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今日生あるように明日逝くこともごく自然なこと、、、死の許容と最後の日の創造は心の最大の豊かさに繋がる。。。
■納得できる死を「創る」にはどうすればいいか
いま知りたい終活――作家 柳田 邦男インタビュー
かつてはタブー視されてきた「死」を意識する人が増えている。人生の終わりまで自分らしく生きるための活動である、「終活」という言葉も一般に浸透してきた。
一方で、自宅での看取りが少なくなった現代は、死をイメージしにくい時代でもある。 自分なりの死生観を持ち、納得できる死を「創る」には何が必要なのか。「生と死」を基軸に、がん医療や災害、事故などのテーマを長年執筆してきた、ノンフィクション作家の柳田邦男氏に聞いた。(聞き手:前野 裕香、山田 徹也)
日本人の死生観は、大きく変わった
ここ三十年ほどで日本人の死生観は大きく変わりました。医学が進歩し、高齢化が進んだことが背景にあります。不治とされた病が次々と克服できるようになり、家での看取りも減りました。どうかすると、いつまでも元気でいられるような錯覚に陥ってしまうほどです。死因の1位であるがんは、今や国民病になりました。本人への告知が主流となり、ただ延命治療するだけではなく、痛みや苦しみを取り除く緩和ケアが治療の選択肢に入るようになりました。
生と死の選択について、個々人が問われる時代になったのです。
「死生観」を考えるには、三つのフェーズに分けるのがよいでしょう。どのように死を迎えたいか、死を目前にしてどのように生きるか、そして死後に何を遺すのか。これらをわけて考える必要があります。
まず死の迎え方ですが、延命治療はここ十数年くらいでかなり薄れてきました。緩和ケアが普及し、病状によっては在宅で疼痛治療などを受けながら穏やかに最期を迎えるという、いわゆる尊厳死が可能になったのです。死を意識しつつ最期まで自分らしく穏やかな日々を送り、苦しみのない死を迎えるという考え方です。
終末期に納得できる医療をうけるためには、日頃から、地域の医療状況について把握しておく必要があります。自分の街の病院やホスピスの事情、在宅で緩和ケアを施してくれる医師がいるのかといったことです。事前に準備をしておけば、たとえばがんが進行してきたときにどうするかといった選択がスムーズにできるわけです。
納得できる死を「創る」
ただし、納得できる死を「創る」には、単に痛みや苦しみを取り除くという医学的な対応だけでは不十分です。
最も重要なのは、死が避けられなくなったとき、あるいはもう先が短いと感じるようになってからどう生きるかという、二番目に挙げたフェーズです。心おきなく最期を迎えるために残された時間で何をしたいのか。人生を一つの長編小説に例えると「最終章をどう書くか」とも言い換えられます。これに関しては誰かが答えをくれるわけではない。自分で考えるしかないのです。
どんな人であれ、山あり谷ありの物語を生きている。振り返るといくつものエピソードがあって、それぞれが人生の一章、一章を構成しています。死の直前というのはその最終章です。物語をどう完成させるか。未完で終わらせないで、その人らしくどう生きるか。自分の死は自分で創らなければならないのです。
医療者も、患者が本当に納得感のある死を迎えるにはどうすればいいか、という意識を持って患者に接しなくてはなりません。患者のニーズをくみ取り、医療者はどうサポートできるかを考えることが医師や看護師の真の役割なのです。家族も同じです。医療者や家族が“伴走者”となって心身両面のサポートをしてくれると、患者の最期は大きく変わるのです。
進行がんで入院していたある釣り具商の話があります。彼は残された時間が長くないということを自覚し、医者に相談をした。「妻になんとか店を継がせたい。引き継ぎさえできれば、いつ死んでもいいんだ」と。
医者が「何日あればできるのか」と問うと、釣り具商は「徹夜をすれば三日でできる」と言ったそうです。そこで医者は在宅ホスピスの態勢を整え、自宅に帰ってもらった。彼は三日三晩をかけて奥さんにすべてを引き継ぎ、取引先に挨拶を済ませ、一週間ほどで亡くなりました。
別な例で、町の鉄工所の親父さんの話も象徴的です。大学病院で肺がんの治療をしていたのですが、がんが骨転移し、首もまわらないくらい苦しんでいた。緩和ケアが十分ではなかったため、家族が見舞っても痛みのせいでつねに感情が険しくなっていて、周囲に当たり散らすような状態でした。
