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悟りとは、、、日々移ろい変わっていくもの、、、完全な満足を追い求め続けていく過程での、その時々の自らの在り様への納得と他の受容をいう。。。

■坊主も知らない仏教の落とし穴-対談:南 直哉×島田裕巳

青森県・下北半島にある「霊場」恐山。口寄せをする「イタコ」で有名だが、山内は曹洞宗の菩提寺が管理している。院代の南直哉師は、坐禅の聖地・永平寺で約20年修行し、恐山に転じた異色の経歴を持つ。オウム事件から「直葬」の是非まで。両極を知る禅僧と希代の宗教学者との初対談は白熱し、3時間超に及んだ――。

【南】はじめまして。恐山に、ようこそいらっしゃいました。

【島田】こちらこそ。東京から新幹線を乗り継いで片道6時間。だいぶ疲れましたが、山内に漂う硫黄の効果でしょうか。見学しているうちに疲れが和らぎました。

【南】硫黄の影響なのか、外から持ち込んだ植物はほとんど根付きません。例外は境内に1本残った桜ぐらいです。その代わり、寺の境内には4つの外湯があります。源泉掛け流しで、泉質は上等です。そもそもは湯治場として開かれた場所だといわれています。

【島田】さきほど本尊の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を見せていただきましたが、あんなに厳しい表情の地蔵菩薩は初めて見ました。むしろ修験道系の権現(ごんげん)(※注1)にも見えますね。

(※注1:修験道は各地の霊山を修行の場とする日本独特の宗教。神道と仏教が習合しており、神仏が仮の姿で現れた姿である「権現」を祀ることがある。)

【南】お目が高い。恐山の菩提寺は曹洞宗ですが、それは1530年からのことです。由緒には862年に慈覚大師・円仁(じかくたいし・えんにん)に開闢(かいびゃく)されたとあります。円仁は天台宗の3代目座主(ざす)で、天台宗は古くから修験道と結びついていました。修験道は山岳信仰が盛んでしたから、恐山もその影響があります。何度も大火にあっているため、歴史資料が残っておらず、事実としていつから本尊が地蔵菩薩となったのかも、本当のところは不明です。

【島田】南さんは1984年から約20年間、永平寺で修行されていますね。曹洞宗の大本山であり、「只管打坐(しかんたざ)」の修行道場です。そこから、イタコや死者供養で知られる恐山に移った。2つの寺は、曹洞宗、いや日本仏教の対極です。

【南】私が恐山に入ったのは、7年前のことです。大学を出て、西武百貨店に2年ほど勤めてから、「やはりサラリーマンは無理だ」と観念して、出家得度しました。入門時は「永平寺で死にたい」と思っていました。しかし厳しい修行も、数年もすれば慣れます。自己存在の危機を解決するすべはあるのか。それを突き詰めるために入門したのに、パターン化した生活の中で、行き詰まってきたちょうどその頃、恐山山主の長女との縁がありました。道元禅師(どうげんぜんじ)の750 回忌という節目もあり、下山することになりました。

【島田】2つの寺はオーソドックスな仏教の視点では対極にありますが、その一方で、いまの「仏教ブーム」、さらにいえば「スピリチュアルブーム」の中では、一括りにされています。恐山にも若い訪問客が増えているのではありませんか。

【南】特に最近は、若い女性が1人で来るというケースが目立ちます。おととい来られたバーテンダーだという女性は、「こんなところに1人で来ると、自殺志願者だと思われますね」と笑っていました。「仏教に関心があるのですか」と聞くと、「わからない」と答える。おそらく日常に漠然とした違和感があるのでしょう。でもその違和感を処理するツールが見つからない。何かの手がかりを探しに、ここまでやって来る。そんな感じです。

【島田】南さんが永平寺に入られたのは、ちょうどバブル崩壊の前ですね。

【南】入山から3年経つと坐禅指導をするようになります。80年代の後半ですね。その頃は、焦りや苛立ちを訴える人が多かった。漠然とした強い不安、といえばいいでしょうか。それがバブル景気が崩壊して、オウム真理教の事件が起きた頃から質的に変わりました。不安ではなく、自分自身に対する違和感とか、居場所のなさを強く意識する人が来る。若い世代に限らず、あらゆる世代がそうなんです。具体的にいえば、中年以上の男性が簡単に泣くようになりました。

【島田】中年男が泣くのですか。

【南】はい。昔の男性は痛いところを突くと、怒りました。いまは泣きます。彼らは「一生懸命働いて、昇進もし、家庭を持って息子も大きくなりました」ということを淡々と話します。昔だったら自信を持っていいことなのに、それができない。逆に、自分のやってきたことはこれでよかったのか、と疑っている。だから孤独で、寂しそうです。

