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「ツイッターやSNSにいちいち反応してしまう自分が苦しい」ことに気付くことから、、、充実感は自身の小さな納得の積み重ねからしか生まれてこない。。。Vol.3

■なぜ「つながる」ほどに「疲れ」を感じるのか?

小川和也 [グランドデザイン&カンパニー代表取締役社長]

つながることは本当に幸せか
――「つながり疲れ」を感じていませんか?

「最近、つぶやくのに疲れてきたんだ……」
「気がついたらFacebookをチェックしている自分がいる」
Twitter、そして全世界での利用者数が10億人に迫る勢いのFacebook。これらソーシャルメディアは、日本でも日常のコミュニケーションの場として随分定着してきたかに見える。しかし一方で、急速に普及したがゆえの「ひずみ」からか、疲労やモヤモヤを感じ始めている人も増えている。

その「いいね!」、本当に「いいね!」ですか?
――ある日の通勤電車にて

 朝の通勤電車の中では、ずっとiPhoneと対面している。元々は、本や新聞を読むことが日課だった。しかし最近は、iPhoneでFacebookとにらめっこすることがほとんどだ。昨日、Facebookに投稿したのは3つ。1つ目は最近観た映画の感想。2つ目は飼い猫の写真。3つ目は先週釣った魚の写真。それぞれに17、24、31の「いいね!」がついている。ありがたいことに、自分のささやかな日常に、昨日もたくさんの共感をしてもらえたようだ。

 心のどこかでほっとしながら、みんなの「いいね!」に応えるかのように、自分もいろいろな投稿に「いいね!」を押す。もちろん、そこには感心や共感が伴っている、はずだ。

 当然、すべてのものに「いいね!」を押している訳じゃない。ちゃんと選別して押している。そう、まさしく「いいね!」と思っている、はずなんだ。そう、みんなも「いいね!」と思ってくれているはず……。

 しかし、改めてそんなことを考えてみると、いささか不安になってきた。何となく義理で押している時がないわけじゃない。特に、上司の投稿にはできる限り「いいね!」を押すようにしている。「いいね!」という表現とイコールではない気持ちのときもある。ただ、「いいね!」という表現しかしようがないから(ボタンがそれしかないから)、「なるほどね」というのが本当の感想だったとしても、「いいね!」で代用しているときがある。

 ということは……。自分の投稿につく「いいね!」にも、同じような「いいね!」――本当は「いいね!」じゃない「いいね!」――が含まれているのかもしれない。そう思うと、何だかもやもやしてきたし、ちょっとした虚しさが込み上げてきた――。

 gooリサーチが2011年11月に調査した「ソーシャル疲れ」「つながり疲れ」の原因に関するランキングがある。それによると、トップは「毎日Twitterにベッタリ張り付きでみている」だった。以下、3位が「毎日フォロワー数をチェックしている」、4位が「いいね!をつけてほしくて投稿ばかりしている」などが挙げられている。

 また、メール、Twitter、Facebookをすべて利用している人の42%が「孤独を感じる」と答えている。コミュニケーションを豊かにするはずの手段が、逆に疲れや孤独を生み出しているのだとすれば、何とも皮肉な現象だ。

 この調査が実態を示しているとすれば、先のもやもやも、虚しさが込み上げてくることも、おかしな話ではない。実際、コミュニケーションを楽しんでいるはずが、いつのまにか疲れと孤独を深めているという人は少なくない。

自分がさらされるということ。
それは福音なのか、疲れのもとなのか

「Facebookをやるようになってから、自分がどう思われるかについて、以前より気にするようになったんですよね」

 これは、実際にソーシャルメディアに関する講演などの現場で、よく耳にすることだ。

 FacebookやTwitterに投稿するようになってから、いままでになく自分がさらされるようになったと感じている人は、かなり多い。それも初めは、新鮮だった。自分という人間、自分が発するものに、人が目を向けてくれる。ささやかな日常や、ちょっとした自分の考えに、誰かが賛同してくれる。時には、思いがけずたくさんの人の支持が集まることもある。それらは、今までにない満たされた気持ちをもたらしてくれた。ああ、これが「つながる」ということなんだな――。

 にも関わらず、ちょっと疲れを覚えるようになったのはなぜだろうか。

Facebookの中で、賛同してもらえる自分を意識的に作るようになったから?
多少なりとも、ウケのいい自分作りに勤しむようになったから?
実名制で、プロフィールも公開しているため、下手なことは書けないから?

 確かに、これらの視点はある程度は正しい。つながることと引き換えに抱え込んでしまったジレンマだとも言えるからだ。

 とはいえ、誰かもわからない人にけなされた経験なんて、今までにはなかった。「Twitterをやってから、初めて見ず知らぬの人に自分の投稿をけなされてヘコんだ」、なんて話はもはや珍しくない。

 つながることは、裏を返せば「さらされる」ということ。そのソーシャルメディアの「裏の顔」がもたらす「疲れ」は、多くの人にとっては初めて味わう類いの「疲れ」だ。

 サナカクションというロックバンドがいる。彼らの「エンドレス」という曲の歌詞に、次のようなフレーズがある。

「誰かを笑う人の後ろにもそれを笑う人 それをまた笑う人と悲しむ人」

「後ろから僕は何て言おう? 後ろから僕は何て言われよう?」

 ソーシャルメディアの中で自分がさらされる。さらされること、それにより時に、自分のコンテンツ(コメントや写真)が揶揄され、さらにそれを揶揄した人もまた揶揄されていく。そのように、「人の目」によって「自分(のコンテンツ)」が無限にさらされ、拡散されていく場所の中には、福音だけではなく一定のリスクがあるし、それが疲れのもととなる。そのループの中に自分が生息し、自分をさらし続けることの息苦しさを、人は感じ始めているのかもしれない。

