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原発の現実が集約された二つの言葉「すべてが金の力よ。金の力で人間が支配されたわけだ」「国策はみんなのためにあるべきもので一人でも人間の犠牲のうえに成り立ってはいけない」

◆下北よ! 原子力と私たち

(1)13年前、玉虫色の約束

 六ケ所村倉内

 土田浩氏(76)は妻と2人、この牧場地帯で穏やかに暮らしている。

 1年近く前になる。自宅を訪れた記者に土田氏があっさり言った。国が県と結んだ、ある約束には「裏の意図」が込められているという。

 前任の古川伊勢松氏を破り、89年から2期村長を務めた。97年に落選して以来、政治とは距離を置いている。

 土田氏の村長在任期間に、青森県の原子力政策にとって重要な1994年が重なっている。

 土田氏の言う約束とはこの年、青森県が科学技術庁(当時)から取り付けた文書のこと。その趣旨はこうだ。「知事の了解なしに、青森県を最終処分地にしない」

 昨年末、三村知事が東通村の高レベル放射性廃棄物の「勉強会」構想に即座に反応し、経済産業省に「約束」の念押しに出向いたことで、改めて脚光を浴びた。

 記者は土田氏のもとに何度か通い、94年の記憶をたどってもらった。

   □   ■

 94年11月。六ケ所村は、フランスで製造された高レベル放射性廃棄物の一時貯蔵受け入れを目前に控えていた。

 「話したいことがある」。土田氏は当時の北村正哉知事(故人)から電話を受け、県庁へ駆けつけた。

 北村知事は来客中。副知事室で待った。客が帰り、副知事と2人で知事室に入った。さらに出納長も呼ばれた。

 無口だった北村知事は「(高レベル廃棄物受け入れに関する)安全協定のことで、騒がしい」と短く言った。受け入れ反対の署名活動や、デモが盛んに行われていた。

 土田氏は応じて語った。

 「将来も絶対に青森を処分地にしないという縛りをかけようとすれば国は反対するだろう」

 「六ケ所村は『準最終処分地』だ。他に処分地は見つかりそうにない」

 北村知事は黙って聞いていた。そして土田氏はこう持ちかけた。「『知事の了解なしには処分場をつくらない』という約束にしてはどうか。こうすれば、後任の知事がダメと言えばつくれないが、いいと言えばつくれることになる」

 これを聞いた北村知事は「ああ、そうか」と言ったという。

   □   ■

 当時、4期目の北村知事は翌年2月に知事選を控えていた。県民の不安は無視できないが、核燃施設を誘致してきた立場上、国にあまり強く出ることもできない。「知事の了解なしに」という文言は、ジレンマを解決するものだった。

 当時、国との折衝に深くかかわった元県幹部の証言—。「状況が変われば、高レベル廃棄物を受け入れることもあるかもしれないと当時から皆考えていた。だが、政治家にとって県民感情は重要だ。あの約束は適切な言葉だったと思う」

 国はどうか。

 県との折衝にあたっていた科技庁の興直孝官房審議官(現・静岡大学長)が語る。「(約束の文書で)書き方はとても工夫した。含みを持たせた」。地元の理解がないと処分場がつくれないのは、青森県に限らず「当然のこと」だった。

 結局、北村氏は95年の選挙で敗れた。初当選した木村守男知事は同年4月、高レベル廃棄物運搬船のむつ小川原港着岸を拒否。国に、約束を再確認させた。「知事の了解なしに」との文言は残った。

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 木村前知事は取材に対し、その真意について「文言のみが事実です」と、事務所を通じて回答してきた。

 木村知事の下で、核燃問題担当の県のむつ小川原開発室長を務めた成田正光氏(現・東奥日報販売専務)は「『青森に木村あり』という意思表示をしたかったのだと思う」と話す。

 そのうえで約束の裏の意図について記者の取材に、「私はわかっていた。木村知事も分かっていたと思う」と打ち明けた。

 「高レベル廃棄物は使用済み核燃料の再処理に伴って作られる。そういう経済活動を青森県で行うのだから固化体を県内で処分するのは当たり前の話。青森県が処分地候補の一つになることは否定できなかった」

