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これほど美しい村、、、終の栖として残るも、新天地に移住するも、個々に選択可能な公平な保証救済策を。。。
■飯舘村を苦境に追い込み再生を阻む3つの壁
飯舘村のいま~再生への軌跡
前田せいめい
野手上山頂の野手神山神社。この向こうに見下ろす山並みの一角に、クリアセンターと産廃最終処分場がある
本日11月25日夕刻、飯舘村小宮地区住民のみを対象にした3回目の説明会が、飯野町に置かれた村役場出張所で行われる。
ここで小宮地区住民の有志がこの1週間進めてきた除染計画の白紙撤回を求める署名活動の結果が明らかにされ、それに対する村、国の対応が確かめられるはずだ。
住民の要望と「除染、帰村」の間にある溝
小宮沼平から野手上山へ向かう途中、見上げる空。紅葉の季節も過ぎ冬がもう目の前に迫っている。この次の日、飯舘村に雪が降った
11月20日、福島第一原子力発電所の1号機から4号機のある福島県双葉郡大熊町で町長選挙が行われ、除染により最終的な帰還を目指す現職町長が恒久的な町全体の移転を訴える新人を下し当選した(投票率68.34%、現3451票/新2343票)。
これに先立ち、福島大学が双葉郡8町村全世帯を対象に帰還の意志を問うアンケートを実施、「戻る気はない」との回答が全体の26.9%だったことが発表された。ただし34歳以下に限れば、52.3%が「戻る気はない」としている。そのほかの回答結果からも、世代による考え方の違いが明確に表れている。
飯舘村からは、こうした住民の意識が聞こえてこない。発表されないのではない、そもそも住民の意見や要望を集約することがなされていない。
他自治体に先駆けて9月に「除染計画」が策定・発表され、さらには5~6月の時点からさまざまな放射能除去実証実験が村内で試みられており、外部からは「除染、帰村」が飯舘村の既定方針と見なされてもいた。
だが、そこには住民の要望が反映されていないという声は、6月に発表された「までいな希望プラン」でうたわれた「2年内の帰村」方針に対する疑問としても表れており、「除染計画」にいたっては村面積230平方キロメートルの75%を占める山林の除染は無理だとする声があちこちから聞かれる。
小宮地区住民だけが対象の「説明会」
10月4日、「負げねど飯舘!!」主催の集会で会場から村役場職員の発言があり、避難住民の所在把握が遅れており住民へのアンケート実施など意見集約ができていなかった、これからそのための場を設けていくと説明があった。
後日始まり何回か開催された村主催の避難住民を対象とした「住民懇談会」では、住民からはっきりと「移住を希望する人への保障」を希望する旨の発言があり、それに対して菅野典雄村長は「国、東電はアテにできないので、村として考えていかなくてはならないと思っている」と答えている。
小宮地区のごく普通の風景。ここから3kmほどの場所に除染ゴミの仮置き場が計画されている
11月4日、数日前に突然召集された小宮地区住民を対象にした説明会が開かれた。小宮地区だけが召集されたことを知った多くの飯舘村住民が「もしや・・・」と思ったはずだ。
飯舘村東部に位置する小宮地区には、村内から出るゴミの焼却施設(クリアセンター)と産業廃棄物を埋める最終処分場がある。除染計画書には村内の除染で発生した汚染ゴミは村内の国有林に仮置きするとある。
仮置き場を小宮地区に置く、そのことの住民への説明ではないかと誰もが想像して不思議ではない。そしてそれは想像どおりだった。
このとき、環境省のある技官が「除染については30年間かけて確立していく」と言ったという。つまり20年かけて完了させる予定の飯舘村の除染は、国にとっては「除染」ではなく壮大な「除染実験」の一部という位置づけなのだろう。
平行線の果てに「決定」された仮置き場設置
自宅裏山を案内してくれる小宮地区の沼惇さん。「来年があると思えばこそ山の手入れもできた。来年も手入れするかどうかは、分からない」
この説明会で住民を納得させられなかったため、14日に再度、小宮地区住民対象の説明会を開き、これはUstreamで配信された。
「受け入れるにせよ拒否するにせよ、納得したうえで決めたい。いまの説明では受け入れるか拒否するか決める以前の問題」という住民の主張に対して村長は「国是、国策だから納得してほしい」と繰り返すばかりで終始平行線をたどった。
