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自然環境破壊、ウイルスの蔓延、放射能の拡散などと同様に、過度な情報という害悪から心身を護るのは、現代社会を生き抜く基本的な力。。。

■ドラえもんで描かれた道具を手にしつつある社会にもたらされた光と影。デジタルの恩恵は私達を幸せにするのか?

第1章 デジタル社会の光と影【前編】

僕は、デジタルは人間に恩恵を与えるものだと信じている。だから今日も、僕はデジタルの領域で活動する。(中略)その一方で、僕は不思議な違和感を覚えるようになっている。はじめは小さかったこの違和感は、デジタルが世を覆い尽くすにつれ大きくなっている。(中略)人間はもちろん人間のためにデジタルを駆使し、進化させようとしているはずだ。……にもかかわらず存在する違和感。その違和感の正体を突き止め、真摯に対峙しなければ、訪れる未来は必ずしも明るいものにはならないだろう。このような予感が、本書を執筆する原動力になっている。――小川和也・著『デジタルは人間を奪うのか』「はじめに」より

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ドラえもんのひみつ道具が次々と実現

世界の総人口は70億人を超えた。
2050年には96億人、2100年までに100億人を上回る見通しだ。世界の人口が増すにつれ、デジタルの存在感、それが及ぼす影響力も増す一方だろう。

デジタルは、人類の歴史の中でもとりわけ大きな変革を起こそうとしている。あらゆるものの効率化を促し、これまでの不可能を可能にする。人間の脳や身体を補完し、労働を肩代わりする。漫画の中のつくり話を、どんどん現実のものとする。

実は、ドラえもんがポケットから出したひみつ道具の多くがもはや夢ではなくなっている。たとえば、糸電話の紙コップを模した道具である「糸なし糸電話」。離れたところで話ができるこの道具はまさしく携帯電話として世の中に普及している。

鉛筆状の筆記用具に六角形をしたコンピュータらしきものがついている「コンピューターペンシル」。これを使えば、量の多い仕事や勉強でもあっという間にすらすらと終わらせられる。これはまさに、いまのパソコンに置き換えられる。ディスプレイの世界地図から描きたい地点を指定し、そこの風景などを描くことができる「いつでもどこでもスケッチセット」は、グーグルのストリートビューに近い。紙の上に物を載せるとその物と同様の立体的な複製が紙から出てくる「立体コピー紙」などはまさに3Dプリンターだ。

「こんなこといいな できたらいいな」というアニメの『ドラえもん』の主題歌にノスタルジーを感じるほど、かつての空想の話もいまや現実の話になりつつある。近い未来には、さらに多くのひみつ道具が実現されることになるだろう。

これらの空想を現実のものとしているのは、まさにデジタルだ。
デジタルの恩恵を味わえば味わうほど、もはやデジタルのない世界へさかのぼることは難しくなる。デジタルはこれからますます社会を覆い尽くし、人間が100億人を超えているであろう2100年の世界では、デジタルの影響はいまの比ではないものとなっている。降りることのできないデジタルの船はいまよりずっと先に進み、その時にはその中で暮らす人が100億人を超える。そういう日が、やがて訪れることになる。

デジタルが発展途上国の50億人に光をもたらす

フェイスブックは「internet.org」をテクノロジー企業6社(Ericsson, MediaTek, Nokia, Opera, Qualcomm, Samsung)と共同設立、主に次の3つの課題にフォーカスし、発展途上国のネット利用の実現を進めている。(参照元:フェイスブックによるプレスリリース http://newsroom.fb.com/News/690/Technology-Leaders-Launch-Partnership-to-Make-Internet-Access-Available-to-All)

(1) データ伝送の効率化によるインターネットアクセス料金の減額
(2) アプリの効率化による使用データ量の低減
(3) インターネット普及の新モデル構築

フェイスブックのCEO(最高経営責任者)であるマーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)氏は、これに関して次のように発言している。

「不公正な経済の現実とは、すでにフェイスブックにいる人々は、それ以外の世界すべてを合わせたよりも多くのお金を有しているということだ。我々が今後非常に長い期間にわたってインターネットの恩恵に浴していない数十億人の人々に仕え続けることは、可能であったとしても、利益にはつながらないかもしれない。それでも我々は、誰もがネットに接続できるようにすべきだと信じている」

彼らは既にそのための素案を公開し、その改良意見を世に求め始めている。

現在のインターネットユーザーは27億人で、世界の総人口のおよそ3分の1にあたる。
しかしその増加率は毎年9%以下で、インターネットが成長過程の初期段階にあることを鑑みれば、低い成長率だということを彼らは危惧している。(参照元:“Is Connectivity A Human Right?”)

