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■「赤ちゃん」から育て直す 神戸児童殺傷から10年
神戸市須磨区で土師(はせ)淳君(当時11)が殺害されて、24日で10年。14歳の少年が、小学生2人を殺害、3人を負傷させた事件は、少年事件への社会の見方と制度を大きく変えた。少年院の内部資料に基づき、その処遇の過程をたどった。
03年の秋、東京都府中市の関東医療少年院の講堂。その男性は汗だくになってバレーボールを追いかけ、仲間に大声で呼びかけていた。
見守っていた関係者の胸に、男性が一般社会で生活できるとの確信とともに、「罪と向き合うということは、むしろこれから始まるのだ」との思いもわきあがった。
97年に殺人容疑などで逮捕された男性は同年10月、同少年院に入った。
その直前、法務省は特別な生活訓練課程「G3」を考案し、男性に初めて適用した。医師や教官らが「家族」を演じて男性を「赤ちゃん」から育て直すものだ。
資料には、04年3月の仮退院まで6年5カ月間の状況が、7段階に分けて記録されている。
「緊張期」とされた入院直後の約7カ月間。「世の中は弱肉強食。自分が年下の子を殺しても、大人が自分を死刑にすればつじつまは合う」と言い切り、「生きることを強いる大人は嫌いだ」と、裁判関係者や肉親の面会を拒んだ。
入院から約2年たった99年の夏。男性は「危機期」にあった。「自分が壊れていく」と訴えた。8月下旬ごろには落ち着き、「気持ちをはき出したい」と内面を話すようになった。母親役の女性医師を「僕にとって理想の母」と言い始めた。
ある日、別の少年に突然つばをかけられた。「これが世間一般の考え方だと思う。人が人を殺すなんて悲しみしか生まない」と文章に書いた。
99年10月、「再構築期」に入った。表情にはりが生まれる一方、自らの攻撃性に悩み、将来への強い不安や孤独感をのぞかせた。
贖罪(しょくざい)教育が始まったのはこの時期。服喪を日課とさせた。動揺したり、涙を流したりすることもあったが、遺族が出版した本も繰り返し読んだ。両親の面会も受け入れた。カメラで監視されることなど特別扱いへの不満も強く訴え出した。
「成長期1」(00年4月から約20カ月間)には、日常生活の訓練や学習など。監視カメラのない部屋に移ると、「これからは自分で自分を監視していかないと」。
移送された東北少年院での「対人関係と職能訓練」期(約1年間)と、周囲の助けで生かされていると気づくようになった「成長期1」(約1年半)を経て、贖罪への思いが重くのしかかった。
「総括期」に入って約5カ月後の03年秋、男性は職員らに言った。
「ご遺族に会い、僕にどのような人生を歩めと言われるのか、聞かせてほしい。言われる通りに生きていきたいのです。僕が更生するとはどういうことなのか、償いながら生きるとはどういうことなのか教えてほしい」
同院は04年3月、男性の仮退院を認めた。05年1月、本退院した。
◇
男性は今年3月、遺族に手紙を送った。本退院直前に続いて2度目だ。
殺害された山下彩花(あやか)さん(当時10)の母親京子さん(51)は「罪と向き合う意識は読み取れたが、具体的にどう償っていくのかが全く見えてこなかった」と話した。
被害者保護・救済に詳しい葛野尋之(くずの・ひろゆき)・立命館大学法学部教授(刑事法)は指摘する。「社会性と謝罪の気持ちは芽生えたと考えられるが、その気持ちを継続して持てるかどうかが大切だ。被害者が受け入れなくても、男性には償いながら生き続ける責任がある。そのためには、男性を支える態勢も重要になる」
男性は24歳。いま、国内のあるまちで暮らしているという。
〔朝日新聞〕
Posted by nob : 2007年05月23日 16:50