再度の説明会開催を約してこの日は閉会したが、この2日後、住民が納得了承していない段階で政府は仮置き場設置の方針を決めたことが報じられた。
「政府の福島除染推進チームは飯舘村の仮置き場について村東部の『飯舘村クリアセンター』周辺の国有林に設置する方針を決めた。14日、福島市飯野の村役場飯野出張所で開かれた説明会で、同地域の小宮地区の住民らに説明した。
説明会は4日に続き2回目の開催で、県内外に避難している小宮地区の住民約50人が出席した。住民からは仮置き場の規模や安全性の確保などに関する質問があった。『住民投票を実施してほしい』『除染方針に納得がいかない』などの意見が上がった。」(福島民報11月16日)
阿武隈山系の豊かな水を湛える新田川
14日の説明会の内容を受け、25日夕の開催が決まった説明会に向けて有志(新天地を求める会)が「新飯舘村の建設を目指す署名」活動を18日に始めた。この中で以下3点が提案されている。
住民が示す3つの提案「除染計画全面撤回」「新飯舘村建設」そして
●村の除染計画は住民投票に持ち込み全面撤回を求める。
●安全安心な地の提供を国に求め自治権を持った新飯舘村を建設して移住する。勿論個別に他所への移住は自由。
●新飯舘村建設、移住の原資を捻出する為に飯舘村に福島県の除染廃土の中間処分場の設置を認める苦渋の選択と引き換えに村民所有不動産の国による買い取り借り上げを求める。事情によっては核廃棄物最終処分場も受け入れも排除しない。
これを、と手渡されて一瞬ことばを失った。
「核廃棄物最終処分場も受け入れも排除しない」
村が提示した「除染計画」は多くの住民が信用していないという。しかし除染しなくても30年経てば放射線量は半減し、さらに30年経てばもとの4分の1に減少すると言われている。ここに村が残っていさえすれば、もしかしたらまた、ここに戻ってこられるかもしれない。
核廃棄物最終処分場を受け入れるということは、そんな一縷の望みを自ら断ち切ることにほかならないからだ。
「核廃棄物最終処分場受け入れも排除しない」
地域エゴで仮置き場を受け入れないと言っているのではないと2010年に飯舘村にIターン移住した伊藤延由さんは言う。
提示されている仮置き場の計画は、概略以下のようなものだ。
暗渠用パイプを地中に埋める。その上に防水シートを敷き、除染ゴミをコンクリートで密封した1立方メートルの“サイコロ”を2段積みで並べ、一定の規模に達したところで防水シートで覆う。
このとき、どれだけの除染ゴミが発生し仮置き場にどれだけの面積を要するのかとの住民の質問には「やってみなければ分からない」。どの程度の除染効果が見込めるのかとの質問にも「やってみなければ分からない」。
産廃最終処分場周辺。この道の向こうに埋立地が広がる。ここに至るはるか前から、かなりの臭気が漂っていた。放射能にもし臭いがあったら・・・と想像してみる
仮置き場の期限は「3年程度」とし、その間に中間貯蔵施設を建設し仮置き場の除染ゴミはそこへ移動する。移動されるまでの期間、除染ゴミはコンクリートボックスに閉じ込められているとはいえ野ざらしに近い状態にある。
まんいち、この野積みの除染ゴミから放射能汚染水が漏れ出た場合、それは小宮地区を流れる新田川に流れ込み、それはそのまま下流の原町区(南相馬市)へと運ばれ、最終的には海に流れ込むことになる。ことは飯舘村だけにとどまらない。
産廃処分場建設には3年の時間をかけた
空を映して流れる新田川
小宮地区にあるクリアセンターや産廃最終処分場建設のときは、どうだったのか。曽祖父の代から小宮地区で農業を営む目黒明さんによれば、村役場から係員がやって来て全戸の捺印を集め、さらに下流の原町でも住民の許可を得るという手続きを踏んだため建設まで3年がかかったという。
村長は南相馬市長にはこの件について話をしてあると言っているが、原町区住民の大半はこのことを知らされていないだろうと伊藤さんは言う。
産廃処理施設でさえ住民の許可を得るために手続きを踏んで時間をかけた、ましてやより不安の大きな除染ゴミであれば、さらに慎重にことに当たるべきだというのが小宮地区住民の主張だ。
村長の説明では「緊急を要するため時間がない」ということだが、実のところ最も「緊急を要する」事態は原発事故直後であって、8カ月以上経過した現在は相変わらず高い放射線量を示しながらも「安定状態」にある。