この視点を持つのはフェイスブックだけではない。
2012年11月8日、米グーグルは発展途上国の利用者を対象としたGoogle Free Zone(グーグルフリーゾーン)というサービスを発表している。その1つ目のパイロットプログラムとしてフィリピンの通信キャリアであるGlobe Telecomと提携し、同国での提供を開始している。

このフリーゾーンは、インターネット接続機能を持つ携帯端末のユーザーが、検索、Gmail、Google+等のグーグル主要プロダクトを無料(データ通信契約も不要)で利用できるサービスだ。検索結果に表示されたリンク先のページにも無料でアクセスできる。

フィリピンのモバイルマーケットは既に飽和状態にあり、97%のユーザーがSMS(ショートメッセージサービス)を利用しているものの、モバイルインターネットの利用はわずか9・8%だ(2011年度World Bankデータ)。フリーゾーンを通じてフィリピンでモバイルインターネットの利用を普及させる取り組みは、より高性能な端末への買い替えとグーグルの利用を促す狙いはあるが、これもフェイスブックと同じく大義によるものだといえるだろう。

「デジタル・ディバイド」という言葉がある。
これは、インターネットを中心とした情報通信技術を利用できる人とできない人の間に生じる経済格差を指す言葉として使われている。

米国では1996年、当時の大統領であったビル・クリントン(Bill Clinton)氏と副大統領のアル・ゴア(Al Gore)氏がこの言葉を公式に使用し、クリントン政権ではすべてのアメリカ国民がコンピュータとインターネットを利用できるようにすることを国家的な目標とした。そしてここ日本においては、2000年前後からこの言葉が使われ始めている。

僕は数年にわたり、スリランカの児童養護施設の支援に携わらせていただいているが、その子供たちが将来活躍するための武器として、デジタルスキルが重要な意味を持つことを目の当たりにしている。

ちなみにスリランカのインターネット普及率は15・0%だ。さらに普及率が低い国では、バングラディッシュ5・0%、カンボジア4・4%、ミャンマーになると1・0%というのが実情(参照元:Internet World Stats / Internet Users 30-June-2012)であり、そのような国々でデジタル・ディバイドの解消がなされる意義は大きい。

たとえば、電子メールの送受信や様々なデータベースの利用、商品の購入や音楽の受信配信、金融取引などが可能になることで、生活やビジネスの利便性が上がる。さらには新しい産業も生まれて育つ。これらにより、経済的には労働生産性の向上、文化的には相互理解が深まることにつながる。
また、国民が等しく国際情勢を把握できれば、政治的には民主化の推進を促すと考えられる。

デジタルが、発展途上国の50億人に光をもたらし、成長を促す。もちろんそこで必要なのはデジタルだけではないが、デジタルが放つ光の力は計り知れない。発展途上国におけるデジタルの普及がその国や人々の姿を大きく変え、さらにそれが世界全体の発展にも寄与する。僕はそう考えている。

18歳女子高生の大発明

スマートフォンなどの携帯型デジタル機器を四六時中利用するようになったことで逆に不便を感じるようになったことがある。それはその稼働電力だ。小さなデジタル機器の中には、長い期間それを稼働できるようなバッテリーは入れられない。だからいまはまだ、そのバッテリーをこまめに充電する必要がある。しかし一定量の充電をするには概ね数十分から数時間を要し、そのためのコンセントがある場所も限られる。これはデジタルの利便性と表裏一体の不便さであるが、そこにもちゃんとデジタルテクノロジーが解決にあたってくれようとしている。

たとえばそのひとつが、2013年に開発された非常に小さなスペースに大量のエネルギーを保持できるテクノロジーだ。開発したのはなんと当時18歳の米国の女子高生で、インテル国際学生科学技術フェアの準優秀賞を獲得した。この技術を応用すれば、様々な電子機器などを短時間で効率よく充電することが可能になるという。

また、街の中を飛び交うWi-Fiに含まれているエネルギー波を電流に変換するテクノロジーが米国の学生によって開発されている。太陽電池パネルに相当する実用性が得られるとのことだが、天候に左右されない安定した電力で、どこからでも給電できるようになるのも時間の問題だろう。

このようなデジタルテクノロジーが毎日のように生み出されては進化をし、われわれが不便に感じるところには、すかさず新しい光が射す。それにより、われわれの生活の中にある不便という穴はどんどん埋められていくだろう。

光が射す一方で、つくられる影

デジタルがもたらす光、その力と功については、もう既に目の前にあるものだけでも充分過ぎるほど理解できるだろう。
しかし一方で、その光に伴ってつくられる、影のようなものの存在を感じることがある。その影は、さりげない日常生活の中にも見え隠れしている。

