« 私たち一人一人が変わらなければ、この社会は変わらない。。。Vol.2/まだこれだけ支持している人々が。。。(呆)(泣) | メイン | 私たち一人一人が変わらなければ、この社会は変わらない。。。Vol.4 »

私たち一人一人が変わらなければ、この社会は変わらない。。。Vol.3

■安保法案強行採決!
安倍総理に虚を突かれたのは国民の責任

政治ジャーナリスト・松井雅博

「違憲」なのになぜ可決?
ついに衆院を通過した安保法案

 衆院特別委に始まる今回の強行採決には、確かに批判を浴びても仕方のない側面がある。しかし、それを許したのも我々国民だ。

 前日の平和安全特別委員会では、野党議員たちが「自民党感じ悪いよね」などと書かれたプラカードを持って委員長に詰め寄るシーンがテレビで報道された。そして、夜には数万人の人々が国会議事堂を取り囲み、深夜までデモを続けた。

 多くの学者が「違憲」だと主張し、野党が採決をボイコットする中で、安保法制を「強行」に可決させたのはなぜなのか。本会議後、安倍総理はぶらさがり会見でこう述べた。

「日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。この認識の中において、日本国民の命を守り、そして戦争を未然に防ぐために絶対に必要な法案であります」

 つまり、安倍総理が「違憲」と言われつつも採決したのは、「必要」と判断したから、ということだ。だとすれば、「憲法」とはいったい何なのか。憲法の理念とは、必要であれば破ってよいものなのだろうか。そもそも、この法案は本当に「必要」だったのだろうか。

 もし本当に大多数の国民が反対なら、選挙を気にする政治家が「大多数」の声を無視するはずがない。なぜ安倍総理は、国会議事堂を取り囲む数万人の有権者を無視できたのか。

 今回の「強行」採決劇の背景に見え隠れする、日本の民主主義の危機的状況を読み解きたい。

 今回の採決に対する批判として、「強行採決」という言葉が目立つ。確かに、数の力に頼り、野党の意見をほとんど聞かず、学者から憲法違反と指摘されても意に介さない態度は、「強行」と批判されるべきかもしれない。しかし、その状況を選んだのは、実は国民ではなかったか。

 筆者が知る限り、安倍晋三総理は長年自らの政治信条をはっきりと国民に示し、説明を続けてきていた。昨夏、集団的自衛権の行使を閣議決定したときにも散々マスコミが報道し、つい7ヵ月前に衆議院を解散して総選挙もやっている。その上で安定多数の議席を得て、今回の法案を可決している。

そもそも「強行」だったのか?
安倍政権に国民は舐められていた

「国民の理解が深まっていない」という批判もあるが、ではいつになったら国民の理解は深まるのだろうか。おおよそ一般の国民全てが法案をきちんと読み、中身を理解することなど考えにくい。もちろん説明責任は政府側にあることは言うまでもないが、むしろ集団的自衛権の行使を容認した閣議決定から1年の月日を経て、多額の税金をかけて総選挙までやって、なお「理解が深まっていない」というのは、むしろ有権者の怠慢のようにも思う。

 まして「自民党感じ悪いよね」などというのは、批判にもならない。ただのイヤミである。国民の命に関わる法律を採決しようとしているときに、なんと幼稚な姿だろうか。野党に投票した有権者は、そんなパフォーマンスを期待して投票したわけではないだろう。

 とにかく筆者がここで言いたいのは、民主主義の名の下、日本の「大多数」によって選ばれたのが今の与党であるということだ。いや、さらに正確に言えば、「昨年12月に投票へ行った人」の中で大多数の有権者からの信託を得て、与党は今回の法案を可決させている。

 つまり、今回の採決は自民党や安倍総理が一方的にやったわけではなく、「あなた」が選んだ結果だということを忘れるべきではないということだ(もちろん、読者の中には自民党に投票してない方もおられるだろうが)。