緊急を要すると言うなら、やってみたけどダメでした、もういっかい最初からやり直します、という無駄な時間は与えられていないことをむしろ重視すべきで、それなら仮置き場などという危険で中途半端な施設ではなく、恒久的なものとするかどうかは別として最初から、放射能を閉じ込めて外に出させない最終処分場をイメージした施設を建設すべきではないか、というのが住民から出されている意見だ。
14日の説明会では除染ゴミの量について、大雑把でいいから試算した結果を教えてほしいという住民の質問に対して、村長の回答はやはり「やってみなければ分からない」というものだった。
実は仮置き場のモデルとなり得る除染実験の結果がある。飯舘村の中でも特に汚染度の高い地区のひとつである長泥地区の区長・鴫原良友さんが自宅を除染実験に提供したものがそれだ。
野ざらしの除染ゴミと効果のない除染
実験のことを伺おうと鴫原さんの運転する車に便乗させてもらってお宅に向かう途中、飯舘村の比曽地区を通った。比曽地区の田畑は村からの指示を受けて雑草がきれいに刈り取られているが、比曽地区に隣接する長泥地区に差し掛かるとまったくと言っていいほど刈り取りは行われていない。区長である鴫原さんの判断で行わせなかった。
「長泥は村のほかの地区とは(線量の高さが)別世界だ。健康を害してまでやることじゃない」
5月、放射線の専門家、作業員が長泥の鴫原さん宅を訪れた。住宅の除染実験を行うためだ。母屋を高圧放水で洗浄し前庭の表土を除去、庭木の一部の枝をすっかり切り落とした。
その時点では確かに放射線量は劇的に下がったものの、鴫原さんは結局「元に戻った」と言う。ばかりか、父親の形見とも思っていた庭木は無残な姿でいまも同じ場所に立っている。
「手足をもがれたのと一緒だ」1本の庭木にさえ他人には計り知れない思いが宿っている
「材木にする木を伐採したんじゃない、思い出を殺されたんだ、カネに替えられるもんじゃない、命なんだ、エラい先生には人の気持ちが分からない」
枝ぶりを失いぼこぼこと節くれだった幹だけの松を見上げて悔しそうに鴫原さんが言った。
裏山の林の中の「仮置き場」。放射能の専門家が処置したのだから安全なのだろう
この除染実験で生じたゴミは鴫原さん宅の裏山に置かれブルーシートで覆われている。コンクリートで密封されてはいないが、概要からイメージされる仮置き場の状況に近いのではないかと想像される。ブルーシートの上に線量計を置くと見る見る数値は上がり、30マイクロシーベルト(毎時)を超えた。
14日の説明会では村長から「早く動かないと国から予算が下りない」という発言もあった。
2009年から飯舘村に住む沼惇さんは、村が除染計画にこだわり着手を急ぐのは、村の財政事情によるものではないかと分析する。
財政を人質に自主性を奪われる地方自治体の苦悩
飯舘村を「豊かな」とする表現も一部に見られるが、財政的には他の小さな農山村と同様、過疎の危機に直面する「貧しい」自治体であることには変わりない。
「飯舘村長期財政計画」からは、40億円規模の財政のうち村の自主財源は4分の1程度であることが分かる(2010年度は歳入総額50億9517 万円、うち自主財源10億4057万円)。過疎化に伴う村税の減少、歳入の半分を占める地方交付税の制度改革に伴う圧縮なども予想されている。
さらに震災、原発事故の発生は年度末であり、おそらく現在、村にはほとんど財源が残っていないだろうことも想像できる。
飯舘村の暮らしを(以前に比べて)豊かなものに変えたのが菅野典雄村長の手腕であることを否定する住民はいないだろうが、それも国や県からの交付金、補助金に頼ったものだった。頼らざるを得なかった。
例えば写真撮影のために村内を移動すると、まず道がきれいに整備されていることに気づく。隣接する町村から飯舘村に入ると、それまでは細く荒れた路面だった道が、村に入ったとたん広がり滑らかになる。
手入れされなくなった現在の事情はあるが、道路脇はきれいに草が刈り取られ丹精された季節の花が道行く人の目を楽しませたに違いない往時の姿をありありと想像できる。
交付金を地域で回す「村内出稼ぎ」が支える豊かさ
道路整備だけではなく、さまざまな事業が村の事業として進められ、農作業の合間に駆り出された住民に手当が支給される。日本の多くの農家と同じく農業収入だけでは生活もままならないだろうが、国からの交付金を村の中で回すことによって村の人たちの生活も改善されてきた。
