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いずれも心の境地、信は極楽へ、不信は地獄へ続く途、、、楽あれば苦もある、あるがままに現実を受け容れれば迷いなし。。。

■五木寛之「不信の時代」に響く親鸞の教え

11年3月11日の東日本大震災、そして長引く不況にあえぐ現代は、人心が大きく動揺した12世紀から13世紀の日本と酷似する。そんな時代に人心を救った1人の僧侶、親鸞。その生涯を描いた作家・五木寛之氏が、親鸞の教え、そして現代における救いについて語る。

相反する意見多く、募る一方の不安

――五木寛之氏の小説『親鸞』がベストセラーとなっている。文庫化されている1作目と、12年1月に出版された続編『親鸞 激動篇』をあわせると累計140万部を突破した(12年4月時点)。なぜいま、12~13世紀という平安末期から激動の鎌倉時代を生きた宗教者の本が注目されているのだろう。読み進んでいくと、親鸞が生きた時代と、大震災や深刻な不況などに見舞われ、人々が不安を抱える現代とが深く重なっていることに気づく。

12世紀から13世紀は、ものすごく大きな天啓期なんですね。鴨長明の『方丈記』や藤原定家の『明月記』に書かれているとおり、長く続いた優雅な王朝宮廷政治が崩壊し、政局は流動化し、鎌倉のパワフルな武力政権に移行していった。そうした大混乱期には不思議なことに天災が起こるもので、大地震や津波に襲われた。京都では何度も大火が起き、疫病、凶作、飢饉に見舞われました。人々は行き倒れた死骸の中をかき分けて生きる、そういう時代だったのです。明日が見えず自殺者が多く、いまと重なる部分がたくさんあります。

私たちはいま一生懸命に明日を見ようとしている。しかし、先を読むのがとても難しい。それは相反する意見があまりにも多すぎるからです。たとえば、「原発は危険だ」という意見があるかと思うと、「安全だ」という見方もある。世界恐慌にしても、「目前に迫っている」という意見がある一方で、「いや絶対に大丈夫だ」という読みもある。日本の財政に関しても同じで、国債の暴落が間近で大恐慌の渦に巻き込まれるという説と、その正反対の説がある。

ともかく、国の行く末、われわれの生活に関わる重大な問題に関するどれにも相反する意見がある。これほど言論が左右にブレている時代はないような気がします。だから人々はメディアが流す言説に右往左往してしまう。明日が見えない状況に置かれると、人は不安になるものです。それも原因の1つなんでしょう、自殺者が年間3万人以上という状態が、もう14年も続いています。

そんな未曾有の事態に直面すると、日本は急激に崩壊に向かっているんじゃないか、世界も確実に病んでいる、ということを肌で感じているはずなんです。しかし、われわれはなすすべもなく、傍観してしまっているという気がする。なぜかというと、現実を直視しないで、知らないふり、感じていないふりでもしないと、不安で耐えられないからでしょう。

念仏に見出した庶民の希望

――人心が動揺し、希望の光を見出せない混乱した12世紀から13世紀に、続々と登場するのが、傑出した宗教家であった。法然、栄西、親鸞、明恵、道元、日蓮など。日本の宗教界で代表的な12人のうち6人が、わずか1世紀の間に一斉に現れている。

法然や親鸞以前の奈良、平安期の仏教界というのは、僧侶はみな、いまでいえば国家公務員のような立場でした。仏教の目的も国家鎮護と、宮廷と天皇の平安を祈るというもので、そのために、祭祀やお勤めをした。ですから、一般大衆に直接仏の教えを語ったりすることは法律で禁じられていたのです。

そうした旧仏教は「顕密仏教」と呼ばれて、中心は南都北嶺、つまり奈良と比叡山でした。その比叡山の最高学府から中途退学して野に下り、仏教界が見向きもしなかった一般庶民に向けて語りかけたのが、法然だったのです。

