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言わずもがな、、、福島の現実/外国人たちの偏りのない視点

■「東電やマスコミの嘘が許せなかった」外国人記者たちが見た3.11とその後の日本

日本に長年住み、3.11を経験した外国人記者たちは、あの大災害とその後の日本をどのように見つめ、海外に伝えてきたのか?

「週プレ外国人記者クラブ」第25回は、英紙『エコノミスト』などに寄稿するアイルランド出身のデイビッド・マックニール氏、同じく英紙『ガーディアン』などの日本・韓国特派員を務めるイギリスのジャスティン・マッカリー氏、そして中国・香港に拠点を置く「フェニックステレビ」東京支局長の李(リ)ミャオ氏が語り合った。

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―2011年3月11日の14時46分は、何をしていましたか?

李 私は渋谷にあるフェニックステレビの支局で、当時話題になっていた「菅直人首相の外国人献金問題」に関する原稿を書いていた時でした。急に大きな揺れが起きて、しかもなかなか収まらない。スタジオのライトなどもすごく揺れて、これは大きな地震だなということで、NHKをつけたらすごい光景でした。

すぐに生中継を始め、私たちは中国メディアで一番早く地震の様子をリポートしたのですが、実は私、その後の中継中に泣いてしまったんです。

もちろん、ジャーナリストとしては自分の感情を表に出すのはよくないこととわかっていたのですが、家や車が波に巻き込まれていく現地の中継映像を見ながら、声が詰まって言葉が出なくなってしまったんですね…。

それが中国のネットで話題になって、「なんで日本人のために涙を流して悲しむのか?」という声もありましたが、9割以上の人が同情を示しました。多くの中国人が日本に対して思いやりの情を持ったことが忘れられません。

マッカリー あの日は取材で大阪にいたんですけど、大阪でも結構揺れました。僕は以前、大阪と神戸の間ぐらいの所に住んでいて、1995年の阪神・淡路大震災を経験しているんですよ。3.11は大阪にいたけれど、だからこそリアリティがありました。

これは危ないなと思って家から出て、しばらく待ってから家に戻ってTVで津波の映像を見た。すぐ東京に帰らないといけないと思ったけど新幹線が止まっていた。翌朝一番の新幹線に乗って品川まで戻りました。

東京に戻って1週間後くらいに『ガーディアン』の同僚がアメリカと中国から来て、彼らは岩手と宮城の現場を取材しました。僕は東京で東電の記者会見に行ったり、枝野官房長官の生中継を見て記事を書いたり、東北に行ったふたりの記事をまとめたり、毎日ほとんど寝ずに母国に記事を送っていました。

マックニール 僕は地震が起きた時、妊娠中の奥さんと品川駅にいました。駅の天井が落ちるかなと心配するくらい揺れて、揺れが終わった後は電話がつながらなかったでしょう? 彼女はお母さんにも連絡が取れないものだから、不安でヒステリックになってしまった。

寒かったし、まずは安全な場所に行かないと…と思って、品川から4㎞ぐらい歩いて有楽町にある外国人特派員協会に避難しました。その時、ふたつの気持ちがあったんです。家族のことを心配する気持ちと、これほどの大地震だからこれから忙しくなるぞ…と。

僕は『エコノミスト』『インデペンデント』、ふたつの媒体で書いています。地震の後、すぐに電話がかかってきて「誰か送ろうか?」と言われたけど、「いいよ、ひとりでやる」と答えて、地震の翌朝、クルマで東北に向かいました。

まず、いわき市に入って1泊して、原発を迂回(うかい)しながら宮城の南三陸に入ったんですけど、そこで目にしたのは見たこともない光景。どうやって記事を書けばいいか困惑しました。最初に感じたのは「沈黙」。本当に音がない、カラスの鳴き声だけ。それが一番印象に残っています。

山あいから海に下りていく途中、破壊された家の下に遺体を見つけたんです。カメラマンは撮るべきかどうか迷っていた…。その後、海沿いから戻る時に仙台から来たという人たちに会った。「何を探しに来たんですか?」と尋ねたら、彼らは「ウチ」と。おじいちゃんやおばあちゃんがここに住んでいる…と。僕たちは彼らに「街は壊滅している」と言うことができず、そのまま別れたことを今でも覚えています。

