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もう一つの側面/私自身も、QUADRAからはじまって、ジョブズ関連のブツには、かなりの投資をしている、、、プラスマイナスゼロどころか私の場合はかなりマイナス。。。

■毀誉褒貶(きよほうへん:ほめることとけなすこと、さまざまな評判の意)の中を生きたジョブズ
小田嶋 隆

 スティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。

 先月だったか、彼が米アップルの経営から退く意思を表明した際に流れてきた画像を見て、ある程度の心構えはできていた。「ああ、この痩せ方はただごとではないぞ」

 と、その時に、遠くない時期に訃報が届くであろうことを、私は半ば予期した。

 が、実際に訃報に接してみると、感慨はまた別だ。直接に面識の無い、いわゆる有名人の死にこれほど深い喪失感を感じるのは、もしかしたらジョン・レノンが死んだ時以来かもしれない。

 ジョブズは、私とほぼ同世代(満年齢で1年3カ月、日本流の学年で言うと2学年ジョブズが上ということになる)なのだが、個人的にはあんまりそういうふうに感じたことは無い。ずっと見上げてきた存在だったからかもしれない。

 彼の名前をはじめて聞いたのは、1980年代のはじめ頃だ。

 当時出入りしていたコンピュータゲーム雑誌(「遊撃手」)の編集部には、「AppleII」が何台か置いてあり、専用のゲームソフトが300種類ほど揃っていた。ゲーム以外にも、初歩的なアニメーションソフトや、脳波を画像出力するツールなど、先進的でワクワクさせるアイテムが次から次へと出てきていた時期だ。

 その、編集部にソフトウェアを持ち込んでいたアップルフリークの連中が、「ジョブズ」という名前を連呼していたのである。

 彼らにとって、ジョブズとウォズ(スティーブ・ウォズニアック。ジョブズとともにアップルを創立した技術者)は、まぎれもないヒーローだった。

 ヒーローといっても、尊敬や信仰の対象ではない。アイドルに近いかもしれない。

 ちょうど、学生だった頃の私がジョン・レノンやボブ・ディランにカブれていた感じに近い。彼らは時に馴れ馴れしく、時に親しみをこめて「ジョブズ」と呼んでいた。

 私自身は、まるっきりのアップル・フリークというわけではなかったので、真正面からジョブズにカブれることはなかった。というよりも、私にはそうするだけのカネがなかったのだ。

 当時、ジョブズにカブれるためには、それなりの資金(金額もさることながら、一身を捧げるという意味での「寄進」)が必要だった。私自身は、アップルに憧れてもいたし彼らの作るカルチャーが大好きでもあったが、自分にはアップルファンを名乗る資格が無いと思っていた。理由は、自分にはまだ献身が足りないと考えていたからだ。当時、ファンであるためには、「身をやつす」必要があった。現在、AKBのサポーターをやっている皆さんと似た状況かもしれない。肝心なのはどれだけ犠牲を払っているかで、私はその意味で、ジョブズをファーストネームで呼ぶに値しない人間だったのである。

 私より若かった彼ら(電通大の学生が主たるメンバーだった)が、どこからどうカネを工面してアップル関連のマシンやらソフトウエアやらを入手していたのかは謎だ。とにかく彼らは、アップル以外の一切の出費を削って、ブツを手に入れていた。私には真似のできない生き方だった。

 とにかく、そんなわけで、以来、私の中のジョブズは、分類上、ロックスターと実業家の中間ぐらいなところにいる。ミック・ジャガーよりはロック寄り(ミックは広告屋だからね)。ルー・リードよりは起業家寄り。ドラッグフリーなジェリー・ガルシア。並びとしては、ゲバラ、ジョン(レノン)、ジョブズぐらい。つまり、アイコンということだ。これから生まれてくる子供たちが、何かの旗印に使うかもしれない——そういう存在だ。

 ついでに言っておくが、私の記憶では、80年代までは「スティーブ・ジョブズ」ではなくて、「スティーブン・ジョブズ」と呼ぶ人間が多数派だった。

 結局、当時から、「スティーブ問題」は混迷のさなかにあったわけだ。

 よくある話だ。

 外国人の名前について、表記が統一されるようになったのは、この10年ほどのことだ。

 それまでは、媒体によって、あるいは人によって、それぞれが勝手に、呼びたい呼び方で呼んでいた。

 キース・リチャーズが「リチャーズ」なのか「リチャード」なのかは、長い間議論の的だったし、「ピーター・ガブリエル」が、ある時期から「ピーター・ゲイブリエル」になった件については、いまだに納得していないファンがけっこういる。

「朝日新聞の学芸部の女性記者が来日インタビューの時、聞いたまんまの音で《ゲイブリエル》って書いちゃたのが二重表記のはじまりらしいぜ」
「帰国子女なんだろうな、どうせ」
「確かに、オト的には《ゲイブリエル》の方が原語に近いんだろうだけど、伝統ってものがあるわけでさ」
「オレの《ピーガブ》はどうなるんだって話だよ」
「っていうか、《ガブリ寄り》が《ゲイブリ寄り》で相撲の品格が保てるのかっていう話でもあるわな」

