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まったく同感です、、、問われれば応えながら見護りつつ、自分力を自ら育む手助けをしていくこと。。。

■「ほめて育てよ」は間違い。
ほめることはその人を見下すことである

宮台真司×神保哲生×岸見一郎 鼎談第2弾(前編)

37万部のベストセラー『嫌われる勇気』の影響で一気に日本における知名度が高まったアドラー心理学。同書の著者・岸見一郎氏と、社会学者の宮台真司氏、ジャーナリストの神保哲生氏がインターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」で繰り広げたトークセッションを2回に分けて掲載。
前編では現代日本の親子問題、恋愛問題、教育問題などをテーマに、「課題の分離」が不得意な日本人の特徴から、「ほめて育てよ」の嘘までをアドラー心理学を用いて語り尽くす!

すべての悩みは
対人関係の悩みである

神保哲生(以下、神保) 本日は、哲学者・岸見一郎先生をお招きしての「アドラー心理学」第2弾ということになります(第1弾は本連載の第9回、第10回をご覧下さい)。

宮台真司(以下、宮台) 第1弾は、「過去よりも未来」あるいは「トラウマよりも最終目的」という、わりと時間軸に沿った話をしましたが、今回は時間軸というよりも、むしろ人間関係のような空間性が主題になります。それゆえ第2弾が必要だということですね。

神保 人間関係ということでいうと、『嫌われる勇気』によれば「すべての悩みは対人関係である」と書かれています。しかし、自分が抱えている悩みには、対人関係じゃないものもあると感じる方もいるかもしれません。それでもアドラーは、すべては対人関係の悩みだと言い切る。岸見先生これはどういうことでしょうか。

岸見一郎(以下、岸見) 話をすると皆さんわかってくださるのですが、逆に言えば対人関係の問題だととらえないと、少しも問題が解決されないことのほうが多いはずです。対人関係の問題だとわかってしまえば、解決の糸口が見えてくることが多いのです。

神保 ほとんどの自分の悩みは、じつは対人関係の文脈に落とし込めるということですか。

岸見 そうです。

神保 自分だけでただ悩んでいるようなもの、たとえば自分のキャリアのこととか、体型のこととか、そうしたこともやはり対人関係だと。

岸見 体型なんて、人との関係がなければ問題にならないでしょう。

神保 たしかに、一人で生きていればね。

宮台 誰も見ていませんからね。

岸見 性格もそうです。性格は対人関係のなかで決まるものです。もし一人で誰とも接することなく生きているのであれば、性格は問題になりませんし、体型だって誰も気にしない。痩せようとも太ろうとも思わないはずです。

宮台 「共同体感覚」など今回扱う重要な問題と関係するので、裏側から言っておきます。僕は1980年前後に自己啓発セミナー──アメリカで言うアウェアネス・トレーニング──を体験しました。当初は受講者もスーパーエリートが多く、ファシリテイターが、体験の組織化と、理屈の説明を、織り交ぜながら進行するものでした。
 最も重要なものの一つが「過去、一番自分が楽しかったことを、ありありと思い描く」というリマインディング・プログラム。これをやる前にダイアド(二人一組)のセッション等を通じて受講者は変性意識状態に入ります。その後、時間をかけて頭の中の鍵を外し、過去を思い出す。すると、皆がブワーッと声をあげて泣き始めるんです。
 その後、皆で体験をシェアするのですが、それを通じて僕は、最も楽しかったことや幸せだったことも、すべて対人関係に由来することを学びました。どんなに辛い家族関係を生きてきた人も、むしろだからこそ、この上なく幸せだったことや希望を抱いたことを覚えている。それらはすべて対人関係に関わる幸せや希望なのです。
 いつも厳しくて暴力を振るうお父さんが、珍しくこんなことをしてくれた。仲が悪かった両親がたった一度子どもたちを連れて海に行ってくれた。すべての悩みは対人関係の悩みですが、だからこそ、いちばん幸せな記憶もすべて対人関係の幸せです。それがアドラーのいう最終目的に関係するのですね。
 前回、岸見先生が説明してくださったけど、アドラーは、究極の最終目的を思い描き、それによるプライミング(先行の学習や記憶が後続の事柄に影響を与えること)で現在の優先順位を変えるよう推奨します。この場合のリスクは、最終目的を他の人に操縦されること。たとえば、アドラーを持ち出す経営者は、従業員の最終目的を操縦しようとします。
 最終目的を他人に操縦されないためには、過去の幸せがもっぱら対人関係に由来していることをわきまえ、自分が過去にいちばん幸せだと感じたことに矛盾しないように最終目的を設定するのが安全です。繰り返すと、悩みや苦しみにおいても、希望や勇気においても、対人関係が最も重要なファクターになります。

