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貴方がいるからこそ貴方の隣のエースもいる、、、この世のすべてはお互いに因となったり縁となったり繋がり合い支え合っている。。。

■「オレって必要?」 誰もが存在意義を自問する社会の“異常”
意義を感じさせる周りの一言が生きる力を取り戻す契機になる
河合 薫

 3月が間もなく終わる。あっという間だ。毎年、この月になると「書こう」と思いながら、どう書いていいのか悩むテーマがある。今年も、書こうか、書くまいか悩みながら、とうとう最終週になってしまった。

 で、こんな前置きを書いているのだから、今年は書くつもりだ。はい、書きます(前置きが長くてすみません)。

 テーマは、「存在意義を感じられない時」について、である。

 今から3年前。社会人を対象とした講座を持っていた時に、受講生だった方が話してくれた内容からお話ししよう。その男性は、当時45歳。某証券会社に勤め、役職は課長だったと記憶している。

 「課長に昇進して最初に任された職場で、部下が自殺したんです。私よりも3つ年下で、仕事もマジメにやるし、後輩の面倒見もいい穏やかな男性でした。あまりに突然の出来事で、自分も、会社も、彼のご家族も、ただただ驚くばかりでした。なぜ、彼が死を選ぶほど追い詰められていたのか? 必死に考えましたけど、思い当たることがない。本当に、何も思い当たることがなかったんです」

 「周りの社員たちに聞いても、悩んでいるようには見えなかったし、ふさぎ込んでいる様子もなかったと言う。だから余計に、なぜ死んでしまったのか、自分は彼に対して、何かしてしまっていたんじゃないか、と。考えれば考えるほど分からなくて。どうすることもできない自分に、はがゆさと後ろめたさをずっと感じていました」

後で気づいた部下の言葉の重み

 「で、彼が亡くなって随分とたってから、ある会話を思い出した。飲みに行った時に彼が、『自分がいなくとも、仕事って結構、回るんですよね』ってボソッとつぶやいたことがあったんです。当時、私は課長になり立てで、課長という立場になかなかなじめず、結構、悩んでいたので、『課長がいなくとも、チームは回る。そういうチームを作ることができれば、リーダーとしては成功なんだろうね』と、彼の言葉をそのまま自分に置き換えてしまったんです」

 「でも、あの時、彼はひょっとすると、自分の存在意義を感じられずに悩んでいたんじゃないか、と。もし、僕が『たとえ仕事は回っても、キミがいなくなったら僕は困る』と彼に言っていたら、もっと違う結末になっていたんじゃないかって。彼がいなくなってから、私も会社でいろいろとありまして、自分の居場所というか、自分の存在意義を感じられない経験を何度かしました。それで、やっと彼の言葉の重さに気づきました」

 男性によれば、部下の自殺の原因は最後まで分からなかったそうだ。当初、会社は社内で何らかの問題があったのではないかと考え、彼も含め関係する社員たちへのヒアリングが繰り返された。独身だったことから、「仕事に原因がある」と多くの人が考えたそうだ。

 一般的に、自殺に至る原因は複数あると言われており、それぞれが時に複雑に絡み合う。遺書などがあれば、原因を推察することも可能だが、彼の部下のケースでは、遺書はなかった。「発作的に死を選択した」という感じでもなかった。

 だから余計に、部下の死に上司の彼は苦しんだ。自分も何かしら彼を苦しめていたのではないか? 自分は彼のサインを見逃していたのではないか? 時間がたつにつれて、彼の死を意識的に忘れようとしている自分に苦悩したそうだ。

 そして、やっと部下の死を受け入れることができるようになり、私の講義を受けようと思ったのだという。「ストレスで成長しよう!」というタイトル見て、「自分を追い詰めるばかりではなく、成長につなげたい」。そう思ってくれたそうだ。

 自分がいなくても、誰も困らない――。

 そんな思いに駆られることは、誰にでもある。私にも、過去に何度もあった。

 特に、自分の方向性も、自分の立場も曖昧だった30代の時には、幾度となく「自分の存在意義」が感じられずに、もがいたことがあったように思う。

 「あの時、あの場所で」などと、具体的に思い出すことはできないのだが、自分がそこにいるのに、いないような。周りにも人がたくさんいて、決して孤立しているわけではないのに、なぜか心の中で孤独を感じる。そんな感覚に、幾度となく陥った。

 その空虚な“瞬間”を感じ取るのは、ささいなことがきっかけだったりもした。

 例えば、自分だけ忘年会の日取りを知らなかったり、自分だけ新しいプロジェクトの話を聞き逃していたり。あるいは、会議で誰とも目が合わない、いやいや、ホントは目くらい誰かと合っているのだろうけど、その場の空気が、なぜか自分だけを排除しているような。

