときには、先に出かけてしまうがいい。「じゃあ、俺買いたい本があるから、先に本屋に行ってるわ」、急に思い出したように用事を作って、さっさと出かけるべきである。

それでも待てというのなら、出かける支度が済んでいても、改めて風呂に入るくらいの気持ちを持った方が良い。しかし、あくまでも「遅い」とは言ってはいけない。彼女はこれ以上ない速さで準備しているのだから。

5.私を困らせたいの(笑)?

疑問符がついているものの、この言葉はすでに彼女の中で断定されたものだ。つまり、「笑って言ってるけど、困るのよ、わかんないの?」。困らせるなということであって、すでに手遅れを意味している。

だが、このサインが現れたときに慌ててはいけない。なぜなら、女性はこういうことをきっかけに男を試すことが良くある。単なる意地悪という場合さえあるのだ。とはいえ、反論は禁物。嫌味にならない範囲で折れてやるべきである。彼女は不快にさせたいと思って、このサインを発しているわけではないのだ。ただし、あまり根拠はないので、「はいはい、ごめんごめん」程度で交わすようにしよう。

6.ごめん、今、会いたいって気分じゃない。最近、忙しくて。

このような言葉に、悶絶する思いをした男たちも多いはず。いかにも自分の存在が、負担になっていると感じさせる台詞だ。これまた悪意から生まれた言葉ではない。精一杯の誠意をもって、相手を突き放しているだけだ。

悔しいことではあるが、この場は黙って引き下がるしかない。しかし、次に彼女から誘いがあったときには、よく覚えておこう、自分も自分の都合を優先に考えるべきだということを。

「連絡キター!」と有頂天になって、うまうまと彼女の都合に合わせていると、また突き放されることになりかねない。仕返しという意味ではないのだが、「ちょっと忙しい」と言って冷たくするのも大切なことである。

7.元カノと仲良くしてもいいわよ

このようなことをわざわざ口に出して言う女性は、元カノに限らず、すべての女性に対して嫉妬心を抱いている。浮気と言わないレベルでも、ヤキモチを焼いてしまうような女性だ。

ちょっとした飲み会や遊びの誘いでもあって、その場にほかの女性がいるとわかったら、何を言い出すかわからない。もしも何か問題が起きたら、こう考えておくと良い。自分に魅力がなかったのなら、彼女が嫉妬することもないのだ。また、ほかの女性の誘いもないような男と、彼女は付き合っていて幸せなのだろうか? と。

わざわざ遊びに行くと公言する必要もないのだが、嘘をつかない程度に、彼女にほかの女性と会うことを認めさせた方が良いだろう。もちろん、浮気をしないという前提で。浮気について自信のない人は、絶対に説明するべきではない。あくまでも彼女が許容できる範囲で、認めてもらおう。

8.あれカワイイ! これもカワイイ! (何でもカワイイ)

ああ……、また。まただよ。何見てもカワイイんでしょ? 女性がとかく口にする言葉のひとつ、「カワイイ」。「飽きた」もしくは「知ってる」と返事したくなるほど、この言葉を繰り返す。

しかし、男性もこれに近い言葉をしょっちゅう使っている。それは「スゲエ!」だ。何かとても大きな物、非常に細かい物、迫力のありそうな物を見ては「スゲエ!」と言っていないだろうか。または日常生活に役立ちそうにない、宇宙の歴史や恐竜の骨格、すべに亡くなってしまったミュージシャンの生い立ちなど、これらに対する「スゲエ!」は女性の「カワイイ!」と同種のものだ。

いずれも役立つかどうかに関わらず、自然に感情に訴えかけてくるものなのである。ではなぜ、このように反応してしまうのか。それには少々理由がある。男性は自分がすごいと思うものに対して、憧れを抱いている。何か高みに触れたような気がして、興奮してしまうのだ。羨望と言っても良いだろう。

反面女性は、可愛らしいものに対して同化する気持ちを抱く。その可愛らしさや美しさを、自分のなかに取り込もうという意欲の表れだ。この2つは、性別に由来する反応の違いに過ぎない。

したがって女性が「カワイイ!」と言ったら、「スゲエな!」と返すと良いのではないだろうか。意外にもわかり合える可能性がある。

以上、8つの面倒な一言と、その対策についてお伝えした。男性諸氏には、是非ともこれらを役立てて頂きたい。最後にもうひとつアドバイスをするならば、「相手の期待以上に役立とうとしてはいけない」ということだ。女性の期待に100パーセント応えることは、ほぼ不可能だ。50パーセントも応えられたら、自分に100点をあげるべきである。

[Rocket News 24]

Posted by nob : 2014年07月17日 15:42

己を知ることこそ勝利への第一歩Vol.3/そもそも日本代表にエースなど不要!!!真のチーム内競争があってこそ、日本代表は強くなる。。。

■日本代表での存在感。本田圭佑と中田英寿はここが似ている

編集部●文 益田佑一

 W杯イヤーの2014年、その言動に最も注目が集まる男。それが本田圭佑だ。

 ブラジルW杯出場を決めた翌日、日本代表の記者会見での本田圭佑の発言が話題を呼んだ。今後の課題を聞かれて「シンプルに言えば個だと思います」と切り出した本田は、川島、今野、長友、香川らチームメイトの名前を次々とあげ、”課題”を具体的に述べ立てた。淡々とした口調ではあったが、”お祝いムード”に包まれていた会見場の空気は一気に張り詰めた。

 その後の日本代表はコンフェデレーションズ杯で3戦全敗。親善試合でもウルグアイやセルビアといった強豪に敗戦を続け、本田の危機感が正当だったことが証明された。11月の欧州遠征ではオランダに引き分け、ベルギーに勝利と、ようやく結果を出した日本だが、本田は手綱を緩めない。「良い部分も出たが課題も出た。何が良くて何が悪かったかは冷静に分析したい」「(W杯まで)所属クラブに戻って個人のレベルを上げていくことが必要だと思います」……。それは一選手というより監督のコメントのようでもあった。

 それらの様子を見て、ある選手を思い出した人も多かったのではないか。かつての日本代表、中田英寿のことである。

「おれには『胸を借りる』なんて考えはぜんぜんないよ。サッカーはルールに従い、11人で戦う。条件は皆同じだ。だからこそ、ピッチでは何が起こるかわからない。初出場の日本だって優勝する可能性はゼロじゃないんだよ」(98年フランスW杯を前に)

「決勝リーグに進んだことは大きなステップだと思うよ。でも、トルコ戦は、不完全燃焼のまま終わってしまった。90分を戦った後、倒れて動けないとか、足がつって歩けないとか、そこまでやっていたかと言えば、答えはノー。最後の一滴までエネルギーを使い果たして戦えたとは、到底思えなかったんだ」(02年日韓W杯の後)

「このチームには熱意というものがない。いつも親善試合と一緒じゃないか! こんなゲームがもう一度でもあったら、ワールドカップなんて絶対にない」(04年、W杯予選シンガポール戦に苦戦して)

「僕にとって予選通過はあくまで通過点。このチームでは、本大会で戦って勝ち抜ける力はまだないと思います。この1年で個人個人が伸びてみんながレベルアップして、勝ち抜けるチームになることが必要。(そうすれば)3度目のワールドカップで初めて前へ行ける」(05年、ドイツW杯出場を決めて)

 日本が初めてW杯に出場した98年以降、ある時は強気に、またある時は危機感をあらわにしながら、チームに緊張感を与えてきたのが中田英寿だった。

 中田は98年W杯が終わるとセリエAペルージャに移籍。現在に至る日本人選手の海外クラブ移籍の流れを作ったとも言える存在だった。自国開催のため予選のなかった当時の日本代表は強豪国と対戦を重ねたが、チームの中心となっていたのが中田だった。一時期のトルシエジャパンは、実質的に中田ジャパンと言ってもいいようなチームだった。

「中田の選手としてのピークは2001年。ローマで優勝を経験し、まだ数少なかった海外組の中でも別格で、代表の中でもカリスマ性があった。一時の日本代表は何でもかんでも中田にボールを集めるようになっていました」と言うのはサッカーライターの杉山茂樹氏だが、そこには彼のプレイスタイルが関係するという。

