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都会人の意識と都会の構造との関係性
■ニューヨークにあって東京にない、都会人の「選択権」
この保守性の原因は何なのか?
寺田 悠馬
株式会社CTB代表取締役
東京オリンピックの不意打ち
東京オリンピックをやり過ごすこと。無理に無関心を装うのでなく、斜に構えて批判するでもなく、2020年にこの街に到来すると誰もが知る催事について、その存在すら忘れてしまったような涼しい顔でやり過ごすこと。それが難しい。油断すると、東京オリンピックが意外な時と場所に現れて、善意を振りかざして迫って来るからだ。
先月、都内の国立大学の入学式に参列し、久しぶりに訪れたアカデミアの荘厳な雰囲気に快く浸っていると、東京オリンピックの不意打ちにあった。
学長の式辞をはじめ、雛壇に整列した学者らのスピーチに聞き入り、胸中に密かに抱く研究職への憧れと、いつかは自分も大学院受験を試みたいという夢想に興じていた時、唐突に、オリンピックのフラッグを携えた政治家の入場がアナウンスされたのだ。
駆け上がるように壇上に現れた政治家は、学者たちに代わってマイクを握ると、「東京2020オリンピック・パラリンピックフラッグツアー」という都内62区市町村を巡回中のイベントが、まさにその日、大学がキャンパスを構える地区を訪れている幸運について語り、さらには、入学式に参列する我々一人ひとりが、一丸となって東京五輪を「盛り上げる」重要性を熱心に説き始めた。
つい先刻まで会場を満たしていた繊細な空気がたちまち掻き消されていく様子に狼狽しながらも、筆者は、政治家の顔に張り付いた笑顔を頼りに、なんとか自分も、オリンピックが東京にやって来る事実に、健康的な興奮を覚えられまいかと試みた。
だが、繰り返し使われる「盛り上げる」という動詞の軽薄さに目眩を覚え、アカデミアにいささか暴力的な不調和をもたらす政治家への嫌悪感を、克服することができなかった。
政治家に対する嫌悪感は、やがて彼のノリ、ひいては東京五輪そのもののノリについていけない自分へと矛先を変え、いたたまれない罪悪感だけが後味として残る。筆者はまたしても、東京オリンピックをごく涼しい顔でやり過ごすことに失敗したのだ。
都会と都会人の関係性
生まれ育った街にオリンピックがやって来る。生涯に一度あるかないかの一大イベントを素直に喜べない罪悪感に悩む時、筆者は、高校時代にすがるように読んだ、E.B.ホワイトのエッセイを思い出す。
日本では主に『スチュアート・リトル』(1945年)や『シャーロットのおくりもの』(1952年)といった児童文学の作者として知られるホワイトが、1949年に刊行したエッセイ『Here is New York』は、当時全盛期にあった文芸誌「ニューヨーカー」のジャーナリストとして、都市生活について書き続けたホワイトの真骨頂である。
単行本にしてわずか十数ページの短編の中で、ホワイトは、都会と都会人の関係について、次のように書いている。
「ニューヨークは、独りになる幸せと、参加する興奮とを、同時に許容する。同じく密度の濃い他の共同体に比べて、ニューヨークは、街でつねに起こり続ける壮大で暴力的で素晴らしいイベントのすべてから、個人を隔離すること――もし個人がそれを望むなら。そして大抵の個人は、それを欲するか、必要としている――に長けている・・・
・・・ニューヨークは、どんなできごとが到来しても(東から1000フィートの航路船がやってこようと、西から2万人の党大会がやってこようと)、これらを個人に強要せずに、すっかり吸収してしまう構造にできている。
だからそこに暮らす人々にとって、あらゆるイベントは選択肢に過ぎず、居住者は、参加するスペクタクルを随意に選択することで、己の魂を保全する。大小問わず、多くの都市において、個々の居住者にはこの選択権が与えられていない」