 先ほど引用した「エンドレス」という曲も、まさにそのような状況を意図して作られたようだ。その息苦しさを表現した歌が、若い世代を中心に支持されているのも、今の時代ならではと言えるだろう。

さらされているのは「人間関係」
――「Facebook離婚」に見るすべてが「見える化」された時代

 Facebookの中では、自分の投稿だけではなく、自分の人間関係もさらされる。

 友達に誘われ、Facebookをやり始めたとしよう。初めは数人の大学時代の友達とだけつながっているが、しばらくすると高校時代の友達や、懐かしい幼なじみが自分を発見して申請してくる、という事態へと発展していく。

 一方で、Facebookが「友達では?」と推挙してくるリストの中には、職場の上司や部下、取引先の人も含まれていることもよくある。悩んだ末に思い切って自分から申請してみた、という人も多いだろう。

 Faceboookの中には、友達が一覧で表示される場所がある。これは非公開にもできるのだが、公開されていることも多い。ある人の友達の中に、自分の友達がいること、つまり共通の友達もわかってしまう。自分の人間関係も友達の人間関係も、丸見えだ。一見すると、共通の友人を探せることは、とても画期的なことに思える。だが、ここにも裏表が存在する。

 とりわけ海外で社会現象となっているのが、「Facebook離婚」というものだ。

 全米婚姻関連弁護士会(AAML)が、アメリカ国内で2010年に行った調査によると、弁護士会に所属する81%の弁護士が、「SNS上で交わされた会話などを離婚訴訟の証拠として使うケースが過去5年間で増加した」と回答している。

 同様の現象は、イギリスでも起きている。

 離婚に関する情報提供を行っている「離婚オンライン」というサイトによると、2011年の離婚訴訟で提示された訴状5000通中、33%が「Facebook」という単語を含んでいたという。このうち、離婚に至ったケースで上位を占めたのが、「別居中の夫婦がFacebook上で相手を罵倒した」「配偶者の行動についてFacebookの友人から報告を受けた」などというものだ。

 これらは、もしもFacebookが人間関係を「見える化」しなかったら、起こらなかった事象かもしれない。

人間関係がこれほどまでに人目にさらされる時代はなかっただろう。
しかも、人間関係がさらされることで、人間関係そのものが影響を受けてしまっている。

 離婚や喧嘩、親交や再会。人間関係がさらされることで、それは毒にも薬にもなるのだ。

「さらされる時代」をどのように生きるか
――自分なりの「膜」を持とう

 自分もその人間関係もさらされるソーシャルメディアの時代。時にポジティブに、時にネガティブに作用するその狭間で、人は戸惑い、疲れを覚える。その毒性に蝕まれず、うまく「薬効」を享受する。そんな知恵と工夫が、ソーシャルメディアの中で過ごす上で必要だ。

 ソーシャルメディアの「薬効」は、たとえば情報収集やコミュニケーションを豊かにすることにある。

 僕の知人の中には、TwitterとFacebookさえあれば、情報収集と発信、コミュニケーションには困らないと豪語する人もいる。もはや、ビジネス上の重要な人脈もFacebookの中に持ち込み、アポイントもその中でやり取りしてしまう。ビジネスもプライベートも、たいていの情報共有はその中で済ませている。もっとも、彼は会社の経営者であるし、人前に出ることが多い立場の人間だ。どちらかといえば、さらされることのメリットがあるし、それに慣れてもいる。だから、その「薬効」を目一杯に享受しているように映る。

 しかしどうだろう。一般的には、「毒」の方を意識する人が多いはずだ。

 大企業に勤務している僕の友人は、まさにそうだ。Facebookの個人アカウント上で会社名を出してよいか否かは、会社では特に定められてはいない。ただ、プロフィールはなるべく入れた方がいいと聞いたことがあるので、一応勤務先を入れている。生年月日、血液型、住んでいる場所、出身校、自己紹介なども公開している。

 ここまでプロフィールを公開していることで、彼はリスクを意識せざるを得なくなったという。それがお堅い企業の勤め人の性だ、などと彼は自嘲する。会社の上司や同僚に見られている可能性を考えると、ざっくばらんなプライベートは露出しにくい。友達向けに仕事のちょっとした話も書き難い。仕事に関しては、社内機密だらけだから当然だ。

 多種多様な関係にある人々の目に触れる中で、プライベートのことも仕事のことも気ままに投稿することははばかられる。結果的に、なんとなく奇麗ごとばかりの投稿になる。彼の場合は、「毒」を恐れる側面が強いように映る。

 この対極にいるかのような2人については、実は善し悪しでは語れない。

 大事なことは、ソーシャルメディアの中でのさらされ方において、「自分なりの膜」を持つことなのだ。露出を高めたければ薄い膜、露出を弱めたければ厚い膜と、自分に適した形で持つべき膜を調整する。それは、利用するソーシャルメディアでのつながりをもっと小規模なものに変えることなのかもしれないし、投稿内容やスタンスを変えることなのかもしれない。

[DIAMOND online]

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Posted by nob : 2016年03月23日 12:09