朝起きたらすぐにベッドの中で、おはようの挨拶の前にスマートフォンを手にとる。朝の散歩でもスマートフォンをチェックする。気づいたら散歩道の景色の記憶が薄い。友達との食事中も頻繁にスマートフォンのチェックをし合っている。デートの時も、旅先でも、ゴルフのプレイ中も、誕生会でも、そこにはスマートフォンに関心を奪われる自分やみんながいる。

誰かといるのに、みんなといるのに、すぐそばにいるのに、とても遠く感じる。そのような感覚の中にこそ、この影が潜んでいる。

デジタルが光をもたらす一方で、つくられる影。この影は光を遮り、われわれの社会に歪みを与えようとしているのだろうか。

毎日ムダな情報と出会っている?

われわれはいま、溢れんばかりの情報の中で生きている。
その中から縁あって出会い、毎日触れている情報は、あなたにとって本当に有益なものなのだろうか。もしかしたら、不必要な情報の陰で本当は必要な情報が埋没してしまっているかもしれない。

米EMCが調査会社の米IDCに委託して実施したデジタルユニバースに関する調査結果(http://www.emc.com/collateral/analyst-reports/idc-the-digital-universe-in-2020.pdf)はインパクトがあるものだった。

2020年にはデジタルユニバースの規模は40ゼタバイトに達し、世界の全人口1人あたりではおよそ5247ギガバイトのデータを保有する量に相当するという。「ゼタバイト(Zettabyte)」といわれても、ピンとこない人が大半だろう。これはデジタルデータの容量の単位で、単位の小さい順に並べてみると、「バイト→キロバイト→メガバイト→ギガバイト→テラバイト→ペタバイト→エクサバイト→ゼタバイト→ヨタバイト」となり、単位が1つ上がるごとに1024倍(2の10乗)という仕組みだ。

ゼタバイト、とてつもなく大容量であることくらいはすぐに想像がつく。累乗で表すと2の70乗、約11垓8059京と聞くと、また想像からはみ出てしまう数字になる。これはDVDで2500億枚に相当し、少し馴染みのあるギガバイトをコーヒーカップ1杯分とすれば、ゼタバイトは万里の長城の体積に匹敵する。
2006年時点では0・161ゼタバイトであったが、その増大スピードは加速の一途、デジタルユニバースは2年ごとに倍増するペースの中にある。

一方、その膨大なデータを活用しきれずにいる状態にあり、2012年時点のデジタルユニバースの23%(643エクサバイト)はビッグデータとして活用可能であるものの、タグ付けされているデータはそのうち3%、さらに分析まで行われているデータの割合は1%未満だといわれている。

この膨大な情報の源として成長を続けているのがソーシャルメディアだ。
ソーシャルメディアが実生活とウェブをつなぐインターフェイスとなり、世界中のユーザーが日常の細かな出来事をそこへ集積するようになった。検索がウェブ上の情報を収集してインデックス化する速度を、世界中のユーザーがソーシャルメディア経由でウェブに情報をアップロードする速度が凌駕してしまった。

その中でもフェイスブックのニュースフィードは、毎日7億人以上が見る情報フィルターになった。それにもかかわらず、このニュースフィードに表示される投稿がどのような仕組みで選択されるかというアルゴリズムはあまり明らかにされていない。自分がつながっている友達の投稿が全てそこに表示されている訳ではないし、むしろ目に触れられる機会すらないまま、多くの投稿が流れ去っている現実がある。

いずれにせよ、われわれが膨大な情報の中で生活するようになったことで、それらを捌いて必要な情報を目の前に運んでくれる何らかのフィルターが不可欠になった。

しかし、どんなフィルターであっても、それがあらゆる情報から一部を抽出するフィルターである限り、自分が必要とする情報に100%出会えることは保証されない。いまの社会において、情報との出会いはセレンディピティ(役に立ったり必要なものを、偶然の出会いから発見すること)次第なのだ。

残念ながら、情報量と接触する情報の質は比例しない。どれだけ情報が増えても、その増えた分だけあなたにとって必要な情報と出会える確率が高まるとは限らない。われわれはこれから、爆発的に増えていく情報の価値を、本当に享受しきれるのか試され続けることになる。

〝嘘の戦争〟にも気づかないまま

もはやインターネット上の事典として、世界中で使われるようになったウィキペディア。英語版からスタートしたが、その後多くの言語に展開され、いまや270言語以上に及ぶ。