マッカリー 僕は地震の10日後に現地に入りました。宮古、釜石、陸前高田、南相馬、仙台と回る長い取材だったんですけど、一番覚えているのは陸前高田の瓦礫(がれき)です。「ニオイ」がすごかった。瓦礫と、海から打ち上げられて死んだ魚のニオイとか…。今でも思い出せば鼻先によみがえる気がします。

お寺や学校などの避難所に行き、子供を亡くした方などを取材していたんですけど、編集長から「明るい話は全くないと思うけど、立ち上がっている人を見つけて、何かポジティブな記事を書いてほしい」と言われました。

それで、醤油(しょうゆ)メーカーの若い社長さんが津波で全てを流されながらも醤油造りを諦めていない姿や、両親を亡くした子供たちの面倒を見ているおばあちゃんとか、高齢者のために料理を作っている姉妹などを取材しました。

これらの記事に対して、母国の読者から「被災者のために私たちにできることはないか」という声が編集部に数多く寄せられ、中には募金を送ってきた人までいたそうです。自分の書いた記事が多くの共感を呼んだことは、ジャーナリストとしてとても嬉しいことでした。

マックニール 被災地を含めた日本の人たちが助け合って困難に立ち向かう姿には、イギリスでも多くの称賛の声が上がっていたよね。

一方で、原発の記事に関しては、「この記者は重要な事実を隠していて、実際はもっと深刻な状況なんじゃないか」という反応や、逆に「実際より大げさに危機を煽(あお)っているんじゃないか」という声もあった。原発に対するスタンスの違いによって、同じ記事でも受け止め方が180度違うんだなと思いました。

―李さんは、震災直後は何をしていたんですか?

李 東京の支局に残って、ほぼ24時間ずっと中継をしていました。当時は赤ちゃんを産んでまだ6ヵ月で、現場に復帰したばかりだったんですが、赤ちゃんと日本語の話せない私の母を家に置いたまま、地震直後は毎日休みなく中継を続けていました。

中国からも数名のスタッフが送られてきて彼らが東北の現場取材に当たったのですが、私は支局長として彼らの安全にも責任がありますから、官邸などいろんなルートから福島の情報を収集していました。

今でも忘れられないのが、枝野官房長官の「直ちに人体に影響することはありません」というコメントです。どうして断言できるのか、どこに根拠があるのか聞きたかった。現実には官邸も原子力保安院も東電もあの時、原発で何が起きているか誰もわかっていなかったんですよ!

私のジャーナリスト人生の中で、あの当時は一番大きな試練でした。原子力保安院も東電も本当のことを言わないし、延々と記者会見をやっているのに何が真実かわからない。本当に暗黒の日々でした。

―被災地、あるいは東京の人も含め、日本人の反応で印象に残っていることは?

マックニール すごく印象に残っているのは、原発事故が一番危険な状況だった3月16日にツタヤから電話がかかってきたんです。「マックニールさんの携帯でしょうか? DVDのご返却がまだのようなのですけど」って。「マジで?」と思った。彼女はすごくマジメに仕事をしていただけなんですけど、数日後にも電話がかかってきて、すごく丁寧に「DVDをご返却ください」と。これは、すごく日本的だと感じました。

どんな状況でも仕事をマジメに最後までやり抜くというか、サラリーマンも普段通りに会社に行こうとしていたでしょう。彼らはたぶん、会社から自宅待機を命じられるまで、どんなに状況がひどくなっても仕事に行くと思う。これは皮肉で言っているんじゃなくて本当にすごいと思った。

マッカリー 確かに、多くの日本人の対応はマジメでストイックでした。もちろん、現実には被災地で盗難事件などがなかったわけじゃないけれど、あれだけ厳しい状況でもきちんと秩序を維持する日本人はすごいと感じました。

その一方で、被災地で再会を果たした中年の男性ふたりがハグし合って喜ぶ姿を見たり、ケガ人の救急処置を手伝っていた男性が僕たちの取材に積極的に協力してくれて、その彼が自分のふたりの子供を津波で失ったということを後から知ったり…。

