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また旅立つ君へVol.132/いつか幸せになる、、、

そう思う今がもう既に幸せ。。。

Posted by nob : 2017年06月24日 16:27

また旅立つ君へVol.131/think globally act locally...

何よりもまず

目の前の一番大切な人のために。。。

Posted by nob : 2017年06月24日 16:22

また旅立つ君へVol.130/いつも探し求め続けていればこそ、、、

然るべき人にもモノにも出逢える。。。

Posted by nob : 2017年06月24日 16:13

喫緊の全世界的食料対策が不可欠。。。

■世界人口2100年に112億人=印、7年以内に中国抜く―国連報告書

 【ニューヨーク時事】国連経済社会局は21日、2100年に世界人口が112億人に達すると予測する報告書「世界人口展望2017年版」を発表した。現在の76億人から30年に86億人、50年には98億人に増加。現在2位のインドが24年ごろまでに中国を抜き首位に立つほか、同7位のナイジェリアが50年までに3位に浮上すると推定した。

 日本は現在11位(1億2700万人)だが、50年に17位(1億900万人)、2100年に29位(8500万人)に順位を下げるとしている。

 後発開発途上国47カ国の総人口は現在の約10億人から50年には19億人に増えると推定。1人の女性が生涯に産む子供の数(合計特殊出生率)が4.3と比較的高いことが背景にある。このほか、アフリカの26カ国も50年までに人口が現在の倍以上に増加する見通しだ。

[時事通信]

Posted by nob : 2017年06月23日 10:09

そもそもいつの時代も不確実性に満ち満ちている、、、自らが変われば時代も変わる。。。

■大いなる不確実性の時代へようこそ

 マッテオ・レンツィ、デビッド・キャメロン、テリーザ・メイ――。全員が世論調査にだまされた。問題は、世論調査が間違っていたことではない。一部の調査はかなり正確だったし、これらの指導者が政治的に運命を決する判断を下した時点では、大半が正しかった。イタリアのレンツィ前首相と英国のキャメロン前首相は、国民投票の実施を決めた時点では明らかに有権者の過半数の支持を得ており、勝てると確信していた。現職のメイ英首相が解散総選挙を決めた今年4月には、確かに保守党が労働党を大きくリードしていた。有権者が心変わりしたスピードが、世論調査そのもの以上に結果を大きく左右した。

■世界金融危機が転機に

 フランスの有権者はどの国よりも極端だった。短期間に順次実施された選挙で、政界エスタブリッシュメント(支配階級)を事実上丸ごと全滅させたのだ。このむごさは、伝統的な二大政党がまだ政治を支配している米国や英国で我々がこれまで目の当たりにしたものを凌駕(りょうが)する。フランス国民は、選択肢をすべて使い果たす過程にある。もし彼らがエマニュエル・マクロン大統領に幻滅するようなことになれば、一体どうするのかと考えると胸が痛む。

 これらすべての国で、世界金融危機が歴史的な転換点となった。危機対策が所得分配と公的部門の質に与えた影響によって引き起こされたものだ。これがグローバル化と現代流の貿易協定に対する持続的な政治的反発を引き起こし、経済政策と金融規制に関して従来抱かれていた考えを試すことになった。そして今では、政治に対する我々の考え方を試している。

 共産主義に対する資本主義の勝利は、筆者のような今日のコメンテーターやアナリストの多くにとって、自分の考えを形成する唯一最大の出来事だった。我々の世代は、1990年代に広まった「歴史の終わり」の高揚感については懐疑的だったかもしれないが、グローバルな金融資本主義のパラダイムを完全に受け入れた。中道左派の実利主義と新世代の中道左派の指導者の誕生を祝った。

 我々の失敗は、政治的に有用なものを普遍的な事実と取り違えたことだ。金融危機は、表向きは安定した政治・金融環境に見えたものを、数学者や物理学者が「ダイナミックなシステム」と呼ぶものに変えた。このシステムの最大の特徴は、大いなる不確実性だ。そうしたシステムは必ずしも混沌としたものにはならない―― もっとも一部はなるかもしれない――が、間違いなく予測不能だ。このシステムは、いくつかの数式でモデル化することはできない。せいぜいできることと言えば、局地的な不安定性を特定し、それらを避け、何とか困難を切り抜け、しっかり目を開いておくことくらいだ。

[日本経済新聞]

Posted by nob : 2017年06月20日 09:50

初めの一歩は、依存従属心からの脱却。。。

■何をやっても安倍政権の支持率が下がらない理由

 濫用の危険性を孕んだ共謀罪法案を委員会採決を省略したまま強行採決したかと思えば、「存在が確認できない」として頑なに再調査を拒んでいた「総理のご意向」文書も、一転して「あった」へと素早い変わり身を見せたまま逃げ切りを図ろうとするなど、かなり強引な政権運営が続く安倍政権。ところがこの政権が、既に秘密保護法、安保法制、武器輸出三原則の緩和等々、政権がいくつ飛んでもおかしくないような国民の間に根強い反対がある難しい政策課題を次々とクリアし、危ういスキャンダルネタも難なく乗り越え、その支持率は常に50%前後の高値安定を続けている。

 確かにライバル民進党の長期低迷という特殊事情もあろうが、なかなかそれだけでは説明がつかないほど、政権の支持基盤は盤石に見える。

 ビデオニュース・ドットコムでは、一橋大学大学院社会学研究科の中北浩爾教授と、過去の一連の「政治改革」が権力を首相官邸に集中させたことが、結果的に安倍一強状態を生んでいることを議論してきた。(マル激トーク・オン・ディマンド 第841回(2017年5月20日)「安倍政権がやりたい放題できるのはなぜか」 )

 しかし、制度や法律の改革によって永田町や霞が関を支配下に収めることができても、自動的に国民の高い支持率を得られるわけではない。安倍政権の高い支持率が続く理由はどこにあるのか。

 政治とメディアの関係に詳しい社会学者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の西田亮介氏は、安倍政権の安定した支持率の背景には自民党の企業型広報戦略の成功と日本社会に横たわる世代間の認識ギャップの2つの側面が存在すると指摘する。

 第二次安倍政権がマスメディアに対して度々介入する姿勢を見せてきたことは、この番組でも何度か問題にしてきたが、それは自民党の新しい広報戦略に基づくメディア対策を着実に実行しているに過ぎないと西田氏は語る。

 支持率の長期低落傾向に危機感を抱いた自民党は、1990年代末頃から企業型のマーケッティングやパブリック・リレーションズ(PR)のノウハウを取り入れた企業型広報戦略の導入を進め、2000年代に入ると、その対象をマスメディアやインターネット対策にまで拡大させてきた。

 特にマスメディア対策は、個々の記者との長期の信頼関係をベースとする従来の「慣れ親しみ」戦略と訣別し、徐々に「対立とコントロール」を基軸とする新たな強面(こわもて)戦略へと移行してきた。その集大成が2012年の第二次安倍政権の発足とともに始まった、対決的なメディアとは対立し、すり寄ってくるメディアにはご褒美を与えるアメとムチのメディア対策だった。

 マスメディアの影響力が相対的に低下する一方で、若年世代はネット、とりわけSNSから情報を得る機会が増えているが、自民党の企業型広報戦略はネット対策も網羅している。西田氏によると、自民党は「T2ルーム」と呼ばれる、ネット対策チームを党内に発足させ、ツイッターの監視や候補者のSNSアカウントの監視、2ちゃんねるの監視などを継続的に行うなどのネット対策も継続的に行っているという。

 こうしたマスメディア・インターネット対策も含め、自民党の企業型広報戦略は、企業の広報担当者が聞けばごく当たり前のことばかりで、言うなれば企業広報の初歩中の初歩を実行しているに過ぎないものだという。しかし、ライバル政党がその「初歩中の初歩」さえできていない上に、マスメディアが「政治のメディア戦略」に対抗する「メディアの政治戦略」を持ち合わせていなかったために、これが予想以上の成果をあげている可能性が高いのだという。

 また、安倍政権の安定した高支持率を支えるもう一つの要素として、西田氏は世代間の認識ギャップの存在を指摘する。

 民放放送局(TBS系列JNN)による最新の世論調査では20代の若者の安倍政権の支持率は68%にも及んでいるそうだ。また、2016年の総選挙の際の朝日新聞の出口調査でも、若い世代ほど自民党の支持率が高いことが明らかになっている。これは、若年世代と年長世代の間で、政治や権力に期待するものが異なっていることを示している可能性が高い。

