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原発の問題の本質。。。

■なぜ、私は総理に「脱原発依存」を進言したのか
政治は“博打”ではない。重要なのは「政策の戦略的自由度」
田坂 広志

 東京電力福島第1原子力発電所の事故から2年。日本のエネルギー政策は、今も混迷の中にある。日本のエネルギー政策はどこへ行こうとしているのか。福島第1原発事故の際に内閣官房参与として事故対策に取り組んだ田坂広志氏(多摩大学大学院教授)が、原発を中心とするエネルギーの様々な問題について、インタビュー形式で答えていく。

 総理の特別顧問である内閣官房参与の立場にあった田坂氏は、なぜ総理に「脱原発依存」の政策を進言したのか。事故から2年が経過した今、改めて真意を語る。

2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原子力発電所事故から2年が経ちました。

 この事故直後の3月29日、田坂教授は原子力の専門家として、当時の菅直人総理から協力を要請され、内閣官房参与に就任し、原発事故対策に取り組むとともに、原子力行政改革、原子力政策転換にも取り組まれました。

 2年を経て、改めて伺いますが、原発を推進する立場にあった田坂教授が、なぜ、菅総理に「脱原発依存」の政策を進言されたのでしょうか?

 当時、官邸にいた政治家や官僚の方々からの話では、菅総理のこの政策転換は、田坂教授の進言が大きな影響を持ったと伺っていますが。

「脱原発依存」の政策進言に込められた真意

田坂:たしかに、2011年7月13日に菅総理が行った原発政策転換の記者会見に向け、私自身、総理に「脱原発依存」の政策を強く進言したことは事実ですが、この2 年間の報道を見ていると、多くの政治家、官僚、財界、メディアの方々が、誤解をされているようなので、改めて、私の真意をお伝えしておきたいと思います。

 私が菅総理に進言したのは、たしかに「脱原発依存」の政策ですが、その本当の意味は、「原発に依存しない社会」を目指す、という意味ではなく、「原発に依存できない社会」が到来する、という意味でした。

 すなわち、福島原発事故の後の社会状況と国民意識の変化を見るならば、たとえ「原発を推進したい」と考えても、不可避的に、「すべての原発を止めざるを得なくなる」と考えたからです。

 そして、不可避的に、この「原発に依存できない社会」が到来するならば、それに向け、いち早く、「脱原発依存」の政策と「国家エネルギー戦略」の政策を準備すべきだと進言したのです。

なぜ、「すべての原発を止めざるを得なくなる」と考えられたのでしょうか? 多くの国民が「原発は極めて危険なものだ」と感じたからでしょうか?

田坂:いえ、そうではありません。問題の本質は、「原発の安全性」ではないのです。

 なぜなら、たとえ「絶対に事故を起こさない原発」が開発され、多くの国民が「原発の安全性」について納得をしたとしても、このままでは、原発は止めざるを得なくなるからです。

なぜ、「原発の安全性」が確証できても、原発は止めざるを得なくなるのでしょうか?

田坂:「核のゴミの捨て場」が見つからないからです。

 専門的な表現をすれば、「核廃棄物」、すなわち、「使用済み核燃料」や「高レベル放射性廃棄物」の最終処分の方策が見つからないからです。

 そして、この「核廃棄物」の最終処分の方策が見つからないかぎり、仮に、いかに原発が安全であったとしても、いかに原発が安価であったとしても、早晩、すべての原発は止めざるを得なくなるのです。

 実際、全国の原発サイトにある使用済み核燃料の保管プールは、現在、平均70%程度の満杯率になっており、もし、すべての原発を再稼働した場合には、あと6年程度で、すべてのプールが満杯になってしまう状況です。

 また、青森県六ヶ所村にある再処理工場には、再処理する使用済み核燃料を受け入れる保管プールもありますが、これも、すでに満杯近くになっています。

専門家だから分かる「日本での地層処分」の難しさ

それは、再処理工場が稼働しないため、起こっている問題なのでしょうか?

田坂:いえ、そうではありません。たしかに、六ケ所村の再処理工場は、技術的トラブルが続き、これまで19回も計画延期になっており、現在も順調に稼働する目途は経っていませんが、それが本質的な問題ではありません。

 なぜなら、たとえ再処理工場が順調に稼働したとしても、「使用済み核燃料」が「高レベル放射性廃棄物」に形を変えるだけで、「核廃棄物」の最終処分の方法が見つからないという問題は、変わらないからです。

しかし、それらの核廃棄物は、日本においても、世界においても、地下深くの安定な岩盤中に埋設するという「地層処分」を行うことになっているのではないでしょうか?