調べごとにこれを使う人が増えたことで、市販の事典の売れ行きが減少しているという話も聞く。ネット利用がアクティブになるにつれ、〝調べごとはウィキペディア〟という人が増えるのは当然の流れだろう。

誰もが新規記事の執筆や既存記事の編集に参加できることが特徴で、主立った用語はかなり網羅されるようになった。公的なニュースや書籍などでも、ウィキペディアから引用されることも多くなり、情報の信頼性や信憑性は増している。

しかし過去には、このような出来事があったことを思い出す。ウィキペディアで〝嘘の戦争〟がつくり上げられ、しばらく気づかれずに放置されていたのだ。

「ビコリム戦争(Bicholim conflict)」という2007年に作成されたページがそれだ。
1640年から41年にかけ、植民地支配を目指したポルトガルと当時インドの大部分を支配していたマラータ王国との間で起きたのがビコリム戦争であると説明されていた。戦争の名前の由来から、最後は平和条約を締結したという結末まで記述されており、5年間ほどこの〝嘘の戦争〟が閲覧されていた。

米国のユーザーの一人がこの情報に疑問を持ち調査を行ったことから、このビコリム戦争自体が一切なかったことが判明、申し立てを受けたウィキペディアがページを削除した。
まさに、誰かのいたずらでつくられた〝嘘の戦争〟が事典の中に収められ、長いこと閲覧されていたのだ。編集への参加は実名を明かさなくても可能であり、このようないたずらの書き込みへの対処は実際難しい。

ソーシャルメディアが普及し、自身をより魅力的に見えるように着飾って投稿をしたことがある人は、実に2人に1人はいるという調査などもある。もしもその脚色が度を超えてしまっていた場合、真実とは異なる情報を受け取ってしまうこともあり得るということだ。

豊富で便利な情報の背後にある信憑性のリスク。
もちろん多くの項目において役に立つ情報が記述されているし、思いがけず面白い情報に出会えたりもする。しかし一方で、そこには一切の保証がないことも理解しておいた方がよいだろう。

つまり、あなた自身が最終的に正しい情報のフィルターを持たなければ、嘘の情報に飲み込まれかねないということだ。

<以下、【後編】に続く>


■つながり依存、脳腫瘍発生の危険性、経済損失・・・デジタルの影の部分にも明るい領域をつくらなければならない

第1章 デジタル社会の光と影【後編】

SNSが生む経済損失

手元のスマートフォンのアラートに頻繁に喚起され、それに手を伸ばしてはチェックを繰り返す。たとえ仕事の打ち合わせ中でも、である。そのアラートは、フェイスブック上で更新が生じたことやメッセージ受信のお知らせだ。また、仕事でパソコンに向かうことが多い職業だと、画面上でフェイスブックやツイッターに常につながったままの状態の人も少なくない。

ワシントン・ポスト紙の元スタッフ・ライター、ウィリアム・パワーズ(William Powers)氏は、自著の中で次のことを指摘している。

「心理学の知見によると、頭を使う仕事をやめて横から入ってきた用事に対応すると、感情や知覚はたちどころに肝心な仕事から離れはじめ、別件に長いあいだ気を取られていると、元に戻るのに要する時間も長くなるという。いくつかの推定によると、集中力を回復するのにかかる時間は中断時間の10~20倍にもおよぶこともある」(引用元:『つながらない生活 「ネット世間」との距離のとり方』有賀裕子訳)

あらためて言われてみると、身に覚えがある人も少なくないだろう。
パソコンに向かって上司への報告書を作成している。すると同じパソコン画面上で接続しているフェイスブックのニュースフィードにちょっと目をやると、友達の投稿がどんどん流れてくる。ちょっと一瞬のつもりでフェイスブックの投稿を眺める。いくつかの投稿を眺めてコメントをしたりで滞在5分。たった5分の寄り道だ。しかしどうだろう。作成中の上司への報告書に戻ったものの先ほどの投稿が頭にちらつく。「ああ、投稿にあったイタリアンレストランはよさそうだな。今度行ってみよう」。そんなことを頭の中でもやっと思いながら、作業を進める。そう、実は集中力という観点では、5分の寄り道では済まなくなっている。先のデータを基にすれば、集中力を回復するのに、下手したら中断時間である5分の10〜20倍の時間を要することだってあるのだ。物理的にはたった5分でも、作業効率という観点ではなかなかのダメージだ。

この〝なかなかのダメージ〟についてはこんなデータもある。
BaseX(http://basex.org/)が2008年に行った推計では、情報過多により年間9000億ドルもの経済損失が生じているという。以降、ソーシャルメディアの利用者数と利用時間が飛躍的に伸びていることを考えると、現時点ではもっと多くの経済損失の源になっている可能性がある。みんなの「ちょっと一瞬」が積もりに積もると、経済損失という観点ではとんでもない数字に膨れ上がるという試算だ。これはもう、〝なかなか〟と言える次元ではない。