 自身が34歳の西田氏は、若者ほど政権政党や保守政治に反発することをディフォルトと考えるのは「昭和的な発想」であり、今の若者はそのような昭和的な価値観に違和感を覚えている人が多いと指摘する。実際、「若者は反自民」に代表される昭和的な価値体系を支えてきた「経済成長」「終身雇用」「年功序列」などの経済・社会制度は既に社会から消滅している。にもかかわらず、年長世代から昭和的な経済・社会情勢や制度を前提とした価値規範を当たり前のように強いられることに多くの若者が困惑していると西田氏は言う。

 思えば、かつて時の政権が安全保障や人権に関わる政策でこれまで以上に踏み込んだ施策や制度変更を実行しようとするたびに、強く反発してきたのは主に若者とマスメディアだった。若者とマスメディアの力で、与党の暴走が抑えられてきた面があったと言っても過言ではないだろう。しかし、マスメディアは新たな戦略を手にした政治に対抗できていないし、若者も経済や雇用政策などへの関心が、かつて重視してきた平和や人権といった理念よりも優先するようになっている。

 そうなれば、確かにやり方には強引なところはあるし、格差の拡大も気にはなるが、それでも明確な経済政策を掲げ、ある程度好景気を維持してくれている安倍政権は概ね支持すべき政権となるのは当然のことかもしれない。少なくとも人権や安全保障政策では強い主張を持ちながら、経済政策に不安を抱える他の勢力よりも安倍政権の方がはるかにましということになるのは自然なことなのかもしれない。

 しかし、これはまた、政治に対する従来のチェック機能が働かなくなっていることも意味している。少なくとも、安倍政権に不満を持つ人の割合がより多い年長世代が、頭ごなしの政権批判を繰り返すだけでは状況は変わりそうにない。

 安倍一強の背景を広報戦略と世代間ギャップの観点から、西田氏とジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。

何をやっても安倍政権の支持率が下がらないのはなぜなのだろうか。
https://youtu.be/1xr0zZ-BXQQ

[BLOGOS]

Posted by nob : 2017年06月18日 15:49

そこに原発があるかぎり、、、事故は綿々と繰り返される。。。

■肺から最大2万2000ベクレル 5人搬送 内部被ばく検査へ

6日、茨城県大洗町にある日本原子力研究開発機構の核燃料の研究施設で、袋の中から放射性物質の粉末が漏れ出し作業員5人の手袋や服などが汚染されたトラブルで、このうち1人の肺から最大2万2000ベクレルの放射性物質が計測され、原子力機構は5人を専門の施設に移し詳しい検査を行うことにしています。

茨城県にある日本原子力研究開発機構の「大洗研究開発センター」の施設で6日午前、5人の作業員が燃料の貯蔵容器の点検をしていたところ、実験で使ったプルトニウムやウランを含む放射性物質の粉末が入った袋が破裂し5人の手袋や服が汚染され、このうち3人の鼻の中から最大24ベクレルの放射性物質が確認されました。

文部科学省によりますと、体外に出てくる放射線を測定する機器で調べたところ、このうち1人の肺から6日の時点で確認された値より大幅に高い、最大2万2000ベクレルの放射性物質が計測されたということです。

原子力規制庁によりますと、この放射性物質はプルトニウム239だということです。

どのくらい被ばくしているかは、まだわかっておらず、この1人を含む5人全員について体内に入り込んだ放射性物質の影響で被ばくする内部被ばくについての詳しい検査が必要だとして、千葉市にある放射線医学総合研究所に搬送したということです。

5人は当時、燃料研究棟と呼ばれる燃料の研究開発などに使われていた施設で作業をしていて、原子力機構は漏れ出した放射性物質による外部への影響はないとしています。
【「被ばく限度を超えるのはほぼ確実」】日本原子力研究開発機構の核燃料の研究施設で、袋の中から放射性物質の粉末が漏れ出し、作業員5人の手袋や服などが汚染されたトラブルで作業員の1人の肺から2万2000ベクレルの放射性物質が計測されたことが7日の原子力規制委員会で報告されました。

これについて、規制委員会の放射線の安全規制が専門の伴信彦委員は「肺に吸い込んだ放射性物質の測定で、こうした値が出てくるのは半端な状況ではなく、作業員の被ばく限度を超えるのはほぼ確実だ。だからといって、命に関わる急性影響が出るということではないと思うが、事態としては決して軽微なものではない」と述べました。

そのうえで、「今回の作業の手順が、どこまで妥当だったのか厳しく見る必要がある。顔を半分覆う半面マスクをしていたのに体内の汚染が生じたということなので、マスクの装着が十分だったのかなどについても情報を確認したうえで監督、指導してほしい」と述べました。
【「2万2000ベクレル 聞いたことがなく大きな値」】内部被ばくの問題に詳しい量子科学技術研究開発機構の明石真言執行役は「2万2000ベクレルという数字は、事実なら国内では私は聞いたことがなく大きな値だ。ただ、健康への影響については体内に取り込んだ放射性物質がどのような核種なのかによって数倍違ってくるので評価のためにはこうした点を明らかにする必要がある」と話しています。

[NHKニュース&スポーツ]

Posted by nob : 2017年06月07日 15:09

また旅立つ君へVol.129/もはや旅に出ようすらしない君へ、、、他人の瞳の中のどこを探したところで君の幸せは見つからない。。。

■いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である
ゆとり世代との付き合い方

土井 隆義
筑波大学教授
社会学者

「個性的だね」は差別語なのか?

2〜3年前、毎日新聞記者の小国綾子さんからこんなエピソードをうかがったことがある。LINE株式会社の出前授業に付き添い、中学校を訪問した時のことだそうだ。

「友だちから言われて最もイヤな言葉は? (1)まじめだね (2)おとなしいね (3)天然だね (4)個性的だね (5)マイペースだね」との問いかけに対し、一番多かった回答は「(4)個性的だね」だったという。

「まさか!」と耳を疑った彼女に向かって、生徒たちは口々にこう語ったそうだ。

「個性的と言われると、自分を否定された気がする」「周囲と違うってことでしょ? どう考えてもマイナスの言葉」「他の言葉は良い意味にも取れるけど、個性的だけは良い意味に取れない」「差別的に受け取られるかも」等々――。

驚かれるかもしれないが、どうやらこの中学生たちだけが特殊というわけでもないらしい。

昨年、日本生産性本部が実施した新入社員「働くことの意識」調査では、昇進したいポストを「社長」と答えた者が過去最低の10.8%、最多は「役職につきたくない」の20%だった。

働き方を尋ねた設問では、「人並みで十分」が過去最多の58.3%、「人並み以上」は34.2%にすぎなかった。

考えてみれば、先の中学生たちもすでに高校を卒業した頃だ。すでに社会人になっている者もいるだろうし、大学へ進学した者も数年後には社会に出るだろう。

もちろん、この世代の人たちに「個性的な人間でありたい」と切望する気持ちがないわけではあるまい。どんな人間だろうと自分の存在意義を求めようとするものだ。

しかし、その思いをストレートに口に出すと、周囲から自分だけが浮いてしまう。みんなと同じでなければ安心できず、たとえプラスの方向であったとしても自分だけが目立つことは避けたい。

そんな心性が広がっているように見受けられる。

変容するコミュニケーション様式

ネットの発達も相まって、若者世代では人間関係の希薄化が進んでいる――。近年は、そんな指摘もしばしば耳にする。

しかし、実際に彼らに声をかけてみれば、意外と付き合いの良いことに気づかれるだろう。

統計数理研究所が実施している「日本人の国民性」調査の最新データによると、「上役と仕事以外の付き合いはあったほうがよい」と考える者の割合は若年層ほど高く、20代ではじつに70%を占める。

「家族的な雰囲気のある会社に勤めたい」と考える者も同様の傾向を示しており、20代の50%がそう思うと回答している。

もっとも、彼らのコミュニケーション様式が上の世代と異なっていることには留意しておくべきである。おそらく現在40代から上の世代は、濃密な関係を取り結ぶためには相手のことを総体的に理解しておかなければならないと考えるだろう。

しかし、20代から下の世代は違う。当面の付き合いにとって必要な情報だけを共有できていれば、それで十分に濃密な関係を築くことができると考える。いわば全面総括型ではなく、一極集中型のコミュニケーション様式へと変貌している。

このような違いが生じているのは、昨今の日本では人間関係の流動性が高まっており、その最前線にいるのが若年層だからである。かつて人間関係が固定的だった時代には、人々は親密な相手と否応なく全人的に付き合わざるをえなかった。