「課題の分離」とは何か

神保 対人関係に関連して、アドラー心理学の非常に重要なキーワードに「課題の分離」というのがあります。これについて触れていきたいと思います。

宮台 社会学者として言うと、「課題の分離」は日本の社会にありがちな弱点に関係します。親が、子どもの課題と自分の課題の区別がつかなくなり、それによって子どもも、親の課題と自分の課題の区別がつかなくなる、というのが、最終目的を他人に握られるケースの典型です。

神保 その「課題の分離」について、できれば具体的な事例で、岸見先生は実際にカウンセリングをやられているので、その実例を引きながらご説明いただけますか。

岸見 アドラーは、「あること」の結末が最終的に誰に降りかかるか、あるいは「あること」の最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えたとき、その「あること」が誰の課題であるかがわかる、という言い方をします。具体例をいうと、私は「勉強することは誰の課題か」と、実際にカウンセリングの場面で親に尋ねます。自分の子どもが勉強しないからと相談に来られる親御さんは非常に多い。そこで、勉強しないことの結末は最終的に誰に降りかかるか、あるいは最終的な責任は誰が引き受けなければならないかを考えてもらい、「勉強をするかしないかは、誰の課題でしょう」と質問するのです。
 すぐに「それは子どもの課題です」と答える人は実はあまり多くない。「まぁ理屈としては子どもの課題ですよね」って首をかしげながら答える人が圧倒的に多いわけです。でも実際のところ、勉強しなければ困るのは子どもであって、別に親の頭が悪くなるわけではない。高校入試などで志望校の選択範囲がうんと狭くなるなど、責任は子どもが取らなければなりません。だから勉強は子どもの課題なのです。このことを親が認めれば、それまで無邪気にあるいは無意識に言ってきた「勉強しなさい」という言葉は、言ってはいけないし、そもそも言えないことになります。およそあらゆる対人関係のトラブルは、人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こるとアドラー心理学では考えます。

神保 では、勉強しない子どもに「勉強しろ」と言ってはいけないというところから始まるんですね。そもそも、自分の課題じゃないんだからと。

岸見 あるいは、言わなくてもいいということですね。

宮台 日本にも昔からそういう言い方はありましたよね。「困るとすれば自分だから、好きにすればいい」と。僕もいつもそればかり言っています。

神保 でも、そう言われても「はい、そうですか」と言えない親は多いですよね。やはり勉強してもらわなきゃ困る、いい学校に入ってもらわなきゃ困ると。それが子どもの将来のためだと。

岸見 そこがポイントです。要するに「あなたのため」というところが胡散臭い。自分のためなのです、率直に言うと。

神保 親が自分のために言っている。

岸見 でも、そうは言えないというか、言いたくないので、「あなたのためを思って言っているのよ」などと言葉を補足しながら、「勉強しなさい」と親は言うわけです。

宮台 ここは重大なトラブルに結びつくポイントです。僕は性愛ワークショップで〈親への恨み〉をキーワードにします。実際それが障害になっているケースが大半です。親の言う通り、つまり親の課題と自分の課題の分離に失敗したまま、一生懸命勉強する。「勉強して東大に入れば、あとは何でもできる」と言われてきたとします。
 で、実際、東大に入ったけど、モテないし親友もできない。人間関係を自由にハンドリングして青春を謳歌する周囲を見て、妬み嫉みなど浅ましき感情に駆られた挙げ句、「ママの言う通りにしてきたのに、話が違うじゃないか!」となる。これは依存的暴力としての家庭内暴力につながります。〈親への恨み〉の背後に「課題分離の失敗」があるんです。

神保 では、勉強しなさいと言ってはいけないとして、それで終わりですか? その次のアドバイスはないんですか、親に対して。

岸見 その次はあるのですが、あまり言いたくはないです。カウンセリングだと「勉強しなさいと言ってはいけない」でとりあえず終わります。で、どうなったかを次回に報告してもらう。

