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人は望まない限り幸福にはなれない、、、だから幸福を欲しなければならない、、、そして幸福を作り出さなければならない。。。
不幸になることや不機嫌になることはむずかしくない。楽しませてもらうのを待っている王族のように、ただ座っていればよい。幸福を待っていて品物のように値踏みする人には、すべてのものが退屈に見えてしまう。こういう人は、さし出されたものに片端からけちをつけるだけの権力を持っていて、威厳だけはたっぷりある。だがそこに焦りや怒りも潜んでいるのを、私は見逃さない。子供が花壇を作るように、ほんの少しのものから幸福を作り出す術を知っている人々への焦りと怒りである。
こういう人たちから、私は逃げ出そう。自分から退屈している人を楽しませることはできないと、経験からよく知っているからだ。
一方、幸福は見るだけでもすてきだ。幸福ほど目を楽しませてくれるものはなく、とりわけ子供を見ているのは楽しい。それにしても、子供というものはどうしてあれほど遊びに夢中になれるのだろう。それに、誰かに遊んでもらうのを待ったりはしない。たしかに、機嫌の悪い子はふくれ面をするし、どんな楽しみにもそっぽを向く。だがありがたいことに、子供はすぐ忘れる。ところが誰でも知ってのとおり、いつまでも拗ねている「大人子供」もいる。
なるほど立派な理由があることはわかる。幸福でいるのはいつだってむずかしい。いろいろなこと、いろいろな人と戦わなければならないし、負けてしまうこともある。ストア学徒のような賢者にだって、乗り越えられない災難や打ち克てない不幸は必ずあるのだ。だが全力で戦ってからでなければ、けっして負けたと言ってはいけない。たぶん、これほどわかりやすい義務はあるまい。
さらに私にとってとりわけはっきりしているのは、人は望まない限り、幸福にはなれないということである。だから、幸福を欲しなければならない。そして幸福を作り出さなければならない。
愛されることは幸福な人に与えられるべき報償
幸福であることは、他者に対する義務でもある。このことは、十分に語られてきたとは言えない。幸福な人しか愛されないとは言われるけれど、愛されることが幸福な人に当然与えられるべき報賞であることは、忘れられている。私たちが呼吸する大気には、不幸や憂鬱や絶望が満ちている。だから、この有毒な空気を分解し、颯爽と手本を示して言わば社会を浄化してくれる人には、感謝と月桂樹の冠を捧げなければいけない。
こう考えれば、幸福になるという誓いは、愛の中で最も重いと言えるだろう。愛する人の悲しみや不幸や憂鬱を乗り越えるのは、何よりもむずかしい。幸福は、つまりここで言う自らのために勝ちとる幸福は、最高にうれしく、だから最高に気前のいい贈り物である。男も女も、いつもこのことを考えていなければいけない。
幸福を決意した人々には市民勲章を授けたらよい
私はさらに一歩進めて、幸福でいようと決意した人々には、何か市民勲章のような報賞を授けたらよいとさえ考えている。と言うのも、私の見るところ、あのたくさんの死骸や廃墟を生み出し、ばかげた浪費や先制攻撃を仕掛けたのは、けっして幸福になれない連中だったからだ。しかもこの連中は、幸福になろうとする人々に我慢ならなかった。
子供の頃の私は相撲取りタイプで、腕っ節は強いが動きがのろく、かなり鈍感だった。だからよく、神経質でやせ細った身軽な連中から馬鹿にされ、髪を引っ張られたりつねられたりしたものである。けれども、最後はいつも私が本気の一発をお見舞いしてけりがついた。
いまでも、戦争を予告し準備する醜い小人に気づいたら、私はけっして彼らの言い分など詮索しない。人々が平和に暮らすことが我慢できない性悪な小人のことは、もう十分に知っている。私から見れば、平和なフランスも平和なドイツも、一握りの悪童にいじめられて最後はかっとなってしまう頑丈な子供と変わらない。
[アラン幸福論/日経ビジネス]
Posted by nob : 2012年09月06日 22:51