« そのとおり!!!Vol.43/言い返せない本人も、スルーしたうえに追及もしようとしない都議会も、それを看過する私たち一人一人も、、、私たちはそれだけの者たちでしかない。。。 | メイン | ますます多様化する葬儀や埋葬の在り様。。。 »

痛恨の極み、、、国民一人一人の力の総合以上の国ができることはないのだから、歯止めるのもボールを蹴り返すのも今後の私たち一人一人の意識と姿勢次第。。。

■社説:歯止めは国民がかける

 第一次世界大戦の開戦から今月で100年。欧州列強間の戦争に、日本は日英同盟を根拠にした英国の要請に応じて参戦した。中国にあるドイツ権益を奪い、対中侵略の端緒としたのである。

 その後の歴史は、一続きの流れの中だ。資源確保のため南部仏印に進駐し、対日石油禁輸で自暴自棄になった日本は、太平洋戦争に突入する。開戦の詔書には、「自存自衛のため」とあった。

 集団的自衛権を行使可能にする憲法解釈の変更が、閣議決定された。行使の条件には「明白な危険」などと並び、「我が国の存立」という言葉が2度、出てくる。

 いかようにでも解釈できる言葉である。遠い地の戦争での米国の軍事的劣勢も、イラクなど中東情勢の混乱も、日米同盟の威信低下や国際秩序の揺らぎが「我が国の存立」にかかわると、時の政権は考えるかもしれない。

 「国の存立」が自在に解釈され、その名の下に他国の戦争への参加を正当化することは、あってはならない。同盟の約束から参戦し、「自存自衛」を叫んで滅んだ大正、昭和の戦争の過ちを、繰り返すことになるからだ。

 むろん、歴史は同じように歩みはしない。あの戦争は国際的孤立の果てであり、今は日米同盟が基盤にある。孤立を避け、米国に「見捨てられないため」に集団的自衛権を行使するのだと、政府の関係者は説明してきた。

 だがそれは、米国の要請に応じることで「国の存立」を全うする、という道につながる。日本を「普通の国」にするのではなく、米国の安全と日本の安全を密接不可分とする「特別な関係」の国にすることを意味しよう。

 米国と「特別な関係」と呼ばれるのは英国だ。

 その英国は、イラク戦争参戦の傷が癒えず、政治指導者の責任追及の声がやまない。イラク戦争を支持した反省と総括もないまま、米国に「見捨てられないため」集団的自衛権を行使するという日本の政治に、米国の間違った戦争とは一線を画す自制を望むことは、困難である。

 ならばこそ、シビリアンコントロール(文民統制)の本来のあり方を、考え直すことが必要ではないか。

 文民統制は、軍の暴走を防ぐため政治や行政の優位を定めた近代民主国家の原則だ。だが、政治もしばしば暴走する。それを抑え、自制を課してきたのが憲法9条の縛りだった。縛りが外れた文民統制は、ただの政治家、官僚による統制にすぎない。

 閣議決定で行使を容認したのは、国民の権利としての集団的自衛権であって、政治家や官僚の権利ではない。歯止めをかけるのも、国民だ。私たちの民主主義が試されるのはこれからである。

[毎日新聞]


■集団的自衛権行使に大転換
――憲政史上に最大の汚点

田中秀征 [元経済企画庁長官、福山大学客員教授]

閣議決定全文は論旨が不明で難解

 安倍晋三政権は7月1日、日本が、(1)他国間の戦争に参戦する(集団的自衛権の行使)道を、(2)最悪の禁じ手(解釈改憲)を使って強引に切り拓いた。

 6月27、28日に実施された毎日新聞の世論調査によると、(1)の集団的自衛権の行使に反対する人は58%(賛成は32%)、(2)の解釈改憲に反対する人は60%(賛成は27%)、しかも理解が深まるにつれて調査結果のこの傾向は急激に強まっている。

 こんな民意を恐れてか、今回の閣議決定は、(1)と(2)を極力ぼかして反発を避けようとしている印象を受ける。そのためか、著しく論旨が不明で難解な悪文となっている。

 (1)については、山口那津男公明党代表が閣議決定後の記者会見で「いわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではない」と説明しているように玉虫色の解釈も成り立つように工夫されている。

 本文では昭和47年の政府見解に触れたところ。「我が国と密接な関係にある他国に対する武力行使が発生し、(中略)必要最小限度の実力を行使する…」の部分。そして、「憲法上許容される上記の『武力の行使』は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」としたくだり。少なくともこの離れ離れに書き込んだ3点をつないで解釈すれば、集団的自衛権の行使を認めたと読み取れるようになっている。端的で直接的な表現を避けたので実にややこしく、国民に対する誠実さを大きく欠くことになった。

 (2)については、そもそも「解釈改憲はしていない」という姿勢を貫くつもりのようである。

 首相は記者会見で、「現行の憲法解釈の基本的考え方は変わらない」と開き直った。「憲法の規範性をなんら変更するものではない」とも強調した。

 しかし、内外ともにこの閣議決定によって、日本は憲法改正の手続きを経ずに、政府による恣意的な解釈変更によって、集団的自衛権の行使を可能にしたと受け止めている。

“歯止め”“限定”に効果なし
このままでは全面行使の道に突き進む

 閣議決定に至る過程で、複数の政権幹部から「とにかく集団的自衛権の言葉の明記だけは必要」という趣旨の発言があった。どんな小さな事例でも集団的自衛権の行使の対象とすることができれば、それを突破口にいつかは全面展開ができるというホンネがうかがえた。

 閣議決定文書には、多くの“歯止め”や“限定”が盛り込まれている。

 だがこれにそれほどの効果はない。「集団的自衛権の行使は違憲」という憲法の最強の歯止めが失われたのだから、今回の歯止めや限定はいとも容易に取り払われていくだろう。

 協議の過程で示されたほとんどの具体的事例は、今まで認められた個別的自衛権の拡大解釈で対応できる。その検討を最初から放棄してわざわざ最初から集団的自衛権の行使の検討に突き進んだところに、何にも増して政権のホンネ(いつの日か行使の全面展開)が示されている。

 こうなった責任はいわゆる護憲派にもある。国民投票法に反対したり、96条(改正手続き)の改正にも抵抗したりして、政権を解釈改憲の邪道に踏み込ませてしまった。

 しかし、これで諦めるにはあまりに事態は深刻である。また、賢明な世論も黙ってはいないだろう。さらに踏み込む前に軌道修正することは不可能ではない。ボールはこれから国民の側にある。

[DIAMOND online]

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Posted by nob : 2014年07月03日 14:35