「新しい病」を生むデジタル

「友人からのSNSへのコメントやメールにすぐに返答しなくては、と思うとなかなか寝つけないんです」

SNSでのやりとりに没頭し、やめられなくなる「ネット依存」の悩みを抱えて医療機関にかかる人が増えている。スマートフォンやソーシャルメディアの普及がネットから片時も離れられないという「新しい病」を生み出しているというのだ。

厚生労働省の科学研究費で行われた成人対象抽出調査(2008年)で、インターネット依存の恐れがあるとされたのは全国で推計271万人、子供の数を加えると500万人を超えていた。この調査以降、フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアの利用者が急増し、2012年の段階では5000万人を突破、加えてスマートフォンの普及も一気に進み、LINEのような新しいコミュニケーション手段も増えた。それにより、ネット依存症を訴える人の数や症状はより深刻になっている。

その多くがソーシャルメディア上のコミュニケーションにのめり込み過ぎて生活や仕事に支障をきたす〝つながり依存〟だと言われている。日本でもフェイスブックが普及し始めていた2011年6月、フェイスブックに夢中になった滋賀県の主婦が、高熱を出していた1歳の息子を放置して死なせるという事件が起きて大きな議論を呼んだ。逮捕されたこの母親は調べに対し、「インターネットのチャットに熱中し、昼夜逆転の生活をしていた」と供述している。このような状況を受け、国立久里浜医療センターでは薬物と同様の依存性に着目し、専門の外来を開設し治療法の開発に着手している。

インターネット依存は、「自分の意思でインターネットの利用(時間)をコントロールできない」「常にそれに気を奪われる」「人にやめるように言われてもやめられない」「現実から逃避したい心理状況などにより、過度に利用してしまう」などの症状があり、日常生活に支障を及ぼす。これはまさに、薬物やアルコール依存にも近く、だいぶ深刻だ。
程度の差こそあれ、自分もこの「新しい病」に罹患しているのではないか? と思われた方もいるだろう。

さらにこの依存性は、人間の精神面だけではなくその肉体にも影響を与え始めている。

長時間のパソコン作業やスマートフォンの使用が原因で、腱鞘炎に悩む人が増加している。マウスのクリックやキーボードのタイピングなど、決まった動作を何度も繰り返すことで手指の腱に炎症を引き起こす〝反復運動過多損傷(RSI)〟を主な原因とする、「キーボード腱鞘炎」「マウス腱鞘炎」といわれる症状がそれだ。最近はスマートフォンの操作により親指を使い過ぎる人が多い。その結果、手首の親指側にある腱鞘が炎症を起こし、親指を伸ばすと痛みを感じるドケルバン病という症状に悩む人も続出している。

ビジネスマンが一日にキーボードを叩く回数を試算してみよう。ローマ字入力の場合で1文字あたり2回キーを叩くとする。一日に10通、メール1通あたりの平均文字数を200文字とすれば、400回×10通=4000回。メール以外にも、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアに投稿したり、コメントを寄せたりする機会も増えているし、ビジネスマンであれば書類作成などで毎日万回単位でキーボードを叩いているはずだ。それに、スマートフォンでのフリック入力という新しい動作も加わっている。

かくいう自分に置き換えてみるとぞっとする。僕はパソコンとスマートフォン、それにタブレット端末を併用し、優に100通を超えるメールを毎日のようにやり取りしている。メール以外にも、大量の書類作成や原稿執筆を常態的に行っている。こまかいメッセージのやり取りは、スマートフォンでのフリック入力で対応する。これでは、「キーボード腱鞘炎」「マウス腱鞘炎」にいつなってもおかしくないという状態だ。フリック入力を大量に行うことで、親指の付け根の違和感も頻繁に感じているから他人事ではない。

デジタルは、大きな利便性を提供していると同時に、人間の心身に新たな病巣をもたらしてもいる。これも現実だ。

携帯電話で脳腫瘍が増加する

携帯電話で一日30分以上の通話を5年間継続すると、脳腫瘍が発生する危険性が2〜3倍に増えるとの調査結果をフランスの研究者がまとめたことを、AFP通信等の仏メディアが報じて(2014年5月13日付)話題になった。

2004〜2006年に、仏ボルドーの公共衛生研究所(ISPED)が脳腫瘍の一種であるグリオーマや髄膜腫を患った約450人を調査したところ、他の健常者と比較し、携帯電話の利用が少ない人ほど脳腫瘍の発生が少ない傾向が認められたのだという。

