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誰もが他人事、、、原発を止められるか否かこれからが正念場。。。Vol.4

■私も原子力について本当の事を言うぞ
小田嶋隆

 東日本大震災から半年が経過しようとしている。

 個人的には、3月11日からの半年間で、時代がすっかり変わってしまった感じを抱いている。

 震災以前の出来事は、たった1年前に起きた事件であっても、遠い昔の記憶であるように感じられる。不思議な感覚だ。

 震災を契機として、具体的に何が起こって、われわれの精神のどの部分がどんなふうに変化したのかについては、今後、長い時間をかけて、じっくりと検証しなければならないのだと思う。が、細かい点はともかく、わたくしども日本人の時代認識が、震災を機に変わってしまったことは確かだ。

 一例をあげれば、「戦後」という言葉が死語になりつつある。

 これまで、昭和が終わって元号が平成に変わっても、二十世紀が二十一世紀に移っても、「戦後」という時代区分は不動だった。で、その言葉は、つい半年前まで、国民の間に広く共有されていた。

 それが、震災を経てみると、「戦後」は、にわかに後退している。

 終戦記念日をはさんだ8月のお盆休みは、例年、戦争についての回顧番組や、戦中戦後の混乱期を振り返るドキュメンタリーの類が番組欄を埋めることになっている。今年も、いくつかその種の特集番組が放送されてはいたが、数自体は明らかに少なくなっていた。

 新聞はもっと露骨だ。

 たとえば、8月6日の原爆記念日について、産経新聞のその日の朝刊は、まったく紙面を割いていない。読売新聞も「編集手帳」というコラム欄で軽く触れたのみ。その他の各紙も、例年に比べると記事量を減らしている。

 新聞各紙は、戦後60余年にわたって繰り返されてきた「お約束」の回顧記事を、一斉に引き上げはじめたのである。

 このことを、「戦争体験の風化」という常套句を使って嘆くムキもあるが、おそらく、各社のデスクは、読者の側の時代認識の変化に対応したのだと思う。 60余年前の悲惨な記憶を呼び戻すまでもなく、悲劇は、いま現在、進行形で目の前に広がっている。とすれば、恒例のお約束記事は、ひとまず背景に引っ込んでもらうほかに仕方がない、と、そういうふうに彼らは判断したのではあるまいか。

 かくして、長らく共有されてきた「戦後」というのんべんだらりとした時代に、はじめて「震災」という区分標識が穿たれたわけだ。で、震災を経た後の時代については、「震災後」という新しい名前が付くことになり、「もはや戦後ではない」という、本来ならとっくの昔に常識化していなければならなかった認識は、復興が果たされたことによってではなく、新たな国難に直面することによって、国民の間に共有されることとなったのである。

 もうひとつの変化は、新聞各紙が自社の意見をはっきりと表明するようになったことだ。

 無論、これまでにも、各社ごとに姿勢傾向の違いがなかったわけではない。が、日本の新聞社は、伝統的に、社としての見解を前面に押し出すことよりは、社会の公器として両論併記の無難な言論を掲載することを重視していた。

 それが、震災を機に、どうやら変わってきている。たとえば原発の扱いや復興の方針について、新聞社は、かなり旗幟鮮明な態度を示すようになってきている。

 最近見た記事の中では、9月7日付の読売新聞の社説が突出していた。

 社説は、《エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を》と題して、真正面から「脱原発」の世論に反対の意を表明している。

 このこと(読売新聞が原発の再稼働と再建を促す旨の記事を掲載すること)自体は、もはや驚きではない。読売新聞は、震災後一貫して「脱原発」を回避する立場の言論を展開している。その意味で、この日の社説は、流れに沿ったものだった。

 社説は、4つの段落に分かれていて、それぞれに小見出しが冠されている。以下、列挙する。

◆再稼働で電力不足の解消急げ◆
◆節電だけでは足りない◆
◆「新設断念」は早過ぎる◆
◆原子力技術の衰退防げ◆

 いずれも小見出しを見ればほぼ内容が読み取れる明快な主張だ。

 問題は、最後の、◆原子力技術の衰退防げ◆のパートにある。

 ここで、社説子は、驚愕すべき持論を展開している。以下、この小見出しに導かれている部分を全引用する。

《高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。

 中国やインドなど新興国は原発の大幅な増設を計画している。日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。

