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また旅立つ君へVol.53/You are good enough now!

■アドラー心理学が教える
幸せに生きるための3つのヒントとは?

宮台真司×神保哲生×岸見一郎 鼎談第2弾(後編)

私たちが信じていた常識を次々とくつがえすアドラー心理学。『嫌われる勇気』はその理論をわかりやすく解説して37万部のベストセラーに! 同書の著者・岸見一郎氏が、宮台真司氏、神保哲生氏とインターネット放送番組「マル激トーク・オン・ディマンド」で繰り広げたトークセッションの後編をお送りする。「共同体感覚」とは何か? そしてアドラー心理学が教える「幸せに生きるための3つのヒント」とは?

共同体感覚を
身につけるための3条件

神保哲生(以下、神保) 第13回でも取り上げたアドラー心理学の重要なキーワード「共同体感覚」を身につけるにはどうすればよいのか。『嫌われる勇気』には3つの条件が書かれています。「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つですね。岸見先生、これについてご説明いただけますか。

岸見一郎(以下、岸見) どのようなときに自分を受け入れられるかといえば、自分が役立たずではなく、誰かの役に立てている、つまり貢献できていると思えるときです。そして、誰かに貢献したいと思うなら、その相手は「敵」ではないでしょう。「仲間」として信頼できるからこそ、その人に貢献したいと思う。ということで「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つはワンセットなんです。
共同体感覚を身につけるための「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」は3つでワンセットだと岸見氏。

神保 最初の「自己受容」というのはどういう感覚ですか。今のままの自分でいいということでしょうか。

岸見 先ほどの言葉で言えば「自分に価値がある」と感じられるということです。今のままでいいというより、「この私しかいないのだから、とりあえずそこから始めよう」ということですね。

神保 この私しかいないから……。

岸見 「自分に価値があると思えるときに人は勇気を持てる」とアドラーは言います。どのような勇気かというと、対人関係に取り組む勇気です。しかし自分に価値があると思えない人は他者の中に入っていこうとしない。

神保 自分に価値があるとなかなか思えない人はどうすればよいのでしょう。

岸見 難しいですね。自分に価値があると思ってはいけないと決心している人さえいますから。

神保 どういうことですか。

岸見 自分に価値があると思えば人との関係のなかに入っていかなければなりません。それが恐い人は、自分に価値があると思うと都合が悪いわけです。たとえば、好きな異性ができたとします。でも、その異性に自分の気持ちを打ち明けたからといって、相手も好きだと言ってくれる保証はありません。そこでフラれる経験をするくらいなら初めから人と関わらずにおこう、そのためには自分に価値があってはいけないと思うわけです。これはけっこう厄介です。

神保 なるほど。

岸見 そういう人たちに自分を好きになってもらうためには、「他者貢献」という部分でアプローチします。アドラーは先の言葉に続けて、「共同体に貢献していると感じられるときに、自分に価値があると思える」と言っています。つまり、自分は役に立っている、貢献していると感じられることで、自分に価値があると思えるように援助するのです。

神保 他者貢献っていうのは具体的にどんなイメージですか。どんなことをすると他者貢献ができていると感じられ、それが自己受容につながるのでしょう。

岸見 行為のレベルだとよくわかります。誰かに役に立つことをすればいい。

神保 いわゆる人助けみたいなことでいいですか。

岸見 そうしたことも含め、自分が何かをしたら喜んでもらえたという経験です。ただ、もう一つあって、存在のレベルで貢献するということもあります。

無条件で自分はOKだと
思えることの重要さ

神保 存在のレベル、ですか?

岸見 たとえば僕は病気をしたのでよくわかるのですが、まったく身動きがとれない寝たきりの状態でも、なお人の役に立てていると思うことは可能です。誰でもそうした存在のレベルで他者貢献できることを感じて欲しいのです。ただ、これにはかなり勇気が必要です。何かをして他者の役に立てたと感じることは容易ですが、何もできない状態でそれを感じるわけですから。

神保 いるだけで?