 スティーブについても、「スティーブ」「スティーブン」「ステファン」と、同じスペルの同じ名前について常に複数の表記と発音がついてまわっていて(スティーヴ、スティーヴンという書き方もあった)、結局、使う人間の好みで処理されていた。

 で、オタクの皆さんは、スティーブンを採用していたわけだ。その発音がなんだか一番重みがあってカッコ良く思えたからだ。

 ちなみに、私が1992年に書いた『笑っておぼえるコンピュータ辞典』の中では、「スティーブン」の表記が採用されている。二人のスティーブン。ジョブズとウォズ。当時はそういう認識が一般的だった。

 以下、「笑っておぼえるコンピュータ辞典」の中から「ジョブズ」の項目をまるまる引用する。あまり信用のおける記事ではないが、いまとなっては不遇時代のジョブズについて書かれた貴重な資料となってしまっている感じもするので。

***********引用開始***********

『ジョブズ』 Steve Jobs

 フルネームはスティーブン・ジョブズ。

 1970年代に、僚友のスティーブン・ウォズニアック(Steve Wozniac)とともに世界初のパソコンメーカーApple社を創業した立志伝中の人物である。

 出生ははっきりしていない。

 養父母に育てられたということになっている。

 本当だろうか。

 ともかく、ジョブズは、ワイヤヘッドだった。

 ワイヤヘッド——彼が少年時代を過ごした1960年代のシリコンバレーでは、「髪の毛が針金みたいにガチガチに固まってしまうまで洗髪をしないような超マニアックな機械/電気好きの少年」をそう呼んだのである——いつも一日中、親父のガレージにある工具をがちゃがちゃといじくりまわしている友達もロクにいない、親とさえロクに口をきかない、ごくおとなしい子供。そういう子供でジョブズはあった。

 しかし、勉強はできた。大学にも飛び級で入った。

 が、変わり者という点では、やはり変わり者ではあったらしく、チベット仏教に入れあげたり、導師を求めて2年もインドを放浪したり、妙な健康法に凝って果物以外の食べ物を一切食べなくなったり、なんだかわかんないけど一年中裸足で過ごしてみたり、極度に入浴を嫌ったかと思えば、食事代を絶対に払わず、会議に出れば出たで、発言しているうちに必ず興奮して泣き出してしまうし、しかもそういうことをしている裏で、ウォズを追い出すために工作をはじめていたり……といったような伝説の類が山ほど伝えられている。

 それらの伝説のどこまでが本当で、どの部分が駄ボラであるのかは、たぶん、もう誰にも(たぶん本人にも)分からない。が、いずれにしてもこのジョブズという人が相当な変わり者であることは確かだ。

 ジョブズは、1980年代に入って、創業者の片割れであり、少年時代からの恩人でもあったウォズニアックをアップルから追い出してしまう。そして創業当時の仲間のほとんど全員を追い出したあげくに、最後には、結局、自らがアップルを追われてしまうのである。

 あきれた人だ。

 ちなみに、現在は、NeXTという会社の社長をやっている。

 以下にこれまでジョブズに対して使われた形容詞を列挙するので参考にしてほしい。

 奇人、野心家、大法螺吹き、裏切り者、ダニ野郎、ケチ、冷血、私生児、神童、傑物、秀才、救世主、山師、やらずぶったくり、キツネつき、若大将、二枚目、出世頭、パソコンの父、百万長者、ヒッピー上がり、偏執狂、変節漢、エゴイスト、片棒かつぎ、マザーファッカー、腐れ外道、ハイエナ、ユダ、ジャンキー、自我狂、大風呂敷、博覧強記、八面六臂、ワーカホリック、情緒不安定、四面楚歌、落ちこぼれ、礼儀知らず、できそこない、腰抜け、情性欠如、肛門期人格、甘ったれ、恩知らず、けだもの、鬼才、聖者、福音伝道者、職人、独りよがり、卑怯者、独裁者、包茎、キ印、卑劣漢、引っ込み思案、取り込みサギ、賞金泥棒、我利我利亡者、守銭奴、金壷マナコ、とっちゃん坊や、人真似野郎、殉教者、不適応、根性曲がり、独善、創造者、極道者、入れ墨者、パイオニア、革命家、成り上がり、ファシスト、ごろつき、あほんだら、思索の人、モラリスト、熱血漢、ぼんくら、はなったれ、しみったれ、ごうつくばり、薄毛、泣き虫毛虫破産で捨てろ……

 まったく、なーんの参考になるんだか(笑)。

***********以上引用終わり***********

 今読んでみると、特に後半部分は、書いていた私自身が手に負えない酔っぱらいであった事情を反映した、かなり手酷い記事だ。よくもまあこんなものを出版したものだと、あきれるばかりだ。担当の編集者はよほど度胸が良かったのか、真面目に仕事をする気持を持っていなかったのか。現在なら(いや、当時でも)到底印刷できない表現がごっそりスルーされている。