「頼りがいがある。ひと言でいえば“倒れない”。肉体的な強さ、幹の太さのようなものがあり、キープ力があってドリブルやキックに重みがある。簡単にいえば強いシュートが打てる。日本には上手い選手は多いが、こういうタイプの選手が非常に少ないんです。相手が強くなればなるほど、そういう選手への依存度は高くなる。そいう意味では、現在の代表で本田が果たしている役割も似ています」

 もちろん相違点もある。例えば海外でプレイする選手がこれだけ増えた現在、当時の中田が持っていた、格上のクラブに所属することからくるカリスマ性のようなものは、もう本田にはないはすだ。だが、「代表チーム内での依存度は当時の中田より現在の本田のほうが高いのではないか」と、杉山氏は語る。

「理由のひとつは中田が右利きなのに対して、本田は左利きだから。本田は残り9人と違う角度でプレイすることができるんです。中田の場合は“非力な中田”に代えることもできたが、本田には代わりがいないということです。

 しかも本田の特徴は、いかにも左利き、という左利きではないこと。ボールを常に身体の中心に置いてプレイしているから、漠然と見ていたら右利きか左利きかよくわかりません。だから最初の一歩でどちらに行くかがわからず、ボールをとられにくいし、右サイドで縦に抜いていくというようなこともできる。これが攻撃の推進力につながるんです。ロッベンやラウルがそうなのですが、こういうタイプの日本人レフティは非常に少ない。二重の意味で、今の日本代表には本田の代わりがいないのです」

 そういえば、帰国したときの成田空港での注目のされ方や、独特のファッションへのこだわり、群れないイメージなど、ふたりにはピッチ外でも似たムードがある。南アフリカW杯の直前、テレビの番組で初めて対談した際には「思った通りの人だった」「似てるな」と、お互いの印象を語っていた。かつてふたりにインタビューをしたことのある杉山氏は、それぞれから受けた印象をこう語った。

「共通点はおしゃれなこと。自分をよく見せようという意識が強いとも言える。『ストレートにモノを言う』と言われますが、基本的にはお喋りが好きなんだと思います。ただ、中田に影があるように見えたのは、そういう自分の立ち位置に多少ストレスを感じていたからではないでしょうか。本田にストレスがあるようには見えません。明るいのは大阪の庶民性みたいなものがあるからかもしれませんね」

 ミラン入りで再びその周辺が騒がしくなりつつある本田圭佑。これからの半年、その言動からやはり目が離せそうもない。


■前園真聖が語る「本田圭佑と中田英寿との違い」

川端康生

「すごく努力してきたと思いますよ。ここまで来るのに」

 それが、前園真聖氏の第一声だった。引退からおよそ10年。自分と入れ替わるように現れた本田圭佑を、ピッチの外からつぶさに見つめてきたからこそ、その成長ぶりには目を見張るものがあるようだ。

 本田はもともとすごくテクニックがあるわけでもないし、スピードもありませんでした。2008年北京五輪のときもチームの”駒”のひとつという感じで、特別な選手ではなかった。しかも結果は3連敗(0-1アメリカ、1-2ナイジェリア、0-1オランダ)。本田だけではありませんが、あの大会では世界を相手にまったく歯が立ちませんでした。

 でも、オランダ(VVVフェンロ)でプレイするうちに、彼は大きく変わりました。一番はやはり、ゴールへの意識が強くなったこと。ゴールを決めるためにドリブルで仕掛けていくようになった。それまでは周りを使うプレイが中心で、自分で突破していく場面はそれほど見られませんでしたから。

 そんなふうに自ら仕掛けていくためには、相手に走り勝たなければいけません。そのために本田は、相当なトレーニングを積んだはずです。そうしてスピードが上がり、当たり負けしない身体の強さを手に入れたことで、彼のプレイの幅がとても広がりました。それでも、2010年の南アフリカW杯を迎える時点では、まだ日本代表の中心というような存在ではありませんでした。あのときの代表は”中村俊輔のチーム”でしたからね。

 ところが、大会直前の戦術変更で本田が抜擢されることになった。そして、初戦のカメルーン戦(1-0)でゴールを決めるわけです。このことをラッキーだと思う人もいるかもしれませんが、僕はそうは思いません。だって普通はできませんよ。それまでやったことのない1トップを突然「やれ」と言われてできるものじゃない。

 でも彼は、見事にやって見せました。きっと、自分が何をしなきゃいけないのか、その役割を明確に理解していて、どういうプレイをすればいいか、具体的にイメージできていたんだと思います。だとしてもなかなかできるものじゃないですが、彼はそのイメージを実際にプレイで実践した。

 もしカメルーン戦のあの(先制)ゴールがなかったら、あの試合を勝つことはできなかっただろうし、あの大会でベスト16に進むこともなかったと思います。そして、本田の未来も違っていたかもしれない。キープ力をはじめとしたプレイ面と、戦術理解も含めたメンタル面の両方で準備ができていたからこそ、彼はチャンスをモノにすることができたわけです。

 特に感じるのは、精神的な部分ですね。突然の抜擢ではあったけど、プレイについてだけでなく、自分がチームの中心になっていくようなイメージを彼はもともと持ってゲームに臨んでいたと思います。だからチャンスがめぐってくるし、そのチャンスをモノにすることもできる。

 そして、結果を出すことで、自然とボールが集まってくるから、さらにいいプレイをすることができるようになる。大会が進んでいくにつれて、存在感がどんどん大きくなっていき、デンマーク戦(3-1)あたりでは彼自身も自信に満ちあふれていました。そうなると(1点目の)FKも入るし、(3点目の)岡崎慎司のゴールをアシストしたような余裕のあるプレイも出てきます。

 その後の彼の存在感についてはご存じのとおりです。今回のW杯に際しても「優勝」という言葉を彼は口にした。そんなことを言った選手は過去にいませんよ。

 もちろん、それを聞いたとき、初めは「さすがに無理だろう」と思いました。でも彼がそう言って、周りの選手もそれに呼応した。ついには、チーム全体がそんな意識を持ってやっているのを見ているうちに、「もしかしたら本当にやってくれるんじゃないか」と、僕らの意識まで引き上げられた。

 結果的には実現しませんでしたが、でも彼の言葉の持つ力はすごかった。プレイだけでなく、本田が発する言葉やメッセージが、チームに強い影響力を与えてきたし、また彼自身、それを意識して言葉を発していると思います。

「中田英寿」の名前を前園氏が口にしたのは、そんなふうに本田の影響力について語っているときだった。「チームの中での存在感と、発言が注目されるという意味ではヒデと似ているかもしれませんね」と。

 しかし、「立ち位置は似ていますが、でも……」と話は続く。

 ある時期まで本田はヒデを意識していたと思います。チームの中でのポジションの作り方とか、自分をプロデュースしていくやり方とか、ヒデに憧れていた面はあったと思う。

 でも、ロシア(CSKAモスクワ)でプレイするようになった頃から少し変わってきた。より明確なメッセージを発するようになったりして、ヒデとは別の“本田圭佑”を作り上げようとしているように、僕には見えました。

 そして、そんな本田を包む周囲もヒデの頃とは随分違っていました。ヒデは、チームの中でひとり突出していた。彼と同じ目線を持てる選手がいなかったということです。海外でプレイしている選手がいなかった僕らの時代はもちろん、ドイツW杯の頃でさえ、すでに海外組はいましたが、やっぱりヒデだけが特別だった。だから、ヒデの言葉に共感できる選手はほとんどいなかったはずです。ツネ(宮本恒靖)がそのギャップを埋めようとしていたけど、結局うまくいかず、チームもいい成績を残すことができなかった。

 でも、今の代表はそうじゃない。本田と周囲の選手の間にギャップはない。だから、彼の言葉も受け入れられる。それどころか、ライバル意識を持っている選手さえいます。

 そんなふうに考えると、時代の流れを感じますね。


[いずれもスポルティーバ]