調査をした同研究所のイザベル・バルディ(Isabelle Baldi)博士は、脳腫瘍の発生率上昇が携帯電話を最も頻繁に利用する人だけに確認されたことを強調し、電話を耳から離して通話するハンズフリー機器の使用を勧めている。

人間の活動の利便性向上に大きく寄与している携帯電話が、人間の脳に病巣をつくる道具にもなっているのだとすれば、なんと皮肉な話なのだろう。

評判を求め過ぎる子供たち

メディア、特にソーシャルメディアを多く使う子供たちは、評判を重要視する傾向が強いという調査結果がある。

米国の団体「Children’s Digital Media Center in Los Angeles」(子供のデジタルメディア・センター)が全米の9歳から15歳までの子供に対して行った調査(2013年4月19日、米国発達心理学会会議にて発表)によると、13歳未満の子供たちの約4分の1がソーシャルメディアを使っており、それが子供たちの価値観に大きな影響を与えているという。

子供たちがソーシャルメディアを使うようになったことで(フェイスブックなどはアカウント開設時に13歳以上であることを条件としているのだが)、友達の反応(いいね! やコメント等)を求める習慣がつく。その結果、子供たちが「評判を求める行動」へと傾倒している。

日本の内閣府が2010年に行った「国民生活選好度調査」によると、幸福度を判断する場合に重視した事項について、15〜29歳の60・4%が友人関係と回答している。

日本においても、若者が友達からの評価を気にし、そこに承認欲求を求めている実態がうかがえるが、ソーシャルメディアの利用がそれに拍車をかけている。
友達の評判を気にすること、友達からの承認を求めること、それ自体はある種の本能ともいえる。しかし、その度が超えてしまった場合、自分の価値評価を他者による評価に委ね過ぎ、ストレスの要因となってしまう。

社会のデジタル化が進む中で、子供の頃から、自分ありきではなく他者ありきで自分が成立する傾向が強まるとすれば、本当の自分らしさというものを見失いかねない。自分の価値は、もっと「自分による自分のもの」であってもいい。

デジタル写真を撮影するほど記憶が薄れる

日常生活、旅先、様々なイベントでデジタルカメラを手にし、思い出に残そうと撮影に勤しむ。
多くの人が心当たりのある行為ではないだろうか。
しかしこれが、イベントなどへの参加度を減らし、記憶を薄れさせることにつながるという研究結果がある。

2013年12月、米フェアフィールド大学の心理学者であるリンダ・ヘンケル(Linda Henkel)氏が米心理学専門誌「Psychological Science」(サイコロジカル・サイエンス)で発表した研究によると、博物館でのガイドツアー中、展示品を見学しているだけの人よりも、撮影していた人の方が詳細を覚えていなかったという。

同大学内にある博物館のツアーに学生を参加させ、写真を撮影するか、見学だけをするかの2通りに分けた。そして、いくつかの展示品を覚えておくよう指示を与えた。翌日、指定した展示品に関する記憶を調査すると、見学だけしていた学生と比べ、写真を撮影していた学生の方の対象物に関する認識が正確さを欠いていた。

同氏はこれを「写真撮影減殺効果」と称し、「物事を覚えておくために技術の力に頼り、その出来事をカメラに記録することで、自分自身で積極的に参加しようとする必要がなくなってしまい、経験したことをしっかり覚えておこうとしてもマイナス効果を与えかねない」と説明している。

さらに、写真を撮影した学生のうち、被写体の特定部分をズームアップして撮影した学生は、拡大した部分だけではなく、写真のフレームに収まらない部分の記憶も良く残っているようだとしている。

同氏は「この結果は〝心の眼〟と〝カメラの眼〟が同じではないことを示している」とし、写真は何かを記憶する助けにはなるものの、それは時間をじっくりかけて鑑賞したり見直した場合に限り、過剰に写真撮影をすると鑑賞が疎かになる可能性を指摘している。加えて、「思い出を残すためにデジタル写真を撮影しても、量が多過ぎ、整理もしなければ、多くの人が写真を見直したり思い出す気もなくなることを調査結果が示している。記憶にとどめるためには、写真を撮りためるよりも、撮った写真を眼にする機会を持つ必要がある」と述べている。

デジタルカメラの時代になり、一枚一枚が消化されるフィルムよりも、気軽にパシャパシャと撮影するようになった。スマートフォンのようなモバイル端末にカメラが内蔵されていることで、その気軽さは加速している。条件反射のように何も考えず、カメラのシャッターを切り、ソーシャルメディアで写真を共有する。

