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誰もが他人事、、、原発を止められるか否かこれからが正念場。。。Vol.8
■原子力の扉はこうして開けられた
敗戦から「原子力予算案」の成立まで
世論調査では、国民の約八割が「原発依存からの脱却」を求めている。
だが、その道筋はかすむばかりだ。経済産業省では原発擁護派と、電力自由化・見直し派のバトルが続いている。枝野幸男経産大臣の就任で、見直し派が勢いづいたともいわれるが、電力界の「官産複合体」の抵抗は激しく、予断を許さない。
原発問題は、社会、経済、技術的問題であると同時に「権力構造」の問題でもある。原発を推進してきた権力の枠組みを抜きにして「フクシマ」は語れない。
原発は、何処からきて、何処へいこうとしているのか。誤解を恐れずに言えば、「軍事力増強ー国家主義への憧憬」と「経済成長−エネルギー産業振興、国土開発」という二つの欲望をエネルギー源に計画経済的な統制手法で原発は造られてきた。一直線の右肩上がりの成長を象徴する「昭和モデル」だった。
それが爆発事故で砕け散り、甚大な被害をもたらしている。
戦後、日本の占領主だった米国は、ソ連の国力伸長を警戒し、日本に「反共の防波堤」としての役を与えた。再軍備と経済発展を日本に求め、二つの欲望を大いにくすぐった。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や米ウエスチングハウス(WH)の軽水炉を次々と売りつけ、ウラン濃縮を一手に引き受ける。日本の保守政党の政治家は、それに見事に応えた。米国政府に取り入り、ときに圧力を利用して権力闘争を展開。米国を支点に権力の振り子は揺れ続けてきた。
原発依存からの脱却とは、このような昭和モデルからの脱却でもある。はたして「次」の権力構造は国民の共同意識に像として結ばれているのだろうか。
原発と権力の関係をもう一度、ふり返り、将来の選択への共通のプラットフォームを確認しておきたい。原発をめぐる権力の枠組みは、その時々の政治家を歴史の舞台にすえてみると浮かびあがってくる。(文中敬称略)
* * * * *
多くの識者が、「政・官・財・学・メディア」のペンタゴン(五角形)体制が原発を推進してきたと言う。福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは確かにそうだった。が、最初からペンタゴンが存在していたわけではない。
「ハード・ピース」から「反共の防波堤」へ
日本は、1945年9月、太平洋戦争の敗北で米国を主体とする連合国軍の占領下に入った。「二度と軍国化させてはならない」という占領方針により、原子力や航空技術の研究開発は全面的に禁じられる。原子力研究は手足を縛られた。
そこから、どのようにして原子力利用の扉が開かれたのか。まずは政治状況を俯瞰しておこう。連合国軍の占領は講和条約が発効する52年4月まで続くが、この間、権力ピラミッドの頂点にはGHQ (連合国軍最高司令官総司令部)が君臨した。
マッカーサー元帥率いるGHQは、民主化をキーワードに憲法改正、極東国際軍事裁判、財閥解体、農地改革などを断行する。当初、米国政府は、民主化を優先して軍国の根を断ち、国力を最低水準に抑えて日本を農業国家とする「ハード・ピース(厳格な平和)」を志向した。
だが、ソ連の国力増強で、方針を「逆コース」へと転換する。米国は、ハード・ピース路線を捨て、ソ連の封じ込めを狙って日本を「反共の防波堤」にしようと決断。「アジアの工場」としての経済発展と再軍備を求めるようになった。冷戦構造が固定されていく。
外交官出身の吉田茂(1878〜1967)首相は、日米関係を基軸にしながらも、表面的には再軍備要求に反抗し、日本を経済国家として復興させる路線を敷いた。吉田は、実業家で側近の白洲次郎(1902〜85)を対米交渉の切札に使い、経済復興への道を模索する。白洲はときにGHQと激しくやりあった。
こうして占領政策が揺れ動くなか、原子力利用の人的ネットワークは、ひっそりとつながっていくのである。
