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そして消えてしまった、、、E-6現像システムはどうなってしまうのでしょうか。。。

■技術が引き起こすジレンマ~コダックはその歴史を閉じるのか
健闘する富士フイルムとの違いは何か?
The Economist

 かつてウラジーミル・レーニンは、「資本家は自分の首を絞める縄までも売る」と皮肉ったと言われる。実際にそう言ったかどうかはともかく、この言葉は一抹の真理を含んでいる。資本主義の世界では、自らが生み出した技術が、やがて己のビジネスを滅ぼすような事態がしばしば起こる。

 絵に描いたような例が米イーストマン・コダックだ。同社は1975年に世界初のデジタルカメラを発明した。その技術は後に、カメラの役割も兼ねるスマートフォンの開発を後押しすることになった。今や、コダックの伝統事業であるフィルムとカメラを消滅に追いやろうとしている。

 全盛時代のコダックの姿は、今のグーグルと重なる。1880年に創立されたコダックは、斬新な技術と革新的なマーケティング手法で知られた。1888年に掲げたスローガンは「あなたはシャッターを押すだけ。後はお任せください」であった。

 コダックの売り上げは1976年までに、全米フィルム市場の90%、カメラ市場の85%を占めた。1990年代までは常に、世界の優秀ブランドとして5本の指に入った。

 やがてデジタル写真がフィルム写真に取って代わり、スマートフォンがカメラを兼ねる時代が来た。コダックの収益は1996年の約160億ドルで頭打ちとなった。利益も1999年の25億ドル以来減少を続けている。

 アナリストたちは、同社の2011年の収益を62億ドルと予想する。コダックは最近、第3四半期決算で2億2200万ドルの損失を報告している。四半期ベースでは過去3年間で9度目の損失だ。1988年には世界で14万5000人の従業員がいたのに対して、最近の数字はその1割にも届かない。同社の株価は過去1年間で90%近くも下落している(チャート参照)。

 ここ数週間というもの、コダックが本社を構えるニューヨーク州ロチェスターを中心に「知的財産権のポートフォリオを早急に売却しなければコダック社は倒産する」との噂がささやかれている。そんな中、コダックが1月10日に発表した2つの施策 ―― 「事業部門を2つに集約」「多数の特許を侵害しているとして米アップルと台湾HTCを提訴」 ―― は楽観的な展望を持つ者たちに希望を与えた。だがこの再編成も、連邦倒産法第11章に基づく倒産処理への準備かもしれない。

ライバルの富士フイルムは健闘している

 このようにコダックが苦しむ一方で、長年のライバルである富士フイルムの業績は悪くない。この2社には多くの共通点がある。かつてコダックは米国で、富士フイルムは日本で、それぞれ自国のフィルム市場をほぼ独占し、潤沢な利益を上げた。1990年代に日米間で起きた貿易摩擦の大部分は、安価な日本製フィルムの上陸を阻もうとしたコダック社の思惑から生じたものだ。

 コダックも富士フイルムも自社の伝統事業が新たな時代に取り残されるのを見た。この変化にコダックは適応しきれていない。一方、富士フイルムは揺るぎない黒字企業へと変貌を遂げた。厳しい1年間を経てもなお、富士フイルムの時価総額は約126億ドルを保っている(コダックは2億2000万ドル)。この明暗を分けたものは何だったのか。

 どちらの企業も時代の変化を目の当たりにした。ロチェスター大学サイモン・ビジネススクールで教鞭を執るラリー・マッテソン氏は、コダックの幹部を務めた1979年に1件の報告書を作成した。市場の様々な部分で起きているフィルムからデジタルへの移行について、2010年をゴールとし、詳細かつ正確に書いたものだ。その分析は、政府による軍事的偵察に始まり、専門家による写真撮影、さらに大衆消費市場にまで至る。だがデジタル化の波は、マッテソン氏の予測よりも数年早く押し寄せた。

 富士フイルムも、デジタル時代の到来に伴う不吉な影に1980年代には気づいた。そこで「フィルム部門からできる限りの資金を引き上げる」「デジタル化に備える」「新たな事業部門を立ち上げる」という3本柱の戦略を打ち出した。

 コダックも富士フイルムも、デジタル写真自体が大きな利益を生むわけではないことを認識していた。マッテソン氏は「賢明な実業家は、1ドル当たり70セントの利益をもたらすフィルムから、せいぜい5セントにしかならないデジタル写真への切り替えを急ぐべきではないと判断した」と述べる。それでも両社は新時代への適応を迫られた。そしてコダックは出遅れた。

