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斬新な視点ながら言い得て妙。。。

■先進国ではなぜ、少子化するのか
“理想の”狩猟採集生活に戻ろうとしている現代人
石井 彰

 既に述べたように、英国でも他の国でも産業革命後まず死亡率が低下し、その後100年〜数十年たって今度は出生率が下がり始める。現在、大方の先進諸国では、出生率は人口維持水準以下の2.0未満である。死亡率がなぜ下がったのかは既に説明したが、ではなぜ出生率が遅れて大きく下がったのだろうか?

 「戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった」で紹介したトッドは、女性識字率50%超が出生率低下の分水嶺としているが、具体的理由については様々な理論が言われている。幼児死亡率が下がったので、親が老後の保険としての子供を多く必要としなくなったことや、都市化による生活環境や家族観の変化など、どれもそれなりに説得力があるが、特にここ半世紀ほどの先進諸国における出生率2.0を大きく下回る極端な低下に関しては、ノーベル賞経済学者G・ベッカー等のミクロ経済理論による説明が説得力がある。

子供は数でなく「質」が問題となる

 高所得で経済成長が恒常的にある社会では、子供の育成に膨大なコストがかかり、それと親の消費水準とのバランスという合理的選択で子供の数が決まるとされる。高所得で経済成長する社会では、労働者の資本装備率、すなわち労働者一人当たりの機械設備などが高くならなければならない。

 そうなると将来の子供の消費水準を維持・向上させるためには、高度な資本装備を操作・利用できるようにするための教育に、膨大な金銭的および時間的コストがかからざるを得ない。そうなると、現在の親の生活水準を維持する必要から出生率が下がる。

 要するに、子供は数ではなくて質が問題となる。高度な教育を必要としない単純労働と、それを必要とする頭脳労働では付加価値がどんどん開き、賃金水準に大きな格差ができるため、親にとって子供の教育が最重要課題になるからだ。

 統計では、世界各国の一人当たり所得が高いと出生率が低いという逆相関関係は明確であり、一人当たりの経済成長率が高いと、人口増加率が低くなるという緩い逆相関関係も認められる。

ますますエネルギー多消費型へ

 極端な少子化の主な原因である高い労働装備率、すなわち高度人的資本化は、エネルギー多消費ということとほぼイコールである。高度な労働装備とは、大規模な機械・設備とほぼ同義であり、それを製造・設置するのにも、それを稼働させるのにも膨大な物理的エネルギー投入が必要であるからである。

 ITのように膨大なエネルギーを直接投入しない「装備」も、その制作に人間の手間が膨大にかかるのであれば、それにかかる技術者が生活で消費している物・サービスに必要なエネルギー消費もカウントしなければならない。

 従って、設備・装備がハードウエアかソフトウエアかは本質的問題ではなく、単にエネルギー消費が直接的か間接的かの違いに過ぎない。ソフトウエアとは大方、エネルギーを多消費する機械・設備を製造・操作・調整するためのノウハウであり、大規模エネルギー消費を前提にしている。

 中国のような途上国から工業製品を大量に輸入し、代わりにソフトを輸出している米国は、中国での工業生産にかかる膨大なエネルギーを間接的に使用していることになる。統計的に、世界各国の一人当たり所得水準と、一人当たりエネルギー消費水準は高い相関関係を示し、出生率と一人当たりエネルギー消費も高い逆相関関係を示す。

人類学上の常識、人間の本性に反する農業生活

 このように経済水準とエネルギー消費とは高い相関関係にあり、エネルギー消費の観点からは、工業製品や食料の貿易を前提にした一国ベースでの経済のソフト化は、世界全体として見れば無意味である。それでは、なぜ経済水準とエネルギー消費は不可分なのか? これは自明なようでいて、意外と奥が深い問いである。

 しばしば、地球環境問題の深刻化に関連して、「皆が昔の清く正しい農民的生活に戻ればいい」、「贅沢を止めればいい」と言うようなロハス的な提言がなされる。マルサスの罠的な限界的で過酷な生活水準では困るが、最低限の栄養水準や住居水準を上回っていれば、それで満足すべきと言う。この問題を考えるのには、人類が歴史的にどのような生活をしてきたのか考慮しなければならないだろう。