Posted by nob : 2014年07月15日 17:10

己を知ることこそ勝利への第一歩Vol.2/ザックの采配力不足、チームづくりはもちろん選手交代のタイミングの遅さは致命的だった。。。

■本田圭佑の代役を探さなかった日本の不幸

小宮良之

 ブラジルW杯を前にした本田圭佑は、日本フットボール界において絶対的な存在だった。ファンも、メディアも、そして選手たちもその実力と実績に一目を置いていた。本田の言葉は彼自身を彩り、飾り付け、実際よりも大きく見せることもあったが、そのキャラクターも含めて魅力的だった。

  2010年W杯で代表の中心選手としての座を勝ち取った本田は、その後に発足したザッケローニ体制においても常に先頭を走ってきた。2011年のアジアカップ、2012年のW杯アジア3次予選、2013年の最終予選、その主役を務めてきたのは常に本田だった。日本代表において本田の存在がいかに大きかったかについては、SportivaブラジルW杯特集号『保存版「本田の時代」』にも書いている。

 ところが2014年のW杯において、本田は本田ではなかった。誰が見ても、精彩を欠いていた。その瞬間、日本は本田もろともに失意の底へと落ちたのだった――。

 スペインのFCバルセロナが最強を誇るのは、常に新陳代謝を求めて競争関係を作っているからである。過去10年だけでも、ロナウジーニョの時代があり、メッシの時代があり、昨シーズンはネイマールを獲得している。

 エースは君臨し続けてはならない”というルールはない。しかし競争は欠かせないもので、その環境は指揮官が作る必要がある。ひとりの選手に依存するのは健全な状態ではない。それは集団としての衰弱を意味している。

 その点、日本代表が本田の代役を見つけられなかったことは不幸だった。ブラジルW杯の敗退がドイツW杯のそれと既視感があったのは、中田英寿に頼り切りになってしまい、しかし全盛期の力は中田になかった、という悲劇と似ているからだろう。本田の場合は体力の限界ではなく、コンディションの問題が色濃く影響していたものの、イメージよりも不調という点では変わらなかった。

 では、ザッケローニ監督がなぜ本田の代役を探そうともしなかったか。

 本田の実力が突出していたにせよ、誰も変わる存在は選出されなかったし、不在時の異なるシステムが試されることもなかった。香川真司をトップ下で代用するやり方すら積極的に使われていない。これはひとつのミステリーである。

 例えば東アジア選手権の日本代表に選出された山田大記(ジュビロ磐田)は、前線でボールを収め、打開し、シュートを打てる。特質的には、本田と同じ機能を果たすことができるはずだった。山田はサイドで起用されることが多いが、プレイの流れを読む目を持ち、連係の中でいい判断をし、好機を作れるだけに、トップ下の特性を濃厚に持つ(そもそも本田も監督によっては、FW、サイド、ボランチで使われ、生粋のトップ下ではない)。

 2013年限定ならば、Jリーグで最も10番の似合う中村俊輔を対抗選手として選出するべきだった。所属する横浜F・マリノスで優勝争いをリードしていた彼のプレイは、冴え渡っていた。相手の弱い部分を読み取り、自分たちの強さを存分に引き出し、洗練された技術を出す。FKは神がかり的だった。

「チームスタイルに合うかどうか分からないし、本田の立場は?」

 そんな議論よりも先に、優秀な選手は選出されるべきだ。もし聡明なプレイを見せていた中村が入っていたら、本田や他の選手が「自分たちのサッカー……」などと酔いしれることはなかっただろう。

 本田がブラジルW杯の戦犯と言うことではない。むしろ、指揮官がチームを作る点において、選手を正しく導く必要があった。クラブチームのようにメンバーを固定して安定感を出すザッケローニのやり方は、間違っているわけではない。だが、それは4年も続けるべきことではなかった。4年も同じメンバー=競争関係を与えない状態では、環境が淀むのは必然である。

 2014年1月、本田はACミランへの入団を発表し、10番を背負い、人気的には“栄華を極めた”。しかし実際にはベンチを温める機会が多かった。ケガにも見舞われ、コンディションは上がっていない。名声だけが一人歩きしていた。それは彼自身にも、周りの選手にも幸福な出来事ではなかった。

「自分は世界一になるのが目標だし、こういうやり方しか知らない」

 コロンビア戦後にそういった彼の表情は、W杯優勝を豪語していたのが嘘のように悄然としていた。この4年間、好敵手が現れなかったことは、なにより本田にとって一番の不幸だった。なぜなら、彼は踏みつけられたり、凌(しの)ぎを削り合う中で成長してきたのだから。熾烈な競争こそが、プロフットボールでは望ましい。

[スポルティーバ]

Posted by nob : 2014年07月15日 17:01

己を知ることこそ勝利への第一歩/技術も、アイデアも、選手たちにはある。ほんの少し意識を高めるだけでいい。。。

■チーム力を上げるために、今こそ中村俊輔や闘莉王を招集すべき

識者が語る「ザックジャパン改造計画」(3)
木村和司氏

3連敗に終わったコンフェデレーションズカップ。1年後のW杯で同じ結果に終わらないためにはどうすればいいのか。今回は、世界レベルの守備の前に沈黙した攻撃面のレベルアップについて、元横浜F・マリノス監督の木村和司氏が分析する――。

今季好調の中村俊輔。精度の高いFKはザックジャパンでも大きな武器になるだろう。

 コンフェデレーションズカップ(以下、コンフェデ)で、ブラジル、イタリア、メキシコと対戦した日本。3戦全敗の結果が示すとおり、世界との差は明らかだった。イタリア戦こそ、相手にボールを持たせてもらった分、いい攻撃ができていた時間帯もあったが、3戦を通して、自分たちのサッカーはほとんどできていなかった。

 特に初戦のブラジル戦は、相手の整備されたディフェンスの前に何もやらせてもらえなかった。ブラジルの厳しいチェックを受けてピッチに倒れる選手が続出し、それを恐れて誰もがパスをもらうことさえ避けているように見えた。ゆえに、ボールが来ても落ち着いてさばくことができず、慌ててパスを出してミスを連発した。

 結局、そのブラジルがコンフェデを制覇。今や世界トップの力を持つチームだけに、それも仕方がない、という考え方もできる。だが、他のチームはブラジル相手でもボールを保持し、チャンスを作っていた。世界で戦うには、日本もそれぐらいできないといけないし、ブラジルの守備網を少しでも打開する力を持っていなければ、1年後のW杯で結果を残すことはできないだろう。

 では、それだけの打開力を身につけるには、何をすべきか。

 最も重要なことは、自分たちの”間合い”でプレイできるようになることだ。敵のプレッシャーのタイミングを外して、自分たちの間合いに入らせないような、ボールの持ち方、ボールの動かし方ができなければいけない。相手が素早くチェックに来たら、うまくあしらってダイレクトではたくとか、反対に待ち構えているようだったらドリブルで仕掛けたり、一度相手を引きつけてからパスを出したりするとか、敵のリズムを崩して、自分たちの間合いでボールを動かせなければいけないだろう。

 ただ、世界のトップレベルを相手にした場合、個人の力だけではどうにもならない。そこで、チーム、もしくはグループで、自分たちの間合いに入らせないような形を作って、相手の守備を打開していかなければいけない。

 大事なことは、ボール保持者の周囲の動き。選手ひとりひとりが、オフ・ザ・ボールの動きの質を高めて、多くのパスコースを生み出し、ボールを持つ選手のために、いろいろな選択肢を増やしてあげることが大切だ。

 そして、ボールを持つ選手には、瞬時の判断が求められる。どこにパスを出すのか、それともドリブルで仕掛けるのか、素早く決断しなければいけない。それらがスムーズに実践できるようになれば、相手に自分たちの間合いに入らせず、自分たちのリズムで攻撃を作っていけるはずだ。

 今の選手たちならば、十分にできることだと思う。技術も、アイデアも、彼らにはある。あとは、ほんの少し意識を高めるだけでいい。

 そのためにも、これからの1年が貴重な時間になる。まず、選手たちはコンフェデで体感した感覚を忘れずに、所属チームの試合でも常に高い意識を持って臨むことだ。そしてその実戦の中で、どんな相手でも、海外のトップレベルの相手だと想定して、敵の一歩先、二歩先を思い描きながら、判断のスピード、プレイのスピードや質を高めていかなければいけない。