自己満足に陥ったコダック

 コダックの社風も同社の足を引っ張った。研究への巨額投資、綿密な製造努力、地元社会との良好な関係という強みがありながら、コダックは独りよがりの独占企業となっていた。この弱点は、1984年のロサンゼルスオリンピックで明らかになった。富士フイルムがスポンサーの座を獲得したのに対し、コダックは尻込みをしたのだ。このことが、富士フイルムが販売する廉価なフィルムの知名度を上げ、コダックの拠点である米国市場への参入を可能にした。

 コダックの改革が進まなかったもう1つの理由について、ハーバード・ビジネス・スクールの教授で、コダックで顧問をした経験を持つロザベス・モス・カンター氏はこう見る。経営陣が「“とにかく作り、売り、問題があれば直す”というハイテク企業精神を持てず、完璧な製品にこだわった」。

 町の有力企業というコダックの立場も悪かった。カンター氏は、ロチェスターにいるコダック幹部の耳に批判の声はほとんど入ってこなかった、と指摘する。多角化を決めてからも、最初の合併までに数年を要した。カンター氏によると、コダックは広く賞賛を集めたベンチャーキャピタル部門を設立したものの、突破口を開くほどの大きな賭けには出なかったという。

 不運もあった。コダックはフィルム用に開発した数千の化学製品を薬品に転換できると考えた。だが同社の薬品事業は次第に勢いを失い、1990年代には売却することになった。

 一方、富士フイルムは比較的スムーズに多角化を実現した。写真は酸化によって色あせる。富士フイルムが所有する20万の化合物のうち、4000ほどは酸化防止剤と関わるものだ。フィルムも人間の皮ふも、コラーゲンを含んでいる。化粧品会社は酸化防止剤による美肌効果をうたう。そこで同社は「アスタリフト」という化粧品ブランドを立ち上げた。富士フイルムはこのブランドの化粧品をアジアで既に販売している。2012年は欧州で発売する予定だ。

 また富士フイルムは、液晶ディスプレイ(LCD)薄型モニタ用の光学フィルムを生産するなど、フィルムの専門知識を生かす新たな活路を見出した。この事業に2000年以来40億ドルを投資し、成果を上げている。LCDの視野角を拡大させるフィルムの一種について、100%の市場シェアを謳歌している。

 1993年から1999年までコダックの会長を務めたジョージ・フィッシャー氏は、同社の専門技術を化学製品ではなくイメージングに生かすことを決めた。同氏はデジタルカメラを量産し、インターネット上に写真をアップロードして他人と共有できるソフトウェアを提供した。

 優れたトップならばこのアイデアをFacebookのような存在につなげただろう。だがフィッシャー氏にはそれができなかった。同氏は製品製造の外部委託をほとんど行わず、業務のスピードと創造性を手放した。

 また、いわゆる「レーザー・ブレード・モデル」を導入しようと奮闘した。つまり、剃刀製品ブランドのジレットがカミソリ本体ではなく付替え刃で利益を上げているように、コダックも廉価のカメラを販売し、高価なフィルムの売り上げに頼ろうとしたのだ。しかし当然この事業モデルはデジタルカメラにそぐわない。それでもコダックは、デジタルカメラの分野で大規模に事業を展開した。だがわずか数年でカメラ機能付き携帯電話に淘汰されてしまった。

 また、コダックは新興市場の見通しを読み誤った。中国の新たな中流階級が大量のフィルムを購入すると期待したのだ。だがその頼みの綱も、デジタルカメラにじきに飲み込まれた。多くの中国人が、初めて手にするカメラとしてデジタルカメラを選んだ。

 コダックのトップの方針には一貫性がなく、経営責任者が変わるごとにスタンスも変わった。最近では、2005年に社長に就任したアントニオ・ペレス氏が、デジタルプリンティング大手への転身に心血を注いでいる(デジタルプリントの知識は同氏が以前に所属していた米ヒューレット・パッカードで学んだもの。コダックは、この技術をもってすれば今後も自社は安泰だと主張する)。ペレス氏は収入源として自社の知的財産権の膨大なポートフォリオにも目をつけ、アップルを相手に訴訟を起こしている。

富士フイルム、富士山のごとく

 富士フイルムでも、テクノロジーの変遷は内部の勢力争いを巻き起こした。最初は消費者向けフィルム事業――彼らは迫り来る危機を直視しようとしなかった――の主張に勢いがあった。だが、最終的に勝ち残ったのは古森重隆氏だ。同氏はデジタル化の猛攻に備えきれなかった消費者向けフィルム事業部門を、「怠惰」「無責任」として叱った。2000年から2003年にかけての社長時代、古森氏は企業の大改造にとりかかった。

