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とうとう来るべき時が、、、富士フィルムの事業買収継続に淡い期待。。。

■写真用品大手のコダック経営破綻 破産法を申請

 創業130年を超えるアメリカのイーストマン・コダックが、日本の民事再生法にあたる連邦破産法11条の適用を申請し、経営破綻しました。

 写真用品大手のコダックは、1975年に世界で初めてデジタルカメラを開発しましたが、フィルムへのこだわりなどからデジタル化への対応が遅れました。社員や製造拠点の大幅な削減などリストラに取り組んできましたが、経営への懸念から株価が落ち込んだうえ、約1100件に上る特許の一部売却も進まず、資金繰りが行き詰まりました。負債総額は約5200億円です。コダックは1880年創業で、カメラやフィルムを続々と開発し、写真を一般家庭に普及させました。コダック株は1930年から2004年まで、ダウ工業株30種の構成銘柄で、名実ともにアメリカを代表する企業でした。

[テレ朝NEWS]


■The Economist
瀕死のコダックと飛躍する富士フイルム
(英エコノミスト誌 2012年1月14日号)

コダックは瀕死の状態にあるが、同社の旧敵、富士フイルムは力強く成長している。なぜか?

レーニンは「資本家は自分の首をくくるロープを売る」と嘲笑ったと言われる。この引用は偽物かもしれないが、そこには一抹の真実が含まれている。資本家はしばしば、自らの事業を破壊する技術を発明するのだ。

 イーストマン・コダックは、まさに絵に描いたような好例だ。同社は1975年に、他社に先んじてデジタルカメラを開発した。デジタルカメラの技術と、それに続くカメラにもなるスマートフォンの開発は、コダックの従来のフィルムおよびカメラ生産事業を打ちのめし、瀕死の状態に追いやった。

名門コダックの最期?

 振り返ってみると不思議だが、コダックは当時のグーグルだった。1880年に設立されたコダックは、先駆的な技術と革新的なマーケティングで知られていた。「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」というのが、1888年の同社のスローガンだった。

 コダックは、1976年には米国で販売されるフィルムの90%、カメラの85%を占めていた。1990年代まで、同社はたびたび世界で最も価値のある上位5位ブランドの1つに数えられていた。

 その後、デジタル写真がフィルムに取って代わるようになり、スマートフォンがカメラに取って代わるようになった。コダックの売上高は1996年に160億ドル近くでピークに達し、利益は1999年の25億ドルが過去最高だった。アナリストのコンセンサス予想では、同社の2011年の売上高は推定62億ドルだった。

 コダックは最近、2011年第3四半期の赤字が2億2200万ドルになったと発表したが、これは3年間で9回目の四半期赤字だ。

 1988年には世界中で14万5000人を超える従業員を雇っていたが、最新の調べでは、その10分の1を何とか維持している程度だ。株価は過去1年間で90%近く下落している(図参照)。

 コダックが今も支配する企業城下町ロチェスター周辺ではここ数週間、知的財産のポートフォリオを早急に売却しなければ同社は倒産するという噂が渦巻いている。

 1月10日に行われた2つの発表――会社を2つの事業部門に集約することと、様々な特許侵害でアップルとHTC(宏達国際電子)を提訴すること――は、楽観主義者に期待を与えた。だが、この事業再編は、チャプター11(連邦破産法第11条)による破産に備えたものかもしれない。

 コダックが苦しむ一方で、往年のライバルの富士フイルムはかなり順調な業績を上げている。両社には多くの共通点がある。どちらも自国市場でほぼ独占状態を享受し、コダックは米国で、富士フイルムは日本でフィルムを販売していた。

 1990年代の日米貿易摩擦はかなりの部分において、安い日本製フィルムを自国市場から締め出しておきたいというコダックの願望から生じていた。

 どちらの企業も、自社の伝統的な事業が時代遅れになるのを感じていた。だが、コダックがこれまで十分に適応できなかったのに対し、富士フイルムは堅実に利益を上げる企業に姿を変えた。厳しい1年を経た後でさえ、富士フイルムの株式時価総額は約126億ドルに上る(コダックの時価総額は2億2000万ドル)。

一体何が違ったのか

イーストマン・コダックのフィルムはかつて、米国市場の9割を占めていた・・・〔AFPBB News〕

 両社の業績は、なぜこれほど異なる結果になったのだろうか?