ホワイトの『Here is New York』を読んだ高校時代、筆者は、人口約1万3千人の小さな町の外れにキャンパスを構えるアメリカの寮制高校で、わずか250人の高校生に混じって共同生活を送っていた。狭い共同体を窮屈に感じながらも、その圧迫感をどう言葉にしたら良いか分からず苦しんでいたさなか、ホワイトが言う「選択権」の不在に、息苦しさの正体を発見した。
つまり、筆者が暮らす小さな共同体では、「独りになる幸せ」が許容されず、「参加する興奮」だけが、唯一の選択肢としてあらかじめ提示されていた。参加を免れない以上、すべてのイベント――1000フィートの航路船や2万人の党大会こそ訪れないものの、小さな町でも日々何かしらが起こる――に、健康的な興奮を覚えるのが圧倒的な正解として存在する。
そのため共同体の居住者たちは、個々の好き嫌いを思慮するまでも無く、とにかく一定の興奮状態を装い、事前に決められた設定を忠実になぞり、すでに書かれたあらすじを示し合わせたようになぞるロールプレイを演じるしかない。かくして完成する「物語」から逸脱する身振りは、あらかじめ選択肢から排除されているからだ。
無論こうした環境下では、あえて斜に構えた態度を選択し、共同体で起こるイベントを批判することも可能だろう。筆者自身、ささやかな反抗に甘んじたこともある。
だがそうした振る舞いは、反対意見を述べる配役という形で、たちまちイベントの一部として組み込まれ、共同体の完全性を補強する結果しか生まない。些細な反抗など訳なく吸収してしまうほど、共同体を支配する「物語」の単一性が強力だからだ。
かくして反対意見さえ容易に体内に取り込む怪物に抗うには、まるでその存在など忘れてしまったかのように、涼しい顔で「物語」をやり過ごすのが唯一の戦略である。だが「参加する興奮」以外の選択肢をあらかじめ排除する共同体は、そんな振る舞いを決して許容してはくれない。筆者はそれがたまらなく窮屈で、非都会的に感じたのだ。
7年の尺を持つ「物語」
ホワイトのニューヨークに勝るとも劣らない大都会、東京にいま、「オリンピックを心して待ち望む」という威圧的な「物語」が覆いかぶさっている。
2013年にブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会総会で東京五輪が決定した瞬間、東京の都市生活は、2020年というあくまで恣意的な年を境に、「オリンピック前」と「オリンピック後」に――まるでダイエット食品の広告のように――分類されてしまった。そして7年の尺を与えられた「オリンピック前」の「物語」は、いまちょうどその中盤――五幕劇であれば第三幕――に差し掛かっている。
この「物語」は、東京の居住者が期待に胸をふくらませて、大きな笑顔で2020年を待ち望むという、もっぱら肯定的な気配に支配されている。
無論、時に膨張する大会予算が問題視され、不祥事の一つや二つも発覚しようが、これらは「物語」のドラマ性を際立たせる小細工に過ぎず、東京に限らずどの大会でも起きる伏線として、オリンピックという説話の大枠にあらかじめ織り込まれている。多少のドラマを許容しつつも、大会の根本的な善性は決して疑われることなく、「オリンピック前」の直線的なあらすじは、2020年に向かって突き進むだろう。
やがて「物語」は、事前に定められたクライマックスへと収束する。個々の選手の勝敗や、各国のメダル獲得数、さらには大会予算の最終的なROI(投下資本利益率)にかかわらず、閉会式が催される2020年8月9日には、オリンピックが平和の祭典として祝福され、圧倒的に肯定される以外の結末は許容されていないからだ。
つまり、高まる興奮に身を委ね、一丸となってオリンピックを「盛り上げる」熱量を装いつつも、じつはすでに書かれたあらすじから何ら逸脱せず、あくまで無難に展開する保守的な「物語」が、近年の東京の都市生活に覆いかぶさっているのだ。