「真理」や「悟り」がブームになる怖さ

【島田】もっと上の世代には、そういうことはないのですか。

【南】ありませんね。団塊世代より下の世代が持つ違和感に、ブームとしての仏教が受容されているのだと思います。私はそうした「仏教に救いを求める」という考え方は危ないと思います。伝統教団も、癒やしや救済の求めに、素直に応じてきた面がある。しかし私は、仏教のユニークさや有用性は、そうした「一発回答」を示さない点にこそあると考えています。

【島田】同感です。極論すると、いまの仏教はキリスト教ではないかと思っています。キリスト教の開祖であるイエス・キリストが、具体的に何を説いた人物なのかは、必ずしも明確ではありません。イエスが直接記した教典はなく、信徒がまとめた「福音書」は複数存在します。同じように、釈迦がどのような教えを説いたのか、確かなことはわかりません。釈迦の教えを記したという仏典は、無数にあり、どの仏典を聖典とするかは宗派によって異なります。いわば、すべての仏典は「偽経」ともいえます。

また仏教は発祥地のインドではほぼ消滅しています。たとえばサンスクリット語の般若心経は法隆寺にしかありません。「ブッディズム(=仏教)」という言葉自体、西洋で生まれたものです。いま我々が親しんでいる仏教は、釈迦の説いたものとは違い、1度キリスト教をもとに再構成されたものである可能性が高い。

【南】「いまの仏教はキリスト教ではないか」というのは衝撃的なフレーズですが、よくわかります。いま「日本の伝統」とか「東洋の思想」とされるものは、ほとんどが西洋のフィルターを通したものです。これは1度、根本的に解体してみないといけない。とくに近代以降の仏教は、西洋の思考で再構築されているという点は、忘れてはいけません。

【島田】「仏教ブーム」ではテーラワーダ・ブッディズム(スリランカ、タイなどで盛んな上座部(じょうざぶ)仏教)の人たちが注目を集めていますよね。僕はそれを「スピリチュアル・ブッディズム」と呼んでいます。釈迦の説いた正しい仏教を実践している、というのが宣伝文句ですが、「正しい仏教」というものはありえません。

【南】テーラワーダ仏教の人たちは「我々は仏教のプロだ」といいますね。彼らの教えでは、釈迦の教義や戒律、僧侶の訓練方法、すべてが確定している。そして、般若心経であろうと、彼らの決めた「原典」にないものは、すべて間違いだという。私には「絶対正しいことがある」という主張自体が、仏教の「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(※注2)の否定だと思います。

(※注2:仏法の大綱である『三法印』の1つ。「諸行」とは、この世の一切の事物・現象のこと。「無常」とは、あらゆるものは常に移り変わるということ。)

【島田】キリスト教のやり方と同じです。

【南】そうです。私はよく講義の中で「世の中の思想には、仏教と仏教以外しかない」と挑発します。仏教以外のふつうの思想は「絶対に正しいものがある」という前提から出発します。一方、私が理解する仏教は「無条件に真理のようなものを提出することはできない」ということが根本にあります。だから「真理」とか「悟り」ということを無防備にいう人は信用できないんですよ。

【島田】そうした傾向は、日本の仏教の中にも浸透していますね。

「いまここがすべて」は×。根本は「人間はダメだ」

【南】私の学んできた仏教はどう考えてもヒューマニズムではありません。根本には「人間はダメだ」という見方がある。釈尊は「苦」だといいましたが、私なりにいえば、自己存在というのは死ぬまで治らない慢性病です。「無病息災」で楽になるというのは幻想で、「一病息災」で、どこまで切り抜けていけるか。ところが、一発で気持ちよくなれる「救済」を求めます。すると仏教の側も「それを出してみましょうか」となるのです。

【島田】仏教の最大の特徴は「悟り」という考え方にあると思います。キリスト教やイスラム教にはありません。絶対神につくられた人間が、現世で超越的なものをつかむという発想はないわけです。しかし、現代では「悟り」が「本当の真理をつかむこと」と誤解されていますね。

【南】近代以降の仏教は、そうした西洋の一神教的思考を前提にした枠組みが効きすぎていると思います。その点で注目すべきなのが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)と道元禅師です。2人とも、「真理」や「悟り」を棚上げにする方法が似ています。親鸞聖人は、念仏という行為自体に意味を見出して、そこに自我を解体していく。一方、道元禅師は、坐禅という修行そのものに意味を見出して、そこに自我を解体していく。形而上学的な思想ではなく、実践の中に自我を溶かし込んでいくわけです。

【島田】「悟り」をキリスト教の「回心」として理解すると間違いますね。キリスト教の「回心」とは、自分が罪深い存在だということを認めて、神にすべてを委ねるという経験です。「回心」の経験は、周りの人に語ることができます。