しかし、流動性が高まってくると、その前提は崩れ去っていく。各々の局面で付き合う相手を切り替えることが容易なため、その場面で必要とされる情報だけで十分に親密な関係が成立しうると感じられるのである。

上の世代から眺めたとき、若年層の人間関係が希薄化しているように映るのは、おそらくこの感覚の相違によるところが大きい。総体的な関わり合いを前提としていると、部分的につながっている関係はどうしても希薄なものに見えてしまう。

しかし、そもそもアイデンティティが普遍不動の一貫したものではなくなり、場面ごとに切り替わる変幻自在なものになっているとすれば、現在とは違う場面における自分を目前の相手にあえて呈示しないことは、その相手に対してむしろ誠実な態度といえなくもない。そんなものを顕わにされても、相手は戸惑うだけだからである。

「一匹狼」より「ぼっち」の回避

ところで、人間関係の流動性が高まったという事実は、それだけ制度的な枠組みが拘束力を失っていることを意味する。

裏を返せば、制度的な枠組みが人間関係を保証してくれる共通の基盤ではなくなり、それだけ関係が不安定になってきたということでもある。

既存の制度に縛られることなく、付き合う相手を勝手に選べる自由は、自分だけでなく相手も持っている。関係の自由度の高まりは、自分が相手から選んでもらえないかもしれないリスクの高まりとセットなのである。

冒頭で紹介した「個性的であること」が忌避される理由も、じつはここにある。

「個性的であること」は、組織からの解放を求めるには好都合だが、組織への包摂を求めるには不都合である。自分の安定した居場所が揺らぎかねなくなってしまう。

今日の若者たちは、かつてのように社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放されることを願うのではなく、その拘束力が緩んで流動性が増したがゆえに不安定化した人間関係へ安全に包摂されることを願っている。

もちろん、前者が後者へと完全に入れ替わったわけではないが、少なくともその比重は大きく移り変わっている。

かつて人間関係が不自由だった時代の若者たちは、強制された関係に縛られない「一匹狼」に人間的な魅力を感じて憧れたものだった。

しかし、今日の若者たちは、一人でいる人間を「ぼっち」と呼んで蔑みの対象とするようになっている。一人でいることは関係からの解放ではなく、むしろ疎外を意味するからである。

既存の社会制度の束縛から解放され、自由な関係を築けるようになったのに、それでも一人でいる者は、誰からも選ばれない人間的魅力を欠いた人物とみなされ、否定的に捉えられてしまう。

逆にいえば、人間関係に恵まれているという事実こそが、人間的魅力を示す重要な指標となっている。

一人ぼっちでも充実していることを意味する「ぼっち充」という言葉があるのも事実である。しかし、それも負け犬の遠吠えという感がぬぐえない。あるいは、「ぼっち」回避の疲弊感からくる反動といえなくもない。

かつてと比較すれば、現在の日本は確かに一人でも生活しやすい社会になった。しかし、そうやって人間関係の自由度が高い社会になったからこそ、つねに誰かとつながっていなければ逆に安心できなくなっている。

それを欠いた人間は、価値のない人物と周囲から見られはしないかと他者の視線に怯え、また自身でも価値のない人間ではないかと不安に慄くようになっている。その意味で、じつは今日は、一人で生きていくことがかつて以上に困難な時代なのである。

ゆとり世代といかに接するべきか

日本能率協会が実施している新入社員調査には、理想の上司像を尋ねた設問がある。その近年の回答を見ると、仕事について丁寧な指導をする上司の人気が高く、仕事を任せて見守る上司の人気は低い。

ところが現在の上司に同じ質問をすると、まったく逆の回答が得られる。おそらく現在の上司は、かつて自分たちが若かった頃に、上司を鬱陶しい存在と看做していたからだろう。

ここに世代間の大きな意識ギャップがある。端的にいえば、今日の若者には、上司や仲間から「見られているかもしれない不満」よりも、「見られていないかもしれない不安」のほうが強いのである。

社会的動物である人間は、他者からの承認によって自己肯定感を育み、維持していく存在である。その構造は昔も今も変わらない。

ただし、個性的であることが憧れでありえた時代に私たちに強力な承認を与えていたのは、社会的な理想や信念といったいわば抽象的な他者だった。その評価の基準は普遍的で安定しており、いったん内面化された後は人生の羅針盤として機能しえた。

それに対して今日では、抽象的な他者のリアリティが失われた結果、身近な周囲にいる具体的な他者の評価が前面にせり出してきた。しかも、その評価の基準は場の空気次第で大きく揺れ動くので、その都度ごとに相手の反応を探らなければならなくなっている。

今日の若者たちがゆとり世代と呼ばれ、その生き方が生ぬるいと批判される理由もここにある。確かにこの世代の人たちは、がつがつとしたハングリーな生き方を「意識高い系」や「ガチ勢」と呼んで揶揄したりする。

しかしそれは、一人だけが頑張って周囲から浮いてしまうと、コミュニケーション能力の欠如した空気が読めない人物と看做されかねないからである。逆に言えば、みんなが一緒に頑張っているときに一人だけが怠惰なのも、今日ではかつて以上に嫌われる。

「そんなことやってられねえよ」と、斜に構えた態度が不良的で格好よく見えた時代もあったが、今日ではまったく事情が異なっている。良くも悪くも周囲から目立つことは、自分の居場所を不安定にすることであり、ともかくご法度なのである。

ゆとり世代の若者たちは、やる気の足りない人間というわけではなく、人間関係に対して過剰な気遣いを示す人々だと考えたほうがよい。「個性的であること」が忌避されるとしても、周囲から承認されるための自己有用感は互いに強く求め合っている。

したがって、チーム全体でやる気を出し、創造力を発揮するのはOKだともいえる。事実、クール・ジャパンとして世界に誇る日本発のコンテンツの多くは、若者たちがチームを組んで共同作業で生み出したものであることを想起すべきである。

職場の中でゆとり世代の若者たちと向き合う上司の方々は、そんな彼らの心情を察しつつ接するべきだろう。それが感性の豊かな彼らの創造力をうまく活かす道であり、企業の業績アップにもつながっていくはずである。

彼らの生きてきた環境に想像力を巡らせることなく、ただ単に憂えてみせているだけでは、新旧どちらの世代にとっても、したがって日本の社会全体にとっても、結局は不幸な結果に陥ってしまうこととなるだろう。

[現代ビジネス]

Posted by nob : 2017年06月07日 14:55

お茶は人生の友、、、その時々の気分とそれぞれの効能に応じて様々なお茶がいつも私の傍らに。。。♪

■ダイエットから腸活まで 侮れない「緑茶」の健康効果

近年、お茶に秘められた健康パワーが次々と明らかになっている。

 お茶(緑茶)は世界に誇れる日本の文化の一つです。「緑茶がダイエットに効く」「緑茶でうがいすると風邪の予防になる」――といったうれしい話を耳にする機会が増えました。今、緑茶の健康効果についての研究が国内外で進行しており、緑茶に秘められた健康パワーが次々と明らかになっています。

 2015年5月には、緑茶を飲む習慣が死亡リスクを減らし、長寿につながるという研究結果が国立がん研究センターから発表され、マスコミなどで大きく取り上げられました。

 がんや循環器疾患にかかっていなかった40~69歳の男女約9万人を、約19年間にわたって追跡調査した結果、緑茶を飲む量が多くなるほど、死亡率が下がることが明らかになっています。さらに、死因別で見ると、心疾患、脳血管疾患、呼吸器疾患では緑茶を摂取する量が多くなるほど危険度が有意に低下しています。
緑茶を飲まない人に比べ、緑茶を飲んでいる人の死亡率は下がる傾向が確認された。さらに摂取量が多くなるほどリスクは低くなる傾向も確認された(国立がん研究センターの多目的コホート調査による結果、2015年)

 そのほかにも様々なことが分かってきています。そこで、最新の「緑茶の健康効果」と摂取のポイントをまとめました。

■お茶をちょこちょこ飲むといい理由

 緑茶の健康効果というと、まず挙がるのが「カテキン」です。カテキンは、植物中に数千種類あるといわれる「ポリフェノール」の一種で、緑茶の渋みの主成分。ダイエットや、血圧、血糖値の抑制から、抗菌、抗ウイルス効果(インフルエンザ予防)にいたるまで、さまざまな効果があるといわれています。

 大妻女子大学名誉教授の大森正司さんによると、カテキンのさまざまな効果の秘密は、カテキンの2つの特徴によるものだそうです。1つは吸着性の強さ。これにより、虫歯菌にくっつき増殖を抑えたり、ウイルスの体内への侵入を防いだりするのです。腸内では悪玉菌に付着してやっつけるため、腸活効果も期待できます。2つ目は、体内で生まれる活性酸素を消去する抗酸化機能です。ストレスや紫外線、疲労などによって発生した活性酸素を消去する作用が期待できます。

 大森さんによると、カテキンの血中濃度は、緑茶を飲んだ後、およそ1~2時間でピークになるそうです。このため、緑茶を机において、ちょこちょこと飲むのがいいそうです。

■今、注目の成分「テアニン」とは?