本人の希望は「とにかく家で死にたい、家族に囲まれて死にたい」というものでした。退院をして、自宅で微量のモルヒネを服用してもらうと痛みがころっと取れた。奥さんをはじめ、家族が一体となっておじいちゃんを支えました。お孫さんに「おじいちゃん、頑張れ頑張れ」と背中をさすってもらって、本人は「地獄から天国へ帰ってきた」と喜んだそうです。「俺は幸せだ、俺は幸せだ」と毎日言い続けて、それが最期の言葉になりました。
釣り具商の旅立ちにも、鉄工所の親父さんの旅立ちにも、本人の“納得感”があります。こうした亡くなり方であれば、遺された家族のグリーフワーク(悲嘆の癒やし)も非常にスムーズに進むんですね。
僕自身も”“最終章”を考えています。そんな大きな望みはないんです。なるべく家にいて、平凡な日常生活を送りたい。台所で朝食を用意したり、夕食に魚の煮付けを作ったりといったことが好きだから、そうしたことをマイペースにやっていきたいんですね。
残り少なくなったら、趣味で撮ってきた雲の写真を整理して、写真集と絵本を作りたい。少年時代には測候技師になりたかったほど、人生を通じて雲に魅せられてきましたから。
あとは小説にしろ詩歌のたぐいにしろ、買ったはいいけれど、読み残しになっている本が何百冊とあります。そういったものを読むためにも、やはり最後まで本箱の近くにいたいなあと思いますね。
闘病記で死をイメージし、戦略を立てる
現代は死をイメージしにくい時代です。戦争があった時代は、近しい人が若くして戦死したり、医療が未発達の段階だったため身内の誰かが結核で亡くなったりといった死の体験が身近にあった。今は病気であっても病院で亡くなる方が圧倒的に多く、家での看取りが少ない。死は遠い存在になってしまいました。
僕の場合は、少年時代に兄や父を自宅で亡くしているので、体にしみ付いた死と看取りの経験というのがあるんですね。終戦直後の昭和21年(1946年)のことです。僕は6人兄弟の末っ子で、小学四年生でした。2月の静かな朝、上から二番目の兄が結核で旅立ちました。19歳でした。母が、兄の唇がさーっと青くなっていくのに気づいて、そして看取りました。
同じ年の夏、やはり結核で父が亡くなりました。父は意識が薄れる前に家族を呼び、一人ひとりの手を握って言葉をかけてくれた。僕には「健康第一だからな、体を大事にしろよ」と言ってくれた。家族を集めたのが朝の9時で、しばらくたってお昼どきに眠るように逝きました。かかりつけの医者が来て「ご臨終です」と言い、僕は母に教えられて死に水をとりました。
父からもらった最高の財産は“静かな死”だと思っています。父の死の場面は、いまだに忘れようもなく、僕の記憶にしみ付いている。いちばん人間らしい、自然な旅立ちだという気がするんですね。
僕の死生観に関してはもう一つ、1970年代の終わりごろから、ノンフィクション作家として、がん医学を中心とした生と死の問題を追いかけてきたことも大きい。本になっているだけで数百、雑誌への寄稿なんかを含めれば千くらいの闘病記を読んできました。闘病記を通じて知った千人の死の積み上げで、死ぬ瞬間のイメージができてきたのです。
だから、死がイメージできない人には、闘病記を読むことを薦めます。良い闘病記を読むということは、死を迎えるためのいわば問題集をこなしているのと同じこと。受験勉強でたくさん過去問をこなせば応用力がついてきますよね。自分の死というのは、人生における最後の入学試験だと思えばいい。
一般的に、タレントの闘病記は、特殊な世界なので参考になりにくい。もっと静かな闘病記がいいです。たとえば医者や学者。あるいは無名の人が書いたもの。遺された方の追悼記もたくさんあります。少なくとも40歳を過ぎたら、人間の生き方と死に方についての本を読まれることを薦めます。死生観には方程式のようなものはありません。自分が体験したり本を読んで積み重ねたりした、ストーリー性のあるものでないと“死の戦略”を立てられないのです。
闘病記は、自分の最期を創る場面でも役に立ちます。
職業柄、僕にとっては、書くことが生きること。最期まで書いていたい。書くという行為は、自分の心をもう一人の自分が見ることにつながります。
書くことを生業としていない人であっても自分の内面を表現し、最期の生きている自分を確認できるという意味で「書く」効能は大きいのです。散文ではなく、詩歌や絵で表現するのもいいでしょう。
『歯と瞼』(晴耕雨読)、という歌集があります。愛媛新聞に短歌を投稿していた田中俊一さんという一般の方が詠んだ歌をまとめたもので、素人だとは思えないほどすばらしい歌集です。田中さんは難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)で、病気の末期には歯と瞼しか動かないような状態になりました。瞼を必死に動かし、介助者に一字ずつ文字を拾ってもらって歌を詠んだのです。
