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今ここにあるかけがえのない幸せ、、、今元気でここにいるということ。。。
■『嫌われる勇気』の著者が、母の死を機に辿り着いた「ある答え」
日々の何気ない幸福を感じるために
岸見 一郎
「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」
そう語ったのは『嫌われる勇気』で一躍有名になった心理学者、アルフレッド・アドラーだ。哲学が扱う「幸福とは何か」「人生とは何か」というテーマを日常の延長線で優しく語りかける。
「人は幸福に『なる』のではなく、すでに幸福で『ある』」
アドラーが教える「幸福」のありかたを学べば、自分の「生き方」が変わってくるだろう。100万部を突破しドラマ化もされた『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎氏の最新刊『幸福の哲学』から冒頭を特別公開する。
父への反発・母の死
いつのことだったか覚えていないのだが、ある年の十二月、後数日で正月を迎えようとしていたその日、父と家の前で焚き火をしたことがあった。
「今年は暖かいなあ」
「本当に」
こんな言葉を少し交わしたことしか今では思い出せないのだが、父がこんなに暖かくては、もうすぐ正月がくるとは思えないといったことに私も強く同意したことだけは覚えている。今になって振り返ると、父と過ごしたこんな何気ないひとときが貴く思える。
「何のために生きるのか」というような話になった時、成功するためなどと勇ましい話をする人がいる。だが、私にはそんな大それたことはどうでもよく、幼い頃、父と一緒にいて幸福を感じたような瞬間さえあればよいと思う。
しかし、父とこんなふうに初めから関係がよかったわけではなかった。小学生の頃、父から殴られたことがあった。そのことを私はずっと引きずっていて、いつまでも父に心を開くことができなかった。
他方、母との関係はよかった。私が哲学を学ぶと言い出した時には父が猛反対した。おそらくは父は哲学が何であるかは知らなかったが、哲学では食べていけないことは誰かから聞かされていたのだろう。
また、父の年代であれば、「人生不可解なり」という意味の言葉を残して自ら命を絶った旧制一高の学生、藤村操のことなども頭にあったのではないだろうかと思う。
その時、間に入って私を守ってくれたのが母だった。母もまた哲学がどんなものか知っていたとは思われないが、私がすることはすべて正しいのだから見守ろうと父を説得してくれたことを後に知った。
その母が四十九歳で脳梗塞で亡くなった。当時私はまだ学生だったが、やがては結婚して、親と一緒の幸福な人生を送れるものと思っていたので、それまで漠然とではあったが思い描いていた人生設計が崩れ去った気がした。
それと同時に、母のように死を前にしてベッドで動けなくなれば、たとえお金があったとしても、高い社会的地位についていたとしても、まったく意味がないことに思い至らないわけにはいかなかった。
くる日もくる日も母の病床で、ベッドの上で身動きが取れず意識もない母を見て、私はこのような状態にあってもなお生きる意味はあるのか、幸福とは何かを考え続けた。
母が突然の病に倒れた時、私は哲学を専攻する大学院生だった。当時、毎週哲学の先生の自宅で行われていた読書会に参加していたのだが、母の看病のために出られなくなった。先生にしばらく読書会に行けないことを伝えるために電話をしたら、先生は私に「こんな時に役に立つのが哲学だ」とおっしゃった。
およそ哲学は役に立たないと世間ではいわれることが多い中、「役に立つ」という言葉は思いがけないもので、私に強い印象を残した。
この先生の言葉を聞いて私が思い出したのは、次のベルクソンの言葉だった。
「私たちは、いったいどこから来たのか。この世で何をするのか。私たちは、いったいどこへ行くのか。哲学がもし、本当にこれらの非常に重大な問題に対して何も答えられないとすれば、〔中略〕哲学というものは一時間の労苦にも値しないものだと言っても、まあさしつかえないことになります」(『心と身体』)
私は母の病床でプラトンのいう魂の不死についての、そしてベルクソンの脳について論じた失語症についての著作を読みふけった。たしかに私の先生がいうように、哲学は「役に立った」。
私は小学生の時に、祖父、祖母、弟が一年内外で次々と病気で死ぬという経験をして以来、その答えを哲学に求めてきたが、そのことが間違ってはいなかったことを実感したのだ。
三ヵ月の間、母の病床で過ごし、母の遺体と共に家に戻った時、私は目の前に敷かれていると思っていた人生のレールから、自分が大きな音を立ててすでに脱線していたことを知った。
アドラーとギリシア哲学