そして、東京に暮らす我々は、オリンピックの招聘と運営に直接的に関与するか否かにかかわらず、この融通の利かないあらすじから逃れることができない。2020年を何かの節目と意識せずには東京で生活できない我々は、
「オリンピックが来る頃、自分は何歳になっているだろう?」
「オリンピックが来る頃、自分はどんな仕事をしているだろう?」
と、ついオリンピックの説話に自らを照合してしまう。2020年というあくまで恣意的な年が、いささか唐突に、特権的な時点として未来に出現したため、我々はそこから逆算した直線的な「物語」を捏造せざるを得なくなるのだ。
だが、そんな「物語」に抗おうとして、オリンピックを批判する身振りには間違っても転じまい。当初7000億円と言われた予算が2兆円弱に膨れ上がったという報道を見て、投下資本のROIを冷笑しようとは思わない。
あるいは、人や思想の国境を超えた流動性が増し、戦争でさえ必ずしも国家間で争われると限らない今日において、国民国家単位の競争という極めて前世紀的なイベントの時代錯誤性を、揶揄することもしまい。
そうやって東京五輪に水を差すことは、すでに強固な「オリンピック前」の「物語」に、反対意見を述べる役柄で積極的に参加し、説話の補強に加担する結果しか生まないことを、我々は知っている。
オリンピックの予算や時代錯誤性について、ことさら強い憤りを感じるわけではないにもかかわらず、「物語」の暑苦しさに屈して、これに取り合う身振りをみせてしまえば、あらかじめ決められたあらすじを忠実になぞる退屈な運動に、たちまち引きずりこまれてしまうのだ。
東京の生活に組み込まれたもの
国立大学の入学式のように、意外な時と場所でオリンピックの不意打ちにあう時、筆者は、もう明日にでも東京五輪が開幕してしまわないかと虫のいいことを考える。トップアスリートのパフォーマンスを目撃する快楽について、以前この連載でも書く機会があったが、代表選手たちが大舞台で見せる一瞬の輝きは、堪らなく魅力的なことだろう。
対照的に、「オリンピック前」という7年の尺を持つ「物語」は、スポーツの潔さ、清々しさとは一切無縁の身振りで、東京の都市生活に重くのしかかる。そして、何の節目もなく、ただ雄大に広がっていた未来の時間とごく無責任に戯れる贅沢を、東京の都市生活から奪い取っていく。
「物語」の強固な単一性によって、尺もあらすじも決められていなかった未来の未知性に、本当の意味で興奮する権利を、都会人は失ってしまうのだ。
筆者が高校時代を過ごした小さな共同体とは異なり、地球上でも有数の大都会であるはずの東京において、たった一編の「物語」が肥大化している。それは、オリンピックの招致が決まる遥か以前から、あらかじめ書かれた「物語」の予定調和性に対する非都会的な需要を、東京という都会が内包していたからだろう。
つまり、まだ訪れぬ未来から未知性を排除して、安心で、安全で、そして極めて退屈なあらすじを捏造し、これを忠実になぞろうとする保守的な運動が、東京の都市生活に組み込まれているのだ。
世界の大都会に照らした際に露呈する、東京のこうした保守性の原因は、一体何だろうか?
2020年に控える東京オリンピックに考えが及ぶと、そんな疑問が頭をよぎってしまう。
だがあえて我儘を言えば、そのような到底解明できない疑問など、すっかり忘れてしまう身振りを、筆者は選択したい。「独りになる幸せ」と、「参加する興奮」の両方を許された都会人の特権に甘んじて、まるで東京にオリンピックなど到来しないかのような涼しい顔で、静かに未来に怯え、そして興奮していたいからだ。
参考文献)
White, E.B. Here is New York. New York: Little Bookroom, 2001. (引用部は筆者訳)
[現代ビジネス]
Posted by nob : 2017年06月04日 17:15