1948年12月24日、クリスマスイブ——この日、GHQは「逆コース」への転換をあからさまに行動で示した。前日に東条英機ら7人の戦犯を処刑したのとひきかえに、A級戦犯容疑者だった岸信介(1896〜1987)たちを釈放したのだ。岸は、戦中に商工大臣、軍需次官などに就き、経済統制を仕切った。上海で戦略物資を海軍に納めて大儲けをした児玉誉士夫らも解き放たれた。GHQは、協力的な元官僚や軍人、右翼を反共の「情報源」に利用したといわれる。
近年、米国の史料公開が進み、岸や児玉がCIA(米中央情報局)と近い存在だったことが明らかになってきた。2006年7月、米国務省はCIAの日本政界要人への工作を公式声明で発表している。
「米中央情報局(CIA)が一九五〇年代から六〇年代半ばにかけ、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るために、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作を実施、旧社会党の分裂を狙って五九年以降、同党右派を財政支援し、旧民主党結成を促していたことが十八日、分かった」(毎日新聞2006年7月19日夕刊)
岸、児玉らの釈放は、日本の戦後体制を決定づけたといっても過言ではない。
原子力利用の発端も、この「逆コース」と密接に関係している。
原発の情報をもたらした「大政翼賛会」の顔
戦後、最も早い段階で米国発の原子力発電に関わる情報を電力界にもたらしたのは、岸らと一緒にA級戦犯容疑を解かれた大臣経験者、後藤文夫(1884〜1980)だった。
後藤は、戦中に国民の戦時体制への動員を押し進めた「大政翼賛会」の顔だ。翼賛会は、国家国防体制の政治的中心組織で、ナチスに倣った「衆議統裁(衆議はつくすが最終決定は総裁が行う)」方式で運営された。翼賛会は町内会や隣組を包含し、さまざまな国策協力運動を展開している。
後藤自身は軍部の台頭に抵抗し、日米開戦を避けようとしたともいわれるが、翼賛会の副総裁、東条内閣では国務大臣を務めた。戦時体制のリーダーだった事実は動かせない。
釈放され、3年ぶりにシャバの空気を吸った後藤は、元秘書官の橋本清之助と再会し、収監中に英字紙で仕入れた知識を披露した。橋本は、のちに「原子力産業会議(原子力産業協会の前身)」の代表常任理事に就任し、電力業界を束ねていくことになる。後藤との会話を、こうふり返っている。
「私が原子力のことをはじめて知ったのは、二十三年十二月二十四日、後藤文夫先生が岸信介氏などといっしょに、巣鴨プリズンから出てきたその日の夕方のことだ。スガモの中で向こうの新聞を読んでいたら、あっちでは、原爆を使って電力にかえる研究をしているそうですよ、というちょっとした立話が、最初のヒントでした」(『日本の原子力 15年のあゆみ』)
核分裂エネルギーを爆発ではなく、その熱を使って水を沸騰させ、蒸気でタービンを回して発電するのが原発の原理である。
後藤から原子力情報を仕入れた橋本は、旧翼賛会の左派、マスコミ人脈を使って産業界に足がかりをつくろうと策動を始める。
後藤は、かつて「天皇の警察官」を自認する内務官僚だった。情報には強い。巣鴨プリズンでは英語文献を読みまくったという。革新官寮から元秘書を通して民間に原子力の情報が流れ、「官産複合体」への水脈がつながってくる。
ただし、岸も後藤も釈放されたとはいえ、公職から追放された。
政権を握る吉田は、岸の牙城であった商工省の大改革に着手する。懐刀の白洲次郎を、商工省の外局の、汚職はびこる貿易庁へ長官として送り込んだのだ。
白州次郎の通産省設立と電力事業の再編
海外経験豊かな白洲は、常々「日本を貿易立国に変えよう」と唱えていた。従来の国内産業育成を主眼とする商工省を潰し、「貿易省」に改組しようと考えた。輸出産業を伸ばして外貨を獲得し、その外貨で資源を買って経済成長を加速させる。白洲の改組構想は商工官僚の反発を食らったが、若手の抜擢などで乗り切った。
