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アフガニスタンについて

■アフガニスタン侵攻 (2001)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アフガニスタン侵攻(アフガニスタンしんこう)は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンのタリバン政権への武力攻撃のことである。日本以外の国では通常アフガン戦争 (Afghan War / War in Afghanistan) と呼ばれている。

この戦争はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の戦争に賛同した。また、日本は2001年11月から07年11月まで正式に後方支援として参加し、インド洋に海上自衛隊の艦艇を派遣した(→自衛隊インド洋派遣)。

作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、有志連合諸国の間で評判が悪かったため、「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。英国では米国が云う「不朽の自由作戦」は「ヘリック作戦」(Operation Herrick)と呼んでいる。

対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国をテロ支援国家であるとするブッシュ米大統領の「悪の枢軸発言」に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を計画・実行したとアメリカに名指しされた、国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを保護するイスラム原理主義政権タリバンをアフガニスタンから駆逐するため、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした連合軍が10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カブールを制圧した。

アフガニスタンの多数民族パシュトゥーン人を中心とするタリバンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後の内戦において、最終的にアフガニスタンの支配力を勝ち得ていた勢力であり、アフガニスタンの90%の土地を実効支配していたが、北部にはタジク人・ウズベク人など非パシュトゥーン系勢力の組織がいくつかあった。彼らは反タリバン同盟として北部同盟を結成しており、米国がこれを支援する形で戦争は進められた。

米国を中心とする圧倒的な軍事力によって敵対勢力は粉砕され、主たる戦闘は約2ヵ月ほどの比較的短期間で終結し、タリバン政権は消滅した。対テロ作戦の継続の為、なおも米国の陸軍と空軍の計2万人が駐留を続けた。

米国本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機や攻撃機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の米軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。しかし、英軍が訓練していたオマーンからの攻撃をアメリカは望んでいたが、これは実現しなかった。

米国は当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表していたが、誤爆などにより住宅や民間施設も破壊され、多数の民間人の命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公式には明らかになっていない。

戦争から逃れるために多くの難民が発生して、その多くが周辺国へと向かい、とりわけパキスタンに流入して問題になった。パキスタン政府は戦争で米国支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民やイスラム・アラブ諸国の反感を買った。北方のタジキスタン・ウズベキスタンも戦争を支持し、国内への米軍駐留と施設使用を認めたため、影響力を持つロシアや周辺の中央アジア諸国に動揺を与えた。

タリバン政権崩壊後はハーミド・カルザーイ大統領によって復興が進められている。当初はタリバン残党を含む武装勢力の攻勢も弱く、社会基盤の整備が進んでいた。また、米国の大手石油企業が、カスピ海とインド洋を結ぶ天然ガスパイプラインの建設を進めているという。カルザーイの大統領就任以前は、タリバンから離脱した地方軍閥が勢力を伸ばしていたが、カルザーイは民意を盾にして軍閥の力を弱めて来たため、軍閥はほぼ大統領の勢力下に置かれているといわれていた。しかし戦争の長期化とともにタリバンなど武装勢力の攻撃が増え、特に南部の治安が悪化している。

欧米での一般的な見方では、タリバン政権下のアフガニスタンでは政治的自由はほとんど認められず、国民は厳格なイスラム法に基づいた生活を送っていたとされ、女性には参政権や教育を受ける権利も与えられなかったとされていたが、戦後は女性の社会的権利も認められ、社会進出が進んでいる。米国は半永続的に米軍基地を置く事ができるようになったが、同盟関係にあったウズベキスタンとは、2005年にウズベクが市民暴動を弾圧した際の虐殺問題で対立したため、米軍が撤収することになった。

2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起し、米英軍などと交戦している。首都カブールでの攻撃・テロも頻発しているが、対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアルカーイダの影響を指摘する声もある。

2006年5月15日からはISAFによる「マウント・スラスト作戦」(Operation Mount Thrust)が実施され、南部地域指令部(Regional Command South)の下で第76連合・統合任務部隊(Combined/Joint Task Force-76, CJTF-76)がアフガニスタン南部で実行した。この作戦は、2001年の本戦争が始まって以来、最大の遠距離掃討作戦となった。

