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この愚挙を看過するも歯止めるも結局は私たち国民一人一人の意識と姿勢次第。。。

■集団的自衛権の行使容認で国民の命は守れるか?
その本質は「他国と戦争に突入しやすくなる」こと

上久保誠人 [立命館大学政策科学部准教授]

 この連載では以前、「特定秘密保護法」について論じた。これは思いのほか反響があり、共同通信を通じて、「識者評論」をさまざまな地方紙に書かせてもらった。これらの論考を読んだ方々は、筆者が特定秘密保護法に反対の立場だと考えていると思う。しかし、よく読んでもらうとわかるのだが、実は、特定秘密保護法に反対と書いてはいない。

 論考の主旨は、特定秘密保護法の成立後に、日本のジャーナリズム・国民の本当の戦いが始まる、というものだ。ジャーナリズムは、「特定秘密保護法案が成立すると、逮捕を恐れて委縮し、国民の『知る権利』が失われる」と主張してきた。しかし、その真意が「法律が成立したらジャーナリズムは権力批判をやめる」ということであってはならない。

 ジャーナリズムには、国民に真実を伝えない権力の片棒を担いでいたという歴史がある。そして、歴史を根拠にした彼らの主張は、まるでジャーナリズムは権力の前には無力だと聴こえる。だが、歴史を教訓とするならば、「権力による情報統制がどんなに強まっても、ジャーナリズムは怯まず権力批判を続けなければならない」ということであるはずだ。たとえ、これから何人逮捕者を出すことになろうとも、権力に対して批判を続けるべきだということだ。

 英国にも、特定秘密保護法に相当する「公務秘密法」がある。しかし、ジャーナリストを有罪とした事例は過去ないという。英国のジャーナリストは、権力が言論統制を試みても、委縮することはない。また、国民が権力行使を不当だとみなした場合、政権は容赦なく次の選挙で敗れ、政権の座を失ってしまう。だから、英国では政権が権力濫用を安易にできないのだ。

 日本は戦後、特定秘密保護法のような法律を制定し、運用する経験を持っていない。成立した法律の内容に問題が多いのは言うまでもない。しかし、この法律は国家安全保障上、必要なものでもある。だから、完璧な法律ができないから絶対ダメというのではなく、まず法律自体は成立させるべきだ。その上で、ジャーナリズムなど国民の徹底した批判を継続し、権力濫用を許さず、実効性のある運用ができるものに法律を練り上げていくべきだ。これが筆者の論考の真意なのである。

「集団的自衛権行使容認」に
本格的に動き出した安倍首相

 安倍晋三首相が、他国のために自衛隊の武力を使う「集団的自衛権行使容認」に向けて本格的に動き出した。日本ではこれまで、直接攻撃を受けた際に反撃できる個別自衛権の行使は認めるが、集団的自衛権は「9条が認める必要最低限の範囲にあたらない」という憲法解釈で、行使を認めてこなかった。しかし、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が報告書を提出し、「集団的自衛権行使は憲法9条の定める『必要最小限度』の自衛権の範囲内」だとして、憲法解釈の変更を求めた。

 安倍首相はこの報告書を受けて記者会見し、政府の考え方を示す「基本的方向性」を示した。首相は、「集団的自衛権」だけではなく、国連の加盟国が武力行使を行った国に一致して制裁を加える「集団安全保障」、他国からの武力行使には至っていない「グレーゾーン事態」を含めて事例集を提示した。

 具体的には、「集団的自衛権」として、①公海上で米艦船への攻撃に対する応戦、②米国に向かう弾道ミサイルの迎撃、③日本近隣で武力攻撃した国に武器を供給するために航行している外国船舶への立ち入り検査、④米国を攻撃した国に武器を提供した外国船舶への検査、⑤日本の民間船舶が航行する外国の海域での機雷除去、⑥朝鮮半島有事の際に非難する民間の邦人らを運ぶ米航空機や米艦船の護衛、の6事例が示された。