 もしそれができなければ、W杯でもコンフェデのブラジル戦が再現されるだけだ。頭の中をフル回転させて、自分たちの容量を超えるほど動き回っても、相手に振り回されて終わってしまうだろう。逆にそれができれば、ひとつひとつのプレイにも余裕を持って対処できるようになり、世界の強豪相手でも突破口を見出せるに違いない。

 日本が世界で勝つためにやらなければいけないことは、まだある。肝心なのは、フィニッシュだ。その精度、正確さは、世界との差が随分あることをコンフェデでも痛感させられた。技術や判断を含めて、一層シュート力というものをレベルアップしていく必要があるだろう。

 さらに、フィニッシュにいくまでの過程も物足りなさを感じた。いわゆる攻撃に厚みを増していかなければいけない。

 例えば、クロス。ブラジルやイタリア、メキシコにしても、クロスに対しては、複数の選手がゴール前に飛び込んできていた。日本も、クロスに反応する選手の人数を増やすのはもちろんのこと、ゴール前に入っていくタイミングを良くして、より多くの決定機を作っていかなければいけないだろう。

 何はともあれ、日本が身につけること、突き詰めなければいけないことは、選手個々の日頃の意識改革による部分が大きい。だからこそ、今後必要になるのは、激しいチーム内競争だ。攻撃だけでなく、守備においても、多くの選手がしのぎを削って、ポジション争いをすることで、個々の意識が高まるからだ。そしてそれが、チームのレベルアップにつながっていく。

 その点に関しては、すべてザッケローニ監督の手腕にかかっている。これまでは、ある程度メンバーを固定してきたが、これからは新たな選手を積極的に起用していってほしい。Jリーグで結果を出している選手はすぐに招集して、チャンスを与えるべきだろう。

 そういう意味では、今度の東アジアカップ(7月20日~28日/韓国)に向けて、多くの新メンバーを招集したことはいい傾向だが、それが今回だけで終わってはいけない。欧州組も招集される、8月、9月、そして10月の試合でも、同様に新戦力を招集し、なおかつ試合でもどんどん使っていくべき。レギュラー争いを激化させ、既存のメンバーの危機感をあおることで、チームに大きなエネルギーが生まれるからだ。

 そのエネルギーをより膨らませるには、若手の新戦力だけでなく、ベテランも呼んだほうがいい。横浜F・マリノスのMF中村俊輔やDF中澤佑二をはじめ、名古屋グランパスのDF闘莉王やサンフレッチェ広島のFW佐藤寿人、そして川崎フロンターレのFW大久保嘉人に、浦和レッズのMF阿部勇樹など、今季も結果を残していて、力のある選手はいっぱいいる。

 とりわけ、俊輔と闘莉王は、過去の経験や実績では既存のメンバーより上。ともに得点力があり、今季のパフォーマンスも際立っている。1年後の大会までなら十分に力を発揮できるだろうから、彼らをメンバーに加えない手はない。

 彼らが代表入りするとなれば、間違いなく既存のメンバーの尻に火がつく。物怖じすることなく、レギュラー陣にも遠慮なく意見し、注文をつけて、若手の新戦力による突き上げとは比べ物にならないほどの危機感をすべてのメンバーにもたらすだろう。まさにチーム内を活性化させ、その効果は計り知れないと思う。

 そんな真のチーム内競争があってこそ、日本代表は強くなる。にもかかわらず、「彼らの力はわかっている」とか「最終的には選考する可能性が低いから、招集するのは心苦しい」などといった理由で彼らを招集しないのなら、ザッケローニ監督には早々に代表監督の座から退いてもらったほうがいい。限られた時間の中で、最大限のチーム強化を実行できない指揮官はいらない。コンフェデの結果を考えれば、もはや悠長なことを言っていられる状況ではないのだから。

[スポルティーバ]

Posted by nob : 2014年07月15日 16:48

また旅立つ君へVol.49/持たざる豊かさ、、、彼には及びませんが私も実践中です。。。

■【特集:移動】「15個の持ち物」だけで暮らす新しいライフスタイル

移動をするには、捨てる覚悟をもつこと。15のグッズしか持たないで暮らす男。

シンプルにコンパクトに、暮らす。

大量生産に大量消費。ありふれたモノ、かかるコスト。

その中で暮らすことが、果たして幸せなのだろうか。

本当に必要な「モノ」というのは実は少ないかもしれない。その過程をもとに生活実験をした男がいた。

その人物は、米ニューヨークにいた。

彼は、たった15個の必要最低限の物しか持っていない。家を持たずに、ホテルを転々と移動して暮らしている。

彼が特に有名なのは、パンツと靴下を除いて15個の物しか所有していない点だ。彼が所持している品は次の通り。

バックパック
シャツ
レインジャケット
ランニング用ショートパンツ
Tシャツ
タオル
ウールジャケット
洗面用具
サングラス
財布
MacBook Air
iPhone 3GS(2011年5月当時)
ドレスシャツ
ジーンズ
ランニングシューズ (パンツ・靴下を除く)

ある時に、「ミニマル主義」に興味を持った彼は、持ちモノを100個に集約した。その時にほとんどのモノが必要ないことに気付き片っ端から捨てていった。

そして、今の15個にたどり着いたのだ。

シャツは2枚しか持っておらず、交互に着るようにすれば、ファッションに悩むことはなくなり、考える時間を省けるそうだ。

不確実性が支配するこれからの時代に、周りをモノで囲まれて動きにくい生活はリスクになる。

ここでいうモノとは、物質的なものでもあり、また本当はそこまで大切ではな いにも関わらず手放せないでいるプライドや偏見、 新しいことへの不安などだ。

本当に必要なものは実は限りなく少なく 、リュックサック1つにおさめることができる。

私たちは移動する生き物だ。そし て間違いなくこれから、大規模な移動がライフスタ イルの中に入ってくる。その際に、本当に大切なものだけを見極めて、それ以外は大切ではないという

「捨てる覚悟」を持っておく必要がある。

あなたにとって、

暮らしをしていく上で本当に必要なモノとは何だろうか。

まわりにあるモノを見渡して、是非考えて頂きたい。

[TABI LAVO]

Posted by nob : 2014年07月14日 21:19

また旅立つ君へVol.48/旅に出る、、、未知との出会い、、、自らへの気付き。。。

■【特集:移動】あなたは、間違いなく外へ飛び出したくなる!世界の格言10選

移動が加速化していく時代。その加速する流れについていくのか、置いていかれるのか。それとも敢えて乗らないのか・・・

移動する。そのアクション自体は簡単だが、時にはほんの少しの勇気が必要になってくることも。ここに集めた言葉たちが、あなたの背中を押してくれるはずだ。

さあ、今いる場所から、移動しよう!

まだ見ぬ、新しい世界に足を踏み出そう!

人生の冒険をはじめよう!

001
「世界は一冊の本のようであり、旅をしない者は本の最初のページだけを読んで閉じてしまうようなものである」

by アウグスティヌス

今、あなたのいる場所は、あなたの可能性を狭めているかもしれない。移動することで、道は開けてくるかもしれない。そう考えると、ページをめくらずにはいられないはずだ。

002
「人が旅をするのは目的地につくためではなく、旅をするためである」

by ゲーテ

どこへ行くかも大事だが、どのように行くかも重要だ。求めるべきは、結果ではなく過程。そこで得られる見聞こそが、あなた自身を形成していく。

003
「旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る」  

by アントニオ・マチャド

どこかへ移動する際、前例を求めるなんて馬鹿らしい。自分で決めて、自分で動くことで、得られるものは大きいはずだ。

004
「あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」 

by ヘミングウェイ

移動することは、決して逃げることではない。問題を解決するのは、移動した先の環境ではなく、自分自身だ。

005
「旅の過程にこそ、価値がある」

by スティーブ・ジョブズ

もちろん、その“価値ある過程”は、一歩踏み出した者だけが享受できる。

006
「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである」

byスティーブンソン

希望を持って動き出した。その時点で、あなたはもう何かを手に入れている。もしも行きたい場所へ行けなくても、だ。

007
「旅行するおかげで我々は確かめることが出来る。たとえ各民族に国境があろうとも、人間の愚行には国境がないと」

byアンドレ=プレヴォ

残念だが、世界中どこへ行っても、愚者はいる。ただし、同じ数だけの賢者がいることも付け加えておきたい。

008
「1000マイルの道のりのある旅路でも、最初の1歩から始めるべきである」

by Lao Tzu

とにかくスタートすることだ。そこで躊躇していては、何も始まらない。何も変わらない。

009
「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ」

by 仏陀

馴れ合いは何も生み出さない。 一歩踏み出す時には、孤独な決断が必要となる。

010
「長い旅行に必要なのは大きなカバンではなく、口ずさめる一つの歌さ」

by スナフキン

「歌=気持ち」と置き換えてもいいだろう。物理的なものが役立つ場所は限られるが、崇高な精神は、世界中どこへいこうとも普遍的な武器となる。

[TABI LAVO]

