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若者の未来を守ることは大人が最後まで果たすべき義務、同感です、、、死に様は生き様の完結、常日頃から考え備えることから。。。
■長生きすることは、本当に良いことなのか?
親の介護で未来を奪われる若者たち
竹井善昭
[ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント/株式会社ソーシャルプランニング代表]
社会保障が日本最大の社会問題になっていることは常識だと思われているが、十分に理解されているとは言い難い。先日も、とあるスーパーマーケットの前で、ある国会議員が辻説法を行なっていたのだが、盛んに公共事業の無駄をなくそうと訴えていた。
たしかに、クルマが通らない道路や、客が入らないどころか、そもそもイベント自体が行われないようなホールを作るのは無駄だ。そして、税金の無駄遣いをなくすことは重要な政治課題だ。しかし、日本の公共事業費は約6兆円。それに対して社会保障費は約110兆円である。日本の財政赤字問題解決のためには、公共事業よりも社会保障のほうがはるかに重要な問題なのである。しかも、社会保障費は削減が難しい。道路や建物の建設に反対することはできても、高齢者の福祉を削減しろとは誰もが言い出せない。しかし、そのことを真剣に議論すべきときが来ているように思える。それは、財政的な問題だけなく、わが国の若者たちの未来のためでもあるからだ。
介護で未来を閉ざされる
若者たち
最近、メディアが取り上げ始めた問題。それが、「若者による介護の問題」だ。つまり、親の介護のために、未来を奪われている若者たちがいる。この、これまで注目もされず、社会から見えなかった問題に光が当てられ始められている。たとえば、今年6月17日に放送されたNHK『クローズアップ現代』では、「介護で閉ざされる未来 ~若者たちをどう支える」と題して、タイトル通り、親の介護で未来を閉ざされた若者を紹介した。
番組に登場した25歳の女性の場合は、父親が病気により脳に障害を受け、身体が動かなくなった。食事も自分ではできず、寝返りも打てない状態に。当初は母親が介護していたが、その母親もガンを患う。父親の介護は娘であるこの女性の役目となる。彼女は当時、大学3年生。将来は福祉関係の仕事をしたいと国家資格取得のために勉強に励んでいたが、金銭的な負担も大きく、介護と学業の両立を諦めざるを得なかった。父親の病気がどのように進行するかまったく分からないため、将来の見通しも自分の未来もまったく見えないという。
また、番組では26歳の男性も紹介された。この男性は、母親が若年性痴呆症となり、4年前から徘徊も始まった。当時、この男性は就職したばかりだったが、介護と仕事の負担により体調を崩してしまう。そして、父親と相談した結果、会社を辞めて母親の介護に専念することにした。父親のほうが、収入が多かったためだ。
また、日経新聞でも、まさにクローズアップ現代と同日の6月17日に、「親の介護で未来を奪われる若者 ある20代の場合」と題した記事を掲載している。こちらで紹介されているのは29歳の男性。大学生時代に父親が若年性認知症を発症。当初は母親が介護していたが、父親の病状が進行。さらに同居していた祖母も認知症となり、介護の負担はさらに増えた。ちょうど就活の時期を迎えていたのだが、「システムエンジニアになりたかったが、諦めるしかなかった」という。
人はいかにして生き、死ぬべきか
このような、20代というキャリア形成の重要な時期に、親の介護のために「未来を閉ざされた若者」がどれほど多くいるのか。『クローズアップ現代』では、「去年、国の調査で、家族の介護を担っている15歳~29歳の若年介護者が、17万人以上に上ることが明らかになった」と紹介している。この 17万人という数字をどう考えるかは意見が分かれるかもしれない。しかし、この若年介護者の存在は、数字以上に若者の未来と人間の尊厳という問題を、日本国民に深く突きつける問題だ。人はいかにして生きるべきか、そして死ぬべきかという、哲学の問題である。