 日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。

 首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。》

 ごらんの通り、読売新聞社は、『核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている現状』が、『潜在的な核抑止力として機能している』ことを、『事実』として認定している。

 驚嘆すべき主張だ。

 というのも、読売新聞は、原発が核兵器である旨を半ば公認しているわけで、この事実は、何回びっくりしてみせても足りない、驚天動地の新説だからだ。

 もっとも、この主張自体は、さして目新しいものではない。
「もんじゅ君は発電所なんかじゃないよ。特定アジア諸国向けのブラフだよ」
「だから、原発は原爆のゆりかごなんだってば」
「っていうか、核燃料廃棄物としてプルトニウムが生成されるんじゃなくって、むしろプルトニウムを生産する目的でプラントを動かしてるわけで、話が逆なのだよ。そこのところを曖昧にしてるのは一種の愚民策ってやつで……」

 と、議論好きの軍事オタクの皆さんは20年前からずっと同じ主張を繰り返していた。床屋政談においてさえ、「原発核兵器説」は、半ば外交常識として扱われる、議論の前提だった。

 とはいえ、オモテの世界では、原発はあくまでも「原子力平和利用のエース」である。

 クリーンでクレバーでピースフルでロハスな新時代のエネルギーである原子力発電は、あの忌まわしくも恐ろしい人類の恥辱である核兵器とは原理も目的も利用法もまったく違う夢の新技術だ、と、建前の上では、そういうことになっている。

 であるからして、「プルトニウムは兵器に転用できる」だとか、「原子力技術は核兵器開発技術とイコールだ」といった「穿ち過ぎた」見方は、「軍事オタクの世迷言」として、即座にしりぞけるのが、オモテの世界の言論人の基本的な外交儀礼になっていた。

 政府の人間はもちろん、お役人も、大学の先生も、新聞の論説委員も、この種の議論には乗らない。
「軍事転用? ははは。貴兄はご存知ないようですが、核兵器の製造はNPT体制の厳重な管理下にあって原理的に不可能なのですよ」
 と、百万ドルの建前論をぶっつけて陰謀論を粉砕する。そうすることが、長らく、彼らにとっての、唯一の正しい対応策だった。

 であるからして、大新聞の社説が、「原発の潜在的核抑止力」に言及するだなんてことは、本来ならば、想定外のそのまた外側にある巨大津波クラスの椿事なのである。

 で、その空想科学小説的な未来が、突然やって来たわけだ。ぽぽぽーん、と。

 現実に、読売新聞は、原発が潜在的な核抑止力である旨を申し述べている。しかも社説で。

 なんということだろう。

 本来なら、この種のセリフは、新聞の社説が言ってしまって良いお話ではない。

 なんとなれば、「原発核兵器論」は、「それを言ったらおしまいでしょ」的なぶっちゃけ話で、そうでなくても、著しくたしなみを欠いた議論だからだ。

 個人的には、
「要するに『核拡散防止条約』ってのは、実質的には『核兵器保有国利権現状維持条約』なわけだわな」
「っていうか、『てめえら弱小国が核兵器を持とうだなんて百年はえーんだよ条約』と呼ぶべきだと思うが」
 と言っているのとそんなに変わらないと思う。

 マナーとしては、婚活パーティーの席でいきなりセックスの話を持ち出す態度に近い。

 とてもじゃないが、紳士のプロトコルとは言えない。

 こういう言い方は、少なくとも、震災前には考えられなかった。

 それが、白昼堂々新聞の社説として配信されてきている。

 時代も変われば変わるものだ。

 それほど、原発推進派(もはや「潜在核兵器推進派」と呼ぶべきなのかもしれないが)は、必死だということなのだろうか。

 というわけで、せっかく読売新聞が本音を語ってくれたので、私も本当のことを言ってみることにする。

 原子力については、実に様々な議論がある。エネルギー政策、地球環境、核物理学、地政学、リスクマネジメント、国際政治、燃料効率、中東情勢、放射線医療、コスト分析——と、そうした個別の分野ごとに区々たる主張があり、それらのいちいちに賛否と反発と人格攻撃と利権がついてまわっている。こうした論点を残らず踏まえつつ包括的な結論を提示をすることは、私の力量を超えている。