岸見 はい。ですが、そう思えない人は他者に対しても行為レベルでしか価値判断をしないことが多い。「あの人は役立たずだ。生産性に何ら貢献していない」と切り捨ててしまいがちです。

神保 行為のレベルで価値を判断するのは必ずしもよくないと?

岸見 それだけで判断するのはよくないでしょう。

宮台真司(以下、宮台) E・H・エリクソンという心理学者が提唱した「基本的信頼(basic trust)」という概念があります。これが岸見先生がおっしゃったことに重なるんですね。「basic trust」は、何かをしたからではなく、つまり条件付き承認とは無関係に、無条件で自分はOKだと思えるということです。
 「basic trust」を持たない人は、それを埋め合わせるために過剰同調が生じがちです。つまり、他者に迎合して──つまり他者の課題を自己の課題とすることで ──承認されよう、嫌われないようにしようと思う。その意味で、自立にとっての基本条件は、無条件に「自分はOK」だと思えること。つまり存在そのものの肯定です。
 「何かをしたから承認される」という条件つき承認の意識を持つ人は、ギブ&テイク的に見返りを求めます。つまり損得勘定が動機付けになります。こうした「ほめて欲しくて何かをする人」は、ほめてもらえないと相手を恨みます。このように他人を恨む人は、自分を条件付きでしか承認できない人ですが、他者をも条件付きでしか承認できません。

神保 行為なくして自分が受け入れられる状況をつくるのに苦労している人は多いと思います。他者に何かしてあげることで仲間になることはあっても、単に存在するだけでいいというのはなかなか難しいでしょう。そうなればいいなと思いつつも、うまくなれていない人が多いのでは?

宮台 近現代社会がそうした方向にシフトしてきた事実を、社会学者タルコット・パーソンズは「業績本位の社会にシフトした」と言います。能力を発揮することが承認の条件となるメリトクラシー社会になったということ。社会思想家ユルゲン・ハーバーマスはそれを社会領域の問題だとします。業績が承認の条件となる〈システム〉と、そうではない〈生活世界〉です。
 ハーバーマスによれば、近代化とは、〈生活世界〉が〈システム〉と置き換わる過程です。昭和34年生まれの僕が幼少の時分、まだ昔ながらの共同体=〈生活世界〉があって、ちょっと頭が変な人や傍若無人のヤクザもいました。学級にヤクザの子もいたのでそうした人と繋がる機会もあり、父親よりもヤクザのほうが格好いいと思ったりした。
 あるとき、僕がいつも満票で学級委員に選ばれるのは、ヤクザの子たちが僕のために周囲を脅していたからだと分かりました。上海で生まれ育ったバタ臭い僕の母が、しばしば彼らを家に呼んで晩飯を食べさせたり、高い玩具で遊ばせたりしていたからです。父の仕事で転校だらけだった僕のために、母が考えたことでした。
 そんなこんなで、本当はヤクザの子みたいに喧嘩が強いガキ大将になりたいと思ったものです。ダイバーシティ(diversity)という言葉があって「多様性」と訳しますが、僕は嫌いで、「何でもあり」と訳します。たとえば、他者一般への基本的信頼があれば、細かいことは気にせず「何でもあり」に耐えられる。基本的信頼こそダイバーシティへの鍵です。
 逆に言えば、「何でもあり」を邪魔するのは、細かいことを気にするヘタレ。そうしたヘタレはたいてい条件付き承認しか経験してきておらず、承認されたいがゆえの損得勘定で右往左往する作法を大人になっても継続しがちです。こうしたヘタレが多いと多様性フォビアが蔓延しがちで、社会はダイバーシティ=「何でもあり」から遠ざかります。

岸見 存在の次元で認めることができれば、あとは何でもプラスなのです。とにかく生きている状態がOKだと思えれば、子どもが学校へ行かなくてもOKです。ベッドの中で冷たくなられているわけじゃない。何でも引き算してしまえば多くの人はマイナスでしか採点されません。そういう社会が健全だとは僕は思わない。そう考えるとアドラー心理学は強者の心理学とはいえませんよね。