Posted by nob : 2014年07月14日 06:13

普通であること、、、それは普遍であること。。。

普通の人は

普通に生きているのが

いちばん幸せです


しかし

何事もなく

普通に生きいくのが

いちばん難しい


[天台宗/光前寺]

Posted by nob : 2014年07月09日 23:15

若者の未来を守ることは大人が最後まで果たすべき義務、同感です、、、死に様は生き様の完結、常日頃から考え備えることから。。。

■長生きすることは、本当に良いことなのか?
親の介護で未来を奪われる若者たち

竹井善昭
[ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表]

 社会保障が日本最大の社会問題になっていることは常識だと思われているが、十分に理解されているとは言い難い。先日も、とあるスーパーマーケットの前で、ある国会議員が辻説法を行なっていたのだが、盛んに公共事業の無駄をなくそうと訴えていた。

 たしかに、クルマが通らない道路や、客が入らないどころか、そもそもイベント自体が行われないようなホールを作るのは無駄だ。そして、税金の無駄遣いをなくすことは重要な政治課題だ。しかし、日本の公共事業費は約6兆円。それに対して社会保障費は約110兆円である。日本の財政赤字問題解決のためには、公共事業よりも社会保障のほうがはるかに重要な問題なのである。しかも、社会保障費は削減が難しい。道路や建物の建設に反対することはできても、高齢者の福祉を削減しろとは誰もが言い出せない。しかし、そのことを真剣に議論すべきときが来ているように思える。それは、財政的な問題だけなく、わが国の若者たちの未来のためでもあるからだ。

介護で未来を閉ざされる
若者たち

 最近、メディアが取り上げ始めた問題。それが、「若者による介護の問題」だ。つまり、親の介護のために、未来を奪われている若者たちがいる。この、これまで注目もされず、社会から見えなかった問題に光が当てられ始められている。たとえば、今年6月17日に放送されたNHK『クローズアップ現代』では、「介護で閉ざされる未来 ~若者たちをどう支える」と題して、タイトル通り、親の介護で未来を閉ざされた若者を紹介した。

 番組に登場した25歳の女性の場合は、父親が病気により脳に障害を受け、身体が動かなくなった。食事も自分ではできず、寝返りも打てない状態に。当初は母親が介護していたが、その母親もガンを患う。父親の介護は娘であるこの女性の役目となる。彼女は当時、大学3年生。将来は福祉関係の仕事をしたいと国家資格取得のために勉強に励んでいたが、金銭的な負担も大きく、介護と学業の両立を諦めざるを得なかった。父親の病気がどのように進行するかまったく分からないため、将来の見通しも自分の未来もまったく見えないという。

 また、番組では26歳の男性も紹介された。この男性は、母親が若年性痴呆症となり、4年前から徘徊も始まった。当時、この男性は就職したばかりだったが、介護と仕事の負担により体調を崩してしまう。そして、父親と相談した結果、会社を辞めて母親の介護に専念することにした。父親のほうが、収入が多かったためだ。

 また、日経新聞でも、まさにクローズアップ現代と同日の6月17日に、「親の介護で未来を奪われる若者 ある20代の場合」と題した記事を掲載している。こちらで紹介されているのは29歳の男性。大学生時代に父親が若年性認知症を発症。当初は母親が介護していたが、父親の病状が進行。さらに同居していた祖母も認知症となり、介護の負担はさらに増えた。ちょうど就活の時期を迎えていたのだが、「システムエンジニアになりたかったが、諦めるしかなかった」という。

人はいかにして生き、死ぬべきか

 このような、20代というキャリア形成の重要な時期に、親の介護のために「未来を閉ざされた若者」がどれほど多くいるのか。『クローズアップ現代』では、「去年、国の調査で、家族の介護を担っている15歳~29歳の若年介護者が、17万人以上に上ることが明らかになった」と紹介している。この 17万人という数字をどう考えるかは意見が分かれるかもしれない。しかし、この若年介護者の存在は、数字以上に若者の未来と人間の尊厳という問題を、日本国民に深く突きつける問題だ。人はいかにして生きるべきか、そして死ぬべきかという、哲学の問題である。

 社会保障が単に財政的な問題だけであれば、解決策はあるかもしれない。もちろん、そう簡単ではないことは分かっているが、それでもお金の問題はお金で解決できる。しかし、若者の未来はお金だけの問題ではない。そして、高齢者の命とか尊厳の問題は、まさにお金では解決できない問題だ。若年介護者の問題。これは、誤解を恐れずに言えば、「若者の未来を、死にゆく者が奪うことの正当性」を問う問題である。

 日本は高齢者に対して、非常に優しい国である。「過剰に優しい」と言ってもよい。そう言うと、反論したくなる人も多いことはよく分かる。老人福祉はまだまだ足りていないと主張したい人もいるだろう。もちろん、僕も日本の老人福祉が完璧だと言いたいわけではない。論じたいのはその「思想」だ。日本は、ある意味で過剰に人を生きさせようとする。そのことが、はたして高齢者にとっても若者にとってもよいことなのか、それで人は幸福になるのか、ということだ。

 あまり知られていないようだが、欧米にはいわゆる寝たきり老人はいない。なぜなら、寝たきりになるような老人は延命処置をしない、つまり「殺してしまう」からだ。たとえば、イギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しないという。福祉大国のイメージが強いスウェーデンやデンマークも同様だという。

 また、これは聞いた話なので数字が不確かなのだが、ニュージーランドではある年齢(75歳だったかと記憶している)を超えると、病気になっても治療しないという。モルヒネを打つなどの緩和処置はやるが、それ以上はやらないということだ。実際に、スウェーデンの高齢者医療の現場を視察してきた医師のブログには、下記のように紹介されている。

日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
(読売新聞の医療サイトyomi Dr.「今こそ考えよう高齢者の終末期医療」より)

 日本の病院で同じことをやれば、確実に「人殺し」扱いされて、マスメディアでもネットでも大炎上必至である。しかし、欧米ではこのような考え方がスタンダードなのだ。この差は一体何かと言うと、人の尊厳に対する考え方の違いだ。つまり、何が何でも生かしておくことが正義なのか、人の尊厳を守ることが正義なのか、という考え方の違いである。

 人の尊厳をどう考えるかは、安楽死、つまり「死ぬ権利」を巡る議論の根幹となる問題だ。安楽死は基本的に自らの意志で死を選ぶことだが、認知症など、自分の意志では死を選べない場合もある。そのような場合は「殺される権利」というものも考える必要があるだろう。人は自分の尊厳を守るために、死ぬことを選んだり、殺されることを選ぶ権利があるのかもしれない。

病気になって初めて考えた
自分の死に様

 もちろん、そんなことは死に直面していない人間が安易に考えたり、結論を出していい問題ではないし、出せるものでもない。僕自身、いざとなったときに潔く死を選べるかどうかは分からない。死を選びたいと思ってはいるが、いざとなったら怖気づくこともありえるわけだ。正直に言って、これだけは本当に死に直面してみなければ分からないと思う。

 ただ、そこまでの重大な局面ではないが、最近、少しばかり死を意識するような状況に追い込まれてしまい、それなりのリアリティを持って自分の死に様を考える機会を得た。病気である。実は、昨年秋に心不全と判断され、しばらく経過観察で病院に通っていたのだが、3月から急激に悪化。たった50メートルの距離も歩けなくなり、4月に3週間、入院した。