テアニンをたっぷり抽出する「氷水出し茶」。水80~100cc(氷を除く)に対して茶葉10gを急須に入れ、10分待って湯飲みに注ぐ。カフェインはほんのわずかしか抽出されない

 お茶の健康効果で、最近注目されているのが、うまみ成分である「テアニン」です。テアニンにはリラックス作用があり、ストレス緩和や睡眠の質を改善する効果なども期待できるといわれています。

 テアニン入りの水溶液を摂取後、40分くらいすると脳波にアルファ波(α波)が出るという研究結果があります。さらに摂取後、40分後くらいまで副交感神経の活性度が増すことも明らかになっています。

 大森さんによると、テアニンをしっかりとりたい場合は、“氷水出し茶”にするといいそうです。低温で抽出すると、渋み成分であるカテキンが少なくなるため、テアニンによるうまみがより強く感じられるとのこと。

■緑茶は「血液サラサラ」食材の基本

 「血液サラサラ」という言葉の名付け親である、栗原クリニック東京・日本橋院長の栗原毅さんは、緑茶は血液サラサラ食材の「基本」となる存在だと話してくれました。

 「血液をサラサラにするには、血液の材料となる日頃の食事を改善することが極めて大切です。なかでもお茶は、食品と健康、という視点で考えたときに基本中の基本となるとても重要な存在です」(栗原さん)

 がんに関しても、説得力のある国内の研究報告が積み上がってきています。栗原さんが注目しているのが、厚生労働省が発表する市区町村別の「がん死亡率」のデータです。「がんによる死亡率が少ない市区町村ランキングで、男性の2位と3位に静岡県の掛川市と藤枝市、女性の1位と2位に掛川市と藤枝市が入っています。いずれも緑茶の産地として有名な場所です。緑茶を飲む習慣ががんを遠ざける、と考えて正解だといえるでしょう」(栗原さん)

■緑茶は、肝臓をダメージから守ってくれる

 緑茶はビジネスパーソンの多くが気になる「肝臓」への効果も期待できます。

 「肝臓は活性酸素に極めて弱い臓器で、ストレスの影響も受けやすいのです。そこで患者さんにお勧めしているのが、緑茶です。緑茶に含まれるカテキンには、肝臓を攻撃する活性酸素を消去する強い抗酸化作用があります。つまり、肝臓をダメージから守ってくれるわけです」(栗原さん)

 さらに栗原さんは、インフルエンザや風邪予防のために「お茶うがい」を推奨しています。お茶に含まれるカテキンが、インフルエンザウイルスの表面にある突起にくっつき、粘膜にウイルスが吸着するのを邪魔して感染を防ぐのだそうです。

■抗アレルギー作用を持つ注目のお茶とは

 日本のお茶の7割以上は「やぶきた」という品種です。日本人なら、多くの人が「やぶきた」という言葉を聞いたことがあるでしょう。その一方で、最近では、香味や機能性などに優れた品種の開発も進んでいます。今注目されている品種が「べにふうき」という品種です。

 べにふうきには抗アレルギー作用があり、べにふうき緑茶を日々飲んでいると、ハウスダストや花粉などによるアレルギー症状を抑える効果が期待できます。2015年4月から始まった「機能性表示食品」制度で受理された商品も登場しています。

 農業・食品産業技術総合研究機構 食品研究部門の山本万里さんによると、花粉が飛び始めてから飲むより、飛散する前から飲んでおいたほうがいいそうです。「早めに飲むことによって症状はより効果的に抑えられます。スギ花粉が辛いという人は、クリスマス前後を目安に飲み始めるといいでしょう」(山本さん)

(日経Gooday編集部)

[NIKKEI STYLE]

Posted by nob : 2017年06月07日 14:28

都会人の意識と都会の構造との関係性

■ニューヨークにあって東京にない、都会人の「選択権」
この保守性の原因は何なのか?

寺田 悠馬
株式会社CTB代表取締役

東京オリンピックの不意打ち

東京オリンピックをやり過ごすこと。無理に無関心を装うのでなく、斜に構えて批判するでもなく、2020年にこの街に到来すると誰もが知る催事について、その存在すら忘れてしまったような涼しい顔でやり過ごすこと。それが難しい。油断すると、東京オリンピックが意外な時と場所に現れて、善意を振りかざして迫って来るからだ。

先月、都内の国立大学の入学式に参列し、久しぶりに訪れたアカデミアの荘厳な雰囲気に快く浸っていると、東京オリンピックの不意打ちにあった。

学長の式辞をはじめ、雛壇に整列した学者らのスピーチに聞き入り、胸中に密かに抱く研究職への憧れと、いつかは自分も大学院受験を試みたいという夢想に興じていた時、唐突に、オリンピックのフラッグを携えた政治家の入場がアナウンスされたのだ。

駆け上がるように壇上に現れた政治家は、学者たちに代わってマイクを握ると、「東京2020オリンピック・パラリンピックフラッグツアー」という都内62区市町村を巡回中のイベントが、まさにその日、大学がキャンパスを構える地区を訪れている幸運について語り、さらには、入学式に参列する我々一人ひとりが、一丸となって東京五輪を「盛り上げる」重要性を熱心に説き始めた。

つい先刻まで会場を満たしていた繊細な空気がたちまち掻き消されていく様子に狼狽しながらも、筆者は、政治家の顔に張り付いた笑顔を頼りに、なんとか自分も、オリンピックが東京にやって来る事実に、健康的な興奮を覚えられまいかと試みた。

だが、繰り返し使われる「盛り上げる」という動詞の軽薄さに目眩を覚え、アカデミアにいささか暴力的な不調和をもたらす政治家への嫌悪感を、克服することができなかった。

政治家に対する嫌悪感は、やがて彼のノリ、ひいては東京五輪そのもののノリについていけない自分へと矛先を変え、いたたまれない罪悪感だけが後味として残る。筆者はまたしても、東京オリンピックをごく涼しい顔でやり過ごすことに失敗したのだ。

都会と都会人の関係性

生まれ育った街にオリンピックがやって来る。生涯に一度あるかないかの一大イベントを素直に喜べない罪悪感に悩む時、筆者は、高校時代にすがるように読んだ、E.B.ホワイトのエッセイを思い出す。

日本では主に『スチュアート・リトル』(1945年)や『シャーロットのおくりもの』(1952年)といった児童文学の作者として知られるホワイトが、1949年に刊行したエッセイ『Here is New York』は、当時全盛期にあった文芸誌「ニューヨーカー」のジャーナリストとして、都市生活について書き続けたホワイトの真骨頂である。

単行本にしてわずか十数ページの短編の中で、ホワイトは、都会と都会人の関係について、次のように書いている。

「ニューヨークは、独りになる幸せと、参加する興奮とを、同時に許容する。同じく密度の濃い他の共同体に比べて、ニューヨークは、街でつねに起こり続ける壮大で暴力的で素晴らしいイベントのすべてから、個人を隔離すること――もし個人がそれを望むなら。そして大抵の個人は、それを欲するか、必要としている――に長けている・・・

・・・ニューヨークは、どんなできごとが到来しても(東から1000フィートの航路船がやってこようと、西から2万人の党大会がやってこようと)、これらを個人に強要せずに、すっかり吸収してしまう構造にできている。

だからそこに暮らす人々にとって、あらゆるイベントは選択肢に過ぎず、居住者は、参加するスペクタクルを随意に選択することで、己の魂を保全する。大小問わず、多くの都市において、個々の居住者にはこの選択権が与えられていない」

ホワイトの『Here is New York』を読んだ高校時代、筆者は、人口約1万3千人の小さな町の外れにキャンパスを構えるアメリカの寮制高校で、わずか250人の高校生に混じって共同生活を送っていた。狭い共同体を窮屈に感じながらも、その圧迫感をどう言葉にしたら良いか分からず苦しんでいたさなか、ホワイトが言う「選択権」の不在に、息苦しさの正体を発見した。