宮台 全然違いますよね。関連しますが、性愛系ワークショップをやっていて気になるのは、相手にイエスと言わせようと細かいことを気にして、ビビる人が多いこと。僕は「気に入られようとしてビビッてる人が君の目の前にいたらどう思う?」と問うことにしています。間違いなく嫌な感じがするはず。ハッピーに感じる人は一人もいない。
 基本的信頼の不足ゆえに、損得勘定で右往左往する「細かい輩」は、人の好意を買おうと一喜一憂します。これは他者の内面を慮っていると見えて、実は違う。実際には目の前の相手を嫌な気持ちにさせるので全くモテないし、マクロに考えれば、こうしたモテない輩で溢れる社会は、既得権益を動かせない「原発をやめられない社会」になります。
 前回「立派か卑怯か」の二項図式が廃れた話をしました。「立派な人」は細かいことを気にしない。僕は昔から、日本初の右翼団体「玄洋社」創設者の頭山満という人物を持ち出します。彼は「右か左かはどうでもいい、お前の心意気に打たれた」「イデオロギーは知らないが、意気に感じた」と、世直しを志す若い衆を食客にします。そこにヒントがあります。

岸見 課題をきっちり分けられれば、細かいことにはこだわらなくて済みます。極端な例ですが、僕の友だちの息子さんが高校生のとき「2年生になった」と親に言ったそうです。すると父親が「そうか、どこの中学だったかな」と(笑)。無関心と言われそうですが、子どもの課題と自分の課題を分けられれば、細かいことにはこだわらなくてよい。そして、もっと大事なことに関心があるという信頼があれば、親子関係は大丈夫なはずです。課題の分離ができない親は、基本的に子どもを信頼していません。「私が言わなければ、この子は永遠に勉強しない」と思っている。そんなことはあり得ないのです。

普通であることの勇気

神保 続いては『嫌われる勇気』に出てくる3つのキーワードに沿って、アドラー心理学として「幸せに生きるためのヒント」を頂ければと思います。その3つとは「普通であることの勇気」「人生の嘘」「今この瞬間を生きる」です。まずは最初の「普通であることの勇気」ですが、これはアドラー的にはどのような意味になるんでしょうか?

岸見 まず、人というのは特別に良くなろうとしがちな存在です。それに失敗すると逆に特別に悪くなろうとする。そのどちらでもなくていいということです。
 この言葉を聞くと思い出すのは、私が初めてアドラー心理学の講演を聴いたときのことです。1989年にアドラーの孫弟子であるオスカー・クリステンセンの講演を聴いたのです。そのとき私は通訳で呼ばれていたのに、いっこうに出番がないまま講演会が終わってしまいました。そこで質疑応答になったとき、なぜか英語で質問をしようと思ったのです。クリステンセンは英語で答えてくれたのですが、そのあと自分の学生時代の話をしました。
 アドラーの弟子であるルドルフ・ドライカースからレポートの課題を出されたときの話です。課題は「フロイト心理学とアドラー心理学の違いについて2ページで論じなさい」というもの。クリステンセンは懸命に20ページも書いて提出したところ、ドライカースに呼び出されたそうです。「あなたは、なぜこのレポートを書いたのですか?」と。クリステンセンが「アドラー心理学に非常に関心があったから」と答えたところ、「いや違う。あなたはただ私に impress(印象づけ)しようとしたのだ」と。たしかに普通ならそんなに書かないですよね。ドライカースは「君は特別良く見られたいと思い、他の学生と違うことを教師である私に印象づけようとしたのだ」と言ったそうです。そして「そんなことをしなくても、君は今のままの君でいいのです」と。

神保 「You are good enough now」と言われたんですね。

岸見 この話は、僕に向けられたものだったと思います。「あなたは別に英語がそれほど得意じゃないのだから、他の人と同じように日本語で質問すればいいのです。なぜわざわざ英語で質問したのですか?」という意味でしょう。そのとき僕は、それまでの人生でずいぶん背伸びして自分を良く見せようと思って生きてきたことに気づきました。「そうか、自分は特別であろうとしていたんだ」とわかり、それまでこだわっていたことがまったく消えてしまった。アドラーの教えのなかでも私が本当にすぐ納得できたのは、この「普通であればいい」ということです。