 通常、このような場合はカテーテル検査をするのが原因究明に最も手っ取り早くて確実なのだが、入院したところ、心臓と同時に腎臓の機能も悪化していることが分かった。しかしながら、心臓と腎臓はどうも相反関係にあるようで、簡単に言えば、心臓に良いことは腎臓に悪く、腎臓に良いことは心臓に悪い。だから治療が難しい。絶妙のバランスが必要とされる。心臓のカテーテル検査は腎臓に悪影響を与えることがあり、最悪の場合は検査が引き金となって人工透析が必要になるというリスクもあるという。

 そのリスクを冒してカテーテル検査を行なうかどうか僕は決断を迫られていたが、正直、なるべくならそんな検査はしたくなかった。入院のおかげで体調はだいぶ良くなったこともあり、いったん退院して、外来で腎臓に負担をかけない検査を続けていた。しかし、GW明けにまた体調が悪化。もう待ったなしの状態となったため、透析のリスクを覚悟のうえでカテーテル検査を行なうことを決断。6月に再入院した。

 普通なら3日で退院できるようなケースだが、僕の場合、透析のリスクを減らすために循環器内科の専門医が2人も担当。腎臓内科と連携しながら、点滴、酸素吸入のほかに、検査のために毎日のように血液採取しながら同時に輸血も行なうという、ちょっと矛盾を感じる処置などを慎重に行いながらカテーテル検査に挑んだ。そのため結局、2週間の入院となった。幸い、担当医の細心の処置のおかげで、腎臓への負担は最小限にとどまり、人工透析に至らずに済んだ。

 ちなみに、カテーテル検査の結果、冠動脈閉塞などの重大な欠陥は見つからず、「心不全の原因は何か」という問題は残った。しかしながら、外科手術がすぐに必要な状態ではないことは分かった。というわけで、緊急事態が避けられたのはラッキーだったのが、約2ヵ月の間、腎臓と心臓のどちらを選ぶのかという選択を僕は迫られていたわけだ。

 この間考えていたのは、人工透析が必要となった場合、自分はどうするか、ということだ。人工透析は週に3日ほど通院して毎回5時間ほどかかる。その時間的負担も大変だが、治療費が毎月40万円ほどかかる。ただし、この費用は公費で賄うことができ、自分で負担する必要はないという。しかし、透析が必要となった腎臓は、機能が回復することはない。つまり、治る見込みのない病気のために年間500万円ほどの公費を使うわけだ。

 若い人ならともかく、自分の場合は娘もすでに社会人となっているし、自分が生き長らえるためだけに多額の公費を使うことに何の意味があるだろうか、とずっと考えていた。念のために言っておくが、僕は高齢者の人工透析を辞めろと主張したいわけではない。ただ、治る可能性のない病気の治療のために多額の公費を使うことの意味を考えることは、大人としての義務ではないかと思うのだ。

死を「決断」することへの恐怖

 もちろん、それも実際に透析が必要になってないから言えることかもしれない。作家の団鬼六さんも慢性腎不全を患いながら「人工透析は断固、拒否」と言っていたが、結局は透析を受けていたようで、最後はガンで亡くなった。僕も、もし透析が必要となったとき、本当に拒否できるかどうかは本音を言えば自信がない。現実に、僕は人工透析のリスクを冒してでも、少しでも生きながらえるために心臓カテーテル検査を行なったわけだし。ただ、わりと真剣に透析のこと、心臓のこと、死ぬことを考えてみて分かったこともある。

 それは、死ぬことが怖いのではない。死を決断することが怖い――ということだ。

 言葉を変えれば、人が死を決断するには、自分の死を超えた何か、たとえば思想・信条とか職務とか、あるいは家族などの個人的な関係性でもいいが、そのような「守るべき何か」のためでなければ、死を決断することはやはり難しいということだ。当たり前の結論と言えるが、やはり頭で考えるよりも、多少なりとも死のリスクに直面したほうが、リアリティをより強く感じるし、確信も強いものがある。

 だからこそ思う。若者の未来を奪うくらいなら、僕は死んだほうがマシだと。そして、日本の社会もまた、このデリケートでやっかいな問題に、勇気を持って議論をすべき時が来ていると。その議論の結果は、高齢者には過酷なものとなるかもしれない。ただ、ひとつだけ確実に言えることは、若者の未来を守るために死を選ぶことは、結局は自分自身の尊厳を守ることなのだ。

 僕自身もまた、自分の尊厳を守れるような死に方をしたいと思う。若者の未来を守ることは、大人が最後まで果たすべき義務だと思うから。

[DIAMOND online]

Posted by nob : 2014年07月08日 09:50

いや、誰もが生き直すことができる、、、いつからでも、どこからでも。。。

私は生き直すことができない

しかし

私らは生き直すことができる

[大江健三郎/晩年様式集(kenzaburo oe In Late Style)より]

Posted by nob : 2014年07月07日 22:04

変わるということ、、、それはそれまでの自らを一旦あるがままに受け容れることから。。。

■あなたの「性格」は、何歳で決まった?
転職先で生まれ変わろうとする
26歳男性の悩みとは?

岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者

フロイトやユングと並ぶ心理学の巨人・アドラーは、現代を生きる私たちに人生観が変わるほどの気づきを与えてくれます。その教えをわかりやすく説いた『嫌われる勇気』は今や35万部のベストセラー。本連載では『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎氏が、職場や日常生活で起こりうる皆さんのお悩みを「アドラー流」に解決いたします。
今回のお悩みは、26歳の男性によるもの。アドラー流の解決策はどのようなものでしょうか?

【今回のお悩み】

「性格が暗く上手くなじめません。
 転職先で明るいノリに生まれ変わりたいです」(26歳・男性)

私は子供の頃から性格が暗く、引っ込み思案であまり他人とうまくコミュニケーションがとれません。そのためか、最初は親しくしてくれていた友人もやがて離れていってしまいます。社会人になって表面上は多少うまくやれるようになってきましたが、飲み会とかは苦痛で仕方ありません。これから何十年もこうした生活を続けないといけないかと思うと、絶望的な気分になります。もうすぐ転職します。どうすれば、このダメな性格を変えられるでしょうか?

【アドラー流回答】

 その「性格」は、あなたが望んで選んだものです。

  まず、性格は生まれつきのものでもないし、変えられないものでもありません。

「性格(キャラクター)」という言葉が持つ、「変えられないもの」というニュアンスにとらわれないように、アドラーは「ライフスタイル」という言葉を使います。

 ライフスタイルとは、なにか問題を解決するときのパターン(癖)や、自分のことや他の人のこと、またこの世界をどんなふうに見ているか、を指します。

 たとえば同じ親から生まれ、ほぼ同じ環境で育ったきょうだいでも、性格はまるで違いますよね。このように性格とは、遺伝や環境によって決定されるものではないのです。

 われわれは幼児期の出来事を、大きなトピックであれば覚えています。怪我をしたとか、病気をしたとか、引越したというようなことです。ところが、それがいつのことだったかを時系列に思い出すことは、なかなかできません。

 しかし、これが10歳を越えるくらいになると、はっきりしてきます。当時の担任の先生の名前を覚えているでしょうし、友達のこともよく覚えているでしょう。

 アドラー心理学では、10歳前後の年齢で「このライフスタイル(性格)で生きていこう」と決心したのだと考えます。

 そのころの自分と今の自分は、見た目こそ変わっているものの、ライフスタイル(性格)はあまり変わっていません。

 たとえ自分のライフスタイル(性格)を不自由で不便だと思っていても、それとは違うライフスタイルを選んでしまったら、たちまち何が起こるかを予想できなくなる。

 その変化が怖かったから、変えられないのです。

 あなたは、自分の性格が暗く、引っ込み思案なので、他者とのコミュニケーションがうまく取れないといわれますが、そうではありません。

 ほんとうは、他者とコミュニケーションを取らずにすむように、「自分の性格は暗い」と思い、「私は引っ込み思案だ」と思っているのです。

 親しかった友人が離れていったとき(これは誰にでもあることです)にも、そのことを自分の性格のせいにしたいのです。

 これからも同じ生活が続くかどうかは、あなたが決めることです。

 ある日、突然、「明るい性格」になれば、そこからなにが起こるか予想がつきません。「暗い性格」のままなら、誰かがあなたから離れていったときにも「やっぱりそうだった」と思え、安心できるでしょう。

