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人は今日生きているように明日死に往くもの、、、生きるも死ぬも自らの生を救えるのは自分自身のみ。。。Vol.2

■切るべきか、切らざるべきか、あえて放置する手もある「あの『決断』が生死を分けた」医者が大病を患ったとき

人は大きな病気にかかった時、困惑し、恐怖し、どうしたらいいか途方に暮れる。それは、医者でも同じこと。だが、医者だからこそ下せた「決断」がある。彼らは、死の淵からいかにして生還したのか。

CASE1 脳卒中
命の危険を冒して早期リハビリをした

「病院で会議をしている最中、突然、何かの塊が首の左側を下から上へ、顎を通ってつむじまで、ムクムクと走り上がるのを感じました。直後、体が大きく傾いた。まるで、天地が逆さになったようでした。脳卒中でした」

琉球大学名誉教授でおきなわ健康長寿研究開発センター会長の鈴木信医師(80歳)は15年前、病に倒れた。左脳に脳梗塞を起こしたのだ。

「以前から手の震えや、コレステロール値が360まで上がるなど、今考えれば予兆といえるものもありましたが、特別気にも留めていませんでした。

ストレッチャーで運ばれている間、意識が戻ったり遠のいたりを繰り返し、やがて昏睡状態に。この間、いわゆる『走馬灯』を見ました。子供の頃に剣道教室をサボったことや、娘が生まれた時のことなど、さまざまな思い出が目まぐるしくフラッシュバックしたのです。まるで、あの世とこの世を行ったり来たりしているようでした」

目が覚めたのは9時間後。だが、残酷な現実が鈴木医師を待ち構えていた。

「目を開けると神経内科の教授がいて、『麻痺はあるか』という声が聞こえました。『ないよ』と言おうとしたのですが……『アーアー』としか声が出ない。体も動かない。完全に右半身の自由と言葉を失っていました。

周りのスタッフが話している内容はわかるのですが、言語中枢がある左脳にダメージを受けたため、失語症になってしまったのです。医師にとって、これは致命的。もうダメだ、と絶望的な気持ちになりました」

意思表示ができないので、検査や処置もされるがまま。

「体中管だらけで、まるでロボットのような状態です。必要性のわからない検査をしようとするスタッフに腹が立ったし、CTやらレントゲンを撮るため長時間寝かされ、腰がひどく痛む。『腰が痛い』『管を取ってくれ』と言いたいけど、言葉は出ません。かといって動くと、同僚医師に『我慢ができない、バカな人だ』と言われた。あの時の惨めな気持ちは忘れられません」

検査の結果、左大脳の4分の1が大きく損傷していた。鈴木医師のように頸動脈に血栓が詰まった場合、死亡率は約50%。生き残っても、3分の2の確率で寝たきりになるか、ボケてしまうという。だが、そんな窮地を脱せたのは、医師としてのある「決断」だった。

「奇跡的に命はとりとめましたが、このままでは脳細胞がどんどん死滅してしまう。当時、脳卒中になったら1ヵ月の長期にわたって安静にしてから、ようやくリハビリというのが一般的でした。たしかに、あまり早くからリハビリをすると、再発して死亡するリスクがある。だからこそ、医師は安静を求める。しかし、復帰するには一刻も早くリハビリするしかありません。私は『寝たきりやボケになるなら、死んでも本望だ』と、命を賭してリハビリすることを決断したのです。

強い意志のもと、まずは必死に口を動かすことと、発声練習をしました。

倒れてから3日目、ついに言葉が出ました。最初に出たのは『NO』。この時は感動しましたよ。そして、何とか意思疎通ができるようになったのは1週間後。でも、不思議なことに英語ばかり出てくる。これは今でも謎ですね。

その後も、新聞や本の音読、算数などで脳を刺激するほか、麻痺した顔面の体操や病院の敷地を妻に支えてもらいながら一周したりと、必死にリハビリをしました。看護師に怒られながらも、消灯後も発音訓練を続けました。

その結果、倒れて2ヵ月後に、自ら希望して病院の外来に復帰させてもらいました。当然、言葉は思うように出てきませんでしたが、日頃から通院している患者さんたちが、『私への診察をリハビリの一環にして』と言ってくれた。彼らの温情に涙が流れました。

今は、後遺症の95%は消えました。振り返ると、病気を克服できたのはあの時の『決断』と『意志の力』です。病気は医者が治すのではない。自分で治すのです。病気を経験して、改めて痛感した真実です」