49年5月、「通商産業省(経産省の前身)」が発足する。「日本株式会社」の司令塔の誕生である。貿易を通商と言い換えてはいるが、白洲の執念がこもった新省の設立であった。
以後、通産省の内部には吉田—白洲—牛場信彦らの「外交・通商派」と、岸—椎名悦三郎—美濃部洋次らの「産業・統制派」、さらには「資源派」「国内派」などの派閥が生まれ、その対立抗争は現在まで尾を引く。こんにちの経産省内での原発擁護派、見直し派の衝突にも、その攻防史が影を落としている。
白洲は、通産省の設立と並行して、電力事業の再編に取り組んだ。戦時国家体制で、電力会社は特殊会社の「日本発送電」と9つの配電会社に統合されていた。戦争が終わり、供給抑制が外されると電力需要は急拡大した。物資不足や空襲による発電施設の破壊、設備の劣化もあって供給が追いつかない。緊急制限による停電が頻発し、治安問題も生じた。
日本発送電は、只見川や飛騨川、江の川などにダム式水力発電所の新規計画を立て、供給不足の解消に乗りだそうとした。その矢先、独占企業の整理を目的とする過度経済集中排除法の指定を受ける。
日本発送電を解体し官から民へ
GHQは、日本発送電と9配電会社に再編成計画を提出するよう命令した。日本発送電は通産省の管轄である。白洲は吉田と相談して、電力業界の重鎮、松永安左衛門を電力再編の審議会委員長にすえ、日本発送電の解体に挑んだ。
松永は、軍閥に従う官僚たちを「人間のクズ」と放言し、新聞に謝罪広告を載せる事態に追い込まれたことがある(1937年)。軍人嫌い、官僚嫌いは筋金入りだ。松永は、すでに70代半ばだったが、気力旺盛。一貫して電力事業への国家の不必要な介入に反対した。GHQに直談判し、1951年、国会決議よりも効力が強いGHQポツダム政令を公布させる。日本発送電は地域ごとの9電力会社に分割・民営化され、事業再編が成った。
電力事業は、官から民へと軸足を大きく移して再出発した。
しかしながら、許認可権を握る通産官僚は、瞬く間に巻き返す。翌年には特殊法人の電源開発を発足させて発電事業に参入。環境がどんなに変わろうが、官は生きのびる。
いち早く原子力情報をつかんだ橋本清之助は、電力事業再編を巧みに利用した。日本発送電が解体され、最後の総裁だった小坂順造(信越化学、長野電鉄などの創業者)が財団法人電力経済研究所を創設すると、橋本は常務理事に納まった。すぐに「原子力平和利用調査会」を立ち上げ、後藤文夫を顧問に迎える。電力経済研究所は、数年後に原子力産業会議へと姿を変えていく。
かくして戦中の国家総動員体制の実践者たちが原子力ネットワークの要所を押さえ、官産複合体の芽が吹いたのだった。
一方、原子力開発を実際に担う科学者たちは、じっとして動かない。いや、動けなかった。原子力や航空機の研究は禁じられ、手も足も出せない。情報は入っても身動きがとれない状態だった。
原子力利用に慎重だった科学者
世界の原子力利用は、米国が原子爆弾開発の「マンハッタンプロジェクト」で先導した。米国はナチス・ドイツからの亡命研究者を集めて急ピッチで開発を進めた。
日本も戦中に原爆研究に手をつけている。陸軍は、理化学研究所の仁科芳雄のグループに研究を依頼。そのプロジェクトには仁科の頭文字から「ニ号研究」の暗号名がふられ、福島県石川町や朝鮮半島、東南アジアでウラン鉱石探しが行われた。仁科グループは、ウラン235を熱拡散法で「濃縮」すれば原爆を製造できると結論づけたが、実現にはほど遠かった。海軍は、艦政本部が京都帝大の荒勝文策教授に原爆研究を頼み、プロジェクトは「F研究(分裂= Fission)」と呼ばれたものの陸軍よりも成果は少なく、敗戦を迎えている。
その間に米国は、原爆を完成させ、ウラン型を広島へ、プルトニウム型を長崎に投下。20万人以上の人命が奪われる。被爆国の日本には原子力に対する強い拒絶感があった。
日本では核分裂エネルギーを兵器に使えば「核」と呼び、平和利用なら「原子力」と言い換える。だが、両者はいわばコインの裏表であり、原子力発電のためのウラン濃縮や使用済み燃料の再処理によるプルトニウム抽出の技術は、そのまま核兵器開発に転用できる。強烈な放射能の危険性は軍事であれ、発電であれ、常につきまとう。核と原子力は同根だ。