 ともかく、約束は知事3代にわたって生きた。

 昨年暮れ、三村知事は県内全40市町村長あてに文書を送った。高レベル最終処分場の県内誘致をあきらめるようにクギを刺すものだった。

 その一節。〈私は約束について、機会あるごとに国に確認し——〉

 三村知事は記者の取材に文書で答えた。「私としては、最終処分を受け入れない方針を堅持する」

(小宮山亮磨)

   ×   ×

 下北が動く。08年、日本原燃の再処理工場は今春にも本格的に稼働を始める。これを機に、原子力と私たちの関係をもういちど問い直したい。


(2)「夫倒れ危険性知った」

 六ケ所再処理工場の西の方角に、アパートのような建物が40棟並ぶ施設がある。日本原燃に通う建設作業員らが寝泊まりする施設として、94年秋から営業している。

 4畳半か6畳1室。部屋にベッド、テレビ、机がある。食堂、風呂、洗面所は共同だ。最盛期には、800人収容の宿に収容できないほど作業員が全国から集まった。

 「今、六ケ所ってところにいるよ」

 沖縄県うるま市。喜友名末子さん(56)は同い年の夫の正さんから電話を受けたことがある。正さんは六ケ所のこの施設に泊まっていた。

  ■   □

 沖縄は青森と並んで雇用も少なく、賃金も低い県だ。正さんが「もっといい給料で違う仕事がしたい」と、20年以上勤めた沖縄県内の会社をやめたのは97年だった。

 大阪市内の派遣会社に登録し、原発の労働者となった。放射能漏れの非破壊検査担当だった。同年9月、北海道電力の泊原発で初めて働いた。

 原発の仕事は数日と短いこともあれば、1カ月近いこともあった。現場では簡易線量計をつけて仕事する。自身の被曝量を知ることができる。

 一つの事業所での仕事が終わるたびに被曝量を書き留め、また別の事業所へ派遣される。被曝量は「放射線管理手帳」に記載される。

 正さんが派遣された原発は次のようになる。泊→ 伊方(四国電力)→高浜(関西電力)→大飯(同)→美浜(同)→敦賀(日本原子力発電)→玄海(九州電力)。東北電力の秋田火発を経て六ケ所再処理工場へ。

 正さんの放射線管理手帳によると、03年4月8〜17日、同6月19〜8月25日に再処理工場で働いた記録がある。

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 01年ごろ、正さんに異変が起き始めた。鼻血が頻繁に出た。手足は氷のように冷たくなった。気力がなくなり、ご飯をお代わりしなくなった。

 病気とは思わず、正さんは出稼ぎを続けた。だが、六ケ所からうるま市に帰った翌04年1月、顔の右半分が突然、大きく腫れ上がった。

 鼻に腫瘍があった。緊急手術を受け、琉球大医学部付属病院に転院。ここで初めて悪性リンパ腫と診断された。

 約7年間で正さんが被曝した線量の合計は99.76ミリシーベルト。国の基準によると、被曝線量は年間50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトを超えてはならないと定めている。

 正さんが逝ったのは05年3月、53歳だった。

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 「初めて、心から愛した人。今も好きだから、夫の無念を晴らしたい」

 末子さんは05年10月、正さんが悪性リンパ腫で亡くなったのは被曝によるものだとして、大阪府の淀川労基署に労災を申請した。だが、06年9月、不支給の決定が出された。