神保 ですが「普通」は「平凡」という意味に聞こえてしまって、それが嫌な人も多そうですね。

岸見 たとえば自己紹介を求められたとき、肩書きから始める人がいますね。ああいう人たちは「普通である勇気」がないのだと思います。すごい経歴がないと自分を認めてもらえないと思っている人というのは勇気をくじかれているのです。

神保 日本人は「何をやっているんですか?」と聞かれると会社名を言うことが多いですね。会社で経理部にいれば「経理の仕事をやっています」と言えばよいのに。宮台さん、この「普通であることの勇気」についてはいかがですか?

宮台 誤解されやすいのは、「ありのままでいい」というのとは少し違うってことですね。

神保 たしかにアドラー心理学は「人は変われる」という話でした。

宮台 細かいことを気にする人たちは、要するに「もっと大事なことがある」ということが分かっていない。もちろん人から良く見られたいというのは誰にでもあります。嫌われるよりは好かれたい。尊敬されないよりは尊敬されたい。しかしやはり優先順位が大事なので、人に良く見られたいというのが優先順位の筆頭にくるのはおかしいわけです。

神保 自分の人生を生きていないと。

宮台 一つ例を出しましょう。少し前にロシア抜きのG7がありました。その際、安倍首相はテレビカメラが回った各国首脳との懇談で同時通訳を付けず、これを新聞社のデスククラスが嘲笑の的にしていました。宮澤喜一元首相があれだけ英語ができても必ず通訳を入れたのは、通訳が喋る間にじっくり考えられるからです。実に合理的な熟慮です。
 安倍首相の英語力は巷の噂どおり。それで僕はあれを見て、痛々しくて哀しくなりました。問題は、安倍本人を含めて、痛々しいと思わない人たちが大勢いるということ。あれを格好いいと感じる輩や、自分も同じように振る舞いたいと思う輩が、大勢いるということ。そうした次元で政治家の行為を評価する〈感情の劣化〉がポピュリズムを駆動します。

どうすれば承認欲求を
克服できるのか

神保 たしかに、自意識過剰、劣等感、優越感、承認欲求といったものを克服できない人は多いと思います。では「普通であることの勇気」を手に入れ、承認欲求を克服するためにはどうしたらいいのでしょう。

岸見 同時通訳を付けないようなことをアドラーは「虚栄心」と言います。そういう人たちは、じつは「優越コンプレックス」を持っている。優越コンプレックスは劣等コンプレックスの裏返しなので自分を良くは見せないし、本当に優れている人は自分が優れていることを誇示しない──まずはそのあたりの気づきから始めるべきでしょう。「こんなことは少しも格好よくない」とわかれば、やがてそういうことから離れていけると思います。