 だから、ここでは、一点に絞ったお話をしたい。

 それは、「マッチョ」ということだ。

 原子力については、昔から、あらゆる分野の知見を総動員した異様に難解な論戦が展開されることになっている。

 それゆえ、素人には、ほとんどまったく意味がわからない。

 が、実際のところ、原子力議論の難解さの大きな部分は、対立する立場の人々が、互いに議論を有利に運ぶために科学技術や政治学上のテクニカルタームを援用しまくっているという、論争技術上の問題として発生しているものに過ぎない。要は目眩ましなのだ。

 その「目眩まし」の部分をのけて観察すれば、議論は、いつでも「マッチョ」の周辺にある。

 原子力発電を推進しようとしている人々の共通項は、「マッチョ」というところにある、と、少なくとも私は、かように考えている。

 理由は、私自身が、原子力のパワーに魅力を感じているからだ。

 パワー以外のすべての点で、私は、原子力技術には疑念を抱いている。安全性はもちろん、コスト面でも、将来性においても、取り上げるべきメリットは見当たらない。21世紀の技術的水準から見れば、原子力は、どうにも前世紀的で、大雑把で、危険で、不明な部分の多い、未成熟な技術だと、そう考えている。

 でも、パワーだけは別だ。

 あの桁違いの出力と、暴力的な物理的なパワーには、どうしても魅了されてしまう。理屈ではなく。生理として。

 告白すれば、数年前に柏崎刈羽の原発を見学した時、私は、原発のあのたたずまいにテもなく魅了された。自分ながら意外だったのだが、あの巨大さと不気味な静けさに、心を奪われてしまったのだ。
「おお」
 自衛隊の航空基地や、艦船や、潜水艦を見た時と同じだ。ああいう物件を目の当たりにすると、私は一人の小学生に舞い戻ってしまう。近所にあった自衛隊の駐屯地に忍び込んで戦車の写真を取ったり、空薬莢を拾っていたあの時代そのままのマシンオタクに戻ってしまうのだ。

 で、推進派の皆さんも、本当のところは、原子力が備えている「説明不能の魅力」としての「マッチョ」に魅了されているのではなかろうかと、かように推察している次第なのである。

 問題は、この「原子力かっけー」「原爆つえー」「核分裂パねぇ」というこの感慨が、ハタから見て、あまりにも子供っぽく見えることだ。

 だから、紳士を自認する原子力シンパの皆さんは、原子力の優位性を語るにおいて、「かっけー」とか「すげえ」とかいった率直なボキャブラリーを口外することを極力いましめて、その代わりに、「エネルギー効率」であるとか「温暖化ガス排出ゼロ」であるとかいったクレバーに聞こえる言葉を使うことにしている。

 でも、心の中には、「かっけー」「つええ」「すげえ」ぐらいな間投詞が溢れているはずなのだ。男の子は、何歳(いくつ)になっても変わらない。われわれは、強力で、派手で、むちゃくちゃで、制御の難しいホットロッドなマシンが、心の底から大好きなのである。

 実際、いい年をした紳士が400馬力の外国製自動車に乗らなければならない必然性は、本当のことを言えば、ひとっかけらも存在しない。

 でも、彼は乗りたい。女房を質に入れても手に入れたいのである。

 だって、カッコイイから。子供の頃からのあこがれで、やっぱりすっげえ馬力のヤバいクルマを見ると、膝ガクガクの胸ドキドキでポッカリと口を開いてしまうからだ。

 400馬力といっても、公道でそのパワーを全開にする機会はゼロだ。

 日本の道路を走っている限り、時速100キロ以上での移動は即法律違反になるわけだから。
 つまり、400馬力のうちの300馬力ぐらいは、原理的に未使用のまま終わるわけで、ということは、オレのフェラーリはほぼ丸ごと自己満足ということになる。

 でも、細かいことを言えば、大馬力のマシンにおいては、停車時から時速百キロに至るまでの加速時間が著しく短い。それゆえ、合法の範囲内であっても、ほんの5秒ほどの間の加速過程に限定した話をするなら、ドライバーは、その5秒の間、エンジンパワーがもたらすところの至福の官能美を味わうことができる。

 たったの5秒?