2006年6月にはイギリスのシンクタンクが、南部のヘルマンド州ではタリバンが支配力を強め、「再び戦争状態にある」と報告した。

米軍が独占的に担っていた軍事指揮権は段階的に北大西洋条約機構(NATO)軍に移行され、 2006年7月に全ての権限移管が完了した。これは2003年からのイラク戦争に米軍の軍事力をより配分するために採られたと一般には考えられている。

NATO軍が指揮するのは、37ヶ国より構成される国際治安支援部隊(ISAF)の1万8,500人で、その内訳はイギリス軍約4,000人、カナダ軍約2,300人、オランダ軍約2,000人を主力としており、その内8,000人がアフガニスタン南部でゲリラ化した武装勢力と戦闘を行っている。またNATO以外からの派兵を含めると、2007年初時点での外国軍は約3万2,000人だが、大部分は復興業務に当たっている。しかし、2005年後半から武装勢力がアフガニスタン南部で動きを活発化させ、ISAFは予想以上の苦戦を強いられた。

2007年1月に米国は、NATO会議において削減方針を一転して2,500人規模の増派を決定した。

アフガニスタンはアヘン大国であり、世界のアヘン生産の大半はアフガニスタンで行なわれているが、タリバンがケシ栽培を禁止したことによって、開戦直前の2001年の収穫量は前年の3,300トンから185トンへと94%を超える大幅な減少に転じていた。

しかし開戦後、タリバンが勢力を維持している南部を中心に再びケシ栽培が増加し、国際連合薬物犯罪事務所 (UNODC) は2006年のアフガニスタンにおけるアヘンの収穫量が前年より49%増の6,100トンになるとして、この状態に警告を発した。これは、空爆により農地が破壊されたり不発弾等が散乱していたりしていることで、使用可能な農地面積が減少し、農民は対価の高いアヘン等を生産しなければ生活できないためである。また、同じUNODCの2007年のレポートによると、アフガニスタンにおけるアヘンを含む薬物の流通にタリバンが関わっている証拠が存在する。いずれにせよ、結果として、この進攻は、麻薬取引にかかわる勢力に大きな利益を与えたことになった。

国際治安支援部隊(ISAF)の活動期限延長が目的の決議に、不朽の自由作戦(OEF)に対する謝意を前文に加えた決議(→国際連合安全保障理事会決議1776を参照)が国連の安保理で行われた。賛成14、反対0、棄権1。棄権票を投じた常任理事国のロシアについては、OEFが国連の枠外活動であることを主な理由として棄権したと国内では報道されている。だが、国連本部広報センター(UN News Center)の記事によれば、ロシアのチュルキン大使は、決議不支持の理由として、決議の採択前に、問題の海上阻止部門に言及する文言について以下の3点を挙げていたことが明らかにされている。

1. 新たな文言について明確な結論は出されていない。
2. これまでのどのアフガン関連決議にも登場していない。
3. テロとの戦いにのみ必要なものでありそれ以外の目的に利用されるべきではない。

本項目で扱っている2001年からの戦争は、一般にはアフガニスタン戦争と呼ばれることもあるが、この名称では1838年からイギリスとアフガニスタンが3度に渡って戦ったアフガン戦争と区別できなくなる。また、その後の戦争としてソビエト連邦のアフガニスタン侵攻や、ソ連撤退後の内戦というものも存在するなど、アフガニスタンに関する戦争・紛争の名称が混乱しやすいために、2001年からの戦争に対して明確な名称が求められている。その他「アフガンテロ戦争」という呼び方もある。

この戦争についてさまざまな見方や意見がある。形式的には、アフガニスタン内での内戦の北部同盟支援という形をとっているが、アメリカ同時多発テロ事件に対する報復テロであって戦争ではないとする者もいる。それとは逆に、米国側が米国内での同時多発テロ事件を「これは戦争だ」と定義づけ、タリバン側も「まだ戦争は終わっていない」と声明を出したことから、双方で宣戦布告無き戦争という合意がなされているという見方もある。

イスラム原理主義者にとっては、この事件はダール・アル=イスラムに侵略してきた「十字軍」に対するジハードであるとされている。

[ウィキペディア(Wikipedia)]

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Posted by nob : 2009年01月10日 22:51