 実は、数十万年に及ぶ人類史(人類の定義によって長さは大幅に異なってくるが)の99%を占めていた狩猟採集時代の生活水準は、何と産業革命前の大半の農民の生活水準よりずっと良く、現代の先進国の水準により近かったというのが人類学の通説である。人類学と無縁な人は俄かに信じがたいであろう。これまで常識であった、人類は危険で不安定な狩猟採集生活から、その高い知能と努力によって安定的な農業生活を手に入れ、さらに産業革命で豊かな社会に達したという、直線的な進歩史観に真っ向から反する説だ。

 しかし、欧州人の入植時代の文献として残っている米大陸や豪州の原住民の生活誌、最近まで細々と残っていた現代の狩猟採集民の人類学調査や、考古学的な様々な証拠から、狩猟採集民の方が、周辺の農耕民や遊牧民よりも栄養状態や体格が良く、より健康で平均寿命も長く、かつ精神的にも健全で、労働時間はずっと短くて余暇生活はより長く充実しているということが判明している。

 まず、狩猟採集民は果物・木の実やイモ類などバラエティに富んだ採集食料に加えて、様々な動物、魚介類など狩猟食料という栄養価が高い様々な旬の食料を常食にしている。人口密度が低ければ、これらの狩猟採集にかかるのは、1日数時間のみであり、残りの大半の時間は遊戯・儀式・おしゃべり・休息に充てている。

 少人数で、数週間から数カ月単位で移動しているので、排泄物等の汚染がなくて常に清潔な環境下にあり、病気にかかりにくく、気分転換が容易にできて、また集団内の上下関係もルーズであるため精神的にも安定している。気候変動にも、食糧の多様性と膨大な食料に関する知識によって臨機応変に対応して、飢餓に瀕することも少ない。

 これらは、人類学者のM.サリーンズ、L.ストロース、J.ウッドバーン、J.リゾ、A.リチャーズなどによって確認されており、前出の経済史家G.クラーク、人口学の巨人M.コーエン、環境史学者C.ポンディングなども、全く同様な見解である。

 日本のアイヌについても、江戸期後半より和人に厳しく搾取されていたにもかかわらず、明治初期に江戸(東京)から北海道まで馬で旅した英国人女性旅行家イザベラ・バードの有名な旅行記を読めば、奥羽山地の農民よりも食事内容も体格等も良い一方で、刻苦勉励の文化を持たない穏やかな人々であったことが分かる。

 産業革命前の農民は自ら栽培した同じ穀物ばかり食べざるを得なく、栄養的に偏っていて味覚的にも貧しく、労働時間もはるかに長い。人口密度が高く定住しているので、人間や家畜の排泄物や農業廃棄物、肥料などに取り囲まれる不潔な環境に閉じ込められ、移動による気分転換もできず、集団内の上下関係も厳しく精神的にも不安定である。

 しかし、土地面積当たり人口支持力は、農業の方が狩猟採集より数百倍高い。なぜ、約1万年前に狩猟採集から農業に移行したのかについては様々な説あるが、大方の説は狩猟採集民が農業に魅力を感じたからではなく、人口圧力の高まりや環境変化で農業に追い込まれたと考えている。

 一旦農耕が始まると、農民は狩猟採集民より人口が圧倒的に多いので、両者間に争いがあれば常に農民が狩猟採集民を駆逐した。過去1万年の人類史は極論すると、いわば悪貨(農業)が良貨(狩猟採集)を駆逐したグレシャムの法則史ということになる。農業社会は人口増加率が高く、常にマルサスの罠にはまり、生活水準はほとんど常に限界的なものになった。

 なぜ狩猟採集社会は人口増加率が低かったのかは様々な説があるが、移動生活によって幼児の授乳期間が平均3年以上にならざるを得ず、結果母親の生理機構から、出生間隔が最低4年以上であったことも要因とされている。(参考文献:山内昶『経済人類学への招待』、イザベラ・バード『日本奥地紀行』)