 2人は18歳の時、沖縄の集団就職のグループで出会った。川崎市の電機メーカーで約3年半働き、沖縄に戻って24歳で結婚した。

 正さんは本島北部の宮城島という小さな島で生まれ育った。2人のデートは決まって宮城島。末子さんは貝を拾い、正さんは釣りに興じた。

 だが、正さんのいない3度目の正月。沖縄の家の台所に置かれ、守り神としてまつっている「ヒヌカン(火の神)」に手を合わせる。「見守っていてね」と語りかける。

 末子さんは、労基署がある大阪にたびたび出かけた。大都会を1人で歩き回り、自分をこう奮い立たせたという。

 「夫は病気になって初めて、原発労働の危険性に気づいた。労災を勝ち取って、夫が亡くなった事実を知ってもらい、私と同じ思いをする人が出ないようにしたい」

 末子さんの不服申し立てに、厚生労働省は07年6月、「再検討する」と回答してきた。末子さんは吉報を待っている。

(北沢拓也)

【キーワード】原発・核燃料施設労働者の労災 
 厚生労働省によると、白血病になった原発労働者6人と、99年のJCO東海事業所(茨城県東海村)の臨界事故で被曝し、急性放射線症となった3人の計9人が労災認定を受けている。原発労働者の労災は、白血病など認定対象の疾病以外は検討に時間がかかり、「認められにくい」との指摘も多かった。だが、04年1月、東京電力福島第一原発などで働き、多発性骨髄腫になった大阪市の元作業員が初認定された。


(3)出稼ぎ離散家族に定職

貝塚クリーニング店の作業場には、核燃施設で働く人々の作業服がずらりと並ぶ。「原燃がなかったら、我々は生きていかれないんでないか」=六ケ所村泊で

 42型、ハイビジョンのプラズマテレビが居間で存在感を放っている。地上デジタル放送に備え、昨年8月に買ったばかりの品だ。

 「これも開発のおかげだ」

 六ケ所村泊でクリーニング店を営む貝塚一忠さん(61)が、そう言って顔をほころばせた。

 青森市でクリーニング店を開いていた貝塚さんは、84年に生まれ故郷の泊に戻った。電気事業連合会が、県に核燃施設の立地を申し入れた年のことだ。

 今、日本原燃のほか、核燃関連の企業から依頼される作業服などのクリーニングが仕事の柱だ。受注額は4割以上を占める。関連企業に勤める人たちが個人で依頼するワイシャツやスーツの洗濯を含めれば、半分を上回るという。

 六ケ所の村民は核燃施設が生み出す雇用に多くを頼っている。

 原燃によると、同社の敷地内では1日あたり協力会社の社員が1300人働いている。これだけで約1万1千人の村人口の1割超を占める計算だ。

    □    ■

 原燃の協力会社に勤める夫婦が取材に応じてくれた。

 夫は50歳代。入社前は東海地方の自動車関連企業でほとんど一年中出稼ぎをしていた。下北地方には仕事がなかったためだ。「この辺りでは、それが普通だった」

 40歳代の妻も、海の仕事がなくなる冬の半年間は、夫とともに出稼ぎだった。幼い2人の娘は夫の実家に預けるしかなかった。

 「あのころが、人生で一番つらかった」と妻が言った。

 夫が今の会社に入ったのは17年前。核燃への賛否をめぐり、村が真っ二つに分かれた時代だ。

 入社試験では「再処理の意義とは何か」という課題作文があった。原稿用紙2枚を埋めた。反対派を入社させないためだったと夫は思う。夫は当時から核燃に反対する気持ちはなかった。だが、同僚には、内心を隠していた者もいたと思っている。