母の死後、父との関係は緊迫したものになった。間に入る緩衝役だった母がいなくなり、直接父とぶつかることになったからだ。しかし、父との関係も、私の人生におけるもう一つの邂逅によって変わることになった。
母の死後、私はすぐに結婚し、五年後、子どもが生まれた。思うようにいかない子育ての最中に知ったのが、オーストリアの精神科医であるアルフレッド・アドラーが創始した個人心理学だった。
アドラーは、心の分析に終始したり現実を事後的に解釈したりするだけの心理学者ではなく、人生の意味、幸福について真正面から論じている。その思想は、二十世紀初頭に突如としてウィーンに現れたのではなく、私が専門としているギリシア哲学と同一線上にある、れっきとした哲学である。
やがて見るように、アドラーは原因論ではなく目的論に依っている。プラトンも生きることの目的として幸福を据え、幸福の可能性を、魂のあり方に結びつけて目的論的に論じている。
そしてプラトンは、知が魂を導くことによって幸福になることができるので、何が善なのかを知ることが、幸福になるためには必須であると考えた。しかし、では、実際に何を知ることが幸福を結果するのかということになるとプラトンの論には具体性が欠けている、そう私には思われた。
それで、アドラーがこの知の内実を対人関係に求め、目的論を教育や臨床の場面で実践的に応用している点に興味を覚えたのだった。アドラーと邂逅することで、それまで私が人生について持っていた問題意識を全うできそうだという強い予感を持てたのだ。
私が初めてアドラー哲学についての講義を聞いた時、講師のオスカー・クリステンセンはこんなことをいった。
「今日、私の話を聞いた人は、今この瞬間から幸福になれる。しかし、そうでない人は、いつまでも幸福になれない」
私は驚き、同時に強く反発しないわけにいかなかった。母が若くして亡くなり、父との葛藤もあり、その上、子どもとの関わりが大きな負担になっていたからだ。だがその一方では、そのような状況で、もし私が幸福になれたなら、クリステンセンが語った言葉は決して誇張ではないことがわかるだろう、とも思った。
哲学者の肖像画や写真を見ると、率直にいってあまり幸福そうには見えない。誰もが気難しい表情をしていて、笑顔の哲学者をすぐには思い出すことはできない。それなら、私自身がまず幸福になろうと決心した。
しかし、そんな決心をしてみたところで、ただ手を拱いてじっとすわっていても、やはり何も起こらない。どうすれば幸福になれるのかを考えた時、父との関係をまず何とかしたいと思った。アドラーの思想に触れた私は、対人関係が幸福の重要な鍵であることを学んだのだ。
幸福が潜む瞬間
対人関係の中に入ると摩擦を避けることはできない。嫌われたり、憎まれたり、傷つけられたりする。だから、そんな目に遭うくらいなら、いっそ最初から誰とも関わろうとは思わないという人がいても不思議ではない。
しかし、他方、人間は、対人関係の中でしか生きる喜びも幸福も感じることはできない。ましてや他人ならいざ知らず、父との関係がよくないからといって実の父を避けることはできない。それなら、父との関係を避けるのではなく、むしろ、あえてその中に入っていこうと思った。
もとより一朝一夕で父との関係が改善したわけではない。だが、前のように同じ空間に居合わせるだけでも空気が緊迫するような関係ではなくなった。そして、ある年末、最初に書いたような父との穏やかな日を迎えたのである。
しかし、その後も私が心筋梗塞で倒れたり、さらには父がアルツハイマー型の認知症であることがわかり、私が介護をすることになるなど苦難は続いた。
だがこの頃には、すでに私は、人は何かの出来事を経験するから不幸になるのでも幸福になるのでもないことを学んでいた。プラトン、アドラーは目的論を採ることで、何かを経験することが不幸の、そして幸福の原因になるのではないと考える。人は幸福に〈なる〉のではなく、もともと幸福で〈ある〉のだ。
母は病気になって、しかも回復しなかったから不幸なのではなかった。私の場合も、寛解したけれども、寛解したから幸福なのでもない。父も長く認知症を患ったが、そのことで不幸になったのではない。たとえ闘病が、本人にとっても家族にとっても苦難であることは間違いないとしても。
そもそも、病気に限らず、生きること自体が苦しみなのである。だから、今は苦しいがやがて楽になる時がくるとは考えなければよいのである。苦しいけれど、その苦しみをただ苦しいとだけは見ないで、苦しみこそ幸福の糧であると思える生き方はできるのだから。
どんなに苦難に満ちた日々でも、ともすれば見逃してしまうかもしれない瞬間にこそ、本当の幸福は潜んでいる。ささやかな幸福以外に幸福はない。たとえその人が、どんな状況にあっても。