田坂:たしかにそうですが、福島原発事故の後の社会状況と国民意識の変化を考えると、日本において「地層処分」を行うことは、極めて難しくなったと思います。

なぜ、田坂教授は、そう考えられるのでしょうか?

田坂:実は、私自身が「核廃棄物の最終処分」の専門家だからです。

 私は、まだ人類が原発の大事故を経験していなかった40年前、未来のエネルギーとして「原子力」に期待を抱き、その研究に取り組んだ人間です。

 そして、原子力エネルギーの利用を進めるためには、原子炉や再処理工場、高速増殖炉の研究も重要だが、最大の「アキレス腱」になるのは、「核廃棄物の最終処分」の問題であると考え、この問題を博士論文の研究テーマに選んだわけです。

 そして、学位を得た後は、日本の民間企業で地層処分の研究開発に取り組み、さらに、米国の国立研究所では、米国の使用済み核燃料の地層処分計画である「ユッカ・マウンテン・プロジェクト」にも参画し、核廃棄物管理に関する国際学会の議長も務めた専門家です。

 すなわち、私は、「反原発」や「脱原発」の立場からではなく、原発を推進してきた立場から、そして、「核廃棄物の最終処分」の専門家の立場から、福島原発事故の後の社会状況と国民意識の変化を見たとき、「もはや、日本で地層処分はできない」と判断したわけです。

なぜ、そう判断されたのでしょうか?

田坂:実は、「核廃棄物の地層処分」の問題の本質は、「技術的安全」の問題ではなく、「社会的受容」の問題だからです。

 分かりやすく言えば、この問題は、「地層処分が、技術的に安全か否か」という問題以前に、「地層処分を、国民が受け入れるか否か」という問題なのです。

 例えば、先ほど述べた米国の「ユッカ・マウンテン・プロジェクト」は、私が参画していた安全評価チームが、「この地域での地層処分は、十分に安全を確保できる」という報告書を出し、その結果、「ユッカ・マウンテンを最終処分場にする」という政府の決定が下されたのですが、その後、住民と国民の強い反対で、決定が覆されたのです。

 同様に、米国だけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどの各国も、政策的には地層処分を掲げていますが、私が研究を始めた40年前から今日に至るまで、どの国においても、地層処分計画は進んでいません。その最大の理由は、やはり「国民や住民の納得が得られない」という社会的受容の問題なのです。

 こうした海外の事例と経験を踏まえるならば、福島原発事故の悲惨を経験した我が国において、「核廃棄物の地層処分場」を受け入れてくれる地域を見つけ、国民の納得を得ることは、極めて難しいでしょう。

 実際、日本においては、「NIMBY心理」(Not in My Backyard:我が家の裏庭には捨てるな)が広がっているため、放射能汚染という意味では比較的軽微な汚染の「がれき」さえ、その搬入を拒む社会心理が生まれています。

 そして、この放射性廃棄物や核廃棄物の地域への搬入を忌避する社会心理は、これから、さらに深刻な状況になっていくでしょう。

福島原発事故で開いた「パンドラの箱」

なぜ、そう考えられるのですか?

田坂:「パンドラの箱」が開いたからです。

 すなわち、福島原発事故は、ある意味で、放射性廃棄物や核廃棄物という「厄災」が、次々に飛び出してくる「パンドラの箱」でもあるのです。

具体的には?