 「それでも、仕事にありつくためだからね」

 警備員として気勢をあげる反対派と相対したこともあった。ゲートの向こう側には、知った顔が何人もいた。

 給料は次第に上がった。それが会社勤めのいいところ。長女を短大に行かせることもできた。

 妻は言う。「(事故が)怖い気持ちがないと言ったら、うそになる。でも暮らしていけることが大事。かっこいいこと言っても、お金ですからね」

 成長した2人の娘は今、核燃の関連企業で働いている。

   ■    □

 昨春のこと。

 泊で食堂を経営する松下志美雄さん(52)は、日本原燃の敷地内に弁当を届けに行った。そこで制服姿の知人を見つけた。

 松下さんは驚いた。彼が以前は反対派だったことを知っているからだ。知人は目をそらした。

 「責める気はない。都会だったら他に仕事があるけれど、ここでは選択肢がない」

 今、友人らの集まりで核燃の話題が出ても、その是非をめぐる議論は盛り上がらない。松下さんが水を向けても「もう仕方ないことだ」と言われてしまう。

 核燃関連の仕事をしているから触れてほしくないのだろう——だからそれ以上は聞かない。「聞かない方がいい。人間関係に、ひびが入ってしまうから」

 反対運動が盛り上がった往時を思うと、感慨は深い。

 協力会社だけではない。約2500人の日本原燃社員のうち、214人(昨年11月現在)が六ケ所村の出身者だ。33・3歳、年収650万円。それが原燃のプロパー社員の平均的なプロフィル。年収は県内平均のほぼ倍にあたる。

 村出身のある男性社員はちょうど、この平均像に重なる。

 反対運動は、子どものころに新聞やテレビで見たという記憶しかない。「工場は、そこにもうあるものだと思っていた」と話す。

 入社したのは「地元に就職したかった」からだ。両親も賛成してくれた。新築の自宅で今、2世帯で暮らしている。

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 同村尾駮のショッピングモール「REEV」内の一角に、子どもたちの遊び場がある。日本原燃がテナント料を出して設けられたスペースだ。

 昨年末、2人の子どもを連れた若い夫婦がいた。年の瀬の買い物に訪れたという。

 ——お勤めは原燃さんの関連ですか?

 「はい」と、母親は笑顔で答えてくれた。そして付け加えた。

 「この子たちも、原燃さんの子どもたちです」

(小宮山亮磨)


(4)立地村の現実伝える

 「すべてが金の力よ。金の力で人間が支配されたわけだ」

 六ケ所村新納屋地区の小泉金吾さん(78)は、たばこをくゆらせながら言った。70年代、新納屋には90戸の住民が暮らしていた。

 みんなが当時のむつ小川原開発に土地を明け渡した。85年からは小泉さん1戸だけが残る。

 水田10アールが75万円、畑は65万円で、原野が57万円……開発関係者が家々を回り、土地を買いまとめていった。だが、開発は頓挫。小泉さん宅の周辺には、荒れ果てた土地が広がっている。

 「放射性物質が出るとすれば人にも自然にもいいわけがない。自然とともに生きてきて、そういう心が芽生えた」

 漁師として、農民として生きてきた小泉さんは長年、反対運動の中心にいる。

 今も、思い出す一人の男の姿がある。「寺下さんは開発を阻止するまで村長でいる気持ちだったはず。魂をつぶしたら、その場で終わってしまうというつもりで、寺下さんはやっていた」

 寺下さん——元六ケ所村長の寺下力三郎さん。開発反対、核燃反対の象徴的存在だった。村長を務めたのは69年からの1期だが、再選を目指した73年の村長選に敗れた後も反対運動を続け、99年、86歳で逝った。

 「開発に頼らない、六ケ所らしい暮らし」——寺下さんと同じ思いで運動を続けてきた反対派の人びとに、間もなく始まる再処理工場の本格稼働という厳しい現実が迫っている。

 反対派は衰退し、微妙な考え方の違いから運動が大きくまとまることは少なくなった。しかし、小泉さんは言う。

 「生きている限り、精神を曲げずにいたい。おれは仏になっても反対を言い続ける。それが、おれの極楽だよ」

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 「核燃は白紙撤回」

 「いのちは放射能がきらい」

 泊の種市信雄さん(70)は、自宅の壁に反核燃の看板を今も掲げている。昔は、あちこちで見られた反対の看板も、ほとんどみられなくなった。

 種市さんが看板を掲げ始めたのは87年ごろだ。泊の漁師たちが作り、種市さん自身も役員を務めた「泊漁場を守る会」の活動も活発だった。小型船の船主が主なメンバーで50〜60人いた。集会所で学習会を開き、バスを貸し切って県議会に出かけることもあった。

 「六ケ所の生活水準が低いことは分かっていた。でも、土地を手放せば農業はできない。海がなければ漁業はできない。寺下さんは基本的なものを守り、村で暮らせる環境づくりを考えていたよ」