【南】そうです。「回心」と違って、「悟り」は語ることができません。道元禅師は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』(※注3)で、とにかく一般的にいう「悟り」にあたる「見性」というアイデアを戒めています。鈴木大拙(だいせつ)氏が強調しているような「悟りの体験」について、道元禅師は関心がなかったはずです。『正法眼蔵』が難解なのは、明確な結論を出すこと自体に拒否があるからだと思います。だからどこにも結論がなく、ただ言語の過激な運動だけがある。

(※注3:開祖・道元が著した曹洞宗の宗典。87巻の大著で、難解で知られる。曹洞宗の教団では「弁道話」巻までを現代語に翻訳。現在、公開準備中という。)

【島田】親鸞や道元の思想は「正解はない」という考え方ですよね。これは笑い話ですが、センター試験に「親鸞の説いた『悪人正機(あくにんしょうき)』とは」という問題が出てくる。おそらく道元も出てくるでしょうね。4択で正解を選べというのは――。

【南】無理でしょうね(笑)。

【島田】「そんなものだ」という記号に括られてしまっているわけですよね。

【南】道元禅師は何かをいい切ること自体に不信感があるのかなと思います。禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」とか「言詮不及(ごんせんふきゅう)」といいますね。真理とは、いい損なうことでしか自覚できない。たとえば「成仏」とは、成仏しようとすることだというわけです。成仏というのは「はい、ここで終わり。できました」ではなくて、成仏しようと努力する過程だというわけです。

このとき問題になるのは、この教えを一般の人に敷衍できるか、という点です。下手をすると、「いまここがすべてだから、その1点に集中して日々を生きるんだ」という単純な話になりかねません。

【島田】スティーブ・ジョブズが禅に影響されている、という話は、そういうことですよね。ヒッピー運動の中心的なスローガン「Be here now」と同じです。

トヨタと永平寺に共通「生活すべてが修行」

【南】「いまここがすべて」というのは、なぜか、と問いたいですね。それは神の椅子の位置を、自分の中に変えるだけです。ただし、たしかに仏教の「無我」とは、行為の中に自我を預けていくという思想です。だから行為の善悪についての倫理を示す必要があります。そうしなければ、「それはお国のため」「村のため」「会社のため」などと、仏教とは関係のない人間に方向を決められてしまう。仏教の立場で倫理を基礎づけることができないと、非常に危ないと思います。

【島田】日本の企業社会も、そうした構図をとってきました。その象徴がトヨタ自動車です。生産過程の中に自我を溶け込ませる。カイゼン運動という形で、それを奨励する。いまの日本の豊かさをつくった思想であり、ほかの国には絶対に真似ができないものだと思います。

【南】倫理を備えた実践体系の1つですね。

【島田】浄土系では「他力本願」といいますね。庶民的なレベルで実践しようとすれば、どうしたって「会社のため」となる。日本人は仏教の考え方をいかしながら、豊かな社会をつくり出す術を編み出してきたといえます。たとえば、それをある極北で支えているのが永平寺です。「生活すべてが修行」というあり方が、1つのモデルとして美化されています。

【南】そうですね。だいたい日本の禅宗の修行体系が固まったのは江戸期ぐらいで、永平寺の場合、現在のようになったのは戦後ぐらいでしょう。おそらく道元禅師の頃には、肩を叩く警策(きょうさく)はなく、読経(どきょう)さえなかったと思います。『正法眼蔵』には「看経(かんきん)」(※注4)という言葉がありますが、あれは黙読ですから。

(※注4:看経とは声を出さずに経文を読むこと。対して、声を出して読むことを読経や諷経(ふぎん)などと呼ぶ。)

【島田】なるほど。

【南】いまのイメージとは全然違うんです。「なぜ坐禅をするのですか」と問われて、道元禅師は「釈尊も、偉大な祖師方も、みんなやっているから、君もやってみたまえ」みたいに答えています。絶対的な何かについて語らないのは、さもありなんですね。

【島田】もう1つ。僕のいう「スピリチュアル・ブッディズム」の源流は、オウム真理教なんです。オウムはヨガとチベット仏教だということになっていますが、一方で麻原彰晃がやろうとしたことはテーラワーダです。彼はネパールに行ってチベット僧に会っているし、スリランカではテーラワーダの僧と対話しています。つまり麻原は、チベット密教とテーラワーダ仏教の統合を考えていました。

【南】麻原の犯罪と思想は、分けて考える必要がありますね。彼の言説を「あれは仏教ではない」と否定することは簡単ですが、それではダメです。仏教のユニークで強力なはずの言葉が弛緩しきったところに現れたのが麻原であり、あれを超える言説を日本の仏教者はいまだに持っていません。それは認めざるをえない。