 もしも同じ生活を続けたくないのであれば、いまとは違うライフスタイルを選べばいいのですし、選ぶことはできます。

 ところで、私はあなたの性格が「ダメ」だとは思いません。

 自分のことを「暗い」と思ってこられたかもしれませんが、ご自分に対して違った側面から光を当てて見ることができます。

 たとえば、あなたは周囲の人を傷つけることがないように、あれこれと心を配ってきたのではないでしょうか。もしもそのことに思い当たるのであれば、あなたは「暗い」のではなく、「やさしい」といっていいのです。

 自分を暗いと見てしまえば、自分を好きになれず、他者と積極的に関わることもむずかしいでしょう。

 でも、やさしいと見ることができれば、そんな自分が好きになれ、他者との関係においても、一歩前進することができるはずです。

今回のアドラー流ポイント: ライフスタイル(性格)

アドラー心理学では、性格や気質のことを「ライフスタイル」と呼び、人生における思考や行動の傾向としてとらえます。そしてそのライフスタイルは、先天的に与えられたものでは決してなく、自分で選び選びなおすことも可能だとアドラーは説きます。しかしながら、新しいライフスタイルを選ぶと、新しい自分になにが起きるかわからず、目の前の出来事にどう対処すればいいかわからなくなります。すると「このままのわたし」でいるほうが楽であり安心だと感じ、人は自らに対して「変わらない」という決心を下してしまう傾向にあります。

[DIAMOND online]

Posted by nob : 2014年07月07日 17:12

また旅立つ君へVol.47/些末な打算を棄てて、、、自らの直感と想像力を指針に。。。

かつての根拠のない自信が

これまで自ら経験を重ねてきた分だけの確信に


しかし

思い起こしてみても

その自信と確信の間に差違などほとんどありはしなかった

Posted by nob : 2014年07月04日 15:58

ますます多様化する葬儀や埋葬の在り様。。。

■<20万円宇宙葬>10月に初打ち上げ 遺灰、4割が日本人

 故人の遺灰をカプセルに詰め、宇宙へ打ち上げる「宇宙葬」。1990ドル(約20万円)という格安料金でサービスを始めた米ベンチャー「エリジウムスペース」(本社・サンフランシスコ)のトマ・シベ最高経営責任者(CEO)が来日し、初の打ち上げを10月に実施する計画を明らかにした。50〜100人程度の遺灰が宇宙へ旅立つ見通しで、約4割は日本人だという。

 世界初の宇宙葬は1997年、米セレスティス社が実施した。宇宙を舞台にしたテレビドラマ「スター・トレック」の生みの親、ジーン・ローデンベリー氏ら24人の遺灰が、ロケットで軌道上に打ち上げられた。これまでに約600人が宇宙へ旅立ったとみられる。

 エリジウムスペースは、米航空宇宙局(NASA)の技術者だったシベ氏が2013年3月に起業した。他の商用・科学衛星に遺灰カプセルを乗せて打ち上げる「相乗り」のため、先行他社の半額以下という低価格が強みだ。日本でも同年秋からビジネスを始めた。生前予約は受けないため、現在は遺族からの申し込みに限られる。

 遺灰は1センチ角のアルミニウム合金製の容器に入れる。容器を乗せた人工衛星は米の民間ロケットで打ち上げられる。初打ち上げ分はいったん国際宇宙ステーションに運んだ後放出。高度350〜400キロの低軌道を数カ月〜1年程度周回し、最後は大気圏に突入して燃え尽きる。

 カプセル内のものは変質せず、他の人工衛星に影響を与えないことが条件だ。このため、火葬文化がある米国と日本を最初のマーケットに選んだ。米国では年間約250万人が亡くなり、火葬は約4割。一方、日本は年間死者数約120万人のほとんどが火葬され、米国に匹敵する市場という。

 シベCEOは「もともと宇宙は、詩的で美しい場所。高額な宇宙旅行は無理でも、宇宙葬なら多くの人の手が届く。残された人が星空を見上げて故人をしのぶのはとてもロマンティック」と話す。来年以降も、年に1回以上の打ち上げを予定している。

 単身者の増加や超高齢社会の到来で、葬儀や墓のあり方が多様化している。地球を見ながら宇宙空間を漂った後、「流れ星」となって消えるのも悪くなさそうだ。【平野美紀/デジタル報道センター】

[毎日新聞]

Posted by nob : 2014年07月03日 21:55

痛恨の極み、、、国民一人一人の力の総合以上の国ができることはないのだから、歯止めるのもボールを蹴り返すのも今後の私たち一人一人の意識と姿勢次第。。。

■社説:歯止めは国民がかける

 第一次世界大戦の開戦から今月で100年。欧州列強間の戦争に、日本は日英同盟を根拠にした英国の要請に応じて参戦した。中国にあるドイツ権益を奪い、対中侵略の端緒としたのである。

 その後の歴史は、一続きの流れの中だ。資源確保のため南部仏印に進駐し、対日石油禁輸で自暴自棄になった日本は、太平洋戦争に突入する。開戦の詔書には、「自存自衛のため」とあった。

 集団的自衛権を行使可能にする憲法解釈の変更が、閣議決定された。行使の条件には「明白な危険」などと並び、「我が国の存立」という言葉が2度、出てくる。

 いかようにでも解釈できる言葉である。遠い地の戦争での米国の軍事的劣勢も、イラクなど中東情勢の混乱も、日米同盟の威信低下や国際秩序の揺らぎが「我が国の存立」にかかわると、時の政権は考えるかもしれない。

 「国の存立」が自在に解釈され、その名の下に他国の戦争への参加を正当化することは、あってはならない。同盟の約束から参戦し、「自存自衛」を叫んで滅んだ大正、昭和の戦争の過ちを、繰り返すことになるからだ。

 むろん、歴史は同じように歩みはしない。あの戦争は国際的孤立の果てであり、今は日米同盟が基盤にある。孤立を避け、米国に「見捨てられないため」に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。

 だがそれは、米国の要請に応じることで「国の存立」を全うする、という道につながる。日本を「普通の国」にするのではなく、米国の安全と日本の安全を密接不可分とする「特別な関係」の国にすることを意味しよう。

 米国と「特別な関係」と呼ばれるのは英国だ。

 その英国は、イラク戦争参戦の傷が癒えず、政治指導者の責任追及の声がやまない。イラク戦争を支持した反省と総括もないまま、米国に「見捨てられないため」集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である。

 ならばこそ、シビリアンコントロール(文民統制)の本来のあり方を、考え直すことが必要ではないか。

 文民統制は、軍の暴走を防ぐため政治や行政の優位を定めた近代民主国家の原則だ。だが、政治もしばしば暴走する。それを抑え、自制を課してきたのが憲法9条の縛りだった。縛りが外れた文民統制は、ただの政治家、官僚による統制にすぎない。

 閣議決定で行使を容認したのは、国民の権利としての集団的自衛権であって、政治家や官僚の権利ではない。歯止めをかけるのも、国民だ。私たちの民主主義が試されるのはこれからである。

[毎日新聞]


■集団的自衛権行使に大転換
――憲政史上に最大の汚点

田中秀征 [元経済企画庁長官、福山大学客員教授]

閣議決定全文は論旨が不明で難解

 安倍晋三政権は7月1日、日本が、(1)他国間の戦争に参戦する(集団的自衛権の行使)道を、(2)最悪の禁じ手(解釈改憲)を使って強引に切り拓いた。

 6月27、28日に実施された毎日新聞の世論調査によると、(1)の集団的自衛権の行使に反対する人は58%(賛成は32%)、(2)の解釈改憲に反対する人は60%(賛成は27%)、しかも理解が深まるにつれて調査結果のこの傾向は急激に強まっている。

 こんな民意を恐れてか、今回の閣議決定は、(1)と(2)を極力ぼかして反発を避けようとしている印象を受ける。そのためか、著しく論旨が不明で難解な悪文となっている。

 (1)については、山口那津男公明党代表が閣議決定後の記者会見で「いわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではない」と説明しているように玉虫色の解釈も成り立つように工夫されている。