 種市さんも寺下さんの理念に共鳴した。核燃が来れば、村に金が入り、働き口ができるかもしれない。だが、危険な職場で働かせるような政治はだめだ、と。

 しかし、反対派にとって運命とも言える89年の村長選。核燃推進派で4期務めた古川伊勢松氏(古川健治・現村長の実兄)と、核燃の「凍結」を訴えた村議・土田浩氏、「白紙撤回」を掲げた高梨酉蔵氏の3人がぶつかった。

 「計画を止めたいという思いがあったのだろう。選挙で勝つために、泊の反対派はごっそり土田支持に回った」

 種市さんには痛恨の思いが今も残る。土田氏が当選した後も核燃計画は凍結されなかった。むしろ着実に進んだ。あれが潮目だったのか。反対派は崩れていった。

 寺下さんが亡くなる前、涙を流していたことを覚えている。

 「後を頼む」というよりも、核燃を食い止められなかった無念の涙だったと、種市さんは思う。

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 六ケ所村倉内笹崎。

 ここで「花とハーブの里」を営む菊川慶子さん(59)が、千葉県から故郷の六ケ所村に戻ったのは90年のことだった。

 旧ソ連・チェルノブイリ原発事故がきっかけだった。核燃に頼らないために、農業中心の暮らしを実践している。「生活が少しくらい不便になっても、放射能汚染の緊張がなくなるならずっといい」

 薪ストーブの上にフライパンを置き、卵とベーコンを焼く。近くで採れたクレソンと畑で採れたキャベツのサラダ。自宅で焼いたパン。菊川さんの食卓は、ゆっくりとした時間が流れている。

 03年4月の村議選に、反核燃を掲げて出馬したが、41票しか獲得できず落選した。今、選挙に出るつもりはない。

 ここには、全国の仲間や核燃に関心を持った若者たちが来る。菊川さんは「原子力の立地村の住民には、電気消費者が知らない現実を伝える役目がある」と語る。

 「私は、ここから発信したい」

(北沢拓也)

[朝日新聞]


◆研究者 鎌田遵さんルポ

■ 状況、米先住民と類似

 下北半島—人口11万2千人余、総面積は1876・04平方キロ、その広さは大阪府に近い。原子力とともに生きざるを得ない半島を、気鋭の研究者鎌田遵さんが歩き、原子力と私たちの、昨日今日そして、明日を考えた。

 わたしの専攻するアメリカ・インディアン(以下、先住民)と米国の原子力開発は密接に関わっている。先住民の生活圏は経済開発に恵まれず、核廃棄物の貯蔵所に選ばれてきたが、それは下北半島の状況と驚くべきほどに類似している。

 昨年12月中旬、19年ぶりに雪の舞う六ケ所村を歩いた。あの頃の古川伊勢松村長(73〜89年)の実弟が古川健治現村長で「エネルギーの町づくり」と「村の自立」を提唱する。かつて村民の理解が得られず、反対派もいたが、雇用の増加による過疎対策が功を奏し、原子力と共存共栄する時代になったと古川村長は語った。

 日本原燃の幹部職員は間もなく本格稼働する再処理工場をバネに「六ケ所をもの作りを核とした町にしたい。地元と長いおつきあいをして行きたい」と意気込んだ。

 しかし、六ケ所高校を卒業したという20代の女性は再処理工場ができてから村での仕事は増えたが、それでも仲間は都市に移り住んでいる、と言う。都会生活への憧れを地元の雇用だけで食い止めるのは難しい。

 再処理工場が建設されたあとも生活を変えない人たちがいる。「農業に適さない僻地」とのふれこみで開発はやってきたが、「土地は肥沃で、生活に必要なものは何でも手に入る」と花農家の菊川慶子さんは、地道に反対運動を続けてきた。