 安倍総理は、この法案を通したところで、次の選挙で勝つ自信があるのだろう。国民の「大多数」はそれでもなお自民党を支持し続けてくれる、と考えているからこそ、批判されても断行できるのだ。安保法制に反対する人の多くが「選挙に行かなくなる」だけならば、自民党にとっては驚異ではないのだ。

「野党がだらしないから投票したい政党がない」と言う人もいるかもしれない。確かに、気持ちはわかる。民主主義とは「多数決」ではない。話し合いこそが民主主義の本質である。にもかかわらず、なんの説得力もない言葉を掲げて詰め寄るしかできない野党の姿は、支持するに値しないと筆者も感じる。

 しかし、だったら「あなた」が選挙で立候補することだってできるはずだ。立候補したってどうせ勝てない、と思うのならば、やはり「あなた」は大多数の民意を得る自信がないわけで、少数派でしかないということになる。

 国会議事堂の周囲に何万人もの人が集まっても、結局彼らは「ごく一部」の人でしかないことを与党はよく知っている。「アベ辞めろ!」とマイクで叫んだって、日本人の大多数が安倍政権を支持する限り、安倍総理が辞める筋合いはない。そして大多数の人々は、政治なんかに全く関心もなく、すぐに忘れてしまう。

 つまり、「あなた」は政治家から舐められているのである。

砂川事件をめぐる奇妙な解釈
安保法制が憲法違反である理由

 とはいえ、今回の法案が多くの学者から「違憲」と指摘されていたことは事実である。日本が集団的自衛権を行使することに前向きなアメリカの学者(コロンビア大学のジェラルド・カーティス教授)でさえ、「安倍総理が完全に憲法を無視している」と懸念していた。

 客観的に見て、政府の見解は滅茶苦茶であった。安倍政権は、安保法制の合憲性を語る根拠として砂川判決を引用したが、どこをどう読めばこれが集団的自衛権を認めたことにつながるのか、不明である。

 まず、砂川事件とは何か。

 1955年、米軍の飛行場の拡張計画を収容対象地域である砂川町(現東京都立川市)の反対を無視して強行したため、約300人が飛行場境界内に抗議のために立ち入り、7名が起訴された事件である。

 この裁判により、一審判決は「憲法9条は自衛のための戦力の保持をも許さない」と断言し、米軍についても「わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ怖れは必ずしも絶無ではない」として、米軍を違憲とした。

 だが、最高裁でこれが覆された。「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べた。安倍政権は、この文言をもって「集団的自衛権も合憲」と主張したのだ。

 だが、この砂川判決はこう続けている。

 憲法9条2項が「その保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、……外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」

 つまり、砂川事件はあくまでも日米安保条約を「高度の政治性を有するもの」として合憲とした判決であって、自衛隊について述べた判決ではない。

現行憲法は「賞味期限切れ」?
根底にあるのは「あなた」の無知や無気力

 にもかかわらず、なぜ安倍総理は法案を見直すことなく採決に踏み切ったのか。

 たとえ「違憲」だと学者に言われても、実は、そもそも多くの国民が現行憲法に信任を与えているわけではない。ただ単に、厳しすぎる改正規定のために改正できないだけで、多くの人は現行憲法にさほど執着しているわけではないと、安倍総理も考えているのかもしれない。憲法は国民が信託したものであって、初めて意味がある。

 日本国憲法第96条には、改正規定についてこう定められている。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」

 しかし、現行憲法は別に衆参両院で総議員の三分の二以上の賛成で発議されたわけでもなく、国民投票で過半数をとって成立したわけでもない。戦後のどさくさに紛れて、大日本帝国憲法の改正手続きに基づき、「各議院の出席議員の三分の二以上の賛成」で成立しただけにすぎない。

 個人的には,成立させたときより厳しい改正規定をつけるのはフェアではないと思う。出席議員の3分の2の可決のみで成立させたのなら,同じ要件で改正できなければおかしいのではないか。厳しい改正要件をつけたいなら、それと同じ要件で成立させるべきである。

