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まったく同感、、、私達一人一人が変わろうとしないかぎり何も変わらない。。。
■遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」
「東京だから」という病
遙 洋子(はるか・ようこ)
タレント、エッセイスト
最近、東京ではよく電車に乗る。それまでタクシー派だった私にとって、数千円かかっていた距離が、160円で行けることを知ったときの驚愕。「ヒャ・・・ヒャクロクジューエン!?」と叫んだ時からナニワ根性が開花し、何が何でも電車に乗らなきゃソンという感覚になった。それまではレンタカーで移動していた千葉にも、電車で行くことにした。
電車に乗る時、私はインターネットで乗換えや駅名など、入念にチェックする。千葉の海浜幕張まで東京駅から京葉線で乗換えなしの30分ほどで行けると表示されていた。私は自信を持って「京葉線」にたどり着き「海浜幕張方面」と書かれたホームに降りた。
ホームにはすでに電車が扉の開いた状態で停止し出発を待っていた。もう一度上を見るとホームには確かに「海浜幕張方面」と書かれてある。それでも念のために一人の乗客に声をかけた。
「これは海浜幕張に行きますか?」
「わかんない。行くんじゃないの?」
ちょうど座席シートのみが埋まる程度の混み具合だった。私とその乗客の会話は、出発を待つ大勢の乗客がシーンとした中で聞かれていた。そして誰もがうんともすんとも言わず、静かだった。
ちょっと不安に思ったが、私は乗ることにした。やがて、その電車は1時間乗っても海浜幕張には着かず、府中というまったく異なる土地に行った。私は電車そのものを乗り間違えたことを、降りた駅の駅員に知らされた。
私は傷ついた。間違えたことにではない。
私が大勢の前で発した「海浜幕張に行きますか?」のよく通る声は、静けさの中で出発を待つ、大勢の乗客が耳にしていた。その誰もが「行かない」とは、教えてくれなかった。大勢の前で明らかに電車を乗り違えている人間がいると分かっていても、そこにいる全員が、無視、した。ちょっとオーバーだが、見殺しにされたような、そんな気分だった。
間違えて乗っていた1時間、不安な面持ちで座る私の視界の端に、罵声と共になにやらモメているような気配を感じた。年配男性が女子高生を殴ったような、そんなとんでもない光景だった。
「まさか」と鼓動が高まり、二人の様子を凝視したが、女子高生は座ったまま本を読んでいる。男性もその隣に座り続けている。この二人の間に瞬時暴力が介在したかに見えたのは私の錯覚で、知り合い同士がじゃれあったのかと、その真正面に立つ乗客たちの平静さを見て思った。だが年配男性と女子高生が “知り合い”というには違和感があった。
次の駅でその二人はバラバラに降りた。ぽっかり空いた席に、前に立っていた年配男女二人が座った。その二人の会話が私に聞こえた。
「ねえ、今の男、もっとそっちに寄れって言って、女子高生を殴ったよね」
「うん、殴った」
「一緒の駅で降りたけど、しつこく乱暴されないかなぁ」
「わかんない」
私はその二人の会話を聞いて背筋が凍った。この二人はずっと真正面から何が起きているのかを目撃していたのだ。ただうつむいて本を読む女子高生が突然殴られるのを見てもずっと彼らは“静か”だった。
そして、その女子高生もまた、突然知らない男から殴られても、“静か”だった。「痛い!」もなく、周りの大人の「何するんだ!」もない奇異な空間がそこにあった。
女子高生は、自分が殴られたことが、通りすがりの犬にワンと吠えられた程度の事としてやり過ごせるのだろうか。
私が女子高生だったころ、電車での痴漢には大声で糾弾してきた。ある日、知人の女子高生がボソッと私に「さっき私、痴漢された・・・」とつぶやき苦い表情だけで終わらせるのを見た。
「なぜその場で怒らないのか」と責めたが、知人はどこか、あきらめているのだ。捨てているのだ。この社会や、大人を。そして、自尊感情を。そのことと、殴られながらじっと本を読む女子高生とがダブった。
私はニューヨークで、悪天候によるボストン行き飛行機の離発着の変更アナウンスを聞き取れず、待合にいる1人のアメリカ人に「この飛行機はボストンに行きますか?」と聞いたことがある。するとそれを小耳に挟んだ回りの5人くらいが私に「行くよ」「行くわよ」と一斉に教えてくれて驚いた経験がある。
これは単にお国柄の違いだろうか。
東京は人口密度が高いから感覚を遮断せねば生きられないのだ、という無関心説がある。他者に関わっていられないほど危険が潜む町だから、事件を目撃しても静かにするのは保身だという説もある。
これら“無関心”と“保身”は私たちの人間関係や社会に蔓延して広がっている。例えば地域格差はどうだ。“地方だから”と自らあきらめる地方は声高には叫ばない。無関心と保身を標榜する都会はそんな地方を知りながらも“静か”にしてはいないか。
ワーキングプアが深刻だと言いつつ、勝ち組たちは無関心と保身を理由に見捨ててはいないか。目前のいじめに子供たちは無関心と保身でもって“静か”にしていないか。いじめられるほうも騒いだり助けを声高に求めることなく“静か”に死んでいってはいまいか。
それらの延長線上で、私が人に電車を聞いても“静か”だったのであり、間違えても“静か”で、女子高生が殴られても“静か”なのではないか。
私たちの社会には、マクロに、ミクロに、無関心と保身がある。それを補強するのが、彼らに無視された人間の“あきらめ”だ。引っ張り上げたり要求したりがないのだから、社会も単体も格差が生じて、階層化するのは当然すぎるほど当然だ。
私は自分の乗り間違いをあきらめきれず車掌に訴えた。
「なぜ、海浜幕張方面と書いてあるホームの電車で、海浜幕張に行けないのか」
車掌は申し訳なさそうに答えた。
「海浜幕張は3番線と4番線です。でも2番線でもたまに出ます。そして、それらすべてのホームにまったく違う方面の電車がたまに混じります。このややこしいシステムを過去いったん整えたのですが、本数が増えることになって、また、混ざることになりました」
つまり、慣れろ、ここは都会だ、ということだ。“都会であること”はあらゆることの免罪符として使える。
しかし、私はそこに病を見る。無関心な人間を変えるのは難しい。保身がそれを強固に阻む。だが、あきらめてきた人が変わろうと思えば方法はある。
痛みを感じたら「痛い!」と叫ぶことだ。
変だと思えば「変だ!」と騒ぐことだ。
それで助けられようが助けられまいが、叫んで損はない。助けてくれたらラッキー。
なにより、叫べば自分がすっきりする。それだけでも、儲けもんだ。
病の治療は、自覚症状からしか始まらないのだから。
[NIKKEI Biz-Plus]
Posted by nob : 2008年01月27日 17:30