つまり、筆者が暮らす小さな共同体では、「独りになる幸せ」が許容されず、「参加する興奮」だけが、唯一の選択肢としてあらかじめ提示されていた。参加を免れない以上、すべてのイベント――1000フィートの航路船や2万人の党大会こそ訪れないものの、小さな町でも日々何かしらが起こる――に、健康的な興奮を覚えるのが圧倒的な正解として存在する。

そのため共同体の居住者たちは、個々の好き嫌いを思慮するまでも無く、とにかく一定の興奮状態を装い、事前に決められた設定を忠実になぞり、すでに書かれたあらすじを示し合わせたようになぞるロールプレイを演じるしかない。かくして完成する「物語」から逸脱する身振りは、あらかじめ選択肢から排除されているからだ。

無論こうした環境下では、あえて斜に構えた態度を選択し、共同体で起こるイベントを批判することも可能だろう。筆者自身、ささやかな反抗に甘んじたこともある。

だがそうした振る舞いは、反対意見を述べる配役という形で、たちまちイベントの一部として組み込まれ、共同体の完全性を補強する結果しか生まない。些細な反抗など訳なく吸収してしまうほど、共同体を支配する「物語」の単一性が強力だからだ。

かくして反対意見さえ容易に体内に取り込む怪物に抗うには、まるでその存在など忘れてしまったかのように、涼しい顔で「物語」をやり過ごすのが唯一の戦略である。だが「参加する興奮」以外の選択肢をあらかじめ排除する共同体は、そんな振る舞いを決して許容してはくれない。筆者はそれがたまらなく窮屈で、非都会的に感じたのだ。

7年の尺を持つ「物語」

ホワイトのニューヨークに勝るとも劣らない大都会、東京にいま、「オリンピックを心して待ち望む」という威圧的な「物語」が覆いかぶさっている。

2013年にブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会総会で東京五輪が決定した瞬間、東京の都市生活は、2020年というあくまで恣意的な年を境に、「オリンピック前」と「オリンピック後」に――まるでダイエット食品の広告のように――分類されてしまった。そして7年の尺を与えられた「オリンピック前」の「物語」は、いまちょうどその中盤――五幕劇であれば第三幕――に差し掛かっている。

この「物語」は、東京の居住者が期待に胸をふくらませて、大きな笑顔で2020年を待ち望むという、もっぱら肯定的な気配に支配されている。

無論、時に膨張する大会予算が問題視され、不祥事の一つや二つも発覚しようが、これらは「物語」のドラマ性を際立たせる小細工に過ぎず、東京に限らずどの大会でも起きる伏線として、オリンピックという説話の大枠にあらかじめ織り込まれている。多少のドラマを許容しつつも、大会の根本的な善性は決して疑われることなく、「オリンピック前」の直線的なあらすじは、2020年に向かって突き進むだろう。

やがて「物語」は、事前に定められたクライマックスへと収束する。個々の選手の勝敗や、各国のメダル獲得数、さらには大会予算の最終的なROI(投下資本利益率)にかかわらず、閉会式が催される2020年8月9日には、オリンピックが平和の祭典として祝福され、圧倒的に肯定される以外の結末は許容されていないからだ。

つまり、高まる興奮に身を委ね、一丸となってオリンピックを「盛り上げる」熱量を装いつつも、じつはすでに書かれたあらすじから何ら逸脱せず、あくまで無難に展開する保守的な「物語」が、近年の東京の都市生活に覆いかぶさっているのだ。

そして、東京に暮らす我々は、オリンピックの招聘と運営に直接的に関与するか否かにかかわらず、この融通の利かないあらすじから逃れることができない。2020年を何かの節目と意識せずには東京で生活できない我々は、

「オリンピックが来る頃、自分は何歳になっているだろう?」
「オリンピックが来る頃、自分はどんな仕事をしているだろう?」

と、ついオリンピックの説話に自らを照合してしまう。2020年というあくまで恣意的な年が、いささか唐突に、特権的な時点として未来に出現したため、我々はそこから逆算した直線的な「物語」を捏造せざるを得なくなるのだ。

だが、そんな「物語」に抗おうとして、オリンピックを批判する身振りには間違っても転じまい。当初7000億円と言われた予算が2兆円弱に膨れ上がったという報道を見て、投下資本のROIを冷笑しようとは思わない。

あるいは、人や思想の国境を超えた流動性が増し、戦争でさえ必ずしも国家間で争われると限らない今日において、国民国家単位の競争という極めて前世紀的なイベントの時代錯誤性を、揶揄することもしまい。

そうやって東京五輪に水を差すことは、すでに強固な「オリンピック前」の「物語」に、反対意見を述べる役柄で積極的に参加し、説話の補強に加担する結果しか生まないことを、我々は知っている。

オリンピックの予算や時代錯誤性について、ことさら強い憤りを感じるわけではないにもかかわらず、「物語」の暑苦しさに屈して、これに取り合う身振りをみせてしまえば、あらかじめ決められたあらすじを忠実になぞる退屈な運動に、たちまち引きずりこまれてしまうのだ。

東京の生活に組み込まれたもの

国立大学の入学式のように、意外な時と場所でオリンピックの不意打ちにあう時、筆者は、もう明日にでも東京五輪が開幕してしまわないかと虫のいいことを考える。トップアスリートのパフォーマンスを目撃する快楽について、以前この連載でも書く機会があったが、代表選手たちが大舞台で見せる一瞬の輝きは、堪らなく魅力的なことだろう。

対照的に、「オリンピック前」という7年の尺を持つ「物語」は、スポーツの潔さ、清々しさとは一切無縁の身振りで、東京の都市生活に重くのしかかる。そして、何の節目もなく、ただ雄大に広がっていた未来の時間とごく無責任に戯れる贅沢を、東京の都市生活から奪い取っていく。

「物語」の強固な単一性によって、尺もあらすじも決められていなかった未来の未知性に、本当の意味で興奮する権利を、都会人は失ってしまうのだ。

筆者が高校時代を過ごした小さな共同体とは異なり、地球上でも有数の大都会であるはずの東京において、たった一編の「物語」が肥大化している。それは、オリンピックの招致が決まる遥か以前から、あらかじめ書かれた「物語」の予定調和性に対する非都会的な需要を、東京という都会が内包していたからだろう。

つまり、まだ訪れぬ未来から未知性を排除して、安心で、安全で、そして極めて退屈なあらすじを捏造し、これを忠実になぞろうとする保守的な運動が、東京の都市生活に組み込まれているのだ。

世界の大都会に照らした際に露呈する、東京のこうした保守性の原因は、一体何だろうか?

2020年に控える東京オリンピックに考えが及ぶと、そんな疑問が頭をよぎってしまう。

だがあえて我儘を言えば、そのような到底解明できない疑問など、すっかり忘れてしまう身振りを、筆者は選択したい。「独りになる幸せ」と、「参加する興奮」の両方を許された都会人の特権に甘んじて、まるで東京にオリンピックなど到来しないかのような涼しい顔で、静かに未来に怯え、そして興奮していたいからだ。

参考文献)
White, E.B. Here is New York. New York: Little Bookroom, 2001. (引用部は筆者訳)

[現代ビジネス]

Posted by nob : 2017年06月04日 17:15

もう今や小池さんもあざとさ丸出しですが、、、舛添さんも今更どの口で語っているのでしょうか。。。

■舛添氏 「小池氏は都民騙すのをやめよ、都民は目を覚ませ」

 政治資金の公私混同問題などをめぐって昨年6月に辞任してから1年、舛添要一・前都知事は当時の批判やその後の小池百合子都知事旋風に何を思うのか。新刊『都知事失格』が話題の舛添氏が、本誌に独占手記を寄せた。自身の辞任劇を「最高のサーカスだった」と述懐する同氏は東京五輪の大会組織委員長であり、小池氏との確執が報じられる森喜朗氏を“政治の師”とし「森オヤジ」と呼ぶ。そんな同氏が小池氏とその意を汲むメディアによって悪者にされている現実に異議を唱える。

 * * *

 森オヤジと同じく、小池知事やメディアに標的にされたのが都議会のドンといわれた内田茂である。彼ほど世間のイメージと実像が異なる人も珍しい。

 私は、考えていることを何でも率直に言い過ぎるので軋轢をよく生む。そんな私と対極にあるのが内田だ。直接、苦情は言わない。何かあれば、たとえば森オヤジに告げる。そして、オヤジがそれを私に伝える。