たとえば、「病み臥せど なほも登らん 思ひあり 手鏡に見る 今朝の雪山」という歌があります。冬が来て初雪が降った。しかし自分は首も動かせない状態だから、看護師が手鏡に外の景色を映し出して見せてくれる。白くなった窓の外の景色を見て、「なほも登らん」――無理だとわかっていても「登」りたい、なんとか社会復帰をしたい――といった切実な思いを詠んでいるのです。
田中さんはあるとき、あまりのつらさから絶筆を宣言してしまう。ところが、歌を詠まない無為な日々はむなしく、もっとつらくなったといいます。それで、つらいのだけれどもまた詠み始めるのですね。これは自分を表現するということの大切さを象徴しています。明日死ぬかもしれないというときであっても、自分を確認するために、表現するのです。
書くのが大変であれば、語るという方法でもいいのです。男というのは家庭ではあまり話さないので、家族も彼の人生をよく知らないということがある。傾聴ボランティアが患者に5回、6回と話をじっくり聞き、短編小説のようにしてまとめると、本人も家族もびっくりすることが多いのです。<自分はつまらない人物だった、ただごみのように消えていくんだ>と思っていた患者が、ぼそぼそと語るうちに自分を再発見し、旅立つ前の自分自身を受け入れていく。語りにも、とても大きな効果があります。
「精神性のいのち」は死後も生き続ける
死んだ後、いったい自分はどこへいくのか。死への不安や恐怖の原因になるのが三つ目の問題です。
僕はこのところ、“死後の世界”というのをはっきりと認識しています。あの世があるのかないのか、ということを問うても答えはない。しかし、人間の精神性という次元で考えれば、答えは意外と簡単に出てきます。
亡くなった本人が人生の最後に自分らしい日々を送れたとき、そして家族がその最期に十分かかわれたとき、家族は<ものすごく良い看取りだった>と感じます。<おじいちゃんはすばらしい人生を送ったよね>とか、<まだ若かったけれどお父さんらしかったね>といった印象が残るのです。
もちろん、愛する人を喪った悲しみから悲嘆に暮れ、泣き暮らす毎日というのはあります。しかしそこから立ち直っていくプロセスにおいて、旅立った人が残してくれたすばらしい「心の財産」が家族を支えてくれる。死別体験、喪失体験をした家族のグリーフワークが非常に穏やかに進むのです。
これを亡くなる側の立場で考えると、自分の精神性のいのちは、肉体が滅びても消滅していないということになります。大切な家族の心の中に、自分がずっと生き続けている。
僕は、孤独死だって怖くない
僕のケースで考えてみると、父親は生きているわけですよ。父が最期に手を握ってかけてくれた言葉、その表情、そして静かに眠るように旅立っていって死に水をとったこと。そうした思い出がすべて、僕の心の中で鮮やかな情景となって残っている。
ということは、僕の中で父は生きているのです。実家を離れ独立していれば、親が生きていても年に数えるほどしか会う機会はありません。生きている親を敬って心の中で生かしているような人はほとんどいない。
不思議なことに、死ぬと精神性が残るのですね。しかも年に数回会うだけの関係性ではなく、絶えず心の中で生きていて何か大事な出来事があれば、親の生き方や言葉がよみがえってきて、道しるべになってくれる。これはすごいことだと思うのです。
人間は幼少期から大人になるにつれ、肉体も精神も成長していく。しかし人生の後半になると肉体は老化し、死ねば滅びてしまう。しかし精神は滅びません。老後、あるいは病気になってからの方が、精神性のいのちは成長・成熟を続け、しかも成熟を目指した生き方は、遺された人の人生を膨らませてくれる。つまり人間の精神は、死後も成長し続けるのです。
そう考えると、本当に納得できる最期の日々を送らなければならないし、最期をよりよく生きることが“死後の未来”につながるという希望さえ湧いてきます。死は決して怖いものではないのです。
僕は孤独死だって怖くない。確かに、連れ合いや子どもに先立たれるといったさびしさはあるでしょう。しかし、自分がどう生きるかということを考えたとき、愛する人がいようといまいと、自分の内面と生き方をたえず見つめるなら、人生をきちんとまっとうできる。僕はそれくらい腹の据わった精神性を持ちながら最期の日々を送りたいと思っています。(談)
[東洋経済オンライン]
Posted by nob : 2013年10月22日 08:59