田坂:いま述べた大量の「がれき」と同時に、地域の除染作業に伴って発生している膨大な「汚染土」の問題があります。

 また、メルトダウンした原子炉の冷却に伴って毎日400トン発生している「汚染水」も膨大です。

 さらに、「汚染水」の浄化処理に伴って発生するイオン交換樹脂やフィルター、スラッジなどの「高濃度放射性廃棄物」が、まもなく深刻な問題になります。

 しかし、それでもこれらは、まだ「序曲」にすぎません。問題は、メルトダウンした三つの原子炉の解体と廃炉です。

 もとより、原子炉の解体に伴って膨大な「解体廃棄物」が発生しますが、それよりも深刻なのは、あの三つの原子炉は、世界に存在する放射性廃棄物の中でも「最も危険で厄介な高レベル放射性廃棄物」だということです。

 そして、数十年の歳月をかけて技術開発を行い、これらの原子炉を何とか解体し、廃炉にできたとしても、今度は、建屋の下の土壌と岩盤が、極めて深刻な放射能汚染をしているという問題に直面するでしょう。

さらに広がる「放射性廃棄物受け入れ忌避」の社会心理

なるほど。使用済み核燃料や高レベル放射性廃棄物の問題だけでなく、実に多くの問題が「パンドラの箱」から飛び出してくるのですね。

田坂:その通りです。しかし、残念ながら、前政権も、現政権も、この問題の深刻さと厄介さに気がついている方は、極めて少ないのです。

 それでも、現在、福島原発問題に責任を持つ安倍政権は、まもなく、この問題の深刻さと難しさに気がつかれるでしょう。

 なぜなら、これらの諸問題は、決して、「先送り」のできない、そして、「目を背ける」ことのできない、「目の前の現実」だからです。

 そして、今後、これらの問題が表に出てくるたびに、日本社会全体に「放射性廃棄物の受け入れ」を忌避する社会心理、「NIMBY心理」が広がっていくことになります。

 福島原発事故の後の社会状況や国民意識の変化を考えるならば、我が国において「核廃棄物の地層処分」を行うことは、極めて困難になったと申し上げるのは、そうした理由からです。

 私は、一昨年の事故直後に、専門家としてそうした判断をしていましたが、それから一年半を経た昨年9月11日に、我が国のアカデミアの最高権威である日本学術会議も、政府に対し、「現在の科学では、核廃棄物の地層処分の10万年の安全を証明することはできない。従って、現時点において、我が国で地層処分は行うべきではない」と正式に提言しました。

 この提言も、今後、現政権が核廃棄物の問題に取り組むとき、重くのしかかってくるでしょう。

なるほど。田坂教授が、「どれほど『原発の安全性』を高めても、いずれ『原発に依存できない社会』がやってくる」と言われるのは、それが理由ですね。

田坂:そうです。核廃棄物の問題を解決できないかぎり、原発は、遅かれ早かれ、必ず止めざるを得なくなります。

 昨年末の総選挙において、各党間で「原発ゼロ社会」を目指すべきか否かが議論されましたが、「原発ゼロ社会」は、目指すか目指さないかという「選択の問題」ではなく、このままでは「不可避の現実」なのです。

 従って、安倍総理が施政方針演説で、「原発ゼロ政策を見直す」ということを述べましたが、もし、将来において「原発を一定のレベルで残すべき」と考えるならば、単に「原発の安全性を確認する」だけでなく、「核廃棄物の長期的安全性を確保する」ということが不可欠の課題となるのです。

では、「核廃棄物の長期的安全性」を確保するためには、どうすれば良いのでしょうか?

田坂:そのことについては、すでに、この連載の第1回と第2回のインタビューにおいて、詳しく述べましたので、それを参照していただければと思います。(第1回「安倍新政権に立ちはだかる『核廃棄物』の壁」、第2回「安倍政権は核廃棄物管理の国際機関の創設を」)

「脱原発」の政策とは異なる「脱原発依存」の政策

そうですね。では、その考えに基づいて、田坂教授が当時の菅総理に進言された「脱原発依存」の政策と「国家エネルギー戦略」の政策は、どのようなものだったのでしょうか?

田坂:まず、「脱原発依存」の政策ですが、そもそも、この政策の意味を誤解されている方が多いので、改めて申し上げておきます。

 「脱原発依存」の政策は、「脱原発」の政策とは異なるものです。

 すなわち、「脱原発」の政策とは、「ただちに原発の利用を止める」ことを目指すものですが、私が総理に進言した「脱原発依存」の政策とは、「経済と生活に甚大な影響を与えないように配慮しながら、計画的・段階的に原発の利用を減らしていく」という政策です。

なぜ、そうした政策を進言したのでしょうか?