 そのために2千万円を費やすのか?

 そう。ぶっこむのだよ。それがマッチョだ。

 野太いエキゾーストノート、ネコ科の肉食獣が獲物に飛びつく時のような低い構え、扁平率の低いタイヤ、そうしたオーバー400馬力のエキゾチックなマシンだけが備えている威圧的にしてセクシーな特徴のすべてに、われわれは、魅了されてしまうのである。

 実際の話、フェラーリのドライバーズシートに座っているのなら、巡航速度そのものは40キロだってかまわない。十分に酔うことができる。スカGだとかにぶっこ抜かれたのだとしても、まったく腹は立たない。こっちがその気になってアクセルを踏みこめば、前方のすべての景観を一瞬のうちにフェンダーミラーの中のゴミにしてしまえることがわかりきっている以上、わざわざそれを証明してみせる必要は無いからだ。

 そう。威圧だ。

 なんという快感。オレを抜いていったあのクルマさえもが、オレにひれ伏している。

 原発を推進せんとしている人々の中にも、色々な考えの持ち主がいる。

 あくまでも利権や既得権益を防衛するべく原発の維持に心を砕いている人もいるのだろうし、何十年の研究成果を無意味にしたくない心理から、原子力のドグマに殉じている人々もいるはずだ。もちろん、その種の私心とはまったく別に、純粋に経済の停滞を懸念する気持から、安定的な電力供給源としての原発を支持している人もいることだろう。

 でも、本命は「マッチョ」だ。

 どういう理屈で原子力を擁護するのであれ、その心の奥底には、原子力のもたらす圧倒的な熱量を賛美するテの「美意識」があずかっている。その「美意識」は、宇宙飛行士が宇宙の深遠さに憧れていたり、F1のメカニックがスピードに魅了されていたりするのと同じ種類の、直線的な傾斜を含んだ、中二病に似たものだ。われわれは、それに抵抗することができない。というのも、何かを欲しがっている時、われわれは、ガキだからだ。

 原子力は男の世界だ。学者も作業員も推進者も官僚もほとんどすべて男ばかりの、いまどき珍しいガチムチなサークルだ。

 そういう著しく男密度の高い場所では、「怖い」という言葉は、事実上封殺される。誰もその言葉を口にすることができなくなるのだ。

 でなくても、一定以上の人数の男が集まると、その集団は、必ずチキンレースの原理で動くようになる。

 なぜなのか、理由はよくわからない。が、経験的に、必ずそうなる。

 とすると、原発を止めるための理屈は、「怖い」ではいけないことになる。

 マッチョな男たちの心をとらえるもっと魅力的な理屈を誰かが発明しなければならない。

 その言葉を見つけるのは、とても難しい。

 この度、読売新聞社は、原子力技術の将来を案ずるあまり、うっかり本音を漏らしてしまったのだと思う。
「君らは色々言うけどさ、原発を持ってるとそれだけで周辺国を黙らせることができるんだぜ」
 という、このどうにも中二病なマッチョ志向は、外務官僚や防衛省関係者が、内心で思ってはいても決して口外しない種類の、懐中の剣の如き思想だった。

 が、一方において、中二病は、彼らの「切り札」でもあったわけだ。

 なんという子供っぽさだろう。

 すべてを原子力ムラの陰謀ということにしておけば、一応の安心立命は得られる。

 でも、原発は、われわれがそれを望んだからこそ建っている建築物であり、われわれがそのパワーに魅了されているというそのことを原動力として動き続けている施設でもある。

 それらを止めるためには、われわれの中にいるマッチョをなんとかして説き伏せなければならない。

 それは、とても難しいことだ。

 主筆は85歳になっているはずだが、いまだに中二病だ。

 道は険しい。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2011年09月13日 10:16