あの震災では、それまで僕が知っていた、あまり感情を表に出さず、どちらかといえば控えめな日本人よりも、エモーショナルで積極的な姿に触れたことも印象的でした。

もうひとつ感じたのは、東北とその他の地域の「温度差」です。震災直後、東京では人々が「水がない」とか「スーパーに商品がない」とか文句を言っていましたが、大阪は普段通りでした。もちろん、みんな「東北の人たちは大変だなぁ」とは言っていたけど、どこか遠い世界の話みたいな雰囲気があった。

そもそも震災が起きる前から東北地方は無視され、見捨てられているようなところがあったと思います。震災時にもその温度差は強く感じたし、5年経った今も感じています。

李 秩序を守り行動する日本人の姿は、中国のネットでも賛美の嵐だったんですよ。あんな大地震が起こったのに、みんな電話ボックスの列にちゃんと並んでいたり。帰宅困難者は駅の階段の左側に真っすぐ座って右側を空けていたり。ただ、私から見ると安全な環境に慣れすぎて、やや感覚が麻痺(まひ)しているところがあるんじゃないかなとも思いましたね。

その一方で、私は長年日本で生活をしていて、日本人はすごく誠実な民族だと思っていたのに、あの時の東電の対応を見ていると、本当のことを言わない。とにかく平気で嘘をつく!

一番覚えているのは原子力保安院のプレス担当の方。汚染水を海に放出するという時に単独インタビューをしたんです。「事前に外国に説明しています」と彼は言ったのですが、後から全く説明していなかったことがわかった。そんな重要な問題で、すぐバレる嘘をついて、本当に日本は大丈夫なのか?と、それまでの誠実なイメージとのギャップを感じました。

マックニール 東電の嘘はもちろん、マスコミも嘘をついていたことが許せないよね。原発事故の直後、NHKは毎日のように東大などの専門家を番組に招いて「放射能の問題はないですから、パニックにならないで」と適当なことを言い続けていた。

にもかかわらず、事故3日後の14日から大手マスコミのTVと新聞の記者たちはみんな南相馬から避難したんです。これには桜井勝延市長が怒った。マスコミは「問題ない」と報じながら、自分たちは逃げた…と。

マッカリー 海外の専門家などからは比較的早い段階で「メルトダウンの可能性が高い」と言われていたのに、政府や東電はそれを認めようとはしなかった。そうすると大手メディアも横並びで「メルトダウン」という言葉を使わなかったでしょう?

マックニール 初めの頃は日本の専門家にもメルトダウンの可能性を指摘していた人が何人かいたのに、ある時期を境に原発を支持する「御用学者」ばかりがメディアに登場するようになった。その結果として、一般の人たちのマスコミに対する信用にもすごく打撃を与えたと思う。

李 日本は秩序を大切にする一方で、ある種の同調圧力みたいなものもあると思います。TVで専門家が「人体には影響がない」とか「北京はこれくらい放射能があるのに日本にはこれだけしかない」などと発言すると、メディアはそこに同調して、国民は当たり前のようにそれを受け入れてしまう。日本は民主主義の国なのに、これは非常に残念な一面だと思いますね。

―そして3.11から5年、その間の日本の歩みをどう見ていますか?

李 先日、福島県知事の記者会見に行ってきました。知事は福島の現状を「光と影」という言葉で表現していましたが、5年経った今でも福島を含め被災地から全国各地に避難している人の数は全国で17万4千人もいます。私自身、震災の年に被災地に行って、今年もドキュメンタリー番組の取材で福島までクルーが行きましたが、今でも仮設住宅に住んでいる人がたくさんいる。復興は私たちの想像よりもずっと遅い。

震災以来、復興庁とかいろいろできましたけれど、ただスローガンを掲げるだけじゃなく、政府がもっと地方と協力して、被災地が本当に何を必要としているのか?ということをより真剣に考える必要があると思うんですよね。

マッカリー 被災地の市民たちや自治体のリーダーたちが本当に努力をして復興を進めてきたことには心から敬意を感じていますが、すごく残念なのはそうした地方自治体と中央政府との連携が全くうまくいっていないことです。

