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こだわりを表現することばかりでなく、、、ふつうであることすらも表現が必要に。。。

■香山リカの「ほどほど論」のススメ

いまや社会は、
自分のこだわりを表現することが美徳となった?

こだわっている自分をアピールできる趣味をもたなければならない?

 趣味をお持ちですか?

 皆さんはこう問われたとき、人に言えるような趣味がないと焦りや気恥ずかしさを覚えてしまうことはないでしょうか。

「仕事、家事などに追われる毎日でも、趣味を持たなければいけない。趣味がない自分は人生をイキイキと生きていないのではないか」

 そんな強迫観念にも似た感覚に駆られ、仕事や家事以外の「私生活」を充実させることに血道をあげようとする人が多いように見えます。

 よくよく話を聞くと、どんな人でもそれなりに楽しい時間を過ごしています。

 しかし、それなりに楽しい程度では趣味とは言えず、刺激的で非日常的な楽しさを満喫できてこそ趣味と言えると思ってしまっているようです。

 しかも趣味のなかでも、人に誇れる「特殊性」も求められています。

 かつて履歴書の「趣味」の欄に書かれていた「音楽鑑賞」や「映画鑑賞」は、現代では趣味として凡庸に思われてしまっているのです。

 私の診察室に来る患者さんに、印鑑を彫る「篆刻」や植物の根を丸くしてその周りに苔を貼る盆栽の一種「苔玉」を趣味にしている人がいます。

 それなりに楽しんでいるようですが、一方では息苦しさも感じているといいます。

 最初は気晴らしだったのに、より洗練されたマニアックな趣味にしなければならないと仕事以上に厳しい姿勢で臨むようになった。やるからにはとことん追求し、どうせ趣味なんだから適当でいいやといういい加減な姿勢は許さない。

 自分に対する要求水準が高く「こだわり」を持たないと気が済まない。そしてそれを他人に認めてもらうことまで追求するあまり、ストレスを溜め込んでいるのです。

生活のすべての場面でこだわりを見せなければならない現代人

 現代人は、日々の生活で何かを選択するとき、付加価値や物語や理由づけをして「自分らしさ」を表現しないと気が済まなくなっているのかもしれません。

 最近のコーヒーショップの注文形態がまさにそれでしょう。

「ミルクではなく豆乳で」「ホイップクリームは多めに」

 お仕着せの商品であるにもかかわらず、そこに自分のこだわりを入れて「私仕様」のオーダーメイドにする。しかもそれを「符号」で言えるようになればより格好いいとされています。

 ランチひとつとっても同じ発想です。白米ではなく体に良い五穀米にしよう。昨日は肉を食べたから今日は魚にしよう。それも青魚で。面倒くさいから近所の弁当屋さんで済ませるというのは、こだわりのない格好悪いことだというのです。

 以前から、何かひとつにこだわりを持った人はいました。

 テレビの仕事でご一緒するプロデューサーの方は、服装に関するこだわりがものすごく強く、頭のてっぺんから足の先までこだわって選び抜いた末に買うそうです。

 自分の好きなことにこだわりをもつことは何ら不自然ではありません。むしろ、だれしもこのようなこだわる部分はもっているかと思います。しかし、自分の生活すべてにこだわりをもつ人はそんなにいないのではないでしょうか。

 事実、このプロデューサーの方は、食べ物に関してはまったく無頓着で、食べられる物であれば何だっていいとよくおっしゃっています。

 それなのに、昨今は、生活のすべてにこだわりがないと、「自堕落」「投げやり」だと受け取られるようになっているのかもしれません。

 ちなみに私自身は、ランチなど給食のような選べないスタイルが好きです。服装も制服を着るような仕事だったら、どんなに楽なのにと思ってしまうほど、こだわりのない「自堕落」ぶりです。

 その原因のひとつとして考えられるのは、ツイッターやブログの浸透です。

 こだわっているものを公開するのか、公開するからこだわりを持たなければならなくなるのか、どちらが先かは定かではありません。

 しかし多くの人が「自分」を発信しているいま、他人に見せる範囲において、こだわりを持つべきだという風潮があるように思えてなりません。

自分のこだわりを公開することが求められている

 スマートフォンのなかには、ツイッターと連動して自分がいま聴いている音楽をリアルタイムで公開するシステムがあるそうです。

 公開するからには「コイツ、センスいいよね」と思わせたい。常に他人の予測を超える選曲を強いられ、とても「格好悪い」音楽など聴けません。これは、想像以上にたいへんなことだと思います。

 統合失調症のひとつの症状に「テレビ体験」というものがあります。

 これは、自分のことが常に見られていて、それがテレビを通じて全国に流されていると妄想してしまう症状です。

 私はこうした症状に苦しむ患者さんを見てきたので、ツイッターやブログで自分の私生活のすべてを公開する行為に驚きを抑えきれませんでした。

 最近、そのことについて学生と議論しました。彼らは、自ら主体的に公開しているツイッターやブログは嫌だったら自由に削除できるので、意図せず公開されてしまうこととは違うと言います。しかし…。

 現代社会は自分なりのこだわり、選択の理由づけを強く求めるようになっています。そのため、他人の目にさらされた場合どう評価されるかという意識で生活しなければならなくなっています。

 こだわりがないと格好悪い。こだわりを表現するよう常に意識的にすごす。自分の行動にはすべてに意味がある。ぼんやりしている時間などありません。

 私は、これが強いストレスになっているのではないかと考えています。
本当はこだわりなどなく、私生活を他人に公開などしたくなくても、周囲がみな公開しているからという強制感があると思うからです。

人に見せられない日かげの部分も人間としての魅力の一部

 昔の芸能人は、歌っているときや舞台に立っているときを除いて、プライベートを公開することはありませんでした。

 いまはすべてとは言わないまでも、ツイッターやブログで私生活を公開する歌手や俳優が多いようです。さらに、妊娠した、子育てをしているなど生き方そのものを公開することが仕事になっているタレントさんも数多くいます。

 一般の人も芸能人と同じように私生活を公開するようになっていますが、現代は生活のすべてを公開できる人生が健全だという風潮が強まっているように感じられます。

 しかし、人間はどんなにこだわりを持とうとしても、すべてにこだわりを持てるわけではなく、生活のすべてを人に見せようとしても、必ず人に見せられない時間は残ってくるものだと思います。

 それなのに、すべてがスポットライトを浴びる方向へ進もうとしているのが現代という時代のように思えてなりません。

 現実的に、それは不可能だと思います。

 人間には、日なたの部分がある反面、日かげの部分があって当然です。

 私はむしろ日かげの部分は必要だとさえ思っています。日なたと日かげの陰影があるからこそ、人は人としての魅力を包含することができると思うからです。

 現代は、日なたの部分だけをことさらに見せ合う社会になってしまったのかもしれません。そこでは、日かげの部分があってはならないという風潮が生まれています。

 もちろん、日なたの部分を自己演出するのはいいことだと思います。だからといって日かげの部分を縮小する必要はありません。

 日なたの部分を見せ合っているだけでは、人間の魅力を伝え合うことができないのではないでしょうか。

[DIAMOND ONLINE]

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Posted by nob : 2011年12月05日 23:31