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無駄こそが文化であり豊かさである。。。
■計画したことが達成されるだけの人生を
はたして「豊かな人生」と言えるだろうか
現代は計画を立ててそれを遂行し、
確実に達成することが求められている
今回は、なぜ中間の状態にいることが良いのかということに触れたいと思います。
私の診察室を訪ねてくるビジネスパーソンに、休日をどう過ごしていたかを聞く機会があります。
東京映画祭、フェスティバル東京(演劇の祭典)、英会話――。最近であればそんな話題が会話にのぼります。多くの人は、休みの日に何かしら計画を立ててアクティブに行動しています。
もちろん、そういうところで楽しむのは悪いことではありません。場合によっては気分転換にもなるとは思います。
ただし、ゆっくり休むことが必要な人たちには、必ずしもお勧めできません。
平日は忙しく働いているので、せめて土日ぐらいは家でゆっくり休んでくださいとお話ししても、その人たちはこんな理由から行動せずにはいられないのです。
「時間を無駄にしている」「人生を楽しんでいない」「自分を向上させていない」
心や体のバランスを崩して休む必要に迫られているにもかかわらず、休むことに耐えられません。休みの日でも何か予定を入れなければ、人生を無駄に生きているという強迫観念に駆られているかのようです。
なかには「何もしなかった」という人もいます。
しかし、どういうわけかその人は後ろめたそうに語るのです。私に「それはとてもいいことです。体が休まりましたね」と言われてはじめて、何もせずに休んでもいいのだと認識するほどです。
現代は、自ら能動的に計画を立てて生きるのがよいこと、という風潮があります。
それはそれでいいことだと思います。でも、計画したからには必ずそれを遂行する、うまくいって当たり前、何もしないことや計画しないで時間が過ぎていくことは、すべて無駄ととらえてしまうのは行き過ぎではないでしょうか。
ほんの100年前の社会は、
コントロールできないものばかりだった
最近、私はよく時代小説を手に取ります。
江戸時代を舞台にした小説などでは、徒歩以外に交通手段がないので、どこに行くにも移動に時間がかかっていることがわかります。ちょっと今日はあそこにでも行ってみようかと計画しようものなら、たいへんな労力を覚悟しなければなりません。
さんざん歩いてようやく着いても、肝心の相手がいないということも珍しくはありません。家人に聞くと旅に出たといいます。メールはおろか電話もない時代では、相手の予定を確認する術はほとんどありません。
おそらく、当時は「空振り」というのが日常茶飯事だったのでしょう。自分が会いたいと思って出かけても相手がいないのが当たり前、計画が思うように達成できなくてもそれを無駄と考えることはなく、腹を立てたりがっかりしたりしている姿も描かれていません。
彼らは潔く諦め、頭を切り替えます。
せっかくここまで来たのだから、帰りにどこかへ寄って行こう。当初の計画にはまったくなかったところに目を向けるのです。そんなときこそ、偶然の出会いや新たな発見があったのではないでしょうか。
想像するに、無駄はネガティブなものではなかったと思います。
自分のコントロールできる部分が圧倒的に少なかったため、ネガティブに考えても仕方がなかったのです。
むろん、この時代に戻るべきだと言っているのではありません。
しかし、効率化を極限まで追求した現代では、計画を達成することがすべてになってしまっているのではないでしょうか。そこでは、無駄はもっとも忌むべき行為の一つとなっています。
無駄に対してただイライラを募らせてばかりいると、時代小説の登場人物のように帰り道に計画外の行動をしようというこころの余裕は生まれてきません。立てた計画が実現せず、無駄な時間を費やしたからこそ予想もしなかった偶然の出会いや発見に出会えたという発想を持つことも必要なのではないでしょうか。
私は、計画通りにいかない無駄なことが多かったこの時代、人々のこころが貧しかったとは思いません。むしろ、無駄を無駄と思わず、頭を切り替えたことで手に入れるものがあった豊かな時代だったとも言えると思います。
効率を追求すると必要なことを深く知ることはできるが、
決して横に広がらない
インターネットの発展で、知らないことを調べる手段は検索が主流です。
検索では、自分が知りたいことにはほぼ確実に出会えます。しかし、それによって失われたものもあるような気がしてなりません。
私が現在勤務する立教大学では、現在図書館の改革を進めています。たまたま、新しい図書館長に就任される教授とお話しする機会を得ました。
教授によると、その図書館のウリは「部屋にいながらにして蔵書検索ができ、注文しておくと図書館に行けばカウンターに出ている」というシステムだそうです。
話していてわかったのですが、その教授も書店や図書館の魅力は十分に分かっている人でした。自分の目で本を探し、その過程でまったく想像もしていなかった本と偶然出会うことに意味があるという考えを持った方です。
教授は、ピンポイントで効率よく探すシステムに限定するのに躊躇し、従来の開架式の書棚も一部残すといいます。しかし、効率の良いシステムが学生に受け入れられれば、書棚の本を探す人はいなくなるでしょう。
この事例でもわかるように、現代は計画したこと、意識したことを確実に達成できる社会になりつつあると思います。しかし、計画しなかったこと、意識していなかったことから何かを得るチャンスは確実に減っています。
自分に役立つものだけで
時間が構成されているのは不自然ではないか
かつて辞書や事典などで何かを調べるうち、偶然別のことに引っ掛かることがあった記憶のある方は多いと思います。例えば、辞書で目的の言葉の隣にある言葉が妙に気になってしまうといったことです。
また最近でも、「ウィキペディア」で調べものをしているうち、気づいたらとんでもないことを調べていたという経験のある方がいらっしゃるでしょう。
検索した目当ての事柄を読んでいる途中で、本文中の気になる事柄や人物にジャンプする。それを繰り返しているうち、当初検索しようとした事柄とはまったく異なるものにたどり着いてしまったという経験です。
多くのビジネスパーソンにとって、目的のものを無駄なく探し当てるのは仕事の効率というものです。余計なことに目移りし、無駄な時間を費やすのは仕事とは言えないでしょう。
まして「時間を費やしたのに結局何も得られなかった」「そのときは意味がなくても、いつか役に立つことがあるかもしれない」「調べたけれども結局何の役にも立たなかった」などと悠長なことは言っていられません。
しかし、一見無駄なことから派生する「偶有性」がなくなってしまうと、効率性は高まって必要なことを深く掘り下げて知ることはできますが、横に広がっていきません。
私には、この状態が人間のこころを豊かにするとはどうしても思えないのです。
徹底的に無駄を排除し、役立つものだけで自分の時間が構成されているというのはとても不自然なことだと思います。
ウィキペディアの事例に限ったことではありませんが、無駄な体験の積み重ねが人間の内面を豊かにするのではないでしょうか。
私の友人に、ミシマ社という小さな出版社を経営する方がいます。その彼が最近『計画と無計画のあいだ』という本を出版しました。
ミシマ社は、ビジョンがあるようなないような状態で始めた会社だといいます。
出版業界の人に聞くと、大手の出版社の人も含めほとんどの人が「ミシマ社っていいですよね」と口にします。自分の会社ではできないけれども、彼らのようなスタンスで本を作ることが理想だと考える人が多いのです。
計画でも無計画でもない、意識していることだけでも無意識に入ってくることでもない、仕事に必ず役立つことでもまったく仕事に役に立たないものでもない。そんなことに日々触れていることが、人生を豊かにするのではないでしょうか。
[DiamondOnline/香山リカの「ほどほど論」のススメ]
Posted by nob : 2011年11月08日 17:23