 2000年以来、古森氏は40の企業に約90億ドルを投じている。経費と雇用も切り詰めた。ある18カ月の期間においては、減価償却に備え、余分な流通業者や開発研究室、管理人、研究者を減らし、2500億円(33億ドル)という構造改革費用を計上した。古森氏は「辛い経験だった。だがあの状況では誰ひとり生き残れなかった。だから事業モデルを立て直す必要があった」と語る。

 手厚い補償でその辛らつさが和らいだとはいえ、このような先制攻撃はおよそ日本企業が取ってきた手段ではない。日本における経営コンサルタンティングの父、大前研一氏は、迅速に行動し、大幅なコスト削減と大規模な吸収合併に突き進む覚悟のある日本の経営者はそう多くないという。

 古森氏にとって富士フイルムの建て直し作業は、自分を抜擢してくれた前任者の苦労に背くことを意味した。これは日本ではタブーである。それでも前出の大前氏は、日本株式会社の長きにわたる“社風” ―― 短期間で業績の拡大を迫る株主の圧力が少なく、多額の現金を持っていても寛容 ―― のおかげで、古森氏は同氏のビジョンを実現しやすかったのではないかと見る。米国の株主ならば、辛抱強く待つことはなかったかもしれない。ここで驚くべきことは、変化を嫌う日本企業のごとく振舞ったのが米国企業のコダックで、柔軟な米国企業のように動いたのが日本の富士フイルムだったという事実である。

 古森氏は、「尊敬するライバル」の窮状について「遺憾に思う」と述べている。同時に、問題が明白になってからもコダックが自己満足に浸っていたことをほのめかした。同氏は「コダックは自社のマーケティングとブランドに自信を持つあまり、楽な解決の道を選んでしまった」と語る。

 2000年代に入るとコダックは、独自の技術開発に時間と費用をかける代わりに、既存企業の買収を試みた。しかし、同社は十分な多角化を果たすことはできなかった、と古森氏は言う。同氏は「コダックはデジタル企業を目指した。だが、デジタル事業はしょせん小さな部門でしかない。大企業を支える力は持たない」と語る。

「これほどの難題に直面した企業は他に見たことがない」

 立ちはだかる課題が大きすぎただけかもしれない。大反響を呼んだビジネス書『The Innovator’s Dilemma』(邦題『イノベーションのジレンマ』)の著者、クレイトン・クリステンセン氏は、「とても難しい問題だ。これほどの難題に直面した企業は他に見たことがない。新たに登場した技術が従来のものと根本的に違いすぎて、旧技術をもって課題を乗り越えるのは不可能だった」と語る。

 コダックの失敗は、米国のコンピュータメーカー、デジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)のケースとはわけが違う。DECは、経営陣が快適な現状に甘んじるあまり、パソコンの重要性を見過ごした。クリステンセン氏は、コダックのケースは「迫り来る津波を目の前にしながら、それでも何もできない状態」に近いと言う。

 クリステンセン氏は、他の業界では、支配的立場にあった企業がもっと小さな打撃で破滅している、と指摘する。数十年前に存在した316の百貨店チェーンのうち、米デイトン・ハドソンだけが現代まで生き残った。その理由はただ1つ。同社が「ターゲット」という全く新しい事業を打ち出したからだ。デパート業界は流通経路が大きく改善されても見た目はそれほど変わらない。そんな変化が緩やかな世界においてさえ「創造的破壊」は機能する。

 コダックは今回の暗雲を避けることができたのだろうか。コダックはスマートフォンカメラの分野で、パソコンにおけるインテルのような地位に就けたのではないかという声もある。インテルは消費者からの信頼が厚い半導体企業。同社製チップは多くのパソコンに搭載されている。だが、知的財産権における卓越性でコダックよりも優位にあったキヤノンやソニーでさえ、今のところその地位を築いてはいない。

 人と違って企業は、理論の上では永久に存続することができる。それでも若くして倒れる企業がほとんどだ。人間の社会と異なり、ビジネスは生きるか死ぬかの世界だからだ。富士フイルムは新たな戦術を身につけて生き残った。フィルム事業の利益は2000年には全社の6割を占めた。しかし近年は実質ゼロに落ち込んだ。しかし、同社は次なる収入源を見出した。一方コダックは、今は亡き大企業と同様、成り行きにただ身を任せてきたように見える。創業132年。コダックは古い写真のように、このまま消えしまうのかもしれない。

[日経ビジネス]

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Posted by nob : 2012年01月23日 06:35