神保 なるほど。

岸見 とりあえず1週間経ってからもう一度お聞きすると、「やはり勉強しません」と言われる。「でも子どもが勉強しないからといってあなたは困らない。勉強しない人生も美しい人生ですよ」と、僕は断言します。いずれにせよ、親が子どもの人生を生きるわけではないので、「とりあえず、勉強について話すのをやめませんか」と、さらに言います。
 実際はその次がないわけではありません。つまり、本来は子どもの課題であるものを、親と子どもの共同の課題にするのです。それは不可能ではない。ただ、それを言ってしまうと、親は何でもかんでも共同の課題になると勘違いして平気で子どもの課題に介入するので、あまり言いたくはありません。
 先ほど言いましたが、人の課題に土足で踏み込むこと、踏み込まれることから、対人関係のトラブルは起こります。土足で踏み込まなければ、対人関係がこじれるリスクはある程度避けられます。だから土足で踏み込まず、共同の課題にする手続きを踏めばいいわけです。具体的に言うと「最近のあなたの様子を見ていると、あまり勉強しているようには見えません。そのことについて一度話し合いをしたいのですが、いいですか」と伝えるのです。

神保 子どもに?

岸見 はい。多くの場合「嫌だ」と言われますよね。そうしたら、「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わないけれど、またいつでも相談したいことがあれば言ってください」と、それで終わらせるしかないですね。

「共同の課題」が
生みやすい勘違い

神保 「共同の課題」ですが、あまり早くそこにいってしまうと、何でもかんでも共同の課題にして、結局は相手の課題に踏み込むだけになりかねないですよね。これはどうしたらいいんでしょうか。まずは人の課題と自分の課題をはっきり識別できるようにして、そのうえで共同の課題を話し合って決めるというプロセスに入るということですか?

岸見 というか、協力関係に入るのです。

神保 協力関係?

宮台 一足跳びに「共同の課題」に行くと勘違いが生じると岸見さんがおっしゃったことがポイントです。自分が日頃何をやっているかをモニターできるようになることが、まずは大事です。それができないと大きな勘違いにハマる。「共同の課題」の御題目で「課題分離の失敗」が正当化されるからです。

神保 頼まれもしないのに相手は助けを必要としていると勝手に判断することが問題ということですか?

岸見 それはありますね。私の息子が小学生のときにこんなことを言いました。私が「甘やかしってどういうことかわかる?」と聞いたら、少し考えて「頼まれもしないことをすること」だと。正解ですね。多くの親はそういうことを平気でやっている。

神保 先生はご著書のなかで、友人のお嬢さんが泣きながら帰ってきたとき、「何かできることはある?」と親が聞いたら、「leave me alone」と言ったという話を引いていますね。

宮台 「課題の分離」に成功した親が「できること」とは、「放っておくこと」だという話です。ここに、若い人の性愛状況が関係します。「ソクバッキー問題」として知られるように、恋愛相手を束縛するヘタレたちが増えています。なぜ相手を縛ろうとするのか。そこにもやはり「課題分離の失敗」があります。
 近代の性愛は、二人で同じものを同じように体験したい、つまり一体化したいという目標と関係します。ところがソクバッキーはその目標を間違って解釈するのです。「なぜ君と僕で意見が違うんだ、なぜ僕に従わないんだ」などと。たとえば「その髪型は君に似合わないって言ってるじゃないか」と。「課題の共有」どころか「相手の操縦」です。

神保 自分の好みを押しつけているだけだよね。

宮台 昨今の若い人を見るとそうした貧しい性愛コミュニケーションをする輩が大半です。だから僕は「ナンパをして成功するところまでは前半部分にすぎない」と言います。実際ソクバッキーのナンパ師が珍しくない。ちなみに僕は「後半部分は、相手の幸せに寄り添うべき相手にダイブできるようになること」と言います。アドラーの言う「協力」です。

「共同の課題」にすべきこと、
すべきでないこと

神保 課題の分離は簡単にできるものでしょうか?

