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まずはできることから、、、無駄を省き必要な時に必要なだけ、、、さらにはその時あるだけのもので我慢するというライフスタイルへの転換を。。。
■太陽光発電の「不都合な真実」
人口の絶対的限界は存在するのか?
石井 彰
唐突ながら、読者は江戸時代が好きだろうか? 歴史小説や映画の数などからすると、幕末動乱を例外として、戦国時代等に比べると一般に人気はいま一つといったところではないか。その理由は、江戸時代はどうも溌剌とした印象が薄くてドラマ向きでなく、息苦しく退屈に見えるからだろう。
江戸時代は本当に好きですか?
実際に、江戸時代後半は人口が停滞し、社会活力もなかった。元禄時代ぐらいまでの江戸時代前半は、戦乱時代が終わって新田開発が進み人口増で活気があったが、幕府は技術革新と社会の流動性を厳しく規制し、社会活力より社会の安定・秩序を最優先した。福沢諭吉が憎んだ「親の敵」の封建時代そのものである。
二度と戦乱を起こさせないためだったが、教科書にも出てくる大井川などの橋の廃止だけでなく、荷車など車輛も原則禁止し、複数マストと甲板を張った外洋船も厳禁した。手押し車に乗せた大五郎が「チャン!」と呼ぶ「子連れ狼」が気ままに旅をすることなど、実際には全くあり得なかった。
江戸期後半は、新田開発も限界に達して、最低限の生活水準維持のため、「姥捨て山」伝説の信憑性はともかく、嬰児殺し(間引き)が一般化し、人口増はマルサスの罠によって約3000万人で長らく停止した。
一部の環境派からは、人間の屎尿を肥料として本格的にリサイクル使用し始めた江戸時代は、持続可能社会のモデルのようにも言われているが、屎尿由来の回虫が蔓延して人々の栄養状態は悪化し、男の平均身長は150センチ台、女は140センチ台まで低下、その多くの頭蓋骨には栄養失調の証拠である眼窩の「す」が見られる。
人口増による薪炭利用で里山は荒廃していた
悪臭を発して寄生虫の卵を大量に含む屎尿の肥料利用が広まった理由は、本来の肥料である堆肥(落ち葉等を自然発酵させたもの)の供給源の里山が、元禄以前の人口増による炊事・暖房や窯業・製鉄のための過度な薪炭利用で荒廃したことと、新田開発によって里山が遠方になりすぎたための苦肉の策であった。
この皮肉な結果として、荒廃した里山に成立する赤松林にしか生えないマツタケがどんどん採れるようになった(第2次大戦後は、石油系燃料の普及で薪炭採集が激減し、結果として里山の自然回復で赤松林が激減、マツタケも希少品化した)。
つまり、江戸期後半の日本も、人口とエネルギーと環境の深刻な相互矛盾に直面していたのである。
一転して明治時代は、江戸時代に全くなかった大きな戦争が3回もあったにもかかわらず、活気に満ちた明るい時代のイメージが強い。これは、維新によって政治・社会・技術が大きく変わっただけでなく、英国産業革命と同様に、維新直後の政府による佐賀の高島炭鉱開発を嚆矢として、エネルギー源が薪炭から石炭に代わって産業化が進み、所得水準と人口が増大したからである。
近年、江戸時代にも識字率や商品流通が向上していたことをもって、江戸時代に既に産業化が始まっていたかような議論も多いが、エネルギーの視点を欠いた議論は産業化の本質を見誤りかねない。
今回は最終回なので、ここで歴史から離れて、地球環境問題に直面する現在と将来について考察することにしよう。
地球規模でのエネルギーと人口と環境の絶対矛盾については、1970年代からローマクラブ(MITのメドウズ等)や、スタンフォード大学の人口学者P.エーリックなど等が主張している。エーリックは90年代の著書『人口が爆発する!』の中で、I=P×A×T:モデルというのを提唱している。
Iというのは環境破壊インパクトであり、Pは人口、Aは豊かさ、Tは技術水準である。この内、A×Tは、既に述べたように大方エネルギー消費と換言できる。こう言うと、Tの値を太陽光発電など新世代の再生可能エネルギー源の技術開発によって減少させ、PやAが一定、ないし増えても、Iを減少させることが可能と考える人も多いだろう。しかし、今、人類が抱えている絶対矛盾は、技術主義だけでは原理的に解決不能と思われる。
1950年代「夢のエネルギー」と言われた原子力