CASE2 心臓弁膜症
82歳、それでも私は手術を選んだ

毎日、腕立て、腹筋、スクワットを50回、ビルの5階に入っているクリニックまでは階段を上って通勤、月に1度は20㎞の長距離ウォーキング—。

80歳を超えても、このような驚くべき生活を送ってきた虎ノ門・日比谷クリニック名誉医院長の山中秀男医師(86歳)が病魔に冒されたのは、2年前だった。

「私はそれまでまったくの病気知らず。毎日トレーニングを欠かさず、健康には絶対の自信を持っていました。ところが、82歳を過ぎた頃からでしょうか。徐々に体に異変が生じ始めました。病院への通勤途中、歩いていると息切れがひどくなるし、階段も、休み休みでないと上れなくなってしまったのです」

さすがに年が年なので単なる老化現象とも考えられるが、山中医師の様子をおかしいと感じた同院の医院長が心配して、心電図をとってくれた。

「すると、『これはダメだ。すぐに心臓の専門医に診せないと危険な状態です』と言われたのです。大病院で精密検査を行った結果は、心臓弁膜症。心臓から血液を送り出す弁が癒合し、血液の流れが妨げられる病気です。私の場合は、運動のやりすぎで、弁が固くなり弾力性がなくなってしまったらしい。

主治医からは、『このまま手術をしなければ酸欠が恒久的に続くため、腎臓・肝臓・脳といった臓器に血液が充分に送り込まれず、多臓器不全を起こすことは確実。手術をせずに薬で安静を保っても、2年しか持たないでしょう』と宣告されました」

余命2年、だが手術をすれば助かる—。

しかし、ここに大きな問題が立ちはだかる。心臓手術の場合、80歳以上になると死亡リスクが一気に高まるのだ。その確率は、6・7%。そのため、75歳以上の患者には手術しないという病院もあるほどだ。しかし、山中医師は、勇敢な「決断」を下した。

「手術を受けることを即決しました。当時、私は84歳。もともと元消化器外科医ですから、どんな手術になるのかも、もちろん承知の上でした。

死の危険を恐れて、2年の命を生きるか。即死のリスクを冒してでも、チャレンジして長生きするか……。究極の選択でしたが、私は、自分の体を信じることに決めたのです」

家族にもこの決意を伝え、山中医師はシコを踏んで気合を入れて、手術室へと向かった。

「手術は、無事に終了しました。翌朝、ICUで目が覚めた時、最初に思ったのは『ハラが減った』ということ。その日の朝食はカレーライスで、縫った傷が痛かったけど、全部平らげました(笑)。さらに翌日には一般病棟に戻り、順調に回復していきました」

自分の体を信じた「決断」は、見事にいい結果を招いた。今日も山中医師は元気に笑う。

「激しい運動のやりすぎで心臓を壊しましたが、極限に挑戦するような運動のおかげで術後の体力も保たれたと思っています。

手術3ヵ月後には、クリニックで診察を再開しました。去年からは、1日1万歩を目標に歩いています。まだまだ、現役を続けていきますよ」

「前向きな気持ちも健康の秘訣」と山中秀男医師

CASE3 腎臓がん
迷う自分を救ってくれた一言

「あのとき検査をしていなければ、私はいまこの世にいなかったでしょうね。がんを患ったあとの時間は『おつりの人生』だと思っているんです」

聖隷三方原病院(静岡県)呼吸器センター長で肺がんの名医として知られる丹羽宏医師(60歳)はこう話す。体の異変に気付いたのは、15年前、45歳のときだった。

「東京での学会が終わった夜、その解放感から飲みすぎてトイレに駆け込んだら、便器が真っ赤に染まるほどの血便が出たんです。これは大腸がんかもしれないと思って病院で検査をすると、恥ずかしながら、原因はただの切れ痔だった。でもその検査で、腎臓に腫瘍が見つかりました」

不安になった丹羽医師は、二人の泌尿器の専門医に相談に行ったという。一人目のA医師は、悩みながらこう言った。

「これは、がんかもしれないですが、お腹を切ってみなければわかりません。手術をしたほうがいいと思いますが、経過観察する方法もあります」

次に相談したB医師は、検査画像を見るなり、こう断言した。

「これは腎臓がんですね。すぐに手術をしたほうがいいです。私に任せて下さい」
この二人の言葉を聞き、丹羽医師はB医師に手術を任せるという決断をした。

「私は外科医なので、手術できるなら切ったほうが安心だろうとは思っていましたが、実際に患者の立場になると、状況を冷静に判断することができなかった。

がんでないなら手術をしなくてもいいのではないか、でもがんだったら手術しないと手遅れになるはずだ、本当に治るだろうか、自分の命はあとどれくらいだろうか……不安はつきません。自分は99%がんだと思っていましたし、『任せて下さい』と私の求めていたことを言って背中を押してくれたのが、B医師だったんです」

医者自身が治療法を迷えば、患者の不安はさらに増してしまう。どの医者に命を託すのか—それを決めるとき、医者の話を聞いて不安になるか安心するか、が一つの決め手になる。