神保 ただ、実際にはそうした虚栄心をすごいと思ってくれる人がいるわけですよね。

宮台 そうした虚栄心に満ちた輩を賞賛する〈感情の劣化〉を被った人だらけなのが昨今です。だから子どもが成長する環境としては問題が多い。前回も話したけれど、「立派か卑怯か」という語彙が死滅したコミュニケーション環境に育つのは、大きなハンディです。放っておいたらダメで、別のもので補わない限り、勇気ある存在になれません。
 岸見先生には釈迦に説法ですが、初期ギリシアは〈依存〉を嫌って〈自立〉を推奨します。全能の神からの罰を恐れてちゃんとするというのはダメ。罰がなければちゃんとしないからです。そういう損得勘定と関係なく、自らちゃんとしようと思える人間が善い。そういう人間を育てるにはどうすればいいか。つまり初期ギリシアの教育観とは何か。
 前回紹介したジョージ・ハーバート・ミードはプラグマティストです。プラグマティストとは「内なる光」を灯すことを使命と心得る者です。「内なる光」とは損得勘定を超えて湧き上がる力です。僕の言葉では〈自発性〉ならぬ〈内発性〉です。この観念の由来は、「内なる光」という言葉を使ったラルフ・ウォルドー・エマソンのようにキリスト教を経由するにせよ、初期ギリシアです。
 ミードの「I/Me」論も初期ギリシアの教育観を引き継ぎます。即ち「立派か卑怯か」「立派か浅ましいか」という二項図式を使った「賞賛と揶揄」です。初期ギリシアの最大価値は「死を恐れずポリスに貢献する勇気ある兵士」という名誉です。「賞賛と揶揄」も賞罰ですが、賞罰を気にしない者を賞賛し、気にする者を揶揄する。特殊な賞罰です。
 かかる特殊な賞罰の目的は明らかです。賞罰の如き損得勘定を気にせず、理不尽や不条理にそのまま体と心を開いて立ち向かう、〈自立〉した英雄を育てること。つまり、子ども時代には「卑怯なヤツと思われたくない」という損得勘定から出発させ、やがて人にどう思われるかに関係なく「自分は立派でありたい」と願う大人へと仕立て上げます。
 そうした立派な在り方が人間本来の姿なのに、ゴミやヨゴレがついてダメな大人になる。だから、ゴミやヨゴレに抗って人間本来の姿(可能態)を引き出すのが、初期ギリシアの教育です。だから、英語のエデュケーションにせよ、ドイツ語のエアツーウンクにせよ、教育という言葉は、ギリシア由来の「引き出す」という観念を保っているわけです。

「人生の嘘」とは何か

神保 アドラー心理学における「幸せに生きるためのヒント」の2つめは「人生の嘘」というものですが、これはどのようなことでしょう。

岸見 さまざまな口実を設けて人生の課題から逃れようとすることです。先ほどの話にもあったように、自然に任せておけば人は誰でも自分を良く見せたくなるものです。それゆえ、できないことがあると、できない理由を山ほど言います。アドラーはそれを「人生の嘘」という非常に厳しい言葉で断罪しているわけです。

神保 これはどう克服すればよいのでしょう。

岸見 理由など要らないからできないことを認め、そのうえで挑戦するしかないでしょう。

神保 できない理由を挙げることで、挑戦することから逃げられるわけですね。

岸見 結局、神経症的なライフスタイルというのは、オール・オア・ナッシングなのです。できなければしない。100%できないとしない。しかし、それはやらないための口実にすぎません。50や60でもやらないよりやったほうがましだとの発想に立たない人が多いのです。

神保 なるほど。100点にならない理由を見つければ、やらなくて済むわけだ。

宮台 この問題も本当にいろいろなことに関係します。たとえば、日本の社会運動を見ていて感じるんですが、やはり「ゼロか100か」になりがち。運動をやらない人だけでなく、やる人にも見られます。やらない人は、100から遠いことを以て「どうせ無駄でしょ」と決め込みますが、やる人も100を求める完璧主義なので、現実を変えられません。
 下北沢再開発問題などもそう。「100を貫徹するために頑張るぞ」という自己鼓舞は分かりますが、100じゃないと満足しないのはどうか。原子力ムラだけでなく左翼ムラを含めた全てのムラに見られる閉鎖的で陣営帰属的な自己満足です。妥協策を提案すると「貴様、本当は敵側じゃないのか?」みたいな批判を浴び、それを恐れて100を言い続けます。
 既に古くからの開発計画がある場合「ゼロか100か」はまず通らない。であれば、三軒茶屋の再開発みたいに開発エリアと保全エリアを分けることを飲ませる条件闘争をすればいい。しかし、それを言うと、知り合いの運動リーダーの一人は「宮台、お前の言うことは分かるが、それじゃ元気が出ないんだよ」と言うわけです。

神保 それは矛盾だよね。

宮台 そう。「元気が出ない気持ちも分かるが、あなたを元気づけるためじゃなく、実を取るための運動だ。獲得結果の最大化につながるなら、あらゆる妥協をするつもりでやらなきゃ」と僕は言います。あと、過激なことを言い募るほどポジションが取れるという「内集団の論理」もあります。これも「あなたのポジションなどどうでもいい」で終了。