 でもまあ、そういう時代だったということなのである。

 ジョブズ自身も、こういう言い方をされても仕方の無い状況にあった。

 世界中のメディアが、ジョブズの境遇を笑っていた。“Jobs has no job”(←ジョブズ氏失業中:宙ぶらりんの)と、たしか、どこかの新聞がそういう見出しを打っていたはずだ。若大将の零落。身から出たサービスミス。

 が、ジョブズの真骨頂は、こうした毀誉褒貶のうちにある。

 彼自身、何かのスピーチの中で言っているが、アップルを追われたことは、彼にとって、結果として彼の人生にポジティブな変化をもたらしている。

 というのも、後に復帰後のアップルをリードする中核的な技術のひとつとなったNeXTコンピュータの開発と、ピクサーでの仕事は、アップルの外に出てはじめて手をつけることのできた業績だからだ。

 ジョブズは、アップルを追われたことについて、「成功者であることのプレッシャーから解き放たれて、もういちど初心者の立場に戻ることができた」というふうに言ってもいる。

 ジョブズの面白さは、こういうところにある。

 大学を中退したことや、里子として育ったことについても、同じように、ジョブズはポジティブにとらえる発言をしている。

 単なる負け惜しみではない。彼は、そういうめぐりあわせの人間だったのだ。

 スタンフォード大学の卒業式に招かれた時のスピーチの中で、ジョブズは、自分が大学をドロップアウトしたことについて触れて、こんなことを言っている。人生の中のある段階で傾注した努力が、後の人生のどの場面で役に立つのかは、進行中の時間の中では決してわからない。が、過ぎ去った時点から振り返ってみると、どの勉強がどの仕事に役立ったのかについて、点と点を結ぶことができる、と。

 なんだか説教くさい話に聞こえる。そこいらへんの課長が朝礼で同じ話をしたら、若手に煙たがられるかもしれない。

 が、ジョブズの人生を振り返った上でこの話を聞いてみると、実に味わい深い。ジョブズというのは、そういう存在だった。つまり、紆余曲折のある人生を生きた、毀誉褒貶の多い人物だったのである。

 そういう意味で、ジョブズは、通常の起業家ではない。

 もっと別のカテゴリーで考えなければならない。

 『笑っておぼえるコンピュータ辞典』の中で私が列挙した形容のすべが真実であるわけではない(っていうか、あれは酔っぱらったオダジマの発作だと思う)ものの、ジョブズが、私生児であり、ドロップアウトであり、ヒッピーであり、追放者であったことは事実だ。そして、一方において、彼が真に革命的なソフトウエア設計者であり、前代未聞の経営者であり、情熱的なライフスタイル創造者でり、ある意味現代の聖者であったことも事実だ。

 要するに、ジョブズは、東洋的な思想と西洋的な理想を併せ持ち、古代的でもあれば未来的でもあり、マッチョでもあれば女性的でもあったという意味で、非常に多義的な人間だったということだ。

 一人の人間が世界を変えるわけではない。

 が、一人の人間のインスピレーションが、後の世代の若者のアタマの中味をごっそり入れ替えてしまうことは、必ずしも珍しい出来事ではない。ジョブズは間違いなくそれを成し遂げた男の一人だ。

 21世紀に決定的な影響を与えた人間の名前を一人だけ挙げろと言われたら、私が挙げる名前はジョブズになる。

 リオネル・メッシだとか、ウサマ・ビン・ラディンだとか、ジュリアン・アサンジだとか、見出しになる回数の多かった名前はもっと別なところにあるかもしれないし、大統領や起業家や文学者を含めて巨大な影響力を持った人物はほかにもたくさんいる。でも、あえて一人だけということになると、挙げるべき名前は、やはりジョブズだ。ほかには思いつかない。

 私自身は、初代のマッキントッシュからはじまって、ジョブズ関連のブツには、かなりの投資をしている。

 一方で、アップルにまつわる翻訳書を二冊出しているし、マッキントッシュの記事やアップル関連書籍への寄稿で、おおよそ似たような金額の報酬を得ている。

 差し引きで考えると、プラスマイナスでちょうどゼロぐらいになる。

 でも、それは経済上の問題だ。

 私のアタマの中味を作ったものを、円グラフの中に書きこむのだとすると、おそらく、4分の1ぐらいを、コンピュータ関連のあれこれが占めることになる。で、そのうちの半分はアップルでできている。

 ということは、私のアイディアの12.5%はジョブズ由来だということになる。

 リンゴで言えば、ちょうど齧られてなくなっている部分ぐらいに相当する。

 感謝せねばならない。

 リンゴが落ちることを発見した男によって切り開かれた時代が近代であるとするなら、現代は、リンゴに歯形を付けた人間のインスピレーションに沿って動いている時代だ。未来がどうなるのかはもう誰にもわからなくなった。さようならジョブズ。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2011年10月12日 10:07