無闇にシャッターを切り記録を残そうとする前に、ちょっと立ち止まって顧みる必要があるのかもしれない。「目の前のもの、目の前で起きていることは、自分の脳裏にちゃんと焼き付けられているのだろうか」と。

ソーシャルメディアが失言を誘発する

「最近、政治家や著名人の失言や暴言が波紋を呼ぶことが増えている」と感じる人は多いだろう。
もちろん、失言や暴言自体はいまに始まった話ではなく、これまでの歴史の中で政治家や影響力のある人々が公の場にて数々の失言や暴言を重ねてきた。

その昔、ひとつの失言が大きな金融恐慌を引き起こした。
1927年3月から発生した昭和金融恐慌は、同年3月14日の衆議院予算委員会の際の片岡直温蔵相の失言をきっかけに金融不安が表面化し、中小銀行を中心に取り付け騒ぎが起こったことに端を発している。東京渡辺銀行が破綻したという事実とは異なる発言により、預金者の不安が一気に広がり、中小銀行に殺到し預金が引き出された。たった一つの失言が大きな恐慌を生み出すきっかけになったのだから、もはや、「すみません、失言でした」と言い訳のできる次元ではない。

1953年2月28日の衆議院予算委員会において、当時の吉田茂首相と右派社会党の西村榮一議員の質疑応答中、吉田首相が西村議員に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことをきっかけに衆議院が解散されるまでに至ったこともある。このバカヤロー事件(解散)なども、うっかりではすまない失言だ。

ちなみにこのバカヤロー事件、吉田首相が大声で叫んだ訳ではない。吉田首相が席に着いた際にとても小さな声で「ばかやろう」と〝つぶやいた〟だけだった。そのつぶやきを偶然マイクが拾い、気づいた西村議員がそれをとがめたことで騒ぎに発展したのだ。

このマイクの機能を、ツイッターなどのソーシャルメディアが担うようになったのがいまの社会だ。さりげないつぶやきを拾い、そして拡散する力は、吉田首相のつぶやきを拾ったマイクの性能よりも格段に上だ。

「王様の耳はロバの耳」という有名な寓話がある。
王様はロバの耳をしていて、それをひた隠しにしていた。その王様の髪を刈っていた理髪師は、王様はロバの耳であることを知っていたが口止めされていた。しかし理髪師はどうしても黙っていることができずに、井戸の奥に向かって「王様の耳はロバの耳」と大声を出して叫んでしまう。その声が伝わって、井戸という井戸から「王様の耳はロバの耳」と聞こえ、皆に王様の耳はロバの耳であることが知られてしまうという話だ(ささやいた言葉が風に乗って広まってしまうというストーリーなども存在する)。

この井戸も、いまとなってはまさにソーシャルメディアがその代役を果たしている。井戸から井戸へ伝搬するくだりなどは、やがてソーシャルメディアのような拡声器が生まれることを予見していたようにすら感じる。

人間は、失言につながりかねないことを、腹の中で思っていることがままある。多くの場合、それを腹の中だけでコントロールし、公言しない。
しかし時として、感情というせき止めのきかない〝魔物〟によって理知を超え、口から失言を吐き出してしまうことがあるのもこれまた人間だ。

それが参加者の限られた会議室、井戸端の世間話であればまだ救いようがある。しかしソーシャルメディアの中での失言はそうもいかない。発言は記録化され、その記録はソーシャルネットワークをとめどなく駆け巡る。しかも記録は完全に消すことができず、残り続ける運命にある。

そしていまの社会には、ソーシャルメディアの中で生まれた失言をマスメディアが取り上げることで、「王様の耳はロバの耳」という失言を井戸の外へ持ち出し、街中へ強烈に拡散するという構造がある。

厄介なことに、ソーシャルメディア、さらにその拡散力を補強するマスメディアが失言を伝搬する中で、その失言自体に様々な尾ひれはひれ、バイアスが加わることがある。失言は、それが口から吐かれたものとは違った形でより負の方向へ肥大化していく場合もある。

ソーシャルメディアは、〝失言を誘い出す魔性〟のようなものを持っているのかもしれないと思うことがある。

人はソーシャルメディアを前に、腹の中にはあるけれど本当は口に出すべきではないことをいとも簡単に吐き出してしまうようになった。言わない方が無難であることくらい、たいていの場合は判断がついているはずだ。しかし、目の前のスマートフォンの中から「今どんな気持ち?」とささやかれて、その判断力は思わずなし崩しにされてしまうようだ。