 また、「集団安全保障」として、①国際平和活動をともにする他国部隊への「駆けつけ警護」など自衛隊の武器使用、②国際平和活動に参加する他国への後方支援、の2事例、「グレーゾーン」として、日本の領海に侵入した潜水艦が退去要求に応じない場合の対処という事例が示された。

「集団的自衛権」の本質的な議論を避ける
安倍首相の「空虚」な説明

「集団的自衛権」という国論を二分する難しい問題を国民に理解してもらうために、安倍首相はさまざまな工夫をした。例えば、首相はパネルを使って、周辺有事の際に取り残された邦人を輸送する「米軍艦船の防護」を説明した。パネルには、「赤ちゃんを抱きかかえた母親に不安げな表情で寄り添う子ども」のイラストが描かれた。そして、首相は「日本の自衛隊は日本人が乗っている米国の船を守ることができない。これが憲法の現在の解釈だ。皆さんが、あるいはお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのだろうか」と訴えたのだ。

 また、国連平和維持活動(PKO)に参加する要員が襲われた場合に救助に赴く「駆けつけ警護」についても、パネルが用意された。首相は、「アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどで地域の平和や発展のために活動している」が「彼らが突然、武装集団に襲われたとしても、自衛隊は彼らを救うことができない」と述べた。NGOの日本人ボランティアや他国の国連平和維持活動の要員が、現地の武装集団に攻撃されても、PKOで派遣された自衛隊が警護できない現状を訴えたのだ。

 安倍首相は記者会見で、何度も「国民の命を守る」と繰り返し、「熱弁」を振るった。しかし、その内容は驚くほど「空虚」だった。それは、上記のような事例が、国民の支持を得やすいものではあっても、集団的自衛権の本質的な議論から外れているからだ。

集団的自衛権行使の本質は
「他国と戦争に突入する」ということ

 集団的自衛権の本質は、「他国を防衛する戦争に加わること」である。これまでであれば、米国などの同盟国が戦争に突入して支援要請を受けても、日本は集団的自衛権が憲法上認められていないことを理由に断ることができた。しかし、集団的自衛権行使容認となると、戦争参加を断る理由がなくなってしまう。また、集団的自衛権を行使すると、相手は日本を「敵国」とみなすことになる。当然、日本が攻撃される可能性は増すことになる。

 つまり、集団的自衛権を行使した場合、「邦人救出」で終わりになるのではなく、そのまま敵国との戦争状態に突入してしまうのだ。だが、安倍首相はこの本質論を徹底的に避けている。首相は、「あらゆる事態に対処できるからこそ、抑止力が高まり、紛争が回避され、戦争に巻き込まれることがなくなると考える」と述べた。つまり、日本が同盟国の要請で戦争ができる態勢を整えれば、同盟国に戦争を仕掛ける国はなくなるというのだ。

 しかし、これこそまったく説得力のない、リアリティを欠く話だろう。世界最大の軍事大国である米国が抑止できないような紛争に、「日本が参戦できるぞ」と言ったところで、どれだけ戦争抑止の効果があるというのだろうか。また、「湾岸戦争」「イラク戦争」など、米国の戦争は、米国からの先制攻撃がほとんどだ。強大な米国を相手に、負けるのがわかっていて自ら攻撃を仕掛ける国などほとんどあるわけがない。米国が北朝鮮のミサイル攻撃を受けるという想定がよくなされるが、本当に攻撃したら、米軍の報復攻撃で一瞬にして金正恩政権は滅亡するのであり、北朝鮮がそんな愚を犯すという想定はほとんどリアリティがない。

 要するに、巨大な米軍に小さな自衛隊が加わったら、敵国に戦争を思いとどまらせる抑止力が高まるというのは、ロジックとして非常に苦しい。むしろ自衛隊の援助によって、米軍が戦争を決断しやすくなるということもいえる。集団的自衛権行使容認は、日本が戦争に巻き込まれる可能性を高めるというのが、素直なロジックの立て方なのだ。