【島田】事件のとき、どの宗派も「オウムは仏教ではない」といってしまいました。いまの「スピリチュアル・ブッディズム」が修行の結果として悟りを得るというのは、オウムと同じシステムですね。

【南】オウムの評価をめぐり、島田先生が厳しい立場に追い込まれるのをみて、伝統教団の怠慢ぶりを痛感しました。実際に、オウムの信者は永平寺に来ていましたからね。ほかの教団にもスパイのように信者を送り込んでいました。伝統教団は、オウムは仏教だと認めたうえで、それを消化しなくてはいけません。

映画『お葬式』の衝撃。坊主は「サービス業者」へ

【島田】伝統教団の弛緩について、南さんはいつ頃から始まったとお考えですか。

【南】入山してまもなく、嘘の外出許可を取って、伊丹十三監督の『お葬式』(※注5)という映画を観にいきました。「これは終わりの始まりだ」と思いました。最近では火葬場で読経するだけで、戒名もつけない「直葬(ちょくそう)」が急増しています。「葬式仏教」のリアリティーが失われていけば、伝統教団の経済基盤は大きく揺らぐ。檀家制度が崩れれば、いまある寺のうち7~8割はやっていけないでしょう。

(※注5:『お葬式』は1984年に公開された伊丹十三の初監督作品。脚本は、妻・宮本信子の父親の葬式で、伊丹が喪主となった実体験をもとに書き下ろされた。)

ただ、自然葬とか個人葬が従来の葬式に代わることになるかというと、そうではないと思います。弔いというのは、やってみないとわかりません。散骨したあとで、後悔するご遺族もいるわけです。

【島田】宗教の重要な役割は、いかに死を受け入れて、それを意味づけるかという点にあります。日本では仏教がそれを担ってきました。曹洞宗は葬式仏教の祖でもあります。だから、曹洞宗の葬式はいちばん丁寧で贅沢でもありますね。

【南】だからこそ、永平寺の修行も儀礼中心主義になっていて、いまや坐禅よりも儀礼が修行として重視されています。修行僧も、釈尊のような実存の危機があって入門してくる者は多くありません。結果、職業訓練所のようになる。僧侶になったから、たまたま住職になったというのではなく、住職になるために僧侶になろうというわけです。そうなると、出家すること、僧侶として生きること自体の意味を自覚する機会が失われてしまう。

「物の時代から心の時代に入るから、仏教が求められる」という物言いでは通じません。これからのお坊さんは、消費者に選ばれる「サービス業者」なんですよ。それを自覚しないといけない。ある若い修行僧に「寺なんて継がなくてもいい」といいました。おまえたちが継がなくても、本当に必要な寺だったら必ず続く。それよりも、そもそもなぜお坊さんをやるのか。どういうお坊さんになりたいのか。その腹を決めるのが先だ、と。

【島田】日本人は「生命の終わり」への関心が高いんですね。たとえば生命倫理に関して、西洋ではクローン技術など「生命の始まり」に関心を向けます。神による人類創造に関わるテーマだからです。一方、日本では脳死問題など、死に関することに敏感です。またキリスト教やイスラム教は幼少期に洗礼を受けます。仏教では死後に「戒名」を授かるのが一般的です。つまり、日本では人生のうしろのほうに宗教がある。だから、仏教の将来も、まだ時間の余裕があるはずです。

【南】それは卓見ですね。仏教は早急に結論を出すのは絶対にダメです。もし出せても、それは「暫定解」です。一神教的な考え方は、近代社会の1つの原理ですが、それについての疑問があるから、世界的に仏教への関心が高まっているのだと思います。これからは思想的にも社会的にも、ますます混乱していくでしょう。そのときに、焦ってはダメだというのが仏教の教えです。結論が出ないままにやっていく道を探れるかどうか。折り合いをつけて、やり過ごしながら、最後の落としどころまで持っていけるかどうか。それが大切になってくると思います。

青森県恐山菩提寺院代 南 直哉
1958年、長野県生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、西武百貨店で勤務。84年に曹洞宗・永平寺で出家得度。約20年の修行生活を経て、2005年より恐山へ。福井県霊泉寺住職も務める。著書に『恐山』『自分をみつめる禅問答』『なぜこんなに生きにくいのか』『「正法眼蔵」を読む』『老師と少年』『語る禅僧』、共著に『人は死ぬから生きられる』などがある。

宗教学者 島田裕巳
1953年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術センター特任研究員などを歴任。著書に『オウム真理教事件』『小説 日蓮』『神も仏も大好きな日本人』『戒名は、自分で決める』『葬式は、要らない』『日本の10大新宗教』『創価学会』『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』などがある。

[PRESIDENT online]

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Posted by nob : 2013年12月19日 10:27