田坂:政治とは“博打”ではないからです。“一か八かの賭け”ではないからです。

 すなわち、「国民の生命と生活」に責任を持つ国家の政治においては、「恐らくこうなるだろう」という希望的観測や、「こうなってほしい」という楽観的願望で、一つの政策を決めるべきではないからです。

 言葉を換えれば、たとえ原発の推進に携わってきた私のような立場であっても、「これからも原発は、国民の理解を得て稼働していけるだろう」という希望的観測や、「何とか原発の利用を続けていきたい」という楽観的願望に立脚して、安易に「原発依存」を前提とした政策を採るべきではないのです。

 仮に、政府が政治的判断で多くの原発を再稼働したとしても、もし、明日、どこかの原発で何らかの事故が生じたときには、また、直ちに全国の原発を止めざるを得なくなる事態も、十分にあり得るからです。

 同様に、たとえ原発の廃止を希望する立場であっても、「これからは、自然エネルギーで電力需要を十分に賄えるだろう」という希望的観測や、「自然エネルギーが飛躍的に伸びると良いのだが」という楽観的願望に立脚して、簡単に「原発即時廃止」といった政策を採るべきではないのです。

 いま、「目の前の現実」を冷静に見つめるならば、「原子力エネルギーが、核廃棄物問題も含めた『安全性』について、国民の信頼と納得が得られるか」は、まだ分からないのです。

 そして、「自然エネルギーが、どれほど急速に普及し、社会の『基幹的』エネルギーになるか」も、まだ分からないのです。

 従って、現時点での「国家エネルギー戦略」の政策は、今後、どのような情勢の変化が起こっても対応できるような「柔軟性」、言葉を換えれば「戦略的自由度」を確保しておくことが、極めて大切なのです。

日本が取り組むべき「国家エネルギー戦略 四つの挑戦」

それが、2011年5月にフランスで開催されたG8ドーヴィル・サミットに向け、田坂教授が総理に進言した「国家エネルギー戦略 四つの挑戦」ですね。

田坂:そうです。このサミットには私も同行しましたが、総理は、日本がこれから取り組むべき、次の「四つの挑戦」について世界に表明しました。

1. 原子力エネルギーの「安全性」への挑戦
2. 自然エネルギーの「基幹性」への挑戦
3. 省エネルギーの「可能性」への挑戦
4. 化石エネルギーの「環境性」への挑戦

 すなわち、日本のエネルギーの「ベスト・ミックス」は、この「四つの挑戦」を徹底的に行った結果、その「現実」を踏まえて決まるものであり、「希望的観測」や「楽観的願望」に基づいて決めるべきではないのです。

 そして、特に、ここで誤解してはならないのは、原子力エネルギーの「安全性」への挑戦、という意味です。

 なぜなら、この「原子力エネルギーの安全性」とは、先ほど述べたように、単に「原発の安全性」だけでなく、「核廃棄物の長期的安全性」をも含んだものであり、このことを明確に理解するべきでしょう。

「原発の安全性」の本質は「制度的安全性」

 そして、「原発の安全性」についても、それは、単に「堤防を高くしました」「電源を多重化しました」といった「技術的安全性」を確保するという意味だけでなく、「原発の安全性を審査する組織や制度が適切か」という「制度的安全性」をも含んだものであることを、深く理解すべきでしょう。

 なぜなら、今回の福島原発事故の真の原因は、国会事故調査委員会が「これは人災である」と指摘し、原子力安全・保安院のあり方に対して「規制当局は、電気事業者の『虜』となっていた」と指弾したように、「人的、組織的、制度的、文化的要因」こそが、真の原因だからです。

 すなわち、原子力エネルギーの「安全性」への挑戦とは、従来の原子力規制、原子力行政、原子力産業のあり方を、国民の信頼を得られるものに、根底から変えるということを意味しているのです。

 逆に言えば、これから「原発の技術的安全性」をどれほど高めても、この「原子力行政と原子力産業の制度的安全性」を高める努力を怠り、「核廃棄物の長期的安全性」を確保する努力を怠るかぎり、国民からの信頼を回復することは決してできず、結果として、原子力エネルギーは、我が国のエネルギー政策において、フェイドアウトしていかざるを得ないことを、政府は、理解されるべきでしょう。

なるほど。では、田坂教授は、その考え方に基づき、野田政権が進めた「原発ゼロ政策」について、どのような進言をされたのでしょうか?

田坂:そのことについては、次回、詳しく述べたいと思います。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2013年03月21日 11:29