ただでさえ、もともと東北地方は高齢化が深刻で、経済的にも多くの問題を抱えていた。希望を失いつつある地域なのに、あの震災でさらにひどい状況に追い込まれている。ところが、政府には「東北地方の20年後、30年後をどうするのか」といった具体的なビジョンが全くないように見える。相変わらず東北は見捨てられていると思います。

マックニール 復興の失敗を象徴するものとして、国が進める「防潮堤の整備」を挙げたい。調べてみたら日本の海岸線は総延長約3万5千㎞、そのうち約1万4千㎞は防護する必要があるという。つまり、ものすごい予算がかかるんですね。でも、巨大な津波に対して防潮堤は本当に有効なのかという大事な点がちゃんと議論されていない。

原発の問題も同じで、日本はあれほど深刻な事故を経験して、その事故はいまだに収束していないのに、原発の是非に関する根本的な議論もないまま再稼働が進められて、国は将来的なエネルギーの20~22%を原発で賄(まかな)うという方針を決めてしまう。

これって全く信じ難い話だけど、結局、復興という名目で大金を使いながら、政府は建設会社や原発産業を優先しているんだと思います。

李 日本は戦後ずっと平和だったので、人々は「自分たちは守られていて安全な場所にいる」という安心感があるのかもしれません。でも、そうやってリスクを自分で判断しないから、事故から5年経った今も、きちんとした議論もなく物事が「なんとなく」動いている。

メディアも含めて日本人自身がもっと現実を直視し、3.11から学ぶべき教訓と誠実に向き合えば、それは他の国にとってもよい教訓になりますし、日本が原発事故関連で失った海外からの信頼を回復するきっかけにもなると思います。

●デイビッド・マックニール
アイルランド出身のフリージャーナリスト。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙『エコノミスト』『インデペンデント』などに寄稿

●ジャスティン・マッカリー
ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で修士号を取得し、1992年に来日。英紙『ガーディアン』『オブザーバー』の日本・韓国特派員を務めるほか、テレビやラジオでも活躍

●李ミャオ
中国吉林省出身。1997年に来日し慶應義塾大学大学院に学ぶ。2007年、香港に拠点を置くフェニックステレビの東京支局を立ち上げ、現在は支局長

(取材・文/川喜田 研)


■海外メディアが見た被災地の今。復興事業が被災者の障害になっている皮肉な現実とは

東日本大震災発生から本日でちょうど5年になる。「週プレ外国人記者クラブ」第24回は、震災直後から何度も被災地に足を運び、取材を続けているフランス「ル・モンド」紙の東京特派員、フィリップ・メスメール氏に話を聞いた。

被災地の「今」はフランス人記者の目にどう映っているのか? そして「フクシマ」の原発事故は、ヨーロッパ随一の原発大国フランスにどんな影響を及ぼしているのか?

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―メスメールさんは最近、東北の被災地取材に再び行かれたそうですね?

メスメール 先週、岩手と福島の各地を6日間かけて回ってきました。津波被害にあった地域を見ると、新たな防潮堤の整備や、いわゆる高台移転のための宅地かさ上げ工事があちこちで行なわれていたり、一部ではすでに完了していました。そうした公共事業がもたらす「復興需要」で地元経済もそれなりに潤(うるお)っていて、復興に向けた作業はダイナミックに進んでいるようにも見えます。

しかし、被災者たちの生活再建、例えば仮設住宅からの自立はあまり進んでいません。復興需要によって労働者が大量に地域に流入したことで、アパートなどの家賃相場がかつての3倍近くにまで高騰してしまい、新たな生活を始めようとする地元住民にとって大きな障害になっているというケースもあるのです。

また、新たに整備された高台の住宅地に家を建てようと思っても、労働力や建築資材の不足が深刻で「最低2年以上待たなければならない」と言っている人もいました。

―復興のための公共事業が家賃を高騰させ、被災者の障害になっているとは、なんとも皮肉な状況ですね…。

メスメール 一部の地域では新たな住宅地ができあがり、そうした場所にはイオンなどの大手ショッピングセンターが進出していますが、その一方で、津波に流された元の市街地には住宅が建設できなくなったため、かつての商店主たちが店を建て直しても、そこにはもう住民がいない。とはいえ、新たな住宅地に出店すれば大手ショッピングセンターに対抗できない…というのが彼らの直面している現実です。