もちろん、これら再生可能エネルギーの技術開発や導入、あるいは省エネ技術の開発を積極的に行う事は、大いにやるべきことであり、この点に異論はない。しかし、現在、世界的にマスメディアや政治の世界を席巻している、太陽光発電などで、あたかも環境・エネルギー問題が抜本的に解決できるかのごとき過大な楽観論は、例えば1950年代の原子力ハイプ(誇大宣伝、ないし幻想)と極めて良く似ていることに注意しよう。
当時、原子力は「夢のエネルギー」ともて囃され、既に述べたエネルギー産出/投入比率の意外な低さ、放射性廃棄物の処理問題、重大事故や核兵器拡散のリスクはほとんど見過ごされていた。
例えば、当時米国の自動車業界は、20年後には原子力乗用車が実用化されて世界中で走っている絵を描いていた。原子力乗用車のフォード「ニュークレオン」は、超小型原子炉モジュールで約1万キロ走行でき、その後もモジュールを交換すれば何万キロでも走れ、汚い排気ガスも全く出さないという触れ込みだった。今から見れば突拍子もない話だが、プロトタイプも制作されていた。手塚治虫の「鉄腕アトム」の誕生が当時の雰囲気を良く表している(アトムは原子力の意)。
もっとも、既に実用化が始まっている太陽光発電と、はじめから無理筋の原子力乗用車は全く違うと言う人は多いだろう。しかし、次のような事をどう考えるだろうか。
太陽光発電の「不都合な真実」
植物も光合成によって、太陽光発電と同様に、太陽エネルギーを別の形態のエネルギー源(糖/ATP)に変換して利用している。その変換効率は数%で、一方の太陽光発電は最大10〜20%とずっと高いことになっている。
しかし、イネ科の穀物植物や藻類などは5%以上もあり、それほど大差があるわけではない。
光合成の理論的な変換効率限界も約30%とされており、太陽光パネルのそれと大差ない。さらに、植物は自分で自身の体を作っているのに対し、太陽光パネルは製造と設置に外部からエネルギーを投入しなければならない。このエネルギー産出/投入比率は、最大10〜20倍あることになっているが(ペイバック期間も同じ)、これは石油より一桁小さく、粗放農業とほぼ同じである。
太陽光パネル関係の技術者は純技術的な産出/投入比率には言及するが、コスト比較には余り言及しない。ここで言うコストは、1企業や1国にとってのコストではなく、人類全体にとってのコストである。既に述べたように、例えば石油製品価格、ないし原油価格のうち、本来的な意味のコストはその数分の一で、その差分である莫大なレント(粗利益)の大半は、資源国や消費国の政府の税収となっている。
だから、人類的意味では、価格ではなくレントを除いた本来コストで比較しなければならない。そこで、産出/投入比率の比較と、コスト比較との違いであるが、大雑把に言えば、当該エネルギー源の製造・設置にかかる人間の手間暇や、使用資源の希少性が考慮されているか否かである。製造工場などで直接エネルギー投入がなくても、人間の手間暇や希少資源が大いに必要ならば、その人間が間接的に消費しているエネルギーや、使用資源にかかわる希少性の犠牲も加えなければ、人類的に意味のある比較にならない。
従って、産出/投入比率よりも、本来コストの方がずっと優れた指標だ。もちろん、コストというのは、生産要素の市場価格の合計で、それらの要素価格はバブルや不況など市場の不完全性に翻弄されて変動するので、精密な指標にはならないが、10年程度の平均をとれば有意な指標になる。この本来的コストで比較するならば、太陽光発電は、石油などの化石燃料との比較では問題にならないほど高い。
非現実的な砂漠での大規模太陽光発電
また、太陽光パネルの関係者や一般メディアは、最大発電能力をしばしば誇示するが、実際の発電可能量、即ち稼働率は、その最大能力に対して約1割にすぎない。なぜならば、夜は太陽が照らないし、朝や夕方、曇りや雨の日、冬の太陽光は弱いからである。それならば、砂漠で大規模太陽光発電所を作って長距離送電すれば良いではないか、という提案も実際になされているが、それは余り利口な提案ではないだろう。砂漠での発電はパネルが高温になり、発電効率とパネル寿命が大きく低下するからである。
パネルを冷却しなければ実用にならないが、冷却水は砂漠では通常手に入らない。実際、2009年秋に米国ネヴァダ砂漠での大規模な太陽光発電計画が、冷却用と住民生活用の水の奪い合いで中断された。そもそも、このアイデアには、植物がなぜ砂漠で生育しないかと言う根源的な問いが忘れられている。光合成維持に必要な蒸発冷却用の水がないから、生育しないのだ。