母が病床で私に教えてくれたのはまさにこのことである。病気で倒れる前、私は母にドイツ語を教えたことがあった。ある時、母が、その時に使っていたテキストを病院に持ってきてほしいといった。母に再びドイツ語を教えていた時、母の病気にもかかわらず、私は幸福だった。そして、おそらくは母も。
生きているだけでありがたい
私が心筋梗塞で倒れた時にも、母が病床で過ごした日々のことを思い出さないわけにはいかなかった。母はやがて意識を失ったが、私は、母が生きているだけでありがたいと思った。
母と同じく病床で動けなくなった私が、自分自身についても、生きていることが他者にとっての喜びであると思えるようになるまでにはたしかに時間がかかったが、それでも、たとえ何もできないとしても、自分は他者に貢献できるのだということを知った。
入院中、最初の頃は、夜眠ると再び目を覚ますことはないのではないかと思って怖かった。だが、何もできなくてもそのままの自分を受け入れることができるようになると、安心して眠れるようになった。
そして、一度は死にかけたことも、またいつかは死ぬことも忘れて、今日という日を今日という日のために生きることができるようになった。
このように思えればこそ、日々の何気ない瞬間に幸福を感じられ、何かの実現を待たなくても、今ここで幸福であることに気づくことができる。そしてこのような幸福は、何が起こっても失われることはない。
生きることの目的は、父と焚き火をしていた時の、また母とドイツ語を学んでいた時のような、ささやかな幸福を感じた瞬間と矛盾するものであってはならない。
だが、このような幸福とは違う幸福があると思う人がいる。日常のささやかな幸福など一顧だにせず、成功することこそが幸福だと思う。私は成功について考える時、よく次の逸話を思い出す。
ディオゲネスの答え
マケドニアのアレクサンドロス大王が、ソクラテスの流れを汲むギリシアの哲学者であるディオゲネスの元に赴いた時のこと。ディオゲネスは生活上の必要を最小限にまで切り詰め、自足した生活を送っていた。
アレクサンドロスは、マケドニア王に即位した後、ペルシア征伐の全権将軍に選ばれたが、多くの政治家や哲学者が彼のところに祝いにやってきたのに、ディオゲネスだけは、アレクサンドロスをまったく問題にせず閑暇を悠々と過ごしていたので、自らコリントス(ギリシアの都市)にいたディオゲネスの元へ足を運んだのだった。
ちょうどディオゲネスは日向ぼっこをしていた。そこに多くの人がやってきたので、彼はちょっと身を起こしてアレクサンドロスをじっと見た。アレクサンドロスは彼に挨拶をして「何かほしいものはないか」とたずねた。するとディオゲネスは、「その日の当たるところから少しばかりどいてくれないか」といった。
日光浴をしていたら、物々しく武装した兵士たちが突然踏み込んできて、のみならず七十歳にもなろうとするディオゲネスに、二十歳そこそこの若いアレクサンドロスが、「何かほしいものはないか」というというのは、ずいぶん無礼な話である。
とはいえアレクサンドロスは、ディオゲネスの誇りと偉大さに感服し、「もしも私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスでありたかったのだが」、そう語ったと伝えられている。
片や大帝国の王、片や何も持たない哲学者。アレクサンドロスは何も持たず権威をものともしないディオゲネスの人となりに心底驚嘆し、自分もディオゲネスのようになりたいと望んだのではないだろうか。もしかしたらディオゲネスも、今ここでディオゲネスになれるとアレクサンドロスにいいたかったのかもしれない。
しかし、アレクサンドロスはアジアへの遠征に出かけなければならなかった。結局、二度とギリシアの地を踏むことなく、アレクサンドロスは三十四歳の若さで急逝した。
アレクサンドロスは、今ここで幸福であることができたはずだった。おそらくディオゲネスの前に立った時、アレクサンドロスにもそのことはわかったのだろう。それなのに、それとはまったく別の幸福があると彼は信じた。
アレクサンドロスにとって、それは敵と戦い、敵を征服するという成功だった。成功などしなくても、すでに幸福なのに、である。
本書では、私はもっぱらプラトン哲学とアドラーの思想を踏まえ、私自身の見解を加えて幸福について論じてゆきたいと思う。プラトンは目的論に立ち、自由意志を認め、人間の責任の所在を明確にしている。
アドラーも基本的に同じ考えだが、プラトンが十分に論じていない対人関係を問題にしている。幸福が対人関係を離れては考えられないとすれば、アドラーの思想は幸福の問題をより実践的に考える時に有用である。
私はたった一度でも、相談にきた人の人生が変わらないようなカウンセリングをしてはいけないと考えている。本書を読めば、幸福はどこか遠くに探しに行かなくても、初めからここにあったことがわかるだろう。
[現代ビジネス]
Posted by nob : 2017年01月31日 13:46