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まずは何もしない何も持たない自らを受け容れることから、、、私はもう長く携わるどんな仕事にもパートナーを有しています、、、これは誰にでもできる真の平和への第一歩。。。
■「かけがえのない存在」にならなくてもいい。
「代えのきく」人になろう
かけがえのない存在にならないと価値がないのか
いま、かけがえのない存在になる生き方を目指そうという風潮があります。
確かに、家族にとっての自分、恋人や友人にとっての自分など、プライベートの局面ではそうした考えに同意できる部分があります。しかし、仕事とは分けて考える必要があるのではないでしょうか。
仕事の局面でかけがえのない存在になることは、確かにその時点ではハッピーかもしれません。しかし、長期的に見た場合、かけがえのない存在だけで成り立っている職場は自分にとっても組織にとってもやっかいなことが出てきます。
たとえば、会社にとって非常に苦しい事業を誰かひとりが3年間かけてどうにか立て直したとします。その過程でほかの人の支援や協力を得られていなければ、引き継ぎたいと思う人も出てこないでしょう。結果的にその事業から離れられなくなり、ほかの部分に発揮されたであろう能力を無駄になってしまいます。仮に誰かが引き継いだとしても、再びうまくいかなくなる可能性も否定できません。
先ほどプライベートは別と言いましたが、人生は何が起こるかわかりません。自分にとってかけがえのない家族が亡くなった場合、残された家族の悲しみは計り知れません。とはいえ、もう生きていけないということになってしまっては困るのです。
いま、社会や誰かにとっての「かけがえのない存在」になることこそ、生きる意味や自己実現の賜物と思う人が増えているのではないでしょうか。かけがえのない存在であるかどうかを確認できないといって深く悩む人も多くなっています。
しかし、かけがえのない存在になるという考え方そのものが「作られた感覚」のように思えてならないのです。社会における自己の確立とかけがえのない存在になることが、同義語のように語られているのではないでしょうか。
かけがえのない存在になることは自己陶酔か
ビジネス書の世界では、新入社員に向かって「なくてはならない存在になれ」と語られています。しかし、その人がいないと仕事が回らないという状況になったとしたら、息苦しさが募り、生きるのがしんどくなってしまうと思うのです。
大組織の会社ではなく、小さな個人商店ではそういう人が現実に存在します。
うつ病になってしまったその人は、仕事を休んだほうがいい状態でした。でも、その人は絶対に休めないといいます。
「いまは肉体的には大丈夫ですが、急に盲腸になったりしたらどうするのですか?」
そう尋ねても、患者さんは絶対に無理だと繰り返すばかりです。
「私がいないと、従業員は何もできないのです。お金の計算ひとつとっても、満足にできないのが現状です」
結局、その患者さん自身が、自分がいないと業務がまったく進まないシステムを作り上げてしまったのです。現実にはこの患者さんは会社にとってかけがえのない存在になっていますが、患者さんにとっても従業員の方にとっても、これが望ましい姿だとは思えません。この例では、かけがえのない存在になるということが自己陶酔につながっているように見えてしまいます。
かけがえのない存在になることは
美学ではない
かつては、かけがえのない存在になることが美学になっていた時期があります。
最近になって、雑誌アエラでもそれに関する特集が掲載されました。テーマは「親の死に目と仕事」です。
企画の発端は、フィギュアスケートの浅田真央さんのことだったようです。お母さまが危篤状態になったという連絡を受けた真央さんは、国際大会を棄権してお母さまのもとへ急いで駆けつけました。その行動に対して、賛否両論が湧き上がったのです。
「ほかに出たくても出られない人がいるなかで選ばれて参加したのだから、最後まで大会にとどまるべきだった」
「国を代表して派遣された選手なのだから、日本代表としての責任を全うすべきだった」
「いや、世界に2人といない大切な母親が危篤なのだから、ひとりの人間として日本に帰ったのは支持したい」
私の知り合いにこの話しをしたら「親の死に目に会えなくても仕事を続けるべきだ」という考えの人がいます。しかし、その一方では「親の死に目に会えなくても続けなければならないような仕事が果たしてあるのだろうか」という意見もありました。
結局、「本人の自己満足なのではないか」という意見が大勢を占めることになりました。よく考えれば、その人が1日や2日休んだからといって、それで破滅的な事態に陥る仕事などそれほどないのではないでしょうか。
「代えのきく存在」でも社会貢献はできる
現在の就職難の時代、どの会社でもいいと考える学生が増えてきました。
しかし、あるときまでは自分の好きな仕事、自分にしかできない仕事、生きがいを感じられる仕事を求める傾向が強く残っていました。
かけがえのない存在になろうとこだわるあまりチャンスを逃し、入社3日目にして「私の居るところじゃない!」と辞めてしまう若者があとを絶ちませんでした。
関西のある葬儀会社の社長さんと対談したときに聞いた言葉が印象的でした。
「私の会社に入ってくる学生は、誰ひとり第1希望ではありません。ほかに希望していた会社に落ちた学生がさしたる関心も持たずに入ってきます。最初はみんなしょんぼりしているのですが、仕事をやり始めると人に感謝され、礼儀も身につき、社会生活を送るうえで非常に役立つということを感じるようになると、この会社に入って良かったと言う若い者が多いのですよ」
社長さんの言う通り、その世界に身を置いてこそ良かったと思えることは、人生において多々あるのです。
地位が人をつくるという言葉もあります。
ある組織のトップが辞める事態になったとき「あの人がいなくなったらこの組織は終わりじゃないか」と考えてしまう人は多いと思います。
しかし、実際にはトップの陰に隠れていたナンバー2が頭角を現し、改めてナンバー2だった人の能力の高さに気づかされる経験をしたことはないでしょうか。ナンバー2だった人は、トップがあまりにも強かったせいで、活躍する機会を得られなかっただけなのです。組織というものは、多くの人が想像する以上に図太いものです。
以前のコラムで突出した個人がひとりで組織を支えるよりも、システム化された組織を作ったほうが社会としては健全なのではないかと書きました。
かけがえのない存在を目指すのも悪いことではありません。ただ、代えのきく存在として人生を生きることも、十分社会に貢献していることになるのです。
[DIAMOND online/香山リカの「ほどほど論」のススメ]
Posted by nob : 2012年03月12日 07:35