 うまく言葉で表現できないけれど、自分だけみんなと同じ空気に包まれていないような、そんな微妙な感触である。

誰もが求めている「今ここに自分がいる」意味

 自分の存在意義が感じられないことほど、虚しいものはない。「死にたい」と思ったことはなかったけれど、「いなくなったらどうなるんだろう」くらいのことは、幾度となく考えたことはあったように思う。

 「あったようにも思う」なんて言い方は、まるで人ごとのようだと思われてしまうかもしれない。けれども、リアルタイムでは「深刻な問題」と思っていたことが、時間の経過とともに、大したことではなくなったりするのはよくあること。大した問題ではなかったことへの記憶は薄れ、「あったような、なかったような」感覚しか、今は思い出せないのだ。

 いずれにしても、30代の私は「自分の存在意義」を感じることに飢えていた。40歳を過ぎてからも、30代の時ほど頻繁ではないものの、「自分の存在意義」を無性に確認したい欲求に駆られることがある。

 そして、恐らく、この欲求はこの先もなくなることはない。たぶん私と同じように、この世の誰もが例外なく、「自分の存在意義」を求めているのではないだろうか。

 たった1人でいいから、「自分の存在」を認めてくれて、「キミがいて良かった」「キミがいないと困るよ」と言ってほしい。「今、ここに自分がいる」ことを、他人を通じて感じたいのだ。

 なぜ男性の部下は、自殺という悲しすぎる決断に至ったのか?

 その答えは、最後まで分からなかったと言っていたが、「死」を選択したのではなく、ひょっとすると、男性が指摘するように、自分の存在意義を見失っていたことで、生きようとする力までもがうせてしまったのではあるまいか。いや、これはあくまでも私の勝手な推察なので、どうか受け流してほしい。

 ただ、「自分がいなくても、誰も困らない」――。その思いから抜け出せず、自分の存在意義を感じられない状況で生きるのは、実にしんどい。

 「自分の存在意義」を感じられないままでは、前に進む気力は次第に失われていく。

 以前、自殺対策のシンポジウムに参加させていただいた時に、子供の自殺問題に取り組む専門家の先生が、次のように話していた。

 「子供たちは、大人社会の縮図です。自殺を選択する子供の、誰1人として『死にたい』から死ぬ子供はいない。本当はみんな生きたいんです。でも、自分の存在意義が感じられないから、生きている意味がないと思う。自分がこの世からいなくなっても、誰も困らないから、生きていたいけど、生きていても仕方がない。そう思って命を落とすんです」

  「今の世の中、マイナス評価だらけで、子供たちの父親も母親も、無意識に子供に対してもマイナス評価しかしていない。子供たちは、たった一言、『頑張ったね』って認めてもらいたいだけなのに、『なんでこれができないの? なんであれができないの? なんでもっと頑張れないの?』とマイナス評価しかされない。親の期待通りに頑張れない自分はいらないんだと子供は感じ、自分の存在意義を見失っていくんです」

大人も子供も自分の存在意義を感じられない社会

 大人も子供も、自分の存在意義を感じられない社会って、何なのだろうか? 頑張るって、何? 期待に応えるって何なんだ? ただただ、「自分がここにいる」ことを感じたいだけなのに…。それだけじゃダメなんだろうか?

 「有意味感(sense of meaningfulness)」──。これは人間の生きる力で、半歩でも一歩でも前に進もうという、モチベーション要因となる感覚を示した概念である。

 有意味感が高いと、「ストレスや困難は自分への挑戦で、これらに立ち向かっていくのに意味がある」と考え、前向きに対処できる。どんな困難であろうとも、どうにかして前に進んでいこうと、生きる力が引き出される。ストレスの雨に対峙する傘を引き出すためのモチベーション要因となるのが、有意味感という感覚なのだ。

 「意味がある」という感覚は、自分がやっていること、自分が携わっている仕事などに向けられることもあれば、自分の存在意義そのものに向けられることもある。

 自分の存在に意味があるという感覚を持てれば、自分のやっていることにも意味を見いだすことができる。自分のやっていることに意味があるという感覚を持てれば、それに取り組んでいる自分自身に対しても意味を見いだすことができる。つまり、この両者は、鶏と卵のような関係にあるのだ。