 本文では昭和47年の政府見解に触れたところ。「我が国と密接な関係にある他国に対する武力行使が発生し、(中略)必要最小限度の実力を行使する…」の部分。そして、「憲法上許容される上記の『武力の行使』は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」としたくだり。少なくともこの離れ離れに書き込んだ3点をつないで解釈すれば、集団的自衛権の行使を認めたと読み取れるようになっている。端的で直接的な表現を避けたので実にややこしく、国民に対する誠実さを大きく欠くことになった。

 (2)については、そもそも「解釈改憲はしていない」という姿勢を貫くつもりのようである。

 首相は記者会見で、「現行の憲法解釈の基本的考え方は変わらない」と開き直った。「憲法の規範性をなんら変更するものではない」とも強調した。

 しかし、内外ともにこの閣議決定によって、日本は憲法改正の手続きを経ずに、政府による恣意的な解釈変更によって、集団的自衛権の行使を可能にしたと受け止めている。

“歯止め”“限定”に効果なし
このままでは全面行使の道に突き進む

 閣議決定に至る過程で、複数の政権幹部から「とにかく集団的自衛権の言葉の明記だけは必要」という趣旨の発言があった。どんな小さな事例でも集団的自衛権の行使の対象とすることができれば、それを突破口にいつかは全面展開ができるというホンネがうかがえた。

 閣議決定文書には、多くの“歯止め”や“限定”が盛り込まれている。

 だがこれにそれほどの効果はない。「集団的自衛権の行使は違憲」という憲法の最強の歯止めが失われたのだから、今回の歯止めや限定はいとも容易に取り払われていくだろう。

 協議の過程で示されたほとんどの具体的事例は、今まで認められた個別的自衛権の拡大解釈で対応できる。その検討を最初から放棄してわざわざ最初から集団的自衛権の行使の検討に突き進んだところに、何にも増して政権のホンネ(いつの日か行使の全面展開)が示されている。

 こうなった責任はいわゆる護憲派にもある。国民投票法に反対したり、96条(改正手続き)の改正にも抵抗したりして、政権を解釈改憲の邪道に踏み込ませてしまった。

 しかし、これで諦めるにはあまりに事態は深刻である。また、賢明な世論も黙ってはいないだろう。さらに踏み込む前に軌道修正することは不可能ではない。ボールはこれから国民の側にある。

[DIAMOND online]

Posted by nob : 2014年07月03日 14:35

そのとおり!!!Vol.43/言い返せない本人も、スルーしたうえに追及もしようとしない都議会も、それを看過する私たち一人一人も、、、私たちはそれだけの者たちでしかない。。。

■室井佑月 ヤジ飛ばされた塩村議員に「なぜいい返さない」

 セクハラ野次に失言と、続く政治家たち。作家の室井佑月氏は「許されていいのか?」と怒りを露わにする。

*  *  *

 6月18日に開かれた東京都議会の本会議で、晩産化について質問したみんなの党の塩村議員に、

「お前が早く結婚すればいいじゃないか」

「産めないのか」

 そんな酷いヤジが飛んだらしい。議場は笑いに包まれ、舛添知事もニヤリとしていたって。この人、信用ならないね。だって、働く女の地位の向上などをうったえていなかった?

 表向きと内心は違うってところか。ほかの議員のオッサンもだよ。誰一人として、

「今の発言はセクハラだ」

 そういってヤジを制止しなかった。笑ってたんでしょ、みんな。ってことは、その場ではそれが悪いことってわからなかったのか。

 それとも、巷にはびこるいじめの構造と一緒で、ただまわりの空気に同調していたのか。どっちにしても、みなさん、議員という仕事は向いていないと思う。こういう人たちを税金で食わせているのかと思うと腹が立つ。

 ヤジを飛ばされた塩村議員は議席に戻って、ハンカチで涙をぬぐっていたみたいだ。

 あなたもさ、なぜいい返さない。巷ではもっと酷いセクハラが問題になっているんだよ。女性の代弁者として議員になったのなら、そんなに弱くてどうする。いい返してやればよかったんだ。

「おなじことを、小池百合子先生にいってみてください。首相の奥様にも、子どもを産めっていってください」って。

 あなたにヤジを飛ばした男は、絶対に自分より強い人間にはなにもいえない。そんな卑怯な男に負けてどうする? セクハラはなくならないではないか。

 ま、こっちの問題は都議会にたくさんクレームの投書が来ているみたいだから、卑劣なヤジを飛ばした男は処罰されるんだろう。

 じゃ、こっちはどうか。除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設をめぐる福島県側との交渉について、石原伸晃環境相が、

「最後は金目でしょ」

 そう発言した。

 金目とは聞いたことがない言葉だが、つまりこの男は、「福島県の人間は、補償金をつり上げるためゴネてるだけだ」っていったんだ。被害者に対し、酷い中傷だ。

 石原氏は「お金ですべてを解決する意図では全くない」と弁明していたけど、ほかにどんな意味があるっていうのさ。

 この件について、野党各党は不信任決議案、問責決議案をそれぞれ共同提出したが、衆参両院とも与党が多数を占めていて、いずれも否決された。

 こんな重大な、しかも環境相を務める人間の暴言が許されていいのか?

 てか、永田町では、どうも許されるみたいなんだけど。あたしたち国民は、忘れちゃならないし、許してもいけないと思う。放射能汚染問題を、福島県の人々だけの問題にしちゃいけない。

[週刊朝日]

Posted by nob : 2014年07月03日 14:24

脳腫瘍以前に、日々の眼精疲労・頭痛・ハリやコリetc.の蓄積慢性化が、予期せぬ重篤な疾患に繋がっていく。。。

■使いすぎ注意!スマホによる「脳腫瘍リスク」回避のポイント8つ

ケータイやスマホがすでに体の一部のようになってはいませんか? 外出時に、お財布は忘れても、ケータイは忘れないという人が多いようです。

このように、ケータイにどっぷりと依存している私たちですが、本当に安全なのでしょうか? 以前からケータイ使用の危険性は伝えられてはいますが、実際のところはどうなのでしょう? 

そこで今回は、英語圏の情報サイト『BERNSTEIN LIEBHARD/CONSUMER INJURY LAWYERS』の記事を参考にして、ケータイ利用の危険性と、脳腫瘍のリスクを下げるヒントをお伝えいたしますね。

■電磁波による脳へのダメージ

みなさん、ケータイが電磁波を発していることはご存じですよね? ごくわずかですが、その程度の電磁波でも、人間の血液を変化させ、脳に影響を与えるということがわかっています。

とくに子どもの脳は成長段階にあるため、長時間の使用は望ましくありません。

■WHOの調査

ケータイで通話する際に人体に吸収される電波の平均エネルギー量の許容値は決まっていますが(アメリカではSAR/比吸収率が1.6W/kgまで)、それでもWHO(世界保健機関)の調査によると、ガンとの関係は否定できないとか。

とくに、長時間使用する人ほど、脳腫瘍、神経膠腫、聴神経腫瘍、髄膜炎などにかかるリスクが高くなるそうです。

また、アメリカのMayo総合病院の調査では、1日に30分以上の使用で、神経膠腫にかかる率が2倍に跳ね上がるといっています。

■ケータイ使用の注意事項

では、どうしたらこういった脳腫瘍のリスクを防げるのでしょうか? 

(1)できれば、1日に30分以上は使用しない。

(2)頭から、できるだけ離して使う。

(3)使っていない時は、電源をオフにする。

(4)ヘッドセット、またはスピーカーにして使う。

(5)おしゃべりよりも、メールにする。

(6)ケータイの電波が届きにくいところでは、使用しない。

(7)できるだけ、子どもには使わせない。

(8)ケータイを買う時に、SAR(比吸収率)がどれくらいなのか確認して、できるだけ低いものを買う。

いかがでしたか? 以上がケータイの使用で脳腫瘍になるリスクと、それを回避する8つの方法でした。

ケータイは、今では生活必需品ともいえるものです。ですが、使用し過ぎは、脳腫瘍といった恐ろしい結果を招きかねません。とくにお子さんには、十分気をつけてあげてくださいね。

[NEWSポストセブン]

Posted by nob : 2014年07月01日 21:29