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その通りだと思います。。。

■香山リカの「ほどほど論」のススメ

仕事に「自己実現」は必要か。
働くことが楽しくない人がいてもいい

仕事は本当に人のこころを健全化するのか

 東日本大震災以来ずっと言われ続けてきたことがあります。

 ただ支援物資を送るだけではなく、雇用を創出しなければならないと。

 避難生活も日がたつと、プライバシーを作るために段ボールでパーテーションを作る家族が増えました。不十分とはいえ家族だけの空間ができたのはいいのですが、そこにお父さんが1日中ゴロゴロしているとロクなことにならないということもあったようです。

 酒を飲み、ひどい場合はセクハラまがいの行為に及ぶ。奥さんはイライラし、子どもはお父さんを敬遠し始める――。仕事がないということがいかに人の気持ちを不健全にするかということがさかんに強調されました。

 たとえ十分な収入にならなくても、人は仕事をすることでこころの健全さを保つ。毎日決まった時間に「家」から出かけるだけで、家族全員がこころの安定を取り戻し、人にやさしくなれる。だから人を支えるためには仕事が大事なのだ。こころの面から見て雇用創出の必要性を訴える理由はそういうことになっているようです。

 しかし、こころの面から見れば、私は少し違ったイメージを抱いています。

 果たして「仕事をすること」と「こころが健全になること」は完全にイコールの関係なのでしょうか。お父さんが邪魔者扱いされなくなったのは、仕事をするようになったからなのでしょうか。

「亭主元気で留守がいい」

 かつてこんな言葉が流行しました。四六時中一緒にいて息が詰まった奥さんが、ただ単にそこから解放されただけということも考えられます。

 毎日定期的に外に出ることで、震災前の生活リズムを思い出し、前もこうだったという安心感が得られたことも無視できないのではないでしょうか。

働かないという人がいてもいい

「誰もが最低限の生活を送るために、すべての国民に最低限の収入を補償する」

 これはベーシックインカムの考え方で、ここ数年、議論が行われるようになりました。

「最低の生活ができることで、人は安心して本当に自分がやりたい仕事に挑戦できる」
「仕事をしたくてもできない人の所得補償になり、人が最低限生きていくためのセーフティーネットができる」

 肯定的な意見がある一方で、このシステムに危惧を表明する人もいます。

「所得が補償されてしまうと、生活レベルを下げて働かなくていいと考える人が増えてしまう。仕事に対するモチベーションが下がり、労働人口の減少に拍車がかかる」

 倫理上の問題も指摘されています。

「いくら生活レベルを落とすとはいえ、他人が払った税金に頼って暮らす人がいていいのか。働かないことで、こころが荒んでしまうのではないか」

 こうした倫理面からの指摘に対して、働かなくていいなどと考える人はいないと主張する勢力もあるといいます。

 その人たちの言い分は、人は誰かの役に立ちたいと考えるはずだから、仕事をしないで自分のためだけに生きる人はいないというものです。

 しかし私は、働かない生き方を選択する人もいるのではないかと思います。極論すれば、仕事をしないで自分のためだけに生きる人がいても構わないと思います。

 仕事をするにしても、人は、必ずしも人の役に立ちたいという動機づけがあるわけではないと考えているのです。

仕事を生きがいにしない人がいてもいい

 以前勤めていた大学の同僚の先生が、なかなか就職が決まらない学生にこんな助言をしていたのが印象的でした。

「やりたい仕事が見つからないなら、5時で終わる仕事を探しなさい。それから寝るまでの間は好きなだけ趣味に没頭できる。むしろそっちが生きている時間なんだから、最低限のお金を稼ぐだけの仕事を探すことも考えてみなさい」

 当時は、すでに「自分らしく働こう」などと言われていた時代です。学生たちは「そんな仕事なんかないよ」と落ち込んでいましたから、先生の言葉に救われたようです。

 もっと言えば、好きなことも特にない、かといって仕事も好きではない、そんなにガツガツ働きたくないという人もいると思います。

 そんな人が、無理やり好きな仕事を見つける必要があるのでしょうか。

 仕事は、一義的には食べていくための手段です。飢えずに生きるために働くという考え方を否定できるものではありません。

 人生で最大の目的は趣味を極めること。仕事はそのために必要なお金を稼ぐための手段にすぎないという考えも、私は否定しません。

 仕事が好きでもなく、仕事を生きがいにもできないけれど、それでも仕事をしている人は大勢いると思います。それらの人を「生きがいをみつけていない」とみなす風潮があれば、そちらの方が人の自由を奪ってしまう発想に思えてなりません。

仕事を自己実現の手段と考えない人がいてもいい

 かりにベーシックインカムのような制度ができ、最低限の生活を受け入れて、働かない生き方を選択した人がいれば、その人はこころがタフなのかもしれません。

 周囲からの評価を気にせず、好きなことをしている自分を受け入れられる。周囲から「それでいいの?」と言われても「いいんだよ、オレは」と言える。自尊心が傷つくこともない。これは揺るぎない自己を持っていないとできないことです。

 もし「周囲は働いているのに、働かない私はダメな人間だ」と自尊心が傷ついてしまうようなら、働いたほうがいいと思います。

 だからといって働かない人を排除する必要もないし、仕事が好きになれないからといってダメな人間だと烙印を押す発想も、社会を貧しいものにしてしまうでしょう。

 人の役に立っていると感じられなくても、仕事に生きがいを感じられなくても、人は仕事をすることで満足していいのではないでしょうか。経済活動に貢献していなくても、その人の価値が下がるわけではありません。

 働かなくても生きていける社会は、何らかの理由で自分が働けなくなったときに安心できる社会でもあるのです。働かない人を徹底的に排除する社会より、そのほうがよっぽど豊かな社会だと言えるのではないでしょうか。

 もちろん働くことに喜びを見出すことができる人は幸せでしょう。

 しかし、見つけられないからといって責められるわけではないのです。

 仕事をすることの到達点が自己実現だと言う人がいます。そこに到達するためにつらい仕事にも耐え、あるいはつらいと考えることさえ否定してしまいます。

 しかし、仕事で自己実現しなければならないということでもないのです。

 仕事の目的が自己実現という考えがスタンダードになると、万が一自分が働けなくなったとき、社会のどこにも身の置き場がなくなってしまいます。

「最低限の生活保障をもらって働かない」
「自己実現の手段としての仕事を通じて人の役に立ち、世界を変える」

 この二つを両極だとすれば、その中間にいるのも悪くないのではないでしょうか。

[DIAMOND ONLINE]

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Posted by nob : 2011年11月29日 15:38