法然といえば、次代の比叡山を引っ張っていくと目されていたエリート。教養と学問があって、大秀才です。でも、どんなに知識があろうと、たいした意味はない、苦しんでいる人々のためになることが大切だということを悟るわけです。親鸞もそんな法然を信じて野に下る。当時は僧侶が野に下れば「聖」と呼ばれ、世間的には、下手すると乞食坊主扱いされることもある非公認の坊主になる。そんな境遇に自らを置いたのです。

それだけでもたいへんな出来事なのに、法然や親鸞は庶民に向かって、「君たちは地獄へなんか行かなくてもいいのだ。大丈夫。南無阿弥陀仏と念仏をひたすら唱えていれば成仏できる。怯えて生きることはないんだよ」と言いだしたものだから、大変なことになった。なぜなら、どんな悪事を重ねても成仏できるということになりかねませんからね。実際、そのような「造悪説」を唱える一派が現れた。当時は一大スキャンダルだったはずです。

あの時代、人々の心を捉えていたのは「自分たちは地獄へ行くのではないか」という不安でした。地獄の絵図がビジュアルな絵巻物として人々の心に焼きつき、いまと違って地獄は実在するものとして堅く信じられていたのです。でも地獄へ行かずに済む方法が2つだけありました。

善行を積むことと、戒律を守ることです。善行というのは多額の寄付をしたり、寺を建てたり、法会を催したりすること。しかし、それは一握りの権力者でないとできない。戒律を守るというのは、修行です。たとえば、殺生、飲酒、嘘をつくといったことをしない。ですが、そんなことはとても庶民にはできません。

なぜなら当時は凶作のために、農民が離農して流民として都へ流れ込んでいるような状況だったからです。都は行き倒れとホームレスの人たちで渦巻いていた。そんな状況で、生きるために命ある獣や魚を殺して食べてはいけないと言われてもできるわけがない。稲だって生きているわけでしょう。人間は他の命を奪うことでしか生きられないわけですから、命がほしければ殺して食べますよ。その食べ物でも人と奪いあったりしている。

そんな人間は死後どこへ行くかというと、地獄へ行くのだと徹底的に教え込まれていたわけです。地獄のような時代に生きて、死んでもまた地獄行きという世の中で、ほとんどの人は絶望的な悲しみ、恐れを抱きながら生きていたわけなんですね

そういうときに、法然や親鸞が地獄に行かなくてもいいよ、平等に生きるのは難しいが、阿弥陀仏という仏は、人々を平等に救うのだ、と説いたものだから、不安の中で脅える民衆にとっては、藁にもすがる思いだったし、ものすごく希望の声に思えたんじゃないでしょうか。

実は、私自身も人を押しのけて、人の食べ物を奪って生きのびざるをえなかった経験があります。13歳のとき、いまのピョンヤンで敗戦を迎え、他人を押しのけるようなエゴイスティックな人が生き残って帰国し、心やさしい人は倒れていく様を目の当たりにしました。そのせいで心の中に暗い闇を抱えた少年時代を過ごし、自殺を考えたこともあります。

親鸞の人間観の土台には、このように、生きるために殺生をしたり、嘘をついたり、騙したり……といったことをせざるをえない世間一般の生活者のことがありました。罪ある者としての自己、重い矛盾を抱えながら生きる、こうした人のことを「罪業深重(ざいごうじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)」と言い、その人たちが救われる道を指し示したのです。親鸞も、罪業深重の凡夫の側に自身を置いていました。親鸞の弟子には武士が多いのですが、それは、人を殺すことに深い罪業意識を抱えていたために、親鸞の教えに強く引かれたのでしょう。

仏教では、人間が生まれて生きていくことを「苦」と規定しています。生きるというのは苦しいことだ。いま生きる世界が地獄であると。ましてや死んでからも地獄に行かなければならないという不安がある。それならばそれを取り除き、希望や安心、生きる力を与えることこそ、ブッダ本来の教えに通じ、人間の幸せにも通じると、親鸞は考えたのです。

[PRESIDENT Online]

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Posted by nob : 2013年11月19日 19:53