また、大面積のパネルでの集電や長距離送電のロスは大きく、各家庭の屋根にパネルを設置した場合よりも効率は大きく下がる。太陽光発電は、パネル面積に比例してしか発電量が増加しないので、そもそもスケール・メリットが働かないのだ。必要な時に必ずしも発電できない、使い勝手の悪さも大きな問題だ。だから、太陽光パネルは、各家庭の屋根に補助電源として設置するのが一番合理的であり、それ以上の期待はあまり現実的ではないという事になる。
要するに太陽光発電に、植物が営々と数十億年かかって自然淘汰で洗練させてきた光合成によるエネルギー資源、即ち薪炭などを画期的に上回るような存在になることを期待するのは、所詮無理があるだろうという事である。
産業革命以前の薪炭、牛馬、水車、風車と同様に、太陽光パネルはフローの太陽エネルギー利用であって、太陽エネルギーのストック(貯金)である化石燃料を大きく代替することはできない。
再生可能エネルギーの大風呂敷を真に受けるな
例えて言えば、サラリーマンがこつこつ働いた毎月の給料で、伯父さんの莫大な遺産で遊んで暮している金持ちと同じ水準の消費をすることはできないという事だ。既に何回か述べたように、68億人を擁する現代文明は、この大金持ちの遊び人の大散財で初めて成り立っている。
ちなみに、現在の世界の耕地面積は既に全陸地の1/3を占めており、残りのほとんど全ては砂漠、森林、極地、山岳であって、農業にも太陽光発電にも利用困難だ。その、目一杯利用されている耕地が生み出す食糧の総カロリーは、現在のエネルギー使用総量のわずか5%程度にしか過ぎない。もちろん、現在利用されていない茎や葉をエネルギーとして有効利用できれば(ただし、今これらは大半肥料になっている)、何%か上げることはできるが、元来桁が違いすぎる。原理的に植物と大差なく、かつ土地利用で競合する太陽光発電で、化石燃料の大半を代替することは原理的に不可能と考えた方が良い。
風力など他の再生可能エネルギーも、詳しく述べる余裕がないが、全く同じことが言える。研究者の予算獲得のためや、関連業界の宣伝のための大風呂敷を真に受けてはいけない。だから、太陽光発電など再生可能エネルギーの技術開発や導入だけでなく、化石燃料の中で環境負荷が一番低い天然ガスで他の化石燃料を代替し、また原子力を安全・堅実に利用し、省エネ技術の開発、贅沢の抑制などを同時に進めるべきだろう。だが、中国、インドなど途上国の人々に、「狩猟採集的生活パターンへの回帰」など考えず、マルサスの罠に囚われたままでいろと言えない以上、それで問題が抜本的に解決、軽減できるとも到底思えない。
地球環境問題は恐ろしく厄介なのである
となると、エーリックのモデルでは、P、即ち人口を減少させない限り、Iを減少させることはできないことになる。現在の68億人は、Iとの関係で既に持続可能性の限界を超えてしまったのだろうか? そもそも、地球規模で人口の絶対的限界というのは存在するのだろうか?
現代人口学の大家、コーエンは、次のような趣旨のことを述べている。「環境悪化にどこまで耐えられるかは、文化や心理次第の要素も大きく、技術革新や環境の柔軟性も不確実性が高いので、具体的な絶対水準を示すことはできない。しかし、限界があるのは確実だろう」
専門家の多くは、40億から160億の間と考えている。人口増トレンドを逆転しない限り、現代文明は崩壊に直面する可能性が高いだろうが、どのようにすれば悲劇を伴わずに人口減が可能なのか誰も分からない。また、緩い人口減少過程の社会も居心地が大いに悪そうだ。
筆者が結論として言えるのは、地球環境問題は恐ろしく厄介な問題で、安易な解決策などあり得ないという予感である。だから、人口急増と激減を繰り返した中国やエジプトの戦乱と飢饉の苛烈な歴史を近い将来に全人類的規模でなぞることや、過去40億年の生物史において99%の種が絶滅してしまったことなどが頭をよぎるのである。(ジョエル・E.コーエン 重定南奈子ほか共訳『新「人口論」—生態学的アプローチ 』 How Many People Can the Earth Support? )
[日経ビジネス]
Posted by nob : 2009年11月11日 17:21