神保 自分のためにやっているんだね。

宮台 そう(笑)。

神保 いろいろ理由をつけて「だからやらない」という人と、玉砕主義的なやり方をする人という両極になっていますよね。前者は、あえてやらない理由を見つけ人生の嘘をついていると。では後者はどう考えればいいでしょう。100点じゃなければ意味がない、妥協して 60点の成果をあげるくらいなら玉砕したほうがいいといった人は。

岸見 アドラーは、そういう事例についても触れています。負けることがわかっているのにあえて攻撃をやめないで、「玉砕」させてしまうような指揮官の例を、共同体感覚のない人の例として挙げているのです。

神保 何度も話に出てくる共同体感覚ですね。

岸見 要するに自分のことしか考えていないのです。自分の名誉ばかり考えている。そのために兵士が亡くなろうが関係ない。それって愛国的でさえないですよね。このような考えをアドラーは「セルフ・インタレスト」(self interest)と呼びました。そして他者に関心を持つことを「ソーシャル・インタレスト」(social interest)と呼ぶわけです。この「ソーシャル・インタレスト」が、実は共同体感覚の英語訳なのです。

神保 なるほど。

宮台 「どうせムダ」も「玉砕覚悟で」も結局は「自分可愛い」だけ。「ゼロか100か」は「自分可愛い」人のワザ。そうした自己中心的な幼児性を示す「Me」に対し、立派な共同体成員なら誰もが示すはずの反応を示せる「I」を獲得することが、大人になること。それが共同体感覚のミード的言い換えです。「ゼロか100か」は恥ずべき幼児性です。

「今この瞬間を生きる」ことの
本当の意味

神保 アドラー心理学の「幸せに生きるためのヒント」の3つめは、「今この瞬間を生きる」となるわけですが、これも解説をお願いできますか。

岸見 人は過去のことを考えて後悔し、未来のことを考えて不安になります。けれど実はどちらもなくて、人は今ここにしか生きられないのです。

神保 実際には、その瞬間瞬間しかないと。

岸見 そうです。

宮台 関連しますが、以前、京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授に興味深い話を伺いました。500万年前に分かれたチンパンジーと人間の基本的違いについてです。チンパンジーは今そこにあるものを認識・記憶する能力は人間よりはるかに優れています。人間は代わりにそこに存在しないものについてまで認識する能力に優れています。
 たとえば、嫉妬。チンパンジーは目の前で行為が行われると嫉妬しますが、見えない場所での行為や過去になされた行為については一切問わない。人間は逆で、見えない場所でなされた過去の裏切りを、永久にぐじぐじと問い続けるわけです。これは「もし、あのとき、お前がああ振る舞いさえしなければ、俺は……」という反実仮想です。

神保 松沢氏の話では、チンパンジーは寝たきり状態になった場合も、むしろ飼育員が優しくなるので陽気に振る舞うということでしたね。しかし人間は、寝たきりにならなければ自分はもっと幸せな人生を送れたはずと考えて悲観してしまう。

宮台 「もし、あのとき~だったら、今の俺は……」という不在のものについてのリグレット(後悔)が、前方に投射されると、「もし、今~をしたら、未来の俺は……」というプラニングを生み、それが人間社会を猿社会と異なるものに進化させたのではないか、というお話でした。つまり、今を生きないことが、人間社会における社会性をなしていると。

神保 今を生きないから人間は猿と違う社会をつくれたと。

宮台 逆の言い方をすると、人間社会への社会的適応だけを考えていると、自動的に今を生きなくなる。「しくじった」と絶えず過去のリグレットをし、それゆえに、「未来にリグレットしないように今こうしよう」という指令に従い続けます。「過ぎ去ったことなのに、暗い過去をいつまでも覚えているから、明るい未来を構想する」という逆説です。
 今に集中して幸せに生きることと、明るい未来のデザインを含めて社会的に生きることとはバッティングしがち。しかし、未来のデザインのために今を犠牲にすれば、未来になって「しまった」とリグレットを抱きがちだし、犠牲を取り返すぞという具合に損得の亡者にもなりがち。つまり、人間はチンパンジーよりも明らかに幸せじゃないんです。