岸見 よく考えればすぐ理解はできるはずです。でも、あまり理解したくない人が多いのかもしれないですね。先ほど言いましたが、課題の分離について説明すると、多くの親はそれを認めつつも首をかしげるわけです。

神保 そうでしたね。

岸見 言われればわかるのです。言葉ではわかる。けれど認めたくないという人が多い。

宮台 それは認知的整合化のなせるワザです。そうした親の場合、子どもの課題と自分の課題を混同することで自分の人生目標が与えられ、それによるプライミングで今の優先順位が決まっている。だから、子どもと自分の課題が別だと認めた瞬間、「あれ、私は今日からどうやって生きていけばいいんだろう」となる。だから認めたくないんです。

神保 自分の人生を生きていなかったわけですね。

宮台 そのとおりです。

神保 とはいえ岸見先生、「自分からはあまり勉強しないタイプだったけれど、親からうるさく言われたので仕方なく勉強した。そのお蔭で今はそこそこの状況にある」と思っている人はけっこういると思うんです。僕なんかも親に言われなきゃ全く勉強しなかった気がする。それはどう考えたらいいですか。

岸見 それは「お蔭で」と言えるような意味で成功したり何かを達成ができたからそのように言うわけであって、逆のケースのほうが圧倒的に多いかもしれません。結局、自分の人生なのに自分で責任を取らず親任せにしている。たまたま結果が世間的にいう成功だっただけですよね。

神保 「お蔭で」っていうのは、逆のケースだと「せいで」になるわけですね。

岸見 そうです。

宮台 神保さんだって、言われなくても高校2年生から突如勉強し始めることもあり得たでしょう。

神保 ああ、当然そうでしょうね。

宮台 親に言われて勉強した結果、そうなったと思っているけど、実際には他のルートを通ってもそうなったかもしれない。あるいは、もっとよくなったかもしれないわけです。

神保 たしかに、親に言われたからこの程度しか勉強しなかったのかもしれないしね。

宮台 「〜のお蔭で」は、問題を過去に帰属させたり他者に帰属させたりする外部帰属化です。子どもにとっては責任逃れで、親にとっては自分の手柄にする夜郎自大化です。

神保 しかし、「これは共同の課題にすべきこと、これは私の課題、これはあなたの課題」といった判断は難しいですね。

岸見 カウンセリングに来られる方を見ると、一方で本来はすべて自分の力でやるべきことまで他者に依存してしまうタイプの人がいます。他方で本当は援助が必要なのに援助を求めない人も多い。

神保 つまり助けを求めない?

岸見 人間は一人では生きていけないことを大前提にすれば、できることとできないことの見極めをきっちりとつけるのが大事です。できないことまでできるという人も困りものです。だからこそ課題を分けていく作業は絶対に必要なのです。

神保 まずは、自分にできないこととできることを見極めて、できないことだった場合は、共同の課題にして欲しいと意思表示するんですか?

岸見 そうです。だから、そういう意思表示を子どもからしてきたときは、共同の課題にしていいと思います。それは比較的安全なのですが、親が子どもの課題を共同の課題にしようとするケースは非常に危険です。親は子どもに対して「何かできることはないですか」と常に言っておけば十分です。そして、子どもが何も言ってこなければ何もしないほうがいいのです。

横の関係/縦の関係と
共同体感覚

神保 アドラー心理学では、縦の関係と横の関係ということもすごく言われます。たとえば、親が「子どもによかれと思って」というようなのは縦の関係で、それでは問題は解決しないと。とはいえ、親からすれば子どもとの関係は縦が当たり前だと思っているところがあるでしょうし、人生経験も親のほうが豊富なわけです。それでも、「いや、そうではなく、横の関係つまり対等であるべきだ」という。その点を説明していただけますか。

岸見 親と子どもが同じだと言っているわけではありません。知識も経験もたまたま先に生まれたので、子どもよりは親のほうが多少はあるでしょう。そういう意味では同じではない。また、取れる責任の量が違います。たとえば、ある家庭に門限があるとします。小学校1年生の子の門限が夜10時ということはあり得ない。責任が取れませんから。けれど、もしその家庭に門限というものがあるのならば、子どもだけでなく父親にも門限がないと対等とは言えないということです。