 内田と初めて会ったのは、2009年夏の都議会選挙だった。当時、私は厚労大臣として内田候補の応援に入った。この選挙で自民党は敗北して、内田も落選した。その後は何度か顔を合わせたという程度の間柄だった。

 2014年の都知事選で、私は自民党の推薦で立候補した。「離党した舛添を応援できない」と都連内部で猛反発があったが、最後に「舛添さんは、私の選挙応援に来てくれた」という内田の鶴の一声で反対が鎮まったという。

 彼の真骨頂は、国や都に張り巡らせたネットワークを活用したフィクサー機能である。内田は、親交を結ぶべき人物や組織を次々と私に紹介してくれた。

 ここでなぜ、森オヤジや内田の名前を出したか。古い自民党に先祖返りするような土建政治をやれ、といっているわけではない。要は、付き合い方なのだ。

 内田からの要請に関して、私はできないものはできないと断わった。あまりにはっきり言い過ぎて、不興を買ったこともある。

「全部断わるのではなく、内田の言い分の3つに1つくらいは聞いてやったらどうだ」。森オヤジのお叱りを何度受けたか。

 敵・味方と色づけするだけでは政治はおろか、改革は果たせない。その意味において、彼女が豊洲問題で苦戦していることに、ポピュリズム政治の限界を感じる。誰か側近が、小池知事に「これはネタになりますよ」とでも囁いたのかもしれないが、そう甘くはなかった。

 2016年9月10日、小池知事は豊洲市場で盛り土が行なわれておらず、厚めのコンクリートを敷いている箇所があったと発表した。

 私の都知事就任に前後して、豊洲の工事は始まっており、そのような工法の変更があったとも知らされていなかった。これに関しては、コンクリートで掩われた空間のほうが安全性も高く、メンテナンス作業も容易という発想だったと聞く。いずれにしても、その変更が公にされていなかったのは、大きな問題だ。

 だがここで立ち止まって考えたい。工法を変えた経緯や理由を都の職員は、なぜ公にしなかったのか。様々な事情が介在しているのだとは思う。そこには、石原慎太郎や猪瀬直樹ら異色知事による都政が生みだした闇がある。

◆目を覚ませ!

 週1、2日の登庁、気分を害する職員を更迭・降格させる身勝手な人事、自分の興味分野だけにしか注意を払わない姿勢……。そんな都知事のもとでは、職員は萎縮してしまう。

 外部から招いたイエスマンだけが重用された結果、知事と職員はコミュニケーション不全に陥り、信頼関係が構築できなかった。

 豊洲新市場の工法の変更が必要になったとき、知事はもちろん都民に説明すべきだ。しかし、そこには知事が都民を納得するように説得してくれるはず、という職員の信頼が必要だ。その信頼関係を築けなかったから職員は工法の変更を隠蔽したのではないか。

 もう一つ、「盛り土なし」という報道が出たとき、その工法の有用性をなぜ専門家は主張しなかったのか。

 いま私にはその気持ちが痛いほど分かる。それは、生殺与奪の権を握るマスコミが怖いからだ。「盛り土なし」という単純化された言葉はマスコミを通して一気に拡散し、都に対する不信感がさらに高まっていった。そんななか、工法変更の利点など言える雰囲気ではなくなっていたのだろう。

 そのマスコミと連携して、劇場型ポピュリズムを政治に活かしているのが小池知事である。この「盛り土問題」の責任をとらせる形で、小池知事は、市場長を更迭・降格する屈辱的な処分を下した。彼は、将来の都庁を担うべき優秀な人物だった。

 他にも有望な職員が冷遇されているともきく。今後、豊洲の安全性が確認されたら、人事の責任を、どう取るつもりなのか。

 小池知事は知事報酬削減も発表している。知事報酬や議員報酬の削減競争を続けていけば、金持ちしか政治家になれない。結果として「職業としての政治」が成り立たなくなる。優秀な人材は、いかに高い志を持っていようが、生活もできない政治の世界に集まらないだろう。小池都知事の人気取りは、民主主義の土台を破壊することにつながる。

 知事と同じように報酬を削減する議員は増えるだろうが、逆にいえば、その程度のパフォーマンスに有権者は騙されると考えているのだ。そこには、政策の判断も何もない。豊洲を含めた小池劇場が長引くほど、財政を含めた様々な面で大きな負担を強いられるのは、都民だ。「サーカス」に騙された都民は、そのツケを自ら払わなければならないのである。

 もちろん分かっている。私が辞任した結果、都政に混乱を招き、都民を失望させてしまったのだ。それに関しては、心から申し訳ないと思っている。

 さきほど職員と都知事の信頼関係構築を説いたが、私にそれができたという自信はない。そんな私が、最後に私心を捨てて言う。小池知事は都民を騙すのをやめたほうがいい。そして都民よ、いい加減目を覚ましてほしい。

[週刊ポスト]

Posted by nob : 2017年06月04日 17:05

酷い話です。。。

■<原発事故>避難者住宅、退去拒否 山形の8世帯

 東京電力福島第1原発事故の自主避難者に対する住宅無償提供が3月末に打ち切られたことをめぐり、山形県米沢市に避難中の福島県民8世帯計24人が3日、雇用促進住宅の家賃支払いと退去を拒否していることを明らかにした。8世帯のうち3世帯は母子避難で、経済的に困窮しているという。

 8世帯は住宅を管理する独立行政法人「高齢・障害・求職者雇用支援機構」(千葉市)に対し、居住費は国、東電に請求するように求めているという。

 代理人らによると、8世帯は2011年4月ごろから、米沢市内の雇用促進住宅に入居中。今年3月に4月以降の家賃支払いなどを拒否する文書を通知したため、同機構が4月13日付文書で▽住戸不法占有にかかわる家賃相当額の損害金を支払うこと▽明け渡しに応じない場合は管轄裁判所に訴訟提起する−−などと要請してきた。

 これに対し、8世帯は代理人を通し、6月2日付で回答書を同機構に送付した。原発事故を巡って国と東電に賠償責任を認めた前橋地裁判決(17年3月)などを挙げ、同機構による無償提供の打ち切りは違法とした。

 福島市からの自主避難者で、住民代表の男性(76)は記者会見で「数万円の家賃負担が発生すれば、母子避難者の生活は成り立たない。経済的窮状は深刻だ」と訴えた。

 山形県によると、福島県からの避難者は4月時点で767世帯2159人。避難指示区域外からの自主避難者が595世帯1724人を占めている。【野間口陽】

[朝日新聞]

Posted by nob : 2017年06月04日 16:38

また旅立つ君へVol.128

道に迷うことこそ、、、

道を知ること。。。

Posted by nob : 2017年06月03日 16:47

クールですね、、、未来くんだからできる感もあれど。。。

■森山未來の携帯電話無し生活にスタッフが不満

 俳優でダンサーの森山未來(32)が3日、TBS系「サワコの朝」に出演し、携帯電話を所持していないことを明かした。持っているのはテレホンカード1枚で「最近は公衆電話を見つけるのが難しい」と嘆いた。

 中学時代は携帯電話を持っていた森山だが、20歳になったころに手放した。「1日中、携帯で麻雀のゲームとかやってるんですよ。気付いたら、もう夕方。こりゃあかんわと思って」と携帯を持たない生活を選んだ。以来、10数年、持たずに過ごしている。

 司会の阿川佐和子が「この番組も、なかなか連絡がつかずに困ってた」と訴えると、苦笑いを浮かべた森山。「テレホンカード1枚持ってます」と明かしたが、最近は携帯の発達で、街中からどんどん公衆電話が無くなっている現状に肩をすくめた。また仕事のやりとりは携帯の代わりに、パソコンのメールで、仕事のやりとりをしていると明かした。

[デイリースポーツ]

Posted by nob : 2017年06月03日 16:44

大企業偏重という現政権の愚策の果ての歪な現象の一つ。。。

■60歳以上の2割、子や孫へ生活費 ほぼ賄うケースも

 60歳をすぎても、18歳以上の子や孫の生活費を一定以上負担している人が2割いることが、内閣府の調査でわかった。近く閣議決定される今年の高齢社会白書に盛り込まれる。生活費をもらう子や孫の8割は働いていて、収入が足りない若い世代を親世代が支え続けているようだ。