 どちらの企業も変化の到来を察知していた。コダックの元幹部で現在はロチェスター大学サイモン経営大学院で教鞭を執っているラリー・マットソン氏は、1979年に、市場の様々な部分がどのようにフィルムからデジタルに切り替わるかを詳述した報告書を書いたという。

 最初は政府の偵察機器、次に専門家の写真撮影、そして最後には大衆市場と、すべてが2010年までにデジタル化すると、かなり正確に説明していた。マットソン氏の見通しは数年ずれているだけだった。

 富士フイルムも、1980年代にはデジタルがもたらす運命の予兆を感じていた。同社は3本立ての戦略を立てた。フィルム事業からできるだけ多くの利益を上げる、デジタルへの転換に備える、そして新規事業を開発する、というものだ。

 両社とも、デジタル写真そのものが大きな利益を生まないことに気付いていた。「賢明なビジネスマンは、1ドルの売り上げで70セントの利益を稼ぐフィルム事業から、せいぜい5セントしか稼げないデジタル事業に急いで転換しないことがベストだと結論づけていた」とマットソン氏は話す。

 だが、どちらの企業も変化に適応しなければならなかった。そしてコダックの方が、動きが遅かった。

 コダックの文化はプラスにならなかった。同社は、その強み――研究への多額の投資、生産に対する厳格なアプローチ、地域社会との良好な関係――にもかかわらず、現状に満足する独占企業になっていた。

自己満足の文化

 富士フイルムは、コダックが迷っている間に1984年のロサンゼルスオリンピックのスポンサーの座を獲得し、この弱みを露呈させた。オリンピックでの宣伝に助けられて、富士フイルムのはるかに安いフィルムはコダックの自国市場に食い込んだ。

 コダックの変化が遅かったもう1つの理由は、同社の幹部が「まずモノを作り、売り出し、それに修正を加えるというハイテクの世界の考え方ではなく、完璧な製品を作るというメンタリティーに捕らわれていたことだ」と、コダックに助言してきたハーバード大学経営大学院のロザベス・モス・カンター教授は言う。

 単独企業の城下町で操業していることもプラスにならなかった。ロチェスターにいるコダックの幹部たちは、自社に対する批判を耳にすることは滅多になかったという。コダックが多角化を決定した時でさえ、最初の買収を行うのに数年かかった。コダックは幅広い称賛を受けたベンチャーキャピタル部門を創設したが、突破口を開くだけの大規模な投資は一度も行わなかった、とカンター教授は言う。

 不運もあった。コダックは、自社の研究員がフィルムで使うために開発した何千もの化学物質を医薬品に変えられるかもしれないと考えた。ところが、同社の医薬品事業は失敗し、1990年代に売却された。

 富士フイルムはコダックよりも多角化に成功した。フィルムは皮膚に似たところがある。どちらもコラーゲンを含んでいるのだ。化粧品会社は消費者に、写真が酸化によって色あせるのと同じように、皮膚は抗酸化物質によって守られると思ってもらいたい。

 富士フイルムが擁する20万点の化学物質のうち、約4000点は抗酸化物質に関係したものだ。そこで同社は、「アスタリフト」と呼ばれる化粧品シリーズを売り出した。この製品はアジアで販売されており、今年は欧州でも発売される。

 富士フイルムは、フィルムに関する同社の専門知識を生かすための新たな販路も探していた。その1つが、薄型LCDパネルに使う光学フィルムの生産だ。同社はこの事業に、2000年以降40億ドルを投資しており、その取り組みは実を結んでいる。LCDの視野角を広げるフィルムでは100%の市場シェアを誇っている。

 1993年から1999年までコダックのトップを務めたジョージ・フィッシャー氏は、同社の専門性は化学物質ではなく、映像技術にあると考えた。同氏はデジタルカメラを量産し、顧客がオンラインで画像を掲載・共有できるようにした。

 優れた経営者ならこのアイデアをフェイスブックのようなものに変えたかもしれないが、フィッシャー氏はそのような経営者ではなかった。同氏は生産の多くを外部委託しなかった。そうしていれば、コダックはもっと身軽で創造的な企業になっていたかもしれない。

 フィッシャー氏は、コダックの「かみそりの刃」の事業モデルを時代に適応させることにも苦労した。コダックは安いカメラを販売し、高額なフィルムをたくさん購入する顧客に売り上げを依存していた(ジレットがかみそり本体ではなく、かみそりの刃で稼いでいるのと同じ)。

 このモデルは明らかに、デジタルカメラでは通用しない。それでもコダックは、最終的にデジタルカメラを大規模な事業にしたが、この事業はほんの数年しか続かず、その後はカメラ付き携帯電話によって壊滅させられた。

 コダックは、新興国の市場を正しく見抜くこともできなかった。同社は中国の新たな中産階級が多くのフィルムを買ってくれることを期待した。彼らは、ほんの少しの間はフィルムを買ってくれたが、その後はデジタルカメラの方がかっこいいと考えるようになった。多くの中国人は全くカメラを使わないところから一足飛びにデジタルカメラに向かった。

経営の迷走

 コダックの経営陣は一貫性がなかった。何人かの新しいCEO(最高経営責任者)が就任するたびに戦略が変わった。2005年に就任した現CEOのアントニオ・ペレス氏は、コダックをデジタル印刷の大手に変身させることに力を注いできた(ペレス氏が勤めたヒューレット・パッカード=HP=で学んだもので、コダックは今なお、これが自社を救ってくれると主張している)。

 同氏はまた、コダックの膨大な知的財産のポートフォリオからも収益を上げようとしている。それゆえアップル提訴に踏み切ったわけだ。

 富士フイルムでも、技術的変化は社内の勢力争いの火付け役になった。最初は、迫り来る危機から目を背けていた消費者向けフィルム事業担当の役員らが優勢だった。だが、最終的な勝者は、古森重隆氏だった。