神保 でも、それが人間の脳がここまで大きくなった理由でもあるそうです。チンパンジーの脳のほとんどが瞬間を把握するのに費やされているのは、ジャングルで生きていくためには一瞬の判断を求められるからだと。人間はその必要がなくて、代わりに脳を未来の心配に向けるということでした。これってアドラー心理学的には何か思われるところありますか。

岸見 今の話に引きつけられるかどうかわかりませんが、逆に今この瞬間を生きない人がいるというのはどういうことでしょう。薄らぼんやりとした光を今の瞬間に当ててしまうと、本当はそうじゃないけれど何となく先が見えるような気がするのではないでしょうか。しかし強烈なスポットライトを今ここに当てると、もう向こうは見えない。そういう生き方のほうが本来的かなと私は考えています。

神保 ただ「今この瞬間を生きる」というのは、一歩間違うと計画的に勉強して資格を取ったりすることを否定しているようにも聞こえます。そのあたりはどう考えたらいいですか。

岸見 計画は立てられないだろうと思いますが、「目標を持たなくていい」と言っているわけではありません。『嫌われる勇気』の最後に出てきますが、アドラーは「導きの星」ということを言っています。瞬間を丁寧に生きていくなかで、どんな状態であれ究極の「導きの星」を我々が目にしていればOKなのだと。

神保 目標は持っていいと。

岸見 その目標は「他者貢献」なんですね。自分のしていることが最終的にそこに向かっていることさえわかっていれば、あまり思い煩ったり迷ったりすることはないのです。

神保 たとえば「良い学校に入りたいから勉強する」というだけでは不十分で、良い学校に入ったうえでどうするのかが重要だと。勉強することで他者貢献への道を開くところまで考えて、いま一生懸命勉強すればよいわけですね。

岸見 有名大学に入るためだけに勉強している人は、人生を先延ばしにしていると思います。今この瞬間を大事にせず準備期間だとしか思っていない。そういう人は大学に入ったら、何も目標がなくなってしまうでしょう。

宮台 それで「親に騙された」と恨むわけですね(笑)。

岸見 そうですね。

神保 さらに言えば、東大に入ったことを高く買ってくれるような選択をするしかなくなりますね。選択肢がむしろ狭まる可能性もあり得ると。

岸見 今この瞬間を丁寧に生きて、結果的に振り返るとずいぶん遠くまで来たなということはあるはずです。天才たちは誰もがそうですよね。数学の問題を考えていたら時間が経つのも忘れたとかね。そういうことを積み重ねていけば、立派な業績を打ち立てられるかもしれないし、そうでないかもしれない。それはわからないけれど、とりあえずやることが楽しければいいと思います。そして、そういう勉強や研究が共同体に貢献することがわかっていれば、努力し続けられるのではないでしょうか。

宮台 社会学には「期待するから期待外れに打ちのめされる」というテーゼがあります。「未来のために現在を犠牲にしたのに、望んだ未来が到来しないのでバックラッシュして……」というのはよくある話。そうならないために……と人間的に頭を使い、「チンパンジーのように現在を生きつつ、人間的に未来を志向する」というのがアドラーの推奨でしょう。

本当の共同体に
関心をもつことの大切さ

神保 色々とありがとうございました。ここまでアドラー心理学および『嫌われる勇気』について話してきたわけですが、何か重要な点で抜け落ちていることはありませんか。

岸見 大丈夫です。ただ、これだけアドラーの名前が知られてきたことを単なるブームで終わらせたくないとの思いは強いです。アドラーが医師になることを選んだのは私腹を肥やすためではなく、「この世界を変えるためだ」と言っています。そういう彼の本来の精神が引き継がれることを望みます。個人の利害、自分自身への関心ではなく、本当の意味での共同体に関心を持てる人が増えて欲しいと思います。
 本当の意味での共同体というのは、現実の共同体ではないわけです。国家でもありません。もっと大きな共同体の利害を考える必要がある。けれど最近の政治を見ているとそうでもないようです。そうした問題に『嫌われる勇気』を読んだ人が関心を持って欲しいですね。何もしないのは、結局、現状を肯定してしまうことですから。「世の中でいま行われていることはおかしい」といった怒りは、けっして感情的ではなく理性的な怒りなのです。

