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また旅立つ君へVol.80/久方ぶりのhikaruからの便り、、、かのような親しい心象、、、hikaruの旅は終わらない。。。
■旅は楽しいものじゃない。それでも「なぜ旅に出るのか」?
世界中の美しい空、海、山、遺跡、田園、街、人。今、それらは様々なメディアを通してすぐに見ることができます。写真や動画を通じて、わたしが今いる場所から遠く離れた世界の、切り取られたものを見るのは簡単です。
ですが、それらは決して「すべて」ではありません。この世界のどこかにある、ごくごく一部です。
今日は、わたしが大学を休学して8ヶ月間「好きなところに好きなだけ滞在し、その土地の日常を見る」とだけ決めて一人で放浪していた時の話を交えながら、「旅」とはそもそも何なのか考えたいと思います。
「旅」は絶望から始まる
「旅」と呼ばれるもののほとんどを定義づけているのは、「移動」ではないかとわたしは思います。
なにせ、食事をしたりお喋りをしている時間よりも、バスや電車、歩いたり飛行機に乗って移動している時間の方が圧倒的に多いのです。もし仮に移動をやめると「生活」が生まれます。よくバックパッカーの間で、居心地がよすぎて一箇所に長期間滞在することを「沈没する」と言いますが、この「沈没している状態」は、厳密に言えば旅をしている、とは言えないかもしれません。
つまり、旅というのは常に「移動し続ける」ことであるということです。ほかにもたくさん考え方があるかと思いますが、今回は、この定義に則りたいと思います。
さて、移動し続けていると分かるのですが、旅をしている間にふと気づきます、「あれ、わたしってどこまで行ってもよそ者だわ」と。例え行く先々で仲良しの友人や大好きな人ができたとしても、「わたしは根っからここの生活文化に浸ることはできないし、会得することはできない」と感じてしまいました。
わたしは、旅の滞在方法として「カウチサーフィン」を使っていましたが、あらゆる日常には、積み重ねてきた時間、歴史があり、わたしはこの国のことを何も知らず、目の前にいる友人たちが今生きているその土台を積み上げてきたものを何も共有していないという事実に、しばしば打ちのめされました。
それを決定的に感じたのは、8ヶ月の旅の前半でドイツで出会ったアナと、わたしの帰国前にイスラエルを一緒に5日ほど周った時でした。
エルサレムにあるイスラエル博物館に二人で行ったのですが、年代別にイスラエルの、主に戦争の歴史について展示物が並んでいて、入館するや自然と二手に分かれて、思い思いに館内を回りました。そして、ちょうどアウシュヴィッツ強制収容所など、第二次世界大戦中のエリアに来たとき、ふと顔を上げると目の前にアナがいて、わたしも彼女も涙を流しているのに気づきました。
目があっても、わたしもアナも何も言わなかったけれどお互いなんとなく何を考えているかわかりました。そして同時に、過去の歴史を知る同世代の立場では在れるけれど、彼女の涙の本質は、ドイツと日本という違う「背景」がある限り、根底からは共有し得ないのだということにショックを受けました。
永遠によそ者であると自覚することは、大変勇気がいります。なぜなら、圧倒的な孤独を受け入れることになるからです。ですから、わたしの旅はほとんど絶望から始まりました。なんてわたしは無知で無力なのか、という絶望と、どこへ行ってもよそ者で有り続けるという、旅の最中における必然的な孤独に対する、絶望でした。
どこへ行けども居るのは「人」
旅の最中に、本当にわくわくして心躍ることなんて、まさにわたしたちがネットで飽きるほど見ている絶景写真なんかと一緒で、ごく一部でしかありません。
もっと日常的な話をすれば、実際は、お風呂に毎日入れるわけでもないし、食事だって美味しくないものもあるし、街ゆく人に話しかけても誰も助けてくれなかったり、洗濯も満足に出来ず何日も同じ服を着ていることなんてザラです。(もちろん、目的などによってスタイルは変わりますが、言ってしまえばお金さえあればいくらでも快適さを買うことはできると思います。)
先ほど、わたしは「あらゆる日常には、積み重ねてきた時間、歴史があり、わたしはこの国のことを何も知らず、目の前にいる友人たちが今生きているその土台を積み上げてきたものを何も共有していない」と書きました。
けれど、それは日本であろうとどの国であろうと同じなのではないか、と思うのです。生まれてこの方まったく同じ環境で育った人間なんで誰ひとりとしていないのだということです。当たり前です、当たり前ですが、わたしたちは普段「日本人だから」「女だから」「男だから」となんとなくわかりやすいカテゴリーによってイメージを固定化しているように思います。
ですが、そのイメージから大きく逸れることだって十分有り得ますし、生活や文化の土壌が違うから分かり合えない、というのは異国であろうと日本であろうと発生する現象なのです。だから「ああ、これは解決できるできないの問題ではなく、揺るがない事実で、だから優劣とかそもそも無いんだ」と分かり、すっと憑物が落ちたようでした。
また、三大欲求や衣食住といった、人間を人間たらしめる要素は、国の違い云々は全く関係ありません。結局、行けども行けども、人は人がいるところへ旅をしようとするのだと思います。移動する先、旅の先には、かならず「人」がいました。
理由や目的はどうでもいい。まずはやってみる
冒頭の問いに戻りましょう。「旅」とはなにか?
これに答える前に、わたしがよく聞かれる質問について、さいごに少しだけ。
8ヶ月の一人旅に行っていたと言うと、「どうして旅へ行ったの?」とよく聴かれます。ですが、一度として納得のいく答えを返せたことがありません。なんとなく、目的や理由というのはいくらでも後付けできると思います。ただ、「移動」することによって得た気づきは、同じ場所で延々生活し続けていただけでは決して得られないものでした。
旅に出ようか迷っているひとに、「まあまずは行ってみなよ」と言うのは簡単です。やってみないと、自分が何を求めていたのか分からないこともあります。まずは、行動に移せないのか移さないのかを明らかにすること、そしてそれが解消できることであれば、ひとつずつ潰していくしかありません。そこから、「旅」を通した自分との対峙が始まっていると思います。
ですから、まとめると、旅とは「移動」であり、よそ者であるわたしが、自分と周りの世界の孤独と向き合うための手段だと思います。
さいごに、付け加えておきたいのは、これらはすべてわたしの「感覚」の話で、「教養」の話ではないということです。そしてもちろん、すべての人に当てはまる話でもありません。あなたもわたしも永遠によそ者、でも分かり合おうと近づけば、なにか共鳴するものが見つかるかもしれません、あなたもわたしも「人」であることは同じですから。
Misaki Tachibana
富士山の麓で生まれ、今は日本文学を勉強中。好きな作家は川上未映子と堀田善衛。おばあちゃんになったら、国内外問わず、山の中で書道の先生をやるのが小さい頃からの夢です。
[TRiPORT]
Posted by nob : 2014年11月26日 08:14