今はまだ復興工事の労働者がいるので、復興商店街なども繁盛していますが、工事が終われば労働者たちは「東京オリンピック需要」で首都圏へと去ってしまうでしょう。その後の経済はどうなるのか? 被災地の人々は将来に対する大きな不安を抱えていました。

―被災者の生活再建を考えると、「5年」という年月は重く厳しい意味を持つ気がします…。

メスメール その通りです。地元を去った若い世代の人たちの多くはすでに移転先で新たな生活を始めていて、故郷に戻っては来ないでしょう。また住民の中にはPTSDや、将来への不安からうつ病を患っている人もたくさんいる。そして、福島の状況はさらに深刻です。彼らは放射能汚染によって住む場所を奪われ、そこに帰ることもままならない生活を送っているわけですからね。

―ところで、あの「フクシマ」の事故の後、フランスではどんな反応があり、原発政策は今どうなっているでしょう? 隣国のドイツは3・11の後、「脱原発」に大きく方向転換しましたよね?

メスメール 残念なことに、あまり変化がありません。フランスは1960年代に当時のドゴール大統領が原発推進の政策を打ち出して以来、基本的に右も左も原発に関しては前向きで、あのチェルノブイリ原発事故の後でさえ、「反原発運動」が盛り上がることも、大きな議論を呼ぶこともありませんでした。

フクシマの事故の後には一部で原発の危険性を心配する声もありましたし、全く議論が起こらなかったわけではないけれど、基本的な「原発推進」の方向性は相変わらずで、ドイツのように脱原発という話には全くならなかった。

オランド大統領は原発依存度を「現在の75%から50%にまで削減する」という方針を表明していますが、本当に実現するかどうかは疑問です。「フクシマの事故を受けて、原発の安全基準を高めたから大丈夫」というのが国の基本的な考え方で、国民の多くもそれを受け入れているというのが現状です。

―脱原発を決めたドイツと正反対の反応なのは、なぜなのでしょう?

メスメール ひとつには、フランスの原子力産業には政府、産業界、メディアが強く結びついた「原子力ムラ」が存在し、強い力を持っているからだと思います。僕が子供の頃から、TVでは原子力発電をポジティブに宣伝するコマーシャルが流れていました。

また、普段は多様性と自由な議論を尊重するフランスのメディアやフランス人が原子力に関してそうではないのは、ドゴールの時代から原子力の存在がフランス人のプライドやナショナリズムと微妙に結びついているせいもあるかもしれません。

―なるほど、60年代にドゴール大統領がフランスの核武装を積極的に進めたのと同様、自前の原子力発電を持つというエネルギー安全保障上の立場が、フランスの「大国」としてのプライドと結びついているんですね。「原子力ムラ」が強い影響力を持ち、自由な議論を妨げているというのは日本とそっくりで意外ですね。

メスメール 個人的にはフランスがそうした「原子力依存」の古い戦略にしがみつくのは、経済的な観点からもあまり得策ではないと思います。確かに、原子力から他の「新エネルギー」へと移行するのは簡単なことではありませんし、実際、脱原発を決めたドイツも、古い石炭火力の比率を増やすなど問題がないわけではない。ただ長期的に見れば、ドイツはこの方向転換によって再生可能エネルギーを含めた様々な新エネルギーに関する技術力を高め、その技術が将来、経済的な意味で大きな武器になっていくと思います。

そう考えると、あれだけの事故を経験しながら、再稼働を始めるなど原発推進の方向に戻りつつある今の日本の状況は、非常にもったいない気がします。元々、日本は新エネルギーの分野で世界トップレベルの技術力を持っていたはずです。

震災の後、原発の維持に固執するのではなく、エネルギー政策を大きく転換して、そのアドバンテージを積極的に活かす方向に舵(かじ)を切っていれば、それは日本にとって大きなプラスになったのではないでしょうか? しかし現状はフランスも日本も「原子力ムラ」の存在が新たな選択肢の可能性を狭めている…これは本当に残念なことだと思います。

●フィリップ・メスメール
1972年生まれ、フランス・パリ出身。2002年に来日し、夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動している

(取材・文/川喜田 研)


[いずれも週プレNEWS]

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Posted by nob : 2016年03月21日 14:07