狩猟採集生活を取り戻すために大量エネルギーを消費

 産業革命前の王侯貴族や、産業革命後の金持ち、あるいは現代の中流階級はどのような生活をしているのだろうか? 一言で言えば、清潔、余暇、移動、高栄養生活という狩猟採集民の生活の模倣と言ってもいいように見える。

 例えば、遠方への旅行や別荘は移動生活の模倣であろうし、スポーツは狩猟の模倣、女性が好きな買い物は森のチェリー・ピッキング、すなわち採集行動そのもの、グルメは多種多様な旬の狩猟採集物と同様であるし、夜の社交はキャンプ・ファイアーの模倣、さらに音楽や絵画・演劇などの芸術ですら、有名なラスコーの洞窟壁画等を考えれば、狩猟にかかわる呪術の模倣と見なせないこともない。

 もちろん、現代の上流・中流の生活水準と狩猟採集生活とではスケールやレベルが全然違うが、その本質において同質と見なせるのではないか。むしろ、現代の中流階級の労働時間は、平均的な狩猟採集民より大分長いようだし、精神生活の安定も分が悪そうだ。

 要するに、人類は産業革命後のエネルギー多消費の高度化された社会によって、農業生活によって失われた本能的に合った生活パターンを取り戻そうとしているように見えるのである。逆に言えば、農業は本質的に人間性に合っていない生活形態とも言る。日本で依然として多い農本主義者には、受け入れがたい暴論にように聞こえるかも知れないが、日本でも世界のどこでも、「ペザント」など農民を意味する俗語は、決して良いニュアンスを持っていないことからも分かる。

 ところが、現代の人口は狩猟採集段階と数百倍〜数千倍違うので、外部エネルギーを大量動員して、これを無理矢理取り戻そうとしている。68億人の社会は、低エントロピー・エネルギー源の大量使用なくして、狩猟採集生活パターンの維持は全く不可能である。

 既に述べたが、狩猟採集生活が成り立つのは人口密度が、通常0.1人/平方キロメートル以下であるが、現代日本はその3000倍の密度だ。低エントロピー・エネルギー源の大量使用が、誰が見ても既に環境容量や持続可能性を大きく超えてしまっている。

 一方で、マルサス的罠の限界的な農業生活水準からの狩猟採集生活パターンへの激しい回帰欲求は、人間の本能の深いところから発していると考えられるので、これを抑止するのは非常に困難であると想像できる。すなわち、現代生活は贅沢というより、人類の本来的生活パターンだからである。

食料よりエネルギーと環境容量が制約要因

 人口過剰への懸念については、伝統的にマルサスのように食糧供給が究極的な人口制約要因とされ、現在でもレスター・ブラウン氏のように食料限界論を声高に述べる人が目立つ。

 しかし、意外なことに多くの食料専門家は、現在において食糧危機は存在していないし、産業革命後において一度も世界の人口増に世界の食糧生産が追いつかなかったことはないとしている。もちろん、アフリカやアジアの一部において酷い飢饉が広く存在することは事実であるが、それは食糧分配の問題であって、世界全体の食糧需給バランスとして飢饉は存在しないことになる。若干乱暴な言い方をすれば、エネルギーを無制限に投入でき、環境がそれを許せば、原理的・技術的には食糧は無尽蔵に生産するとことさえ可能と考えられる。

 電気照明と栄養水によって土を全く使用しない工場での水耕栽培や、石油タンパク等を考えてみれば分かりやすいが、エネルギーを無尽蔵に投入できれば、現に中東湾岸で行われているように真水も海水からいくらでも生産できるし、太陽光も土もなくても食料はいくらでも生産可能である。

 食糧とは、本質的に人体のエネルギー源であり、エネルギー媒体の形態は技術的に変換可能だからである。現に、400億人程度を支えられる食糧生産は可能としている専門家も存在する。しかし、これは全く非現実的だろう。それではエネルギー源と環境が維持不能だからである。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2009年11月11日 17:01