社会保障が単に財政的な問題だけであれば、解決策はあるかもしれない。もちろん、そう簡単ではないことは分かっているが、それでもお金の問題はお金で解決できる。しかし、若者の未来はお金だけの問題ではない。そして、高齢者の命とか尊厳の問題は、まさにお金では解決できない問題だ。若年介護者の問題。これは、誤解を恐れずに言えば、「若者の未来を、死にゆく者が奪うことの正当性」を問う問題である。
日本は高齢者に対して、非常に優しい国である。「過剰に優しい」と言ってもよい。そう言うと、反論したくなる人も多いことはよく分かる。老人福祉はまだまだ足りていないと主張したい人もいるだろう。もちろん、僕も日本の老人福祉が完璧だと言いたいわけではない。論じたいのはその「思想」だ。日本は、ある意味で過剰に人を生きさせようとする。そのことが、はたして高齢者にとっても若者にとってもよいことなのか、それで人は幸福になるのか、ということだ。
あまり知られていないようだが、欧米にはいわゆる寝たきり老人はいない。なぜなら、寝たきりになるような老人は延命処置をしない、つまり「殺してしまう」からだ。たとえば、イギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しないという。福祉大国のイメージが強いスウェーデンやデンマークも同様だという。
また、これは聞いた話なので数字が不確かなのだが、ニュージーランドではある年齢(75歳だったかと記憶している)を超えると、病気になっても治療しないという。モルヒネを打つなどの緩和処置はやるが、それ以上はやらないということだ。実際に、スウェーデンの高齢者医療の現場を視察してきた医師のブログには、下記のように紹介されている。
日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
(読売新聞の医療サイトyomi Dr.「今こそ考えよう高齢者の終末期医療」より)
日本の病院で同じことをやれば、確実に「人殺し」扱いされて、マスメディアでもネットでも大炎上必至である。しかし、欧米ではこのような考え方がスタンダードなのだ。この差は一体何かと言うと、人の尊厳に対する考え方の違いだ。つまり、何が何でも生かしておくことが正義なのか、人の尊厳を守ることが正義なのか、という考え方の違いである。
人の尊厳をどう考えるかは、安楽死、つまり「死ぬ権利」を巡る議論の根幹となる問題だ。安楽死は基本的に自らの意志で死を選ぶことだが、認知症など、自分の意志では死を選べない場合もある。そのような場合は「殺される権利」というものも考える必要があるだろう。人は自分の尊厳を守るために、死ぬことを選んだり、殺されることを選ぶ権利があるのかもしれない。
病気になって初めて考えた
自分の死に様
もちろん、そんなことは死に直面していない人間が安易に考えたり、結論を出していい問題ではないし、出せるものでもない。僕自身、いざとなったときに潔く死を選べるかどうかは分からない。死を選びたいと思ってはいるが、いざとなったら怖気づくこともありえるわけだ。正直に言って、これだけは本当に死に直面してみなければ分からないと思う。
ただ、そこまでの重大な局面ではないが、最近、少しばかり死を意識するような状況に追い込まれてしまい、それなりのリアリティを持って自分の死に様を考える機会を得た。病気である。実は、昨年秋に心不全と判断され、しばらく経過観察で病院に通っていたのだが、3月から急激に悪化。たった50メートルの距離も歩けなくなり、4月に3週間、入院した。
通常、このような場合はカテーテル検査をするのが原因究明に最も手っ取り早くて確実なのだが、入院したところ、心臓と同時に腎臓の機能も悪化していることが分かった。しかしながら、心臓と腎臓はどうも相反関係にあるようで、簡単に言えば、心臓に良いことは腎臓に悪く、腎臓に良いことは心臓に悪い。だから治療が難しい。絶妙のバランスが必要とされる。心臓のカテーテル検査は腎臓に悪影響を与えることがあり、最悪の場合は検査が引き金となって人工透析が必要になるというリスクもあるという。