神保 父親は遅い時間でもいいけど、門限はやっぱりなきゃいけないと。

岸見 そうです。親と子は違うけれど、人間としては対等だと言いたいのです。

宮台 アドラー心理学のキーワードは、岸見さんの『嫌われる勇気』のタイトルにある「勇気」に加えて、「責任」です。前回の話にも出たように、過去ならぬ未来の引力に自分が引っ張られる場合に「勇気」が出るわけです。これに対し、課題の分離は「責任」の問題に深く関わります。
 やはり恋愛がわかりやすい。プラグマティストが重要視するような、利害損得の〈自発性〉を超えた、内から湧く力である〈内発性〉──利他性や貢献性── の本質は、アダム・スミスが言うシンパシー(同感)に当たります。「相手が喜ぶことが自分の喜びになり、相手が悲しむことが自分の悲しみになる」という感情の働きです。
 この同感可能性にとって、親子や先輩後輩や上司部下のような縦の関係は、雑音になります。なぜなら、「何かしなければ」という義務倫理的なものが入り込むからです。ちなみに哲学では、義務倫理と徳倫理を分けます。義務倫理学は、カントの無条件命令が典型ですが、「〜しなければならない」という義務的命令を重視します。
 これに対し、内から湧く力である「内発性=ヴィルトゥス(徳)」を重視する徳倫理学は「〜しなければならない」でなく「〜したくてたまらない」という感情を重視します。上下関係や、横関係でもルールで縛られた関係だと、感情の次元が義務に乗っ取られます。むろん僕らは義務を引き受けて社会生活を送りますが、問題はその引き受け方です。
 〈内発性〉に発する喜びゆえに引き受けるか。義務の観念に縛られて引き受けるか。フロイトなら「超自我」という形でやはり義務の次元を重視します。超自我は心の中で抑圧を担います。フロイトには強迫的な「義務」からの解放という主題が出てきますが、引き受ける「責任」の話がない。「責任」を引き受けるには〈内発性〉が必要です。

神保 『嫌われる勇気』では縦と横の関係に関連して、「共同体感覚」という話が出てきます。縦の関係では共同体感覚が実現できないと。そこのところ説明していただけますか。一般的に言われているコミュニティ的な意味での共同体と同じなのかも含めて。

岸見 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)という概念は、この言葉だけではそれが何を意味するかわかりません。アドラーは、これを「ミットメンシュリッヒカイト」(Mitmenschlichkeit)とも言い換えています。「人と人」(Menschen)が「共にある」とか「結びついている」(mit)という意味です。そういう関係を考えたとき、それは縦ではあり得ない。横でしかミットはできないと私は理解しています。

宮台 「課題の分離」と関係づけます。社会システム理論では、融合(フュージョン)と、分離されたものの統合を、区別します。レヴィ・ブリュールによれば、未開社会にも共同体がありますが、そこではフュージョンがポイントになります。「自分と他者」の融合や、「人と物」の融合です。
 近代社会では「自己と他者」も「人と物」もいったん分離されたので、上からあるいは外からの統合要求は、抑圧を生みます。そうではなく、「課題の分離」を達成した人たちが、〈内発性〉ゆえに相手と同じことを喜ぶのが、良い。相手の喜びが自分の喜びになる相互的な関係を軸としたとき、初めて「課題の分離」と矛盾しない共同体が見えてきます。
 神保さんが言った「共同体」は、「課題の分離」と矛盾する抑圧的なものです。日本にはそれが目立つのです。たとえば学校では「君はなぜ自分の目標ばかり言うんだ」「皆で同じ目標を達成しようと頑張ってきたじゃないか」と体育会的です。それも共同体と呼ばれますが、「課題の分離」が貫徹したアドラーの言う共同体の、反対物です。

ほめることは
相手を見下した行為

神保 僕は意外だったんですが、アドラー心理学では「ほめるのはダメ」なんですね。ほめるのは縦の関係だと。

岸見 はい。そのことを知らないと、「叱らずにほめて育てよ」と皆が言うので、多くの親は子どもをほめて育てます。ところが、それではうまくいきません。子どもをほめるとはどういうことかをまず考える必要があります。たとえばカウンセリングに母親が3歳の子どもを同行してきたとしましょう。カウンセリングはだいたい1時間ぐらいなのですが、その間子どもは母親の隣で待たないといけない。子どもは自分が置かれている状況の意味を確実に把握できると僕は信頼していますから、1時間おとなしくしていたからといって驚きはしません。ですが親はひどく驚いて、カウンセリングが終わったときに「えらかったね」「よく待てたね」とほめる。では同じような状況で、夫のカウンセリングをしているときに妻が待っていたとしましょう。1 時間経って終わったとき夫は妻になんと言うでしょうか。

神保 「お待たせ」かな。

岸見 どうして「えらかったね」と言わないんですか。

神保 ああ、そうですね。子どもだったら言うのに。

岸見 そこがポイントなのです。「子どもは待てない」と思っているわけです。それなのに思いがけず待てたから「えらいね」とか「よく待てたね」という言葉を発する。でも大人同士でそんなことを言ったら失礼じゃないですか。だから「ほめる」というのは、能力のある人が能力のない人に下す評価の言葉なのです。