サイバー攻撃で死者が出る

サイバー攻撃。
これはデジタル社会が生んだ新たな脅威である。

インターネットやコンピュータが普及しその重要度が増すにつれ、コンピュータウイルスのばらまきやデータの書き換えや破損、通信やサーバーをダウンさせるような破壊活動が相次ぐようになった。人や社会に大きな危害や打撃を与えるような深刻なもの、政治的な示威行為として行われるものもある。大きな企業や組織に対し、または不特定多数を無差別に狙った高度なサイバー攻撃は増加の一途で、世界中でそれらに対する不安と警戒が強まっている。米McAfeeと米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)が2014年6月9日に発表した推計によると、サイバー犯罪がもたらす経済損失が世界で年間最大5750億ドル、少なく見積もっても3750億ドルに上るという。サイバー攻撃による犯罪が世界経済に与える悪影響は極めて大きい。

そして遅かれ早かれ、「サイバー攻撃で死者が出る」可能性を示唆している専門家も多い。それは、軍事兵器、電力や通信設備、医療機器、車のナビゲーションなどの安全装置を対象とした攻撃が大規模でなされた時に起こるとされている。

もはや国家安全保障のレベルで対応せざるを得なくなった「サイバー攻撃」は、まぎれもなくデジタルがつくる影のひとつである。

インターネット墓地を受け入れられるか

お墓参りはインターネットで─。
インターネット上に仮想のお墓を設け、スマートフォンやパソコンの画面上には、戒名や生前の写真が現れ、そこでお墓参りを行う。デジタルにより、そのような新しいお墓参りの形態が生まれ、存在する。

少子高齢化やお墓が遠方でなかなか行けない、実際のお墓だと管理が難しい、そのような背景の中で、この「インターネット墓地」のニーズがあるようだ。海外では日本以上に広まっているところもあるという。

一方、これに対しては批判もある。
サーバーの不具合等でデータが消滅してしまったらどうするのか、お墓は実際に行って拝むべきもの、というような類いだ。遺体や遺骨を葬り、故人を弔う場所としてのお墓は古代からの慣習であり、「インターネット墓地」のような新しいアプローチに関して賛否両論が巻き起こるのは当然のことであろう。

いまのところ、この「インターネット墓地」はあくまでも従来通りのお墓の付随物としての位置づけだが、果たして未来の人間は、このインターネット墓地というものをもっと受け入れ、主たるお墓の形態に据えてしまうだろうか。それとも拒絶し、消滅させてしまうだろうか。インターネット墓地の未来は、まだ未知の段階だ。

忘れられる権利

一度インターネット上に露出した写真や文書を完全になかったことにするのは難しい。露出した途端に画面をコピーされたり、写真を保存できてしまう。

皆がソーシャルメディアを使うようになってからは、それらを人から人へ一気に拡散する環境が整い、いざ引っ込めたい情報を完全に封印することは困難になった。その不可逆性に苛まれるようになった人間は、インターネット上の情報を消し去ることの権利を「忘れられる権利」と称し、その権利を求めるようになった。

しかし、「忘れられる権利」は、なかなか正式な権利として認められないまま時が経過してきた。そんな中、個人情報やプライバシーに敏感なヨーロッパではこの権利の必要性の議論が活発に行われ続け、2014年5月13日、ついに司法が重要な判断を下した。EU(ヨーロッパ連合)司法裁判所は、グーグルに対し、自分の情報へのリンクを検索結果から削除するよう求めたスペイン人男性の請求を認める判決を言い渡したのだ。

判決は「忘れられる権利」を認め、情報が不適切、既に関連性がない、過度である場合には削除を求められるとした。この判決は、「忘れられる権利」が公のものとなっていくきっかけになることだろう。

とはいえこれは、検索結果にヒットしないようにする対応に過ぎず、一度出た情報を過去にさかのぼって取り消すこと自体がかなえられた訳ではない。

「忘れられる権利」は、デジタルの船が前に進むほど、人間にとってますます尊いものとなるだろう。デジタルは、光としてみんなで共有する優れた方法を提供し、一方で忘れられたいのに忘れられない苦しみの影をつくっている。

デジタルは、こうして光と影を同時につくっている。そもそも光と影は表裏一体、光があれば必ず影があるものだ。われわれは、デジタルがもたらす光と影の両方の影響を同時に受けなければならない。だからこそ重要なのは、その影の存在に気づき、向かい合うことだ。それにより、影を暗闇にせず、影の中に少しでも明るい領域をつくれるはずだ。いや、つくらなければならない。

<第1章 了>

小川和也(おがわ・かずや)
アントレプレナー、デジタルマーケティングディレクター、著述家。


[いずれも現代ビジネス]

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Posted by nob : 2014年09月29日 08:30