 古森氏は、デジタルの襲来に備えてしっかりと準備を整えていないとして、フィルム事業担当者らを「たるんでいる」「無責任」だと非難していた人物だ。

 2000年から2003年にかけて社長、そしてCEOに就任すると、同氏はすぐさま会社の全面的な見直しに取り掛かった。

高くそびえる富士フイルム

 2000年以降、古森氏は40社の買収に約90億ドルをつぎ込んだ。コストと人員も削減した。1年半の間に、過剰な販売代理店、開発研究所、管理職、研究者の削減と減価償却のために2500億円(33億ドル)を超えるリストラ費用を計上したこともある。

 「辛い経験だった」。古森氏はこう話す。「だが、状況をありのままに見れば、誰も生き残れる状態ではなかった。だから我々はビジネスモデルを再構築しなければならなかった」

 手厚い手当によってリストラの衝撃は緩和されたとはいえ、この種の先手を取る動きは決して、日本企業ではよくあることではない。日本の経営コンサルティングの父、大前研一氏は、迅速な行動を取ったり、大幅な削減を行ったり、買収攻勢に出る覚悟ができている日本人経営者はほとんどいないと言う。

 古森氏にとって、これは、自身を後継者に選んだ前任者の仕事に逆行することを意味した――日本では大きなタブーである。

 だが、短期的な業績に対する株主の圧力がほとんどなく、多額の現金保有を容認する日本株式会社の長期的な文化は、富士フイルムが古森氏のビジョンを追求するのを容易にした、と大前氏は考えている。米国の株主なら、それほど辛抱強くはなかったかもしれない。

 驚いたことに、コダックが変化に抵抗する紋切り型の日本企業のように行動し、富士フイルムが柔軟な米国企業のように行動したのだ。

 古森氏は、「尊敬すべき競争相手」の窮状について、「残念な気持ちと感慨」を覚えると話す。たが同氏は、問題が明白だった時でさえコダックは自己満足に陥っていたと仄めかす。コダックは、自社のマーケティングとブランドに非常に大きな自信を持っていたため、安易な解決策を取ろうとしていた、と古森氏は言う。

 コダックは2000年代に、技術を自社開発するのに時間と費用をかける代わりに、既存の企業を買収しようとした。そして、十分に多角化することができなかった、と古森氏は言う。「コダックはデジタル企業になることを目指したが、デジタル事業は規模が小さく、大企業を支えるには十分ではない」

 もしかしたら単に、コダックの挑戦が大きすぎただけなのかもしれない。

 「それは非常に難しい問題だ。これほど大きな溝を横切らなければならなかった企業は、ほかに見たことがない」。影響力のあるビジネス書『The Innovator’s Dilemma(邦題:イノベーションのジレンマ)』の著者、クレイトン・クレステンセン氏はこう言う。「現れたのがあまりにも根本的に異なる技術だったため、その挑戦に立ち向かうために古い技術を使う術がなかった」

 コダックの失態は、米国のコンピューターメーカー、デジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)が、経営陣が心地良い椅子で居眠りしていたために、パソコンの重要性に気付かなかった時のようなものではなかった。むしろ「津波が来るのを目の当たりにして、何も打つ手がない」状態に近い、とクレステンセン氏は言う。

創造的破壊がもたらすもの

 他の業界の支配的な企業は、それより小さな衝撃によって死に追いやられた、と同氏は指摘する。数十年前に316社あった百貨店チェーンのうち、現代社会にうまく適応したのはデイトンハドソンだけで、しかも同社が生き残れた唯一の要因は、「ターゲット」という全く新しい事業を始めたことだったという。

 このことは、徐々にしか変わらない企業に創造的破壊が何をもたらし得るかを示している。たとえ百貨店のサプライチェーンがすっかり様変わりしたとしても、50年前の世界から来たタイムトラベラーたちにとって、現在の店舗は異質なものには見えないはずだ。

 コダックは現在の不幸を避けることができたのだろうか。同社はスマートフォン・カメラにとっての「インテル入ってる」のような存在、つまり消費者が信頼するブランドになれたかもしれないと言う人もいる。だが、コダックに勝る知的財産を考えると、キヤノンやソニーの方がそれを達成する有利な立場にあったが、どちらの企業も成功しなかった。

 人間と違って、企業は理論的には永遠に生きられる。だが、一般的な社会と違って、実業界は死闘であるために、ほとんどの企業は若くして死んでしまう。

 富士フイルムは新たな戦術を習得して、生き延びた。2000年に利益の60%を稼ぎ出していたフィルムはほとんどゼロになったが、同社は新たな収益源を見つけた。コダックは、それ以前の数多くの優良企業と同様、ただ命運が尽きたように見える。創業から132年経ち、同社は古い写真のように色あせて消えていこうとしている。

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[JB PRESS]

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Posted by nob : 2012年01月21日 14:38