神保 「ほめる」というのは、上から下だと。

岸見 縦関係が前提ですね。横の関係だと絶対にほめはしない。

神保 しかし「勉強しなさい」と言ってはならず、自分で勉強しているのを見て「えらいね」と言ってもいけない。どうしたらいいんでしょうか。

岸見 たとえば今の場面だと、大人同士ならなんて言うでしょうか。もちろん「お待たせ」でもいいですが。子どもも言われて嫌ではない言葉がけはなんでしょう。

宮台 僕だと「ありがとう」かな。

岸見 そうですね。「ありがとう」がすぐに出てくる人は少ないです。「ありがとう」というのはほめているのではなく、子どもの貢献に注目した言葉です。1時間おとなしくして親に貢献したということを子どもに伝えているわけです。貢献を伝えられた子どもは、自分に価値があると思えます。「ああ、自分は人の役に立ててよかったな」と自分の価値を認められるようになる。ところが、ほめられた子どもは自分に価値があるとは思わない。どこか馬鹿にされたような気がする。なぜかは子どもにはわからないでしょうが。

神保 では、ほめれば喜ぶだろうと思うのは間違いですか。

岸見 間違いです。小さな子どもさんを観察すればすぐわかることですが、ほめられた子どもはすごく嫌な顔をしています。それを知らないから親は観察しませんが。われわれ大人がもし「えらいね」と言われて嫌であれば、子どもも嫌なのです。それなのに大人と子どもは違うというのは、差別の論理だと私は思います。

神保 逆に、ほめられると喜ぶような子どもだと要注意ですか。

岸見 要注意です。

宮台 普通に敏感なら、「よくできたね」って言われたら、「できないと思っていたんだな」と感じます。大人に言わないのは、それが伝わっちゃうことを知ってるからです。ならば、なぜ子どもには伝わらないと思っているのか。子どもはほめるものという思考停止があるからでしょう。こういう思考停止は性愛コミュニケーションにもよくあります。

神保 ほめられると喜ぶ子どもは、できないと思われていることをなんとも思わず、縦関係に満足しているのだと。

岸見 そうですね。だからそういう子どもは、上司にお世辞を言って気に入られたがるような大人になるかもしれない。

神保 うーん、なるほど。

岸見 そうした子どもは、「ほめて、ほめて」と言います。親が意識的に「ありがとう」や「助かった」というような子どもの貢献に注目する言い方をし始めても「どうしてほめてくれないの」と。そういう子どもには「私はあなたをほめない。なぜなら、ほめることはあなたを家来や子分にすることだから。私はあなたを家来にも子分にもしたくない」とはっきり言うべきだと思います。