 調査は昨年6月、全国の60歳以上の男女約2千人から聞き取りで実施した。83・4%は学生を除く18歳以上の子どもや孫がいて、生活費について尋ねたところ、16・3%が「一部まかなっている」と答え、「ほとんどまかなっている」も4・6%いた。

 生活費を出してもらっている子や孫は72・9%が同居していた。20・7%は無職だったが、8割は働いており、正社員・職員が47・5%、パート・アルバイトは19・8%、自営などが7・6%だった。

 子や孫の収入状況は調べていないが、60歳以上の平均収入は年金を含めて月10万〜20万円未満がもっとも多く32・9%。20万〜30万円未満が26・4%、5万〜10万円未満の15・2%が続いた。経済的な暮らし向きについて「心配ない」は64・6%に上り、「心配」の34・8%を大きく上回った。(松川希実)

[朝日新聞]

Posted by nob : 2017年06月03日 16:31

もっともながら、しかしそれはロシアも同じ、、、現保有国が存在し続ける以上、核の連鎖は拡がり続けます。。。

■プーチン氏、北朝鮮の核武装に理解? 米国批判の文脈で

 ロシアのプーチン大統領は2日、北朝鮮の核開発問題に関連し、「小さな国々は自分たちの独立と安全、主権を守るために、核兵器を持つ以外の方法がないと考えている」と述べた。北朝鮮などに軍事的圧力をかける米国を批判する文脈の中での発言で、北朝鮮の核武装に一定の理解を示したと受け止められかねない内容だ。

 プーチン氏はサンクトペテルブルクで開かれた国際経済フォーラムの討論の中で、米国を念頭に「力の論理、暴力の論理が幅をきかせている間は、今北朝鮮で起きているような問題が起きるだろう」と指摘した。

 ロシアは、北朝鮮の核開発とミサイル開発は認められないという立場をとっている。だが、今回のプーチン氏の発言は、問題の根本的な原因は米国にあるという北朝鮮の主張への共感を示したと言える。(サンクトペテルブルク=駒木明義)

[朝日新聞]

Posted by nob : 2017年06月03日 16:25

また旅立つ君へVol.127/私の見果てぬ夢は世界平和です。。。(笑)

■「大風呂敷」を広げる若者ほど大きく伸びる
周囲が驚くほど気宇壮大な夢を持つべきだ

江口 克彦 :故・松下幸之助側近

将来に向かっての「とてつもなく大きい風呂敷」は、大いに広げてほしい

「最近の若い人たちには夢がないなあ」――。こんなふうに盛んに嘆く年長の経営者や評論家をよく目にします。しかし、私はそうでもないと思っています。

いまの若い人たちは、若い人たちなりの夢を持っている。ベンチャーをやるんだ、独立して事業を始めるんだ、海外の貧しい人たちのためにボランティアをするんだとか、熱い思いを聞かされることが頻繁にあり、そこには夢があふれています。

日本には優秀な若者がたくさんいる

私の若い友人の1人に海外の大学に6年間留学し、その間にITについての技術を身に付けた、まさに私にとっては「雲の上の若者」がいます。当然、各企業から引く手あまた。ところが、彼自身は世界各国を回り、人脈をつくって、時が来れば、グローバルな会社を立ち上げたいと考えているようで、いずれの会社からの誘いも断っているようです。

日本が独走しているBNCT(Boron Neutron Capture Therapy 中性子捕捉療法)は、次世代のがん治療装置として脚光を浴びています。その完成に夢を懸けて取り組んでいるのも若い先生で、本当にすばらしいと思っています。

幾人の若い友人が、企画会社や出版会社を立ち上げており、それぞれに成功を収めています。16歳のときにレンタルサーバー事業を起業し、今年創立 20周年を迎える友人もいます。イチロー選手でも練習を重ね重ねて、日本のプロ野球で、そしてアメリカのメジャーリーグで、しかも、超一流のプレーヤーになり、子どもの頃に描いた夢を実現しました。

こう考えると、本当にスケールの大きい夢を持った若い人がいかに多いことか。この頃の若い人には、若い人なりの夢があるのです。ところが年長者が、あまりそのことを評価していない風潮があります。

先日の調査によると、子どもたちがなりたいもののトップはサッカー選手。2番目が学者、博士、3番目が警察、警官、4番目が野球選手、5番目がお医者さん、食べ物屋さん、7番目が大工さんなどとなっています。

こんなニュースを一緒に観ていた知人が、「夢がないなあ」とこぼしました。しかし、本当にそうでしょうか。サッカーで世界に名を馳せる大選手を夢見ているとすれば、すごい夢ではないでしょうか。学者でも博士への夢でも、ノーベル賞を目指すんだ、警察官や刑事でも、インターポール(国際刑事警察機構)で活躍することを目指すんだ、お医者さんでも、今も世界を飛び回っている有名な脳外科医の先生のようになるんだ、大工さんへの夢でも世界的な建築家になろう、などなど、そのようなことを思っているならば、「夢がない」どころか「とてつもない大きな夢」といえます。

かつては「大企業の社長になる」が夢だったが…

私がPHP研究所の社長をやっているときに、ひとりの若い社員が「十数年後には、自分が社長になります」という人がいました。結構優秀な人でしたから、面白いと思っていましたが、数年経つと退職しました。最近、彼の話を聞くと、なにやら父親から一刻も早く、「人から使われる人間」ではなく「人を使う人間」になれと言われたということ。そして、今は、その夢を果たし、2つの会社の社長をこなしながら、相当な成果を挙げています。

「この頃は夢がない」という人は、自分の生きた時代の基準で考えているからで、数十年前は、大企業の社長になるとか、大物政治家になる、あるいは総理大臣になって国を動かすとか、「末は博士か大臣か」ではありませんが、そういうようなことが「大きな夢」、まさに青雲の志を持って、天下に号するような人物になることが、夢だと考えられていました。

しかし、もうその時代ではない。以前から言っていますが、超価値観多様化の時代、超複雑・超高速の時代に、「夢」の種類も内容も変わっているということを考えて「今の夢」を語る必要があると思います。その人の言うような「夢のない時代」ではなく、「夢の多様化の時代」なのです。とは言いながら、もし小市民的な夢であるとすれば、それはやがて泡沫のように、儚(はかな)く消えて「夢を持っていない彷徨(ほうこう)の人」ということになります。

松下幸之助さんが「棒ほど願って、針ほど叶(かな)う」とよく言っていました。最初は、周囲が驚くほどの気宇壮大な夢を持つべきだ、そういう思いを持って努力しても、結果はその何分の一しか実現しないものである。だから、100を実現したいなら、1000万ほどの大きな夢を持たなければならないということでしょう。

織田信長も『信長公記』によると、26歳のとき、桶狭間の合戦で勝利すると、33歳のときに天下統一を目指しています。そのときの状況からすれば、まさに大言壮語。坂本龍馬も25歳のころに、尊王攘夷の方向に舵を切って「日本を今一度洗濯し候」と大風呂敷を広げています。まあ、信長も龍馬も、その時代的背景が、天下国家を考えせしめたのでしょうが、大事なことは、その「棒ほど願った」ということです。

そういうことを考えると、夢を持つなら、とてつもなく大きな夢を持つべきだということです。若ければ若いほど、大風呂敷を広げるべきだと思います。最初から「なんとかすれば、なんとかなるだろう程度の夢」ではなく、「なんとかしても、どうにもならないかもしれないというほどの夢」を持つべきでしょう。

会社のなかで、それほどの大言壮語で「夢」を語る。周囲から、また上司から、あるいは社長から変人と思われても、こうしてこの会社を発展成長させる、将来はこの俺がこの会社を1人でしょって立ってやる、イギリスの英雄、ウィンストン・チャーチル卿ではありませんが、俺1人で十分だと考える。そして、この会社を日本の人たちのみならず、世界中の人たちの幸福に役立つ会社にしてやる。そういう大風呂敷を広げることこそが大事ではないかと思います。

あるいは、100年後には、火星かどこかに支社をつくると言い出してもいいかもしれません。事実、イギリスの理論物理学者、スティーブン・ホーキング博士が「人類は別の惑星に移住を始める」などと言い出しています。そのための夢を語り、その夢が実現する方向を仕事に取り入れていく。そういうスケールの大きい人材が、今の時代、一層必要であるということです。もし、そういう夢を理解できない社長、上司であるならば、さっさと電車に乗って次の「駅」に行けばいい。