 憲法は聖書ではない。現行憲法を盲目的に守ろうとするのもまた、思考停止なのである。「憲法を守れ」「憲法を変えろ」と叫んでいる人の中で、何割の人が憲法を読んだことがあるのだろうか。

 本来、権力機関を縛るための道具であるはずの憲法だが、そもそも有権者が憲法を読んだことさえなければ、立憲政治そのものが単なる形式的なものということになる。それでも「憲法は憲法」と開き直って、戦後70年間不磨の大典として崇められてきた現行憲法も、ついに賞味期限が切れようとしているのかもしれない。

 もはや国政選挙でさえ有権者の半数が選挙に行かなくなってしまった今、現行憲法に基づく国家体制が有権者の信託を受けることができていないとも考えられよう。事態を打開するだけの気力がないから惰性で存続しているとすれば、「憲法を守れ」「憲法を変えろ」のかけ声がなんと空虚なものに聞こえることだろう。

 安倍総理は「あなた」の不信感や無気力を突いたのである。

集団的自衛権は本当に必要か?
「あなた」も議論や覚悟を怠っている

 ただ、アンケート調査などによれば、今回の法案が不人気であることは確かだ。いくら有権者を舐めているとはいえ、専門家に憲法違反と指摘され、短期的に支持率を落としてまで、今回の安保法制を可決するだけの必要性は、どこにあったのだろうか。

 冒頭で述べたように、今回の安保法制の前提には「日本をとりまく安全保障環境が厳しさを増している」という現状認識がある。しかし、それは本当だろうか。

 まず、安全保障というのは起こり得るリスクを想定するところから始まる。だが、リスクは想定し始めるとキリがない。

 たとえば、「泥棒に入られる」というリスクを想定して「鍵をかける」のである。さらに「鍵をかけてもピッキングされるかもしれない」と思えば、さらに「チェーンをかける」だろう。ところが、「ドアを壊される」「窓を壊される」「壁ごと壊される」「実は家族に泥棒がいる」とリスクを拡大し始めると、キリがない。どこまでのリスクを考慮するのかというのは、対応方法の実効性とコストを天秤にかけて決めることになる。

「鍵をかける」というのは、安いコストで泥棒に入られるリスクをかなり低減させることができるだろう。犬を飼ったり警備会社に頼むのは、さらにリスクを低減させるかもしれないが、それなりのコストがかかる。

 では、今回の安保法制の実効性とコストはどうだろうか。集団的自衛権を認めれば、日本の安全を守ることができるのか。そして、それに伴うコストは1000兆円もの借金を抱える日本にとって、支払えるものなのか。いったい、いくら防衛費を増やせば中国や北朝鮮と正面から戦える軍事力を持つことができるのだろう。中国と戦争が始まると本気で考えている人が、どれだけいるのだろう。

 本件は、これらの議論をした上で国民に問うべき課題ではなかったか。なぜなら、戦争が起きたとき、死ぬのは安倍総理でも、安倍総理の親族でも、国会議員の先生方でもない。「あなた」だからだ。守られるのも死ぬのも「あなた」なのだ。

 将来起きるかもしれない大惨事を回避するために、今誰かの命を犠牲にするか。それとも、今の命を大切にする代償として、将来のリスクを負うか。それは、戦争が起きたときに危機に晒されるであろう「あなた」が決めることだ。

 今回の強行採決には、確かに批判を浴びても仕方のない側面がある。しかし、それを許した我々国民も、自らの立ち位置や覚悟をもう一度振り返ってみる必要がある。

 安保法制の議論は舞台を参議院に移してまだまだ続く。

 今、「あなた」も筆者自身も、有権者としての覚悟が求められている。

[PRESIDENT online]


現政権を支持するこれだけ多くの人々の見解(コメント欄)も、併せてご参照ください。

ここから続き

Posted by nob : 2015年07月23日 12:35