そのリスクを冒してカテーテル検査を行なうかどうか僕は決断を迫られていたが、正直、なるべくならそんな検査はしたくなかった。入院のおかげで体調はだいぶ良くなったこともあり、いったん退院して、外来で腎臓に負担をかけない検査を続けていた。しかし、GW明けにまた体調が悪化。もう待ったなしの状態となったため、透析のリスクを覚悟のうえでカテーテル検査を行なうことを決断。6月に再入院した。
普通なら3日で退院できるようなケースだが、僕の場合、透析のリスクを減らすために循環器内科の専門医が2人も担当。腎臓内科と連携しながら、点滴、酸素吸入のほかに、検査のために毎日のように血液採取しながら同時に輸血も行なうという、ちょっと矛盾を感じる処置などを慎重に行いながらカテーテル検査に挑んだ。そのため結局、2週間の入院となった。幸い、担当医の細心の処置のおかげで、腎臓への負担は最小限にとどまり、人工透析に至らずに済んだ。
ちなみに、カテーテル検査の結果、冠動脈閉塞などの重大な欠陥は見つからず、「心不全の原因は何か」という問題は残った。しかしながら、外科手術がすぐに必要な状態ではないことは分かった。というわけで、緊急事態が避けられたのはラッキーだったのが、約2ヵ月の間、腎臓と心臓のどちらを選ぶのかという選択を僕は迫られていたわけだ。
この間考えていたのは、人工透析が必要となった場合、自分はどうするか、ということだ。人工透析は週に3日ほど通院して毎回5時間ほどかかる。その時間的負担も大変だが、治療費が毎月40万円ほどかかる。ただし、この費用は公費で賄うことができ、自分で負担する必要はないという。しかし、透析が必要となった腎臓は、機能が回復することはない。つまり、治る見込みのない病気のために年間500万円ほどの公費を使うわけだ。
若い人ならともかく、自分の場合は娘もすでに社会人となっているし、自分が生き長らえるためだけに多額の公費を使うことに何の意味があるだろうか、とずっと考えていた。念のために言っておくが、僕は高齢者の人工透析を辞めろと主張したいわけではない。ただ、治る可能性のない病気の治療のために多額の公費を使うことの意味を考えることは、大人としての義務ではないかと思うのだ。
死を「決断」することへの恐怖
もちろん、それも実際に透析が必要になってないから言えることかもしれない。作家の団鬼六さんも慢性腎不全を患いながら「人工透析は断固、拒否」と言っていたが、結局は透析を受けていたようで、最後はガンで亡くなった。僕も、もし透析が必要となったとき、本当に拒否できるかどうかは本音を言えば自信がない。現実に、僕は人工透析のリスクを冒してでも、少しでも生きながらえるために心臓カテーテル検査を行なったわけだし。ただ、わりと真剣に透析のこと、心臓のこと、死ぬことを考えてみて分かったこともある。
それは、死ぬことが怖いのではない。死を決断することが怖い――ということだ。
言葉を変えれば、人が死を決断するには、自分の死を超えた何か、たとえば思想・信条とか職務とか、あるいは家族などの個人的な関係性でもいいが、そのような「守るべき何か」のためでなければ、死を決断することはやはり難しいということだ。当たり前の結論と言えるが、やはり頭で考えるよりも、多少なりとも死のリスクに直面したほうが、リアリティをより強く感じるし、確信も強いものがある。
だからこそ思う。若者の未来を奪うくらいなら、僕は死んだほうがマシだと。そして、日本の社会もまた、このデリケートでやっかいな問題に、勇気を持って議論をすべき時が来ていると。その議論の結果は、高齢者には過酷なものとなるかもしれない。ただ、ひとつだけ確実に言えることは、若者の未来を守るために死を選ぶことは、結局は自分自身の尊厳を守ることなのだ。
僕自身もまた、自分の尊厳を守れるような死に方をしたいと思う。若者の未来を守ることは、大人が最後まで果たすべき義務だと思うから。
[DIAMOND online]
Posted by nob : 2014年07月08日 09:50