検査で偶然見つかっただけでなく、丹羽医師のこの決断こそが生死の分かれ道となった。

へそ上から脇腹まで胴囲の4分の1周にメスを入れる大手術となったが、無事に終了。現在も再発はない。

「腎臓がんは骨に転移したり、血尿が出て初めてわかる病気なので、もしあのとき見つかっていなかったら、手遅れになっていたでしょう。それに、病気を乗り越えられたのは、あのときB医師が任せてくれと言ってくれたのが大きかった。医者は迷ってはいけない。患者の先導者であるべきなんです。そのことを患者になって改めて実感しました。その医師は、自分の疑問や不安を解消してくれるか。手術を迷っている患者さんがいるとき、自分のこの経験をお話しすることもあるんです」

CASE4 大腸がん
病気になった後も習慣は変えない

肺結核に赤痢、一過性の脳梗塞、膀胱炎、高血圧、高脂血症、肺炎、白内障、中耳炎、皮膚がん……軽いものまで含めたら、体験した病気は100以上にものぼるという。日本心臓病学会の初代理事長で半蔵門病院循環器内科の坂本二哉医師(84歳)は、まさに〝病気のデパート〟と呼ぶにふさわしい病歴を持つ。

「私はこれまでに4度ほど死にぞこないの経験をしています」と話すが、その中の一つが、大腸がんだ。

50歳のときのこと。地方へ講演に出かけた際、ベルトを締めていられないほどの腹部の膨満感を覚えた。病院へ行ってレントゲンを撮ると、進行した大腸がんが見つかる。

通常であれば、精密検査をしてから手術に臨むが、坂本医師は「即手術」を決断。4日後に手術が決行された。

「がんだとわかっているなら、早く取らないと血液に入って全身に広がってしまう可能性もある。だからすぐに手術をすることにしたんです。

じつは自分の病状は、手術当時詳しく知らなかった。術後20年経った祝いの席で、主治医の口からはじめて聞いたんです。実際は、S字結腸と直腸に合計3ヵ所のがんがあって、リンパ節にも転移していたということでした。かなり進行していたようです。そのままにしていたら、一巻の終わりだったでしょう」

当時、大腸がん手術では国内でもトップの腕を持つ医師が執刀。リンパ節へ転移したがんも丹念に切除された。腸を大きく切除したため、術後はトイレが近くなるなどの不自由は生じたが、次第に慣れていったという。

手術から20日後には、仕事にも復帰した。術後に何度か腸捻転を起こしたこともあったが、30年以上経つ現在も、再発はない。

「仕事に打ち込むことで、がんを患ったことを半分忘れていたというところもありますね」

一度手術をしたら、再発の恐怖におびえながら生活を送る人も多いが、病気を患ったことそのものを「忘れる」というのも一つの生き方だ。

さらに坂本医師は、大病を患った後も、過剰に体を労りすぎないよう、あえて生活習慣を変えないようにしたという。病になると、すぐに生活習慣を改善せよと迫る医師は多いが、ストレスを溜めずに生きることも、健康を保つ重要な要素ということだろう。

「私は大の偏食家で、野菜は食べないし、食べられないもののほうが多いくらい。けれど、がんになってからも、健康のために無理に野菜を食べようとは一切していません。食生活もまったく変わっていないですね。仕事をセーブすることもしませんでした。

私の最大の特徴は、嫌なことはすぐに忘れること。それから、諦めも早いということ。レントゲン画像を見たときはショックでしたが、医療に『100%』というものはないんです。検査の所見が間違うこともあれば、治療がうまくいかないこともある。あまりくどくど考えるほうがよくないと思っています。病気になるかならないか、いつ死ぬかということは生まれたときに決まっている。あとは運だ、とね。そういう意味では、私は神様になかなか見放されず、運がいいのでしょうね(笑)」

CASE5 前立腺がん
男性機能を失うリスクも恐れない

東京医療保健大学副学長で元NTT東日本関東病院外科部長の小西敏郎医師(66歳)は、がんを2度経験している。6年前に患った胃がんは、ごく早期だったため内視鏡治療で完治。その2年後には前立腺がんが見つかった。

「一つがんを克服したと思ったら次のがんがきた。まだほかの場所にもがんが出るのではないか、私はどのくらい生きられるのだろうか、そんな気持ちに襲われました。迷ったのは、治療法です。前立腺がんの場合、ホルモン療法、腹腔鏡手術、放射線治療、ロボット手術とさまざまな選択肢があるのですが、相談する医師が変われば勧める治療法も違いました。私の専門は消化器なので、前立腺がんでどれを選ぶのがベストなのか、まるでわからなかった」