夢がないのではない。夢は多様化している。それぞれの若い人たちが時代に合った夢を持っているということです。

ただ、中途半端な夢ではダメです。正真正銘の大きな夢を語ってほしい。虚言はいけませんが、将来に向かっての「とてつもなく大きい風呂敷」は、大いに広げてほしいと思います。

およそ「人間は歳をとるにつれて、角が取れて丸くなる」と言われますが、実感としてそのとおり。若い者が悟り切った雰囲気で、したり顔をして語る。まるで聖人君子のようなことを言う。そういう若いビジネスマンと接すると、ああ、この人は先はないと感じたりします。性格もまろやかなんて、なんの魅力もありません。これ以上年月が経てば、もうこの人は摩滅して、消えてしまうのではないかと思うこともあります。尖(とが)っているのが青年。やがて尖ったものが取れてくる。さらに50、60歳ともなると、ボールのようになり面白くなくなるものです。

「完成された器」は成長できない

そういえば、松下幸之助さんが「人を採用するときには、キミの好みの人ばかりを採ったらあかん。キミが、どうもならんかもしれんと思う人も採れや」と言っていましたので、これはいかがかと感じた人も結構採用したものです。その中でも、応募の理由を聞くと「私1人で、この会社をさらに発展させ、将来は世界を飛び回って、この会社の活動を拡大成長させていきたいので」という答え。ほかの4人の面接員は「傲慢だ、生意気だ」とオール×でしたが、私が「採用」ということで合格にしました。

その後、彼はASEAN諸国、米国NYに支社をつくり、大いに活躍してくれました。彼は、私の退職後まもなく彼も退職してしまいましたが、いまはNYに移り住んで、自由に翼を広げて大活躍しているようです。

要は、若いときから「完成された器」はもうそれ以上、成長はおぼつかないこと。大風呂敷の夢を広げて、金平糖のように尖ったところがある若い人材が長い目で見ると伸びるし役に立つ。

私の実際の経験から、そのようなことを自信を持って断言できるということです。

[東洋経済ONLINE]

Posted by nob : 2017年06月03日 16:14

それにしても困った問題ですね。。。

■中国人が日本の医療にタダ乗り!高額のがん治療で

中国人による“爆買い”が一段落付く一方で、昨今、日本で検診や病気の治療を行う「医療ツーリズム」が活気づいている。しかし、制度の盲点を突き、日本の医療制度に“タダ乗り”している中国人も急増しているという。その実態を取材した(ダイヤモンド・オンライン副編集長 田島靖久)

「中国からの患者が押し寄せ、とにかく大変。言葉が通じず、しかも『はるばる来たのだから先に見ろ』などとわがままを言う人も多く、日本人の患者にしわ寄せが及んでいる。しかし、日本人へのしわ寄せはそれだけではない…」

 こう語る医師が所属するがん専門の大手病院には、ここ数年、中国人のがん患者が大挙して訪れている。中国では承認されていないクスリの投与を望む患者や、最先端の治療を受けたいという患者が多いためだ。

 中国でも、がんは死因の上位を占める国民病。中国の研究チームが米国がん協会発行の学術誌に発表した報告書によれば、2009~11年に収集された全人口の6.5%にあたるデータに基づいて推計した結果、中国全土における浸潤性がんの2015年の新規診断例は429万2000例に上るとみられている。

 つまり、がんの新規診断は毎日1万2000例近くに上り、7500人が日々命を落としている計算だ。それだけの病気となった中国のがん患者たちにとって、日本の医療レベルは高く信頼性も高いため、検診や治療を望む人たちが殺到しているというわけだ。

 ところが、である。こうした中国人たちの中に、“招かれざる客”が多数紛れているというのだ。

 先の医師は匿名を条件に語る。

「がんの治療費、なかでも最先端治療の費用は高く、中国人でも超富裕層しか受けられないはず。しかし、ここ数年、そうでもない一般の患者が急増している」

経営・管理ビザで入国し
健保に加入して「3割負担」

 たとえば、悪性黒色腫と非小細胞肺がん、腎細胞がんなどに適応する薬として承認された「オプジーボ」。病状やステージなどにもよるが、薬代だけで 1日当たり3万9099円はかかる。年間で見てみると、体重40キログラムの人の場合約1144万円、60キログラムの人で約1792万円かかる計算だ。

 そのライバル薬としてMSDが発売、悪性黒色腫と非小細胞肺がんなどに適応するとして承認された「キイトルーダ」でも、年間1427万円はかかるとされている。しかも、あくまでこれらの薬は症状を悪化させない意味合いが強く、長期間にわたって投与する必要があるのだから、その費用はかなりの金額に上る。
 
 もちろん、がんの種類や症状によって治療法や薬は異なり、すべての患者がこれだけの費用を負担しているわけではないが、いずれにしても治療費は高額だ。では、こうした費用を、なぜ一般の中国人が負担することができるのか。そこにはあるカラクリがある。

 中国でがんと診断され、2ヵ月前に夫と一緒に来日、がんの専門病院で治療を受けている40代の女性は明かす。

「渡航費、滞在費、治療にかかる費用など、合わせて300万円程度でいいと業者に誘われ、日本にやってきた」

 関係者によれば、この女性が日本で治療を受けた場合、実際にかかる費用は一般的に見て1000万円程度だとみられる。それが3分の1程度の負担に収まっているのは、来日する際の「ビザ」に理由があるのだ。

 通常、日本で病気を治療する際には、「医療滞在ビザ」で入国する。しかし、この女性の場合、「経営・管理ビザ」で入国していた。

 これは、日本で会社を経営するため滞在する場合に発給されるビザ。こうしたビザで入国し、3ヵ月以上合法的に滞在していれば、国民健康保険の加入が義務付けられる。もちろん、保険料を負担しなければならないが、同時に医療費が「3割負担」で済むという“恩恵”を受けることができるのだ。負担する必要がある保険料についても、前年に日本で所得がない場合、月額わずか4000円だ。

 この女性は、決して日本で会社を経営しているわけではない。事情に詳しい医療関係者によれば、「経営・管理ビザは、資本金500万円以上で会社を設立、その代表取締役が申請できるもの。そこでペーパーカンパニーを設立して、ビザを申請しているのだ」という。

 さらに、「会社設立に必要な資本金の500万円は、患者が用意できなくても、あたかも持っているかのよう見せる“見せ金”として用意する業者がいる。あくまで見せ金だから、業者は一時的に貸し付けて、ビザが発給された段階で回収して次の患者に回す。そうしたことを繰り返し、何人もの中国人を来日させている」と明かす。

 この関係者によれば、「がんや肝炎など高額治療の患者を集めて斡旋、ツアーを組む業者までわんさかいる。もちろん、日本の行政書士などとグルになってやっている」という。

 入国制度の盲点を突き、中国人が日本の健康保険を使って高額ながん治療を行っているというわけで、前出の医師が語るように「日本人にしわ寄せが及んでいる」形だ。

生活保護を受給し
1円も払わないケースも

 それだけではない。国民健康保険の加入者が海外で医療費を支払った場合、一部を加入者に返す「海外療養費支給制度」という制度がある。海外でけがをした、病気にかかったといった場合、帰国後に申請すれば療養費の一部が返還されるというものだ。

 この制度を、国民健康保険に加入している中国人が悪用し、中国に一時帰国した際に入院したかのように装って虚偽の申請を行い、療養費をだまし取ったりするケースが後を絶たないのだ。これまで、大阪府警などが詐欺容疑で摘発したりしているものの、「海外の病院に確認を取るのも大変だし、現地の医師とグルになられると虚偽の証明が容易ではない。だから摘発されたのはあくまで氷山の一角だ」と、事情に詳しい関係者は明かす。

 さらには、「一円も払わずがん治療を受ける中国人もいる」(別のがん専門病院の医師)という。この医師は、「中国残留孤児が呼び寄せた中国国籍の家族が生活保護を受け、高額のがん治療を受けている。その数は決して少なくない」と明かす。生活保護受給者なので医療費はタダ。国民健康保険に加入する必要もないので、完全な “タダ乗り”をしているというわけだ。

 もちろん、きちんと医療費を支払って治療している中国人も少なくなく、不正を働いているのは一部であろう。だが、複数の医師は、「現場では、決して無視できないほどの人数が治療に訪れている」と危機感を強める。

 今や国民医療費は40兆円を突破し、日本の財政は危機的な状況にある。しかも、健康保険の原資は日本人が納めているお金だ。それを“食い物”にされている状況は看過できないだろう。

[DIAMOND online]

Posted by nob : 2017年06月03日 15:45