占領下、科学者たちは慎重にふるまった。
だが、日本経済をけん引する通産省が動き出し、電力産業界でも原子力への関心が高まってくる。学者は慎重だとはいえ、研究を禁じられて「知的飢餓感」が昂じている。誰かが触媒になれば原子力利用に向けての化学反応が進むかもしれない。
原子力カードを握って登場した中曽根康弘
「官・産・学」に横串を貫けるのは「政」だ。この局面で、海軍主計大尉で終戦を迎え、内務官僚から政治家に転じた中曽根康弘(1918〜)が、原子力カードを握って躍り出た。
朝鮮戦争が勃発して冷戦が熱戦に転じ、GHQは日本の統治どころではなくなった。講和条約締結による日本独立が射程に入ってくると、米国政府は再軍備化を突きつけてきた。
中曽根は、この流れに乗った。51年1月、対日講和交渉で来日したダレス大使に「建白書」を差し出す。その文書で自衛軍の編成、再武装で足りない分の米国からの援助、最新鋭兵器の補給貸与、旧軍人の追放解除などを訴える。
そして「原子科学を含めて科学研究の自由(原子力研究の解禁)と民間航空の復活を日本に許されたいこと」とつけ加えた。翌52年4月、講和発効で原子力研究は解禁された。学界では、しかしイデオロギー的対立もあって議論が紛糾する。
中曽根は、学者たちの対立を横目に、53年7月、米国へ渡る。ヘンリー・キッシンジャー助教授(のちの米国務長官)が主宰するハーバード大学の夏季セミナーに通い、11月まで米軍関連施設を視察して回った。小型の核兵器開発に興味を持っていたと伝えられる。帰途、カリフォルニアのバークレー放射線研究所を見学し、原子力研究の推進体制を学んだ。中曽根は自著にこう記す。
「左翼系の学者に牛耳られた学術会議に任せておいたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した」(『政治と人生』)
「原子力予算案」の成立
中曽根の帰国に合わせたかのように、53年12月8日、アイゼンハワー米大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説を行った。アイゼンハワーは、核軍縮を唱え、原子力の平和利用のために国際原子力機関(IAEA)をつくろうと世界に呼びかける。米国人には忘れられない「真珠湾攻撃記念日」に行われた演説は、米国の核政策の大転換を告げるものだった。従来の独占、秘密主義から原子力貿易の解禁、民間企業への門戸開放へと切り替えたのだ。
この演説の直後、中曽根は岸と四谷の料亭で会い、国家主義的な方向性を確認し合っている。翌54年3月、中曽根は、改進党の同僚議員と国会に「原子力予算案」をいきなり提出。予算案は、成立した。学界は「寝耳に水」と驚き、上を下への大騒ぎとなった。
吉田政権の命脈はつきかけていた。政治の軸は、軽武装の経済復興優先から、改憲再軍備による民族国家の立て直しへと移った。冷戦の激化と日米関係の変化、独立後の政権の弱体化、リベラリズムからナショナリズムへ。そうした潮目の変化は、原子力利用という具体的な案件に凝縮されている。見方を変えれば、原子力はナショナリストが支配体制を再構築するには格好のツールだったともいえるだろう。
それにしても……私は、拙著『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』を執筆する過程でさまざまな資料に当たったが、中曽根たちの原子力予算案の提案趣旨説明には正直なところ、魂げた。改進党の小山倉之助は堂々と語っている。
「……MSA(米国の対外援助統括本部)の援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります」
提案者が、原子炉建設予算の説明で、原子兵器を使う能力を持つために上程すると言い切っている。「軍事力増強−国家主義への憧憬」が、原子力の扉を押しあけた事実を私たちは胸に刻んでおく必要があるだろう。ここから原発の建設は始まったのである。
[日経ビジネス]
Posted by nob : 2011年09月27日 20:02