菅野村長はそうした経済システムを高め、また飯舘牛やトルコギキョウ、リンドウといった花卉栽培などを導入して「飯舘村」ブランドを生み全国に発信してきた。積極的にIターンを受け入れ人口減少をとどめる努力もしてきた。
そうしたこれまでの努力をぶち壊し水泡に帰せしめたのが、破壊された福島第一原発からやって来た放射能雲だった。村の先行きは財政を含め、まったく見えないものとなった。
そこに提示されたのが、巨額の予算を伴う「除染事業」だ。村を豊かにすることに砕身してきた村長にとっては最後の命綱とも思えただろうし、実際それが実施されれば村にとっては最大の財源でもある。村が「豊か」になるには十分すぎるほどの額が動く。
だがそもそも、この「除染事業」に「被災者の生活」への配慮など含まれていない。なんとなれば除染は、被災者の安全のためというよりも、「除染しましたよ」という事実を見せ「安全宣言」を出すことによって被災地の外に放射能の恐怖を拡散させないためのものだからだ。
除染をすれば戻って生活できるだけの安全が本当に確保できるのかという質問には「やってみなければ分からない」という答えしか返ってこない。子どもたちが普通に生活できる環境なのか、規制値以下に線量が下がったとして果たしてそこで収穫された農作物を消費者が買ってくれるのかと考えれば、悲観的になるのが普通だろう。
「再生」には、いろんな形があっていい
それならいっそ、安全な地に移って安全な生活を手に入れ安全なコメや野菜を作り安心して買ってもらいたいと考える人があるのも無理のない話だ。だが現状、移転して農業を再開するだけの資金がない。東電は賠償責任から逃れることしか考えていないように見えるし、国は「除染、帰村」前提でしか動かない。
「新天地を求める会」の提案は過激だ。村の「除染、帰村」を一方の極とすればその対極にあるもので、ほとんどの住民はこの両極の間で揺れ動いているのが実際だろう。
どの程度署名が集まるか分からない、むしろほとんど集まらないかもしれない、というのが伊藤さん、沼さんの予想だ。実際に昔から村に住む人たちと話をしても、面と向かっては多くの賛同を得られるものの、村と対峙する形になってしまうことはできるだけ避けたいと考えるのが田舎の人間のメンタリティーだということは、地方の山間部出身の筆者にとってはごく当たり前の事実だ。
しかし、これまでこうした住民の意見が集約されなかった、その中で一方的に(おそらくは国の主導で)「除染、帰村」だけが進められることに対して、それだけが村の意志ではないことを示し、これをきっかけとして村の人たちがそれぞれ声を上げられるようになればいい、「飯舘村の再生」にはいろんな形があっていい、と署名活動に携わる人たちは考えている。
もうひとつの「安全神話」
野手上ダムから下流の原町方向を望む
「核廃棄物最終処分場も受け入れも排除しない」とは、なんと苦渋の決断か。
飯舘村をこんな苦境に追い詰めたものに思いを致さずにおれない。第1に無定見な原子力政策を推進し災害対処で無策無能ぶりを世界中にさらしてしまった国、第2にそんな国の政策を背景にフィクションの安全神話を作り上げ果たすべき責任を十分に果たし得ない東京電力。
そして第3に、原子力政策に乗り安全神話に寄りかかって、当然予想されたはずのリスクを本来関係のない地域に押し付け、そこから生み出される便利だけを享受してきたわれわれ自身。
特にことここに至って住民を無視した無理な除染を国や自治体に迫り、もって「安全」「安心」を得ようとしているのは、いま現在リスクにさらされ不安に苛まれている被災者ではなく、安全圏にいて、いつか自分のもとにやって来るかもしれない放射能への恐怖から逃れたい一心のわれわれではないのか。
自分たちの便利、安全、安心のために生じるリスクを、自分たちとは関係のない地域、住民に押し付けている。それは沖縄の基地問題にしても同じだ。「知らなかったんだから自分に責任はない」のではない。少なくとも、いまは多くの人が知ったはずだ。飯舘村、福島あるいは沖縄について語るとき、そのことの自覚は忘れるべきではないだろう。
リスクを他者に押し付けることで自らは「安全」になれると信じている。それもひとつの「安全神話」ではないだろうか。
[Japan Business Press]
Posted by nob : 2011年11月29日 14:43