 安倍首相は、「巻き込まれるという受け身の発想ではなく、国民の命を守るために何をなすべきかという能動的な発想を持つ責任がある」と述べた。しかし、「国民の命を守る」と繰り返す首相が、精神論に逃げるのは無責任の極みだろう。

安倍首相に信頼されない国民と
国民に信頼されない「閣議決定」

 筆者は以前、いわゆる「政治不信」以上に、政治家の「国民不信」が深刻だと論じたことがある(前連載第65回を参照のこと)。政治家は本音では、国民からの冠婚葬祭から子どもの進学・就職などまでの便宜供与の要求に応えるために、政治にはカネがかかるし、汚職に走ることになると考えている。また、規制緩和・自由化、財政改革など「痛み」を伴う重要な政策を、国民が理解できないと思っているのだ。

 安倍首相が、集団的安全保障行使容認について、本質論を避けて国民に支持されやすい話を続けるのは、首相の無責任を示しているだけではない。それ以上に、首相が国民をまったく信頼していないことが大きいのではないだろうか。

 その一方で、安倍首相の言葉がまったく信頼されないという側面もある。例えば、首相が「閣議決定」で集団的自衛権行使容認を決めようとしていることが、立憲主義の破壊だと批判されている。歴代内閣が長年守ってきた憲法解釈を、一内閣の判断で変更できるとすれば、憲法が権力をしばる「立憲主義」の否定につながる前例を残すことになると批判されているのだ。だが、これは民主主義を「交代可能な独裁」と捉え、首相など政治指導者の決断が発表されるまで、意思決定は基本的にすべて非公開であることを国民が容認する英国ならば、まったく問題にされることはないものだ(前連載第63回を参照のこと)。

 つまり、世界的にみれば「閣議決定」というのは、民主的プロセスとして、立憲主義を否定するというほどの問題があるわけではない。日本でこれが問題とされるのは、日本国政府に対する根本的な部分での「信頼」が欠けているからではないだろうか。

「日本ならず者国家論」で
集団的自衛権を考える

 この連載では以前、「日本ならず者国家論」という論考を出した(第59回を参照のこと)。これも比較的反響があったもので、経済誌や新聞に紹介されたことがある。それは、憲法9条の存在そのものが、日本を「かつて侵略戦争を起こした、ならず者国家」の地位に貶めたままにしているのだという主張だ。日本は、憲法9条があるからこそ、中国、韓国などの近隣諸国から信頼を得られず、過去の過ちを反省していないと批判され続けているのだ。

 日本が「ならず者国家」のレッテルから脱するには、まず、憲法9条の撤廃が必要になる。そして、ここからが重要だが、憲法9条を撤廃した後に、どんなに困難な国際紛争に直面しても、知恵を振り絞り、ありとあらゆる手段を用いて、外交交渉で問題解決する姿勢を貫き続けることだ。この覚悟ある姿勢を何十年も続けて、初めて日本は平和国家として、国際社会で名誉ある地位を占めることができるのだと考える。

 集団的自衛権行使容認の議論も、「日本ならず者国家論」によって考えるべきだろう。「集団的自衛権を保持するが使えない」という独特の憲法解釈をせざるを得ないのは、日本が「ならず者国家」であり、平和憲法で軍事的冒険を抑え続けないといけない危険な存在だからだ。

 集団的自衛権を容認するのは、日本を「ならず者国家」とする憲法の制約を解くことである。そして、その意義はあくまで、集団的自衛権行使を容認しても、それを実際に行使せざるを得ない戦争という事態に追い込まれないよう、徹底的に知恵を絞って国際社会を渡っていくことで、「世界で最もシビリアンコントロールの効いた平和国家」としての国際的地位を確立することだと考える。

 換言すれば、安倍首相が避け続ける、集団的自衛権を巡る「戦争参加」と「抑止力」の矛盾こそ、日本が最も真剣に正面から議論をしなければいけないことなのである。

[DIAMOND online]

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Posted by nob : 2014年06月10日 08:12