 隣村の東通村の海は昔の海ではない。マグロ漁で活躍した東田貢さんは「原発の港湾建設で地形が変わり、何百年とおなじだった潮の流れを変えてしまった」と嘆く。

 原発建設であてにしていた土木工事も、落札するのは大企業だけだ、という。大企業は下請け業者を連れてくる。地元の人たちは孫請け企業に入る。月収は16万円ほどで、家族を養うのはきびしい。原発は雇用を促進したが、出稼ぎに行かないと食えない現状は昔と変わらない。

 民俗学者の竹田旦は『下北—自然・文化・社会』(67年、九学会連合下北調査委員会編)で、東通村のある集落について「『部落』を単位とする生活規制がきわめて卓越し、部落が一個の生活共同体としての意義を高度に発揮している」と書いている。

 こうした共同体意識はいまも残る。東田さんは「儲かったのは一部の人だけでないか。全員が幸せになるのが村の民主主義だべ」と話した。特定の人だけでなく村全体が潤うことをもとめる温かな気持ちに、先住民の部族社会を見る思いがした。

 87年、米国カリフォルニア州政府は先住民・モハベ族の生活圏を放射性廃棄物の処分場予定地に選定した。モハベ族は先祖代々からつづく聖地を守るために反対運動を起こし、ついにこの計画を廃案に追い込んだ。

 モハベ族には、全員が納得するまで話し合う文化がある。「廃棄物との共存」を前提とする経済開発をもくろんだ州政府の政策は、結局、合意されなかった。

 下北半島の突端、大間町に足をのばした。小笠原厚子さんはここの原発建設予定地内で母親から受け継いだ土地を守っている。ただ一人土地を売らなかった母、熊谷あさ子さんの「海と土地を守っていれば、どんなことがあってもなんとかなる」という言葉を、彼女は信じている。

 「国策はみんなのためにあるべきもので一人でも人間の犠牲のうえに成り立ってはいけない」

 下北半島の住民とアメリカの先住民社会にみられる共通点は、原子力産業との「共生」を強いられていることだけではない。先祖から受けついだ暮らし方を、将来の生活に紡ぐ人びとがいることだ。下北半島は、未来から、この国の民主主義のあり方を問いかけている。

■  かまた・じゅん 

 1972年、東京生まれ。10代から原発問題や環境問題に興味を持ち、下北半島の反核燃運動を学ぶ。96年、米・カリフォルニア大学バークリー校卒業。同大ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程を経て、04年、同大学院公共政策・社会政策研究所都市計画学部博士課程修了(都市計画Ph.D.)。アメリカ先住民社会と放射性廃棄物のかかわりを研究。廃棄物を押しつける公共政策や、逆に誘致する部族の姿を見つめる。06年から日本女子大学非常勤講師。著書に「『辺境』の抵抗—核廃棄物とアメリカ先住民の社会運動—」(御茶の水書房)、「ぼくはアメリカを学んだ」(岩波ジュニア新書)。

■ 始まりは原子力船「むつ」

 下北と原子力との関係は、原子炉を動力とする日本初の原子力船「むつ」から始まった。69年に進水。初の出力試験のため、母港のむつ市・大湊港を出港した直後の74年9月に放射線漏れ事故が発生した。大湊港の地元に拒否され、帰港先がなくなった。その後、16年にわたって原子炉を動かすことなく、各地を「漂流」した。母港はその後、むつ市・関根浜港に。91年に4回の実験航海をした後に原子炉が取り出され解体。修理や漁業補償などで1千億円以上が費やされた。

■ 70年代、東通に原発20基構想

 東通村にはかつて、東北電力と東京電力が計20基もの原発を建設する計画があった。70年代の構想だった。1カ所の原発数は現在最多の東電柏崎刈羽でも7基だけ。計画が実現していれば、東通村が国内最大級の原発集中地になっていただろう。結局、電力需要は当時の構想ほどには伸びず、20基計画は幻に。それでも、用地は20基計画に基づいて約800ヘクタールが買収済みだ。現在、東北電力と東電の建設予定分を含めた4基のため使われるのは160ヘクタールで、8割の土地が余っている。

[朝日新聞]

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Posted by nob : 2008年01月06日 12:36