神保 個人的な怒りではなく、世の不条理に対する怒りはいいわけですね。

岸見 そうですね、世の不条理に対してはやはり声を上げないといけない。その一方で、足元もちゃんと見ていく必要があります。「人生の調和」という言い方をアドラーはしていますが、生きていく上でいろいろな調和が取れていなければならない。仕事が忙しいからといって、他のことが目に留まらないような生き方は問題なのです。

神保 宮台さんも何かありますか。

宮台 昨今ではアドラー心理学がビジネス分野で興味を持たれるようになりました。繰り返しになるけど大事な問題を申し上げます。自己啓発やコーチングやカウンセリングの本でしばしば「プライミング」の概念が使われます。目標を強く思念することで、それに引きずられて現在の優先順位が変わることです。アドラー心理学にも似た図式はあります。
 では、強く思念すべき目標として何を選ぶべきか。この目標を他人に握られるとマインドコントロールされます。経営者の目標を自分の目標だと思い込まされるのが典型です。これは今日の主題である「課題の分離」にも抵触するおかしな話です。そういうタイプの自己啓発書とアドラーでは読後感が全く違うので、敏感に違いを嗅ぎ分けて欲しい。

神保 なるほど。僕が座右の銘に近い扱いをしている言葉に「I am the captain of my soul(私は自分の魂の指揮官である)」というのがあります。『インビクタス』という映画のテーマになった言葉です。ともするとすごく気負った感じに聞こえますが、アドラーの話と引きつけると非常によくわかります。つまり「AだからBできない」という原因論では、個人がAに支配されてしまっている。アドラーは「Bできない理由として、私がAを利用しているだけだ」と考えるわけですね。自分で「できない(cannot)」と思っているのが、じつは「やろうとしていない(will not)」だけだと言われたのはかなり身に染みました。

岸見 厳しいですよね。

神保 基本的に厳しいです。アドラー先生は。

岸見 『嫌われる勇気』を読んですごくよかったと言って下さる方は多いのですが、「本当かな」とちょっと思うときはあります。本当にわかると「これは辛いな」「聞かなければよかった」と率直に思う人もいるだろうなとは思います。

神保 いずれにせよ是非読んでみてください。いろいろと思うところがあると思います。人生を幸せにするためのヒントが得られるかもしれません。

宮台 岸見先生は『嫌われる勇気』『アドラー心理学入門』の2冊だけではなく、アドラーの翻訳もたくさん出しておられます。今はそれらもすべて手に入りますから是非読んで欲しいですね。アドラーの本はけっして難しくない。フロイトの本との違いです。

神保 それがアドラーの非常に大事にしたところのようですね。それでは長い時間ありがとうございました。

宮台 ありがとうございました。

岸見 こちらこそ、ありがとうございました。

(終わり)

岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、 1989年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの「青年」のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』『人はなぜ神経症になるのか』、著書に『アドラー心理学入門』など多数。古賀史健氏との共著『嫌われる勇気』では原案を担当。

神保哲生(じんぼう・てつお)
ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表。1961年東京生まれ。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信記者を経て93年に独立。99年11月、日本初のニュース専門インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムを設立。著書に『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』『ビデオジャーナリズム―カメラを持って世界に飛び出そう』『ツバル-地球温暖化に沈む国』『地雷リポート』、訳書に『食の終焉』などがある。ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ

宮台真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で著書多数。主な著作に『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『14歳からの社会学』『日本の難点』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』などがある。宮台真司オフィシャルブログ

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Posted by nob : 2014年08月01日 21:30