そんな迷いが生じたとき、小西医師が相談したのが、同僚の医師だった。

「当時私が勤めていたNTT東日本関東病院の泌尿器科部長でした。長年付き合いがある飲み友達で、腕の良さも評判の医師。彼に任せよう、そう決めたんです」

その医師に勧められたのは、開腹手術だった。前立腺を摘出する手術は、術後に男性機能が失われ、排尿障害が残る可能性もある。だが、小西医師は決意を変えることはなかった。

「自分と同じ病状の患者にいつもやっている、ベストの治療をしてほしいということが私の望みでしたから。これは私の哲学です。もう孫もいましたし、男性機能が失われても逆にすっきりするのではないかと考えたんです。

手術をすれば、以前とまったく同じには戻らないことは分かっていました。でも、その後の人生に順応していけばいい、と。手術は無事に終わりましたし、後悔はありません。

医者が患者に治療法を選ばせる時代になっていますが、そんなもの決められるわけがない。何人かに相談してみて、この人なら悔いはないという医者に任せる。自分が納得できる理由があればいいと思うんです」

CASE6心筋梗塞
ちょっとした違和感で検査した

「首を寝違えたのかな……」

東京女子医科大学脳神経外科講師の林基弘医師(48歳)は、2年前の4月、首に異変を感じた。休日の夕方、自宅でテレビを観ながらうたた寝をしているときだった。

「首の左前が重たくなったんです。でも、反対向きで寝ると、じきに治った。そのままテレビを観ていたら、ふと気づくと番組が途切れてCMが映っていました。そのときは気づかなかったのですが、意識が飛んでいたんです。それから滝のように汗が噴き出してきた。おかしいなと思って、その日はすぐに眠りました」

夜中に目覚めると、症状は治まっている。だが、これは何かの兆候かもしれない—林医師は、そう予感した。

「通常、心筋梗塞の症状は胸部痛や左肩に抜ける放散痛が出るのですが、私はそれにはまったく当てはまらなかった。でも調べてみると、私のようなタイプの心筋梗塞もあるとわかりました。医者としてのプライドがあって、自宅マンションに救急車を呼ぶのもためらわれ、次の日に、循環器の専門の先生に相談することにしたんです」

翌日、心電図をとると、案の定異常が見つかった。

「林先生、すみませんがそのまま寝て下さい」

医師からそう告げられ、即、緊急治療となった。冠動脈が詰まってからすでに13時間以上が経過。心筋の壊死が進んでいた。

「治療台の上で、治療の指示を出す医師の声を聞きながら、自分の状態が良くないことがわかりました。ただ、怖いという思いはなく、『このまま目の前が真っ白になったら、あちらの世界に行ってしまうのだな』と、客観的にとらえている自分がいた。不思議な感覚でした。人生というのはテレビのスイッチを押すように、簡単に終わってしまうんだ、と思ったんです」

生死のどちらに転んでもおかしくない状況だった。だが、治療は無事に終わり、林医師は一命を取り留める。もし、あのとき首の違和感に気づかず、検査を受ける判断をしていなければ、結果は逆転していただろう。

リハビリを経て、2ヵ月後には外来に復帰。心臓の機能は正常値の70%ほどに落ちていたが、日常生活に大きな支障はない。しかし、この時点で「治った」とは思えなかったという。

「いつまた発症するだろうか。もし再発したら、自分が診ている患者さんに責任が持てなくなってしまう。それでは人間として卑怯ではないか。ある意味、欠陥品の医者になってしまったのだから、医者を辞めてまったく別の仕事をしたほうがいいのではないか……。患者さんを診ながらも、医者としての自信を失い、どうしたらいいかわからなくなってしまっていました」

一命は取り留めた。けど、自分は何のために生きるのか。目的を失って「空っぽになってしまっていた」。

そんな林医師を絶望から救ってくれたのは、外来に訪れた患者だった。

「『先生が心筋梗塞になったと聞いて気が気じゃなかった。帰ってきてくれて、本当によかった』と、僕の目の前で患者さんや家族が泣いてくれたんです。その涙を見たら、こんな自分でも頼りにしてくれている人、命を託してくれる人がいるというのは、なんとありがたいことだろう、と」

林医師はこのとき初めて、医療の本当の目的は、病気を治すことだけではなく、「元に戻すこと」なのだと気付いたと語る。

「治療によって病気を治し、『患者』から『人間』に戻れたとしても、生きる目的を持って社会と関わっていく『社会人』に戻れなければ、患者は本当に『治った』と感じられないんだということを知りました。患者さんに対しても、ただ病気を治せばいいというのではなく、『なぜ治療をしたいのか』『病気を治して何をしたいのか』ということを聞き、そのゴールに向かって一緒に努力するようになったんです」

生きる目的を見失わないこと—生死を分けるのは、こうした思いも関わってくるのかもしれない。

[現代ビジネス]

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Posted by nob : 2014年01月26日 21:40