「見る神」が
いない社会の課題

神保 岸見先生は、縦の人間関係が精神的な健康を損なう最大要因であるとも書かれています。

岸見 そう思いませんか。縦の関係では、絶えず上の人の顔色を窺わないといけない。自分の言うことが気に入られるかどうかを気にするのはかなりしんどいですよね。

宮台 人間は、人が見ているとちゃんとするけど、見ていないとズルをする動物です。実験でも確かめられてきました。だから、この性向を利用した制度があります。国家機密をアメリカなら25年、ヨーロッパの多くの国なら30年で情報公開するルールがありますが、いずれ情報公開されると知っていれば、私利私欲の暴走が抑制されるからです。
 社会システム理論の視座から言えば、「見る人」がいないとちゃんとできない成員が大半である社会は、一定以上は複雑になれません。絶えず対面制御が要求されるので、コミュニケーションの文脈が制約され、取引コストが上がるからです。コミュニケーションを文脈自由にするために必要な信頼を調達できないということです。
 部族段階(原初的社会)から文明段階(高文化社会)へと複雑化した社会は、大半が「見る神」の表象を持ちます。代表的なのは、ユダヤ教の神やキリスト教の神やユダヤ教の神です。これら3つは同一神ですが、この唯一絶対神に限られません。日本で「お天道様が見ている」とか「ご先祖様が見ている」という場合も、「見る神」を持ち出している。
 前ローマ教皇ベネディクト16世が、キリスト教の唯一絶対神──「主」ないし「神の中の神」──の本質は「見る神」で、罰や報償を与える神ではないと述べています。罰や報償に関係なく、「見る人」を前にすれば、人はシャンとするのです。あるいは「見る人」がいなくても「見る神」がいればシャンとします。
 神を持たない社会、あるいは神が死んだ社会ではどうなるか。それを課題としたのが、プラグマティズムの社会心理学者ジョージ・ハーバート・ミードです。ミードについてよく知られているのが、「I」と「Me」の対立概念です。その含意を日本では社会学者でさえ理解していないので、ここで紹介します。
 ミードは、「Me」とは「自分が見た自分」で、「I」とは「自分が見た自分に対する反応」だと言います。たとえば、「自分が見た自分」が浅ましく見えたことへの反応として「浅ましいことはやめよう」という意欲が湧いたりするのが、そうです。こうして、「見る神」が存在しなくても、「見る自分」の存在によって、自分がシャンとすると考えたのです。
 では、「Me」の浅ましさに対して適切に反応する〈内発性〉としての「I」は、どう形成されるか。ミードは、ロールテイキング(役割取得)をもたらすロールプレイ(ごっこ遊び)が重要だとします。たとえば、僕らが子ども時代のアニメでは「卑怯者!」がキーワードでしたし、子ども同士のごっこ遊びに「卑怯だぞ!」という物言いが頻繁にありました。
 そうした罵声自体がネガティブなサンクションになって、子どもらは、「一般に人はこういう振る舞いを卑怯だと思うこと」や「そう言われると誰だって嫌だと思うこと」を学びます。これをミードは「一般的他者の役割を取得すること」と表現します。そうやって子どもらは立派な大人になっていく。ところが今は「卑怯」という言葉は死語です。

神保 ほんと、聞かないね。

宮台 そう。「立派」と「卑怯」という対立概念が消えて、「うまくやるヤツ」と「やれないヤツ」の対立だけになりました。そこに、ロールプレイが貧弱だという「ロールテイキングの貧しさ」ゆえの、コミュニケーションの貧しさが見出せます。それが貧しいのは、「Me」に対する適切な反応としての、共同体感覚に満ちた「I」が不在だからです。
 ミードは、ごっこ遊びのロールプレイを通じて「一般的他者の役割」つまり共同体感覚に満ちた「I」を習得する過程で近接する他者たちとの関係性が不可欠だと考えましたが、最終的には近接する他者たちが必要なくなる、つまり周りに人がいてもいなくても大概の人がそう見るように自分を見て反応できるようになる、としています。

岸見 縦の関係が前提の「ほめる、ほめられる」について補足しますと、ほめられて育った子どもは、ほめる人がいないと適切な行動をしなくなります。ゴミが落ちていれば普通拾いますよね。でも、そうした子どもはまず周りを見ます。そして目撃している人がいれば拾ってゴミ箱に捨てる。それは精神的にあまり健全だとは思えないですよね。誰も見ていなくてもちゃんとゴミを拾う子どもになって欲しい。だからほめることは望ましくないとアドラー心理学では考えます。

宮台 ある程度複雑化した社会には、他人に見られない振る舞いがいっぱいあります。もし人が見ていなければ何でもアリになるようであれば、複雑な社会は到底存続できません。「見る人」がいなくても、「見る神」ないし「見る自分」の存在ゆえにきちんと振る舞えることが重要になります。
 その場合も、「見る神」や「見る自分」が、「損得勘定」を超えた「内から湧き上がる力」をもたらすのが良い。つまり〈自発性〉ならぬ〈内発性〉をもたらすのが良い。初期ギリシアが「見る神」を否定して「見る自分」を鍛えようとしたのは、「見る神」が「罰する/褒美をくれる神」になると、損得勘定が優位になりがちだからです。
 ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーが、主なる神は「見る神」であっても「罰する/褒美をくれる神」ではないと強調するのも、ルカによる福音書10章25節以降の「善きサマリア人の喩」などを通じて、こうしたギリシア的思考を意識するからです。ちなみに全てコイネーギリシア語で書かれた福音書にはギリシア的思考の影響があります。
 いずれにせよ、人が見ているからちゃんとするのと、人が見ていないときに内から湧き上がる力でちゃんとするのとでは、動機づけの文脈依存性が違います。後者は社会的文脈をオープンにし、社会の進化を支えます。ミードによれば〈内発性〉の不在は、子どもの成長過程における故障です。岸見先生が「健全ではない」とおっしゃることに重なります。

(続く)

[DIAMOND online]

ここから続き

Posted by nob : 2014年07月28日 06:20