ホームレスの男性が涙を流した一言

 随分と前になるけれど、テレビ番組でホームレスの方のドキュメンタリーをやっていたことがあった。その中の1人の男性が、公園の清掃員の仕事を1日やることになった。男性は淡々と仕事をしていたが、通りかかった人がある言葉を投げかけた瞬間、突然に泣き出した。無表情だったその男性の顔が、急に穏やかな表情になり、目を真っ赤にして涙を流したのだ。

 「ご苦労さま」

 そう一言、声を掛けられただけだった。番組の最後でディレクターから、「なぜ涙したのか?」と聞かれたその男性は、次のように答えた。

 「自分に『ご苦労さま』と声を掛けてくれた。あんなのは初めてだった。自分の存在に気づいてもらえたのが、うれしかったのかもしれません」と。

 少しばかり大げさな言い方かもしれないけれど、人間というのは、「あなたがそこにいるってこと、ちゃんと分かっていますよ」というメッセージを感じたくて、生きているんじゃないか、と思ったりもする。

 だって、自分の存在意義を感じることができると、それだけで生きる力がわいてくるし、モチベーションが高まったりもする。自分のやるべきことが、自分の進むべき方向が見えてくることだってある。自分の存在意義さえ感じられれば、大変なことに遭遇しようとも、どうにか踏ん張れる。

人間は他者を通じて自分の存在意義を見いだそうとする

 ただ、人間というのは、実に厄介な動物で、他者のまなざしを通してでしか、「意味を見いだす」ことができない。いや、正確に言うと「できない」わけではなく、苦手なのだ。自分と向き合うことを、何よりも恐れる人間は、ついつい他者を介して自分を見ようとしてしまうのである。

 言い換えれば、有意味感は、「あなたは大切だ」「あなたがそこにいることは、ちゃんと分かっていますよ」という価値あるメッセージを他者から繰り返し経験すれば、形成されていく。

 3月は、「自殺対策強化月間」である。政府は今年、「AKB48」をもじって、「GKB47(gate keeper basement)」なる文言をキャッチフレーズにした。そのことでひんしゅくを買い、印刷済みのポスター25万枚は回収・廃棄して作り直し、関連経費約300万円が無駄となった。そんな話題ばかりが注目されてしまったわけだが、昨年も3万651人もの人たちが、自ら命を絶った。

 1年間の自殺者が3万人を超えたのは1998年のこと。それ以降で昨年の自殺者の総数は最も少なかったが、14年連続で3万人を超えている状況は、どう考えても健全な社会とは言い難い。

 年齢別では60代が5547人で最も多く、全体の18.1%を占めた。次いで50代(5375人)、40代(5053人)の順となっている。

 ただし、全体に占める割合こそ決して高くはないけれど、19歳以下が前年に比べ12.7%も増え、622人となっていることは特筆に値する。統計を取り始めた1978年以降、初めて「学生・生徒」が1000人を超えて、1029人に上った。

 学生や生徒たちも大人同様、自殺に至る原因は1つではない。家庭不和、貧困、友人との不和、いじめ、異性問題、健康問題など、いくつかの要因が背後にあるとされている。

誰もが価値あるメッセージの送り手になれる

 だが、いかなる問題が複雑に絡み合っていようとも、もし、彼らが「自分が存在する意味」を感じることができれば、生きる力を失うことだけは防げるのではないだろうか。

 「あなたのこと、ちゃんと分かっていますよ。あなたは大切な人ですよ」――。そんなメッセージが、ゲートキーパーの役目を担ってくれるのではあるまいか。

 もちろんそれだけですべてが解決されるわけではない。彼ら、彼女らを取り囲む“負の要因”を解決できる社会を目指して作り上げない限り、根本的な問題は解決しない。

 でも、「ホントは生きたい」と願いながら、生きる意味を見失っている人が目の前にいた時、私たちの誰もが価値あるメッセージの送り手にはなれる。自分の存在意味を感じ取るための傘には、十分になれるかもしれないのだ。

 「自分はなぜ、その一言を掛けてあげられなかったのか」と悔やむ冒頭の男性の気持ちを考えると、私も掛ける言葉が見つからなかった。だから、ずっと書けなかった。彼の気持ちを考えると、どう書いていいのか分からなかった。

 でも、今回は書くことにした。もし、その言葉を、これを読んでくれた方がどこかで思い出してくだされば、みなさんの周りで「自分の存在意義」を求めている人に、みなさんがメッセージを送ることができるかもしれない、と思った次第である。そして、もし、これを読んでくださった方の中に、「自分の存在意義を感じられない」ともがいている方がいたならば、今回